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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

飛鳥の古墳⑫ 伝吉備姫王墓

2017-04-15 16:55:18 | 史跡を歩く
 猿石の話題が出たところで、その猿石がある吉備姫王檜隈墓についても少し書いておこう。吉備姫王については、あまり知られていないが、欽明天皇の孫で、桜井皇子の子、欽明天皇の孫である茅渟王との間に、宝皇女(のちの皇極、斉明天皇)と軽皇子(のちの孝徳天皇)を儲けた。のちには、吉備島皇祖母命という尊称を受けたとされる。本来は皇族でも傍系に当たるが、子どもの宝皇女が、舒明天皇の皇后になって一気に家格が上昇って感じである。飛鳥時代の皇族の主役に躍り出たって感じである。この舒明天皇と皇極・斉明天皇との間の子が、天智、天武天皇の兄弟である。そして、今に至るまで皇統が続いていることになっている。

 

 吉備姫王墓については、あまりデータがなく、墓域を観察すると古墳のような小さな高まりがあるのだが、よくわからない。地形的には、平田梅山古墳の西側の丘の端にあり、古墳が作られるような場所でないような気がする。古墳でないという可能性もある。

 

 一説には、文久の修陵の際に、新しく築造されたのではないかとも考えられているようだ。ちなみに、延喜式に吉備姫王墓として、欽明天皇の域内に存在するという記載があることから、この場所に設定されたのだが、欽明天皇の陵が、例えば多くの学者が言うように見瀬丸山古墳であれば、その根拠を失うことになってしまう。ちなみに日本書記では真弓に埋葬されたとなっている。

 

 また、吉備姫王の墓所として、平田梅山古墳から少し東にあるカナヅカ古墳がそれであるという説もある。真弓であれば岩屋山古墳も射程に入りそうな気がするな。どうでしょうか?
 吉備姫王墓については、猿石を見に来る人以外はあまり関心を呼ぶことなく静かにたたずんでいる。

 

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