休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

田出井山古墳 ~反正天皇陵~

2015-02-06 07:11:00 | 史跡を歩く
 南海堺東駅から東へ200mほど行くと、閑静な住宅街の中に田出井山古墳の森が見える。古墳自体は、宮内庁により、反正天皇百舌鳥耳原北陵として治定されている。いわゆる「百舌鳥三陵」の一つである。反正天皇は、仁徳天皇、履中天皇に続く天皇であり、五世紀の中頃に実在したと考えられている。中国の史書に見える倭の五王の「珍」王ではないかと言われている。かつては江田船山古墳で発見された鉄剣の銘文に書かれているのは、この天皇のことではないかと言われていた。その後稲荷山古墳の鉄剣が見つかって、雄略天皇のことだと言われるようになった。

 

 田出井山古墳については、墳丘長148m、後円部径78m、後円部高さ13m、前方部幅110m、前方部高さ14.8mの三段築造の前方後円墳である。また発掘調査で、現在ある周濠の外に周濠の一部が見つかっており、造られた当初は二重の周濠を持つ古墳だったようである。古墳の形式からいえば、5世紀の中盤から後半の築造ではないかとのこと。しかし、他の倭の五王の陵墓だと考えられる大山古墳や百舌鳥ミザンサイ古墳などに比較するとかなり小さいため、この田出井山古墳の被葬者を反正天皇とすることに疑問視されている。

 周辺を歩いてみるが、周濠のきわまで住宅が建っているのでなかなか墳丘を見ることができない。

 

 ただ、西側に空き地があり、写真のように全体を眺めることができた。ただ、この後、この土地に家が建ってしまえばちょっと見ることが出来なくなってしまう。(世界遺産に登録しようというのならもう少し何とかしてほしいとは思うが、相手のあること、費用のかかることだし、何とも言えないなあ。)

 そして、古墳の北側には方違神社が建っている。この方違神社のあるあたりは、摂津、河内、和泉の三国が接するところであったらしい。(そのためこの辺りを三国ヶ丘というのだそうだ。)そして、神社の前の道は、長尾街道である。また、方違神社は、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきている。実際、僕も家を引っ越した時、清めの砂をもらってきて、家の周りに撒いたなあ。
 僕は訪れたこの日は節分であり、神社でも豆まきが行われ、参詣客が大勢いた。
 
 

 方違神社から見るのが、一番この古墳がきれいに見える。

 田出井山古墳には、陪冢が2つあり、それぞれが古墳の東側の住宅街の中にある。

 

 これは、天王古墳。一辺19mほどの方墳であり、かつては周濠がめぐっていたらしい。

 

 もう一つが鈴山古墳。これも一辺22mほどの方墳、こちらも周濠があったと言われている。どちらも周囲から円筒埴輪が出土している。

 田出井山古墳については、墳丘も外堤もきれいに保存されているのに、住宅を囲っていて、一部しか全部を見ることができないのはちょっと残念。また百舌鳥三陵周遊路として整備されており、ハイキングコースになっている。

 また、近くの堺市役所の最上階の展望ルームからこの古墳は大変きれいに見える。住宅の中に、大きな島が浮かんでいるような景色は、ちょっと興奮ものである。しかし、これだけの高い建物に登って見てやっと古墳の全景が見えるのである。一体何のためにこの形にしたのか不思議である。

 最後に、田出井山古墳の近くに煉瓦造りの建物がある。

 

 旧・天王貯水池であり、国の登録有形文化財に登録されているそうだ。住宅街の中にポツンとヨーロッパ風のモダンな建物が残っていた。ちょっとした発見である。この後、チンチン電車、阪堺電車に乗った。昭和の雰囲気が息づいていた。古いものと新しいものが同居しているセピア色の色合いの残る街であった。

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