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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

「万葉の旅」をたどる⑤ 斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)

2015-05-05 06:39:39 | 文学をたどる
 JRの掖上駅から、東へ1キロほど進んだところにある車木の集落がある。この車木の民家の裏にある天皇山の山頂に斉明天皇陵とされる車木ケンノウ古墳がある。

 

 車木ケンノウ古墳へは、この240段もある石段を登っていくことになる。途中天智天皇の娘、大田皇女越智崗上墓がある。大田皇女は、持統天皇と同母姉であり、妹の持統天皇と同様に天武天皇に嫁して、大伯皇女や大津皇子を生んでいる。そして、664年に亡くなっている。

 

 陵墓の周りをぐるりと回れるので、何か古墳の痕跡は見ることはできないかと思って回ってみたが、よくわからなかった。ただ、斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)へ登る参道から全体を見ることができる。何となく円墳っぽく見えないでもない。

 

 大田皇女の埋葬地については、日本書紀の「天智紀」の6年に「皇孫大田皇女を陵(斉明天皇)の前に葬った。」との記述がある。宮内庁が指定している位置関係では、陵前に葬ったとはちょっと言い難いような気がする。

 大田皇女墓をさらに上に屈折した階段を登っていくことになる。

 

 ここまで上がるとさすがに普段の運動不足がこたえる。息が上がってしまってもう大変。
 そうこうしているうちに斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)の前に出た。

 

 斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳)は、天皇山の頂上に位置しており、斉明天皇の他孝徳天皇の皇后である間人皇女、天智天皇の皇子で8歳で夭折した建王の二人の墓所とされている。
 ここも、大田皇女墓と同様に周囲を歩くことができるので、歩いてみることにした。

 

 ぐるっと回ってみると、古墳のような墳丘が見える。

 

 しかしながら、古墳であるとも言い切れない感じではある。実際、斉明天皇陵については、車木ケンノウ古墳という名称はついているものの、古墳ではなく、自然丘陵ではないかと疑問符がつけられている状態ではある。
 確かに古墳の位置から考えると、斉明天皇が在位していた飛鳥時代の古墳が造られている位置から言っても、山の山頂にあるというのは少し考えにくい。考古学上は、先に紹介した牽牛子塚古墳を、斉明天皇の陵と考える方が蓋然性が高いような気がする。

 ただし、訪れる人も少ない、静かな地に、激動の時代にほんろうされた2人の貴婦人と早逝した薄幸の皇子を埋葬されているというのもあってもいいような気がする。

 万葉の旅に紹介されている「今城なる 小丘が上に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か歎かむ」は斉明天皇が夭折した建皇子を思って詠んだ歌である。斉明天皇は、建皇子の死後「万歳千秋の後に、かならず朕が陵に合わせ葬れ。」と詔をしている。
 
 斉明天皇は、近年非常に評価が高まっている人物である。これまでは、天智天皇(中大兄皇子)の傀儡のように言われていたのだが、そうではないようだ。
 もっとも、天皇家の長としての自負が、自分の娘、孫と一緒に葬ることを望んだのかもしれない。

 

 歴史家の北山茂夫氏は、斉明天皇を万葉歌人のはじまりとし、万葉歌人の中皇命も斉明天皇のことであると主張されていたことを憶い出した。斉明天皇の息子天智天皇や天武天皇、また孫である持統天皇、志貴皇子といった歌人は、この天皇の血を受け継いだのかもしれないなどと思い、陵を後にした。

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