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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

特別史跡 百済寺跡

2017-02-20 21:51:54 | 史跡を歩く
 禁野本町遺跡の現地説明会の帰りに、説明会場からほど遠くないところにある国の特別史跡である百済寺跡に行ってみた。百済寺跡へは今回で、2回目になる。前回は、学生時代だから、30年ほど前になる。遺跡の周囲を白壁で囲んであった印象があるのだが、そういった塀は撤去されたのか、開放感のある遺跡公園になっていた。
 
 百済寺跡については、奈良時代の後半にこの地に移住してきた百済王氏が創建したと伝えられる寺院跡であり、南門、中門、東西両塔、金堂、講堂、食堂の七堂伽藍に、東南に東院と呼ばれる建物がある。伽藍配置については、薬師寺式に近い形を取っている。回廊が、金堂に直接つながっている点が、薬師寺式と違うらしい。(ちなみに薬師寺式伽藍は、回廊が講堂に接続する。)
 そして、百済寺の北側に広がる禁野本町遺跡で見つかっている、都市集落の中心線と百済寺の中心線が一致しており、両者が一体になって計画されたことが想定される。

 百済寺跡に入るとまず目につくのが東西の塔跡である。東塔と西塔とあり、東塔の方はきちんと整備されているが、西塔は再整備をするのか一部工事中の看板に囲われている様子である。

 【東塔跡】

 

 【東塔跡の礎石】

 

 礎石の真ん中がチョコンと出っ張っているところがあるのが奈良時代の礎石の特徴のような気がする。

 【西塔跡】

 

 【西塔跡の礎石】

 

 百済寺跡については、平成30年度完成に向けて再整備事業を行っている。所々に工事中らしき様子が見えるのはそのためである。東塔、西塔とも基壇の大きさは、南北 12.3m×東西 12.3mとなっている。また基壇は切石を使った基壇の中でも、特に束石という石を使うことで、より強度を保つために造られた壇正積基壇という当時の最新技術が用いられている。

 【金堂跡】

 

 現在の金堂の基壇は、再建されたときのものと考えられているようだ。創建時の基壇は、その下にあるのかな?周辺からは焼けた瓦などが出土しており、火災で焼失したようである。 

 【講堂跡】

 

 【食堂跡】

 

 講堂・食堂ともに、礎石は残っていなかったようだ。

 【東南院跡】

 

 この東南院跡については、僧院にあたる施設と考えられている。

 【中門と東塔跡】

 

 百済寺については、11世紀の中ごろに火災にあい、衰微していったと考えられる。百済王氏の勢力が衰えるのと軌を一にしたと思われる。なお、百済寺の創建以前にも、この地に寺院が存在したことを想定させる遺構が見つかっている。

 【西北院跡】

 

 最近の調査で掘立柱建物の遺構が見つかり、建物の柱が復元されている。これも僧院にあたる建物のようである。南北の回廊に接続する築地塀で囲われていたようだ。

 なお、百済寺跡の西南には百済王神社が建っている。

 

 百済王氏の祖霊を祀っており、百済王神、進雄命を主祭神としている。百済王神社のある場所については、百済寺の西南位置し、当初からこの位置にあったと考えられている。現在の百済王神社の本殿は、春日大社から移築されたものであるとのこと。おそらく、百済寺が、百済王氏の衰微後、興福寺の支配下にはいったことによるのかもしれない。

 

 百済寺跡は、「百済寺跡の松風」として枚方八景の一つとされ、今では桜の名所となっているらしい。春にまた来てみたいと思いながら、遺跡を後にした。

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