近鉄京都線高の原駅を降りると、急に近代化した街並みが目の前に開ける。人工的に丘陵を切り開いた街で、駅の前にはロータリーがあり、その先にはショッピングモールが建ち並んでいる。目的とする石のカラト古墳のある所をめざして、西へ向かって歩いていくと、左手には団地が、右手には一戸建ての家が建って、ずっと続いている。
奈良市の北部と言っても、ほとんど京都府木津川市ではある。なぜか石のカラト古墳のある場所だけが、舌のように京都府側へ突き出している。
そうした団地の間に、古墳公園があり、木立の中に石のカラト古墳の姿が見える。
石のカラト古墳は、一辺約14m、二段築造で、上段が円形、下段が方形の上円下方墳と言う珍しい形の古墳である。昭和54年に発掘調査が行われており、その頃連日のように発掘調査の成果が新聞に掲載されていた記憶がある。
現在は埋め戻されていて、中を見ることができないが、高松塚古墳と同型式の横口式石槨があり、これがカラト=唐櫃と言う名称のもとになったらしい。この墓室からは、乾漆棺の一部や副葬品で銀製の太刀の外装部などが見つかっており、埋葬された人物がかなり地位の高い人物であったことをうかがわせる。ちなみに京都府側は、カザハヒ古墳と呼んでいた。
墳丘は、版築で造られ、表面は貼石で覆われている。現在は古墳の姿は写真のように、昭和62年に復原整備されているが、何とも言い難い雰囲気。おそらく飛鳥地域で良く行われている終末期古墳のUFO型復元のハシリではないだろうか。そうは言っても、多少年季が入って、少し周りと調和が取れつつあるような気もする。
古墳の築造については、高松塚古墳やキトラ古墳等と同様に7世紀末から8世紀初めの頃と考えられており、ちょうど平城京造営の時期と重なる。石室の造りがキトラ古墳やマルコ山古墳と似ていることなどから、天武天皇の皇子の中で、有力な人物が被葬者として想定できそうである。
巷間では、天武天皇の皇子で、知太政官事を務めた穂積親王(715年没)などの名前が挙げられている。
平城京を北面から守護している人物といういう感じなのかな。古墳の周辺は公園になっているが、すぐ北側は丘を切り開いて幹線道路が通っている。
ここ数十年で近代化によりあっという間に地形や景観が変わったことをうかがわせるに十分である。
このあとは、万葉の径という遊歩道を歩きながら、押熊瓦窯跡などを探して歩いてみることにした。
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