教育委員会廃止論
穂坂 邦夫著 弘文堂
この間新聞で広告を見つけてから気になっていた本である。著者は埼玉県にある志木市の前市長である。志木市というと、行政パートナー制度を導入し、自治体業務のアウトソーシングの先進都市として有名であり、市長としてその旗振り役を務めたのが著者である。そういうこともあり、自身が現在教育委員会に出向中ということもあり、非常に興味を持って読ませていただいた。
市の教育委員会というのは実際不思議なところで、市の組織でありながらあんまり市の意向が通らないところでもある。これは実際に業務をしていて実感するところでもある。
昨今、いじめ問題をはじめとするいろいろな問題が教育の現場で起こっている、また学力低下など制度自体が疲労を起こしていると感じられる事象もある。しかし教育の現場において、いまいち有効な手が打たれていないことも事実である。教育再生と掛け声は立派であるが、何が行われているのか見えてこない。
そうしたことの原因の一つに教育委員会という制度があるのではないかと著者は主張している。教育委員会自体が誰が責任を取るのか明確になっていない組織であり、学校現場で何かあれば、いとも簡単に切り捨ててしまえるような組織になっているということなんだろうと思う。確かに学校での不祥事が起こった場合の記者会見を見ていても校長先生の謝罪している姿は見られるけれども教育委員会の姿はあまり見られない。その理由の一つは市町村の教育委員会には教員の人事権がないということなのだろう。市立の小中学校の先生の配属等は都道府県の教育委員会の管轄になっていて、市町村には人事権がない。意見は言えるみたいだけれど、あくまで意見で実効性は担保されていない。そうなってくると市の教育委員会では現場の先生に指導したりする権限がないことになる。実際、学校の先生の中には自分たちは都道府県の職員であって、市町村の職員ではない。別に市町村の言うことを真剣に聞く必要はないとうそぶいている教員もいるのも事実である。市の施設なのに市の統制が取れないというおかしな状態になっていくことになる。こうなってくると誰が教育行政に責任をとって対応していくのだろう。
確かに戦後の混乱期に教育委員会などの行政委員会制度が創設された。作られた当時は、政治からの中立を確保するためにも必要なものだったろうし、全国に等しくナショナルミニマムとして整備していくには有効な制度だったのだろうと想定される。しかし、今やナショナルミニマムが行き渡り、地域の独自性が問われるようになると、むしろそれは足枷となっているのも事実だ。市町村の教育委員会が何かしようとしてもなかなか現場動かない。人事権がないと言うのが大きい理由だ。組織の指揮権の基本は人事権にありと考えるなら人事権のない組織というのは、どんなもんだろう。正常な組織といえるのかどうか。疑問の感じるところではある。
少なくとも教育行政を市町村のものにするためには教育委員会にメスを入れる必要はあると思う。教育委員会を廃止にするかどうかは別としてせめて人事権は市町村に委譲する必要があるのではないだろうか。地域とはなれた都道府県が持つ必要は感じられない。小中学校の再生する一つの鍵が地域とするならば、地域の意思が完結できる人事制度というのは考えられてもいいような気がする。志木市は教育委員会廃止を構造改革特区を申請したが認可されなかったと言う。私も教育委員会に籍を置いているのだが、閉塞状況にあるのは実感できる。だが現状を打破しようとしてもできないのが現実である。ポスト待ちの人が多いので余計なことをしたくないという看取できる状況であるのも事実だと思う。
こういった閉塞感を打破していくには著者の言うとおり、制度としてわかりやすく、実施主体が自主決定権と自己責任をもつような制度を作り上げていく必要はあるのだと思う。
ゆとり教育の廃止など小手先の改革がうたわれているが、もっと構造的な部分にメスを入れないと何も変わらないようになるのではないだろうか。私自身もこういう状況にはめげず、本当に子どものためになる仕事をしていきたいと思う。
穂坂 邦夫著 弘文堂
この間新聞で広告を見つけてから気になっていた本である。著者は埼玉県にある志木市の前市長である。志木市というと、行政パートナー制度を導入し、自治体業務のアウトソーシングの先進都市として有名であり、市長としてその旗振り役を務めたのが著者である。そういうこともあり、自身が現在教育委員会に出向中ということもあり、非常に興味を持って読ませていただいた。
市の教育委員会というのは実際不思議なところで、市の組織でありながらあんまり市の意向が通らないところでもある。これは実際に業務をしていて実感するところでもある。
昨今、いじめ問題をはじめとするいろいろな問題が教育の現場で起こっている、また学力低下など制度自体が疲労を起こしていると感じられる事象もある。しかし教育の現場において、いまいち有効な手が打たれていないことも事実である。教育再生と掛け声は立派であるが、何が行われているのか見えてこない。
そうしたことの原因の一つに教育委員会という制度があるのではないかと著者は主張している。教育委員会自体が誰が責任を取るのか明確になっていない組織であり、学校現場で何かあれば、いとも簡単に切り捨ててしまえるような組織になっているということなんだろうと思う。確かに学校での不祥事が起こった場合の記者会見を見ていても校長先生の謝罪している姿は見られるけれども教育委員会の姿はあまり見られない。その理由の一つは市町村の教育委員会には教員の人事権がないということなのだろう。市立の小中学校の先生の配属等は都道府県の教育委員会の管轄になっていて、市町村には人事権がない。意見は言えるみたいだけれど、あくまで意見で実効性は担保されていない。そうなってくると市の教育委員会では現場の先生に指導したりする権限がないことになる。実際、学校の先生の中には自分たちは都道府県の職員であって、市町村の職員ではない。別に市町村の言うことを真剣に聞く必要はないとうそぶいている教員もいるのも事実である。市の施設なのに市の統制が取れないというおかしな状態になっていくことになる。こうなってくると誰が教育行政に責任をとって対応していくのだろう。
確かに戦後の混乱期に教育委員会などの行政委員会制度が創設された。作られた当時は、政治からの中立を確保するためにも必要なものだったろうし、全国に等しくナショナルミニマムとして整備していくには有効な制度だったのだろうと想定される。しかし、今やナショナルミニマムが行き渡り、地域の独自性が問われるようになると、むしろそれは足枷となっているのも事実だ。市町村の教育委員会が何かしようとしてもなかなか現場動かない。人事権がないと言うのが大きい理由だ。組織の指揮権の基本は人事権にありと考えるなら人事権のない組織というのは、どんなもんだろう。正常な組織といえるのかどうか。疑問の感じるところではある。
少なくとも教育行政を市町村のものにするためには教育委員会にメスを入れる必要はあると思う。教育委員会を廃止にするかどうかは別としてせめて人事権は市町村に委譲する必要があるのではないだろうか。地域とはなれた都道府県が持つ必要は感じられない。小中学校の再生する一つの鍵が地域とするならば、地域の意思が完結できる人事制度というのは考えられてもいいような気がする。志木市は教育委員会廃止を構造改革特区を申請したが認可されなかったと言う。私も教育委員会に籍を置いているのだが、閉塞状況にあるのは実感できる。だが現状を打破しようとしてもできないのが現実である。ポスト待ちの人が多いので余計なことをしたくないという看取できる状況であるのも事実だと思う。
こういった閉塞感を打破していくには著者の言うとおり、制度としてわかりやすく、実施主体が自主決定権と自己責任をもつような制度を作り上げていく必要はあるのだと思う。
ゆとり教育の廃止など小手先の改革がうたわれているが、もっと構造的な部分にメスを入れないと何も変わらないようになるのではないだろうか。私自身もこういう状況にはめげず、本当に子どものためになる仕事をしていきたいと思う。
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