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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

山田高塚古墳(推古天皇陵)と二子塚古墳

2014-09-23 17:27:37 | 史跡を歩く
 「御陵前」と書かれたバス停からしばらく歩いていくと太子町の山田集落の田園地帯の中に、こんもりとした丘が見える。
 これが、推古天皇陵とされている山田高塚古墳である。周囲の風景ともマッチしていて美しい古墳である。生垣が方形に塚の周りに廻っているので方墳であることはすぐに想定される。
 推古天皇については、日本で最初の女帝であると言われており、教科書的に言えば、厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我馬子といった人物が活躍し、大王を中心とする古代国家が、律令国家に向けて胎動しはじめた時代であるといわれている。但し、近年、この評価は、かなり変わっているかもしれない。この時代の政治を主導したと言われる厩戸皇子の評価がかなり揺らいでいることもあり、厩戸皇子の事績と伝えられている「冠位十二階」や「十七条の憲法」制定あるいは、「遣隋使」の派遣や法隆寺や四天王寺の創建などの仏教の興隆などどこまでが、実際の出来事なのかわからない。少し前には、大山誠一氏の「聖徳太子はいなかった」(厩戸王は実在した。)という事績のほぼ否定するような学説も出ている。ただ、この時代、これまでの氏族制度を背景とした古代国家から脱却を図ろうとしていた時代であることは間違いなく、文化的にも仏教などの新しい思想や哲学などが入ってきた時代であったようだ。
 そうした刷新の時代であった推古天皇の時代であるが、非常に在位の長い天皇でも知られる。在位は592年から628年の36年間にも及ぶ。その間に、厩戸皇子は、622年に、蘇我馬子は、626年に死去している。もともと、推古天皇が誕生したのは、崇峻天皇の暗殺後、有力な皇位継承者であった押坂大兄皇子や厩戸皇子ではなく、敏達天皇との実子、竹田皇子に皇位を伝えるためであったと言われる。その竹田皇子も、早逝してしまい。皇位は、押坂大兄皇子の子、田村皇子に引き継がれることになる。(ただし、竹田皇子については、もっと早い段階で、例えば丁未の乱のころに亡くなっているという説もある。ちなみに山岸涼子の「日出処の天子」はその説に基づいている。)
 そして、推古天皇の遺詔に基づき、竹田皇子と合葬されている。はじめ大野岡上陵に埋葬され、のちに磯長山田陵に改葬されている。大野岡上陵が、奈良の橿原市で発見された植山古墳ではないかと言われている。現在、宮内庁による治定でも、推古天皇と竹田皇子の合葬墓となっている。

 拝所へ向かう参道は、きれいに整備されており、桜の季節などはきれいなような気がする。

 ■参道
 

 田んぼに囲まれて、ドンと存在している。結構、威圧感がある。丘陵の上を利用しているため周りよりも少し高い位置にある。

 ■拝所
 

 この古墳については、一つの墳丘に二つの石室がある長方形の古墳ではないかと言われており、文献にあるように竹田皇子との合葬墓であることと一致し、データとしては、東西63m、南北55m、高さ11mの三段築造の方墳とされている。築造年代としては、7世紀の中ごろということであれば、改葬の時期を考えると被葬者については齟齬はなさそうな気がする。この古墳や後で述べる二子塚古墳を基準として考えると、厩戸皇子が埋葬されたと伝えられる叡福寺北古墳が信用できない気がするのだなあ。
 だた、この古墳について、森浩一氏は、著書(「巨大古墳の世紀」など)の中で、江戸時代の修復工事の中で大幅に改変されている可能性を指摘されている。

 ■全景
 

 古墳の周辺の景観も含めて、このままであって欲しい古墳である。これ以上の開発はやめて欲しい。古市古墳群、特に羽曳野市側の惨状を見れば明らかである。古墳の保存は、その周りの景観も含めて検討していくべきものであると思う。

 ■二子塚古墳全景
 

 この山田高塚古墳から、南南東へ100mほど行くと二子塚古墳に行き当たる。この古墳も二つの方墳を繋げた双方墳とも言うべき墳形をしており、石室も北、南それぞれに一つずつある。

 南丘は、写真の石室はふさがっていて見ることができない。ただ、横穴式石室と家型石棺が埋まっているとのこと。
 
 ■南丘
 

 北丘は、横穴式石室が開口している。

 ■北丘
 

 ■石室の開口部
 

 中には、半分以上土砂に埋まった状態で、家型石棺が残っている。突起等はきれいになくなっており、かまぼこ型の石棺である。

 ■石室の内部
 

 大きさとしては、長辺60m、短辺25mであり、南丘が高さ6m、北丘が、4.8mである。実際、それぞれの墳丘を登ってみると南の方が傾斜がきついような気がした。そしてそれぞれの墳丘の間に、国の史跡であることを示す石碑が建っている。
 この古墳も、築造は7世紀中ごろと言われており、この特異な形式などを考えると、蘇我氏とかかわりのある皇族が埋葬されているのではないだろうかと思う。
 周りのロケーションも含めて、いい感じの古墳である。墳丘に桜の木が何本か植わっていたので、桜の季節はきれいかもしれない。


 

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