日記

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拙投稿にヒョウゲモン、へうげもんさんからのご意見を拝見して

2024年08月08日 | ブログ
昨日の拙投稿にヒョウゲモン、へうげもんさんからのご意見を拝見して、、

門主の政治的失態が、騒動の一番の要因であるものの、意向に固執したことからこの問題が長引くことになったが、やはり、腑に落ちないのは宿善、善根のススメである。

宿善、善根のススメが、18願以外の修習のあり方、方便行も認めると言うことを意図するのであれば、なるほど、転換の意図は一定理解ができる。

異安心、無帰命安心の横行も憂い、18願に固執するあまり離れる門徒を繋ぎ止めるためということである。

ならば門主は門主で旧態依然たる弊害を打破するためにやってきたことがあるとも評価できるわけである。

蓮如上人を意識してのことでもあるのだろうか。

しかし、手法、人選に問題があり過ぎたとも言えるだろう。特にあの総長が全てを裏目へと出してしまったのである。

いずれにしても、18がベストだが、無理する必要はなく、19から、20からでも良く、方便からでも取り組みましょう、広くサポートしますよ、法義示談にて各対応し、各修習を応援します。18からの方へ、19からの方へ、20からの方へ、と教学的な体制を調えてサポートできるようにすれば、他力法門を求める者で大いに活用されるお寺になると思うのである。

しかし、結局、閉鎖的な状況へと追い込まれてしまったのが現実であったわけなのである、、

あとは、意外にも、親鸞会さんが、門主の宿善、善根のススメに反応していないような気がするのである。まだ見ていないだけかもしれないが、、

宿善論争においても格好のネタでもあるのに。

とにかく、宗門としてもちゃんと正式に決着を着けておくべきであろう。

まだまだ18のみに固執するならば、宿善も何もかもを聴聞のみのあり方を徹底として、異安心、無帰命安心の蔓延を制していく必要があるでしょう。それもあり方としては正しいものとなるが、勧学寮、監正局は取り締まりにかなり大変になるでしょう、、

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『正信偈』では依経段の結びに『大無量寿経』の文を引き「信楽受持甚以難難中之難無過斯」と宗祖はお示しである。この「信楽」が出される本願は第十八願だけに限定されるのである。よって第十八願のみが浄土真宗なのであり、三願転入(個々の信心獲得までの未信の階梯を除いて)を要するなどと、公には説かないという伝統がある。宿善の有無についても獲信の縁の有無についてを言うのであり、専如や石上らのように「縁なき衆生は度し難し」な輩を無宿善の機と分別して扱うだけのことである。
公には説かない伝統とは不親切だ、聴聞しても信は獲得しづらい、様々な問題は確かにあるのだが、それは『化身土文類』の所顕を説き忘れがちな最近の説法が悪いのであって、故に三願転入など要する必要などもとより無いわけである。何故、浄土真宗では御正忌報恩講を最も大切にお勤めするのか、それもまたこの三願転入を要する必要が無いという宗祖の御苦労に対しての御礼のお勤めだからなのである。
三業帰命の問題についても、これは未信の者を含む問題ではない。獲信の者の中における「信心歓喜乃至一念」や「一念慶喜」の問題を論じるものであったが、信心正因称名報恩という不変の宗義によって立つ場合に、これは普遍的ではないという結論に基づいて廃された主張であるとみられているということなのである。
確かに「信心歓喜乃至一念」も「一念慶喜」もともに信楽開発の時刻の極促であって一念覚知の異安心とは異なる問題も含まれるのだが、獲信の感動体験が伴わない宿善の機の方が実際には稀なことであろうし、このことを当時の能化が何とか言い表そうとした結果が三業帰命弁であったと推されている。これが世に出されると今度は、信心獲得の感動体験に関してではなく「信後の相続における感動体験の三業にかけた表明など必要な筈がない」という反論が直ちに起こり、宗義が混乱してしまうことに繋がる。今の新領解文の問題とは内容的な深みが全く異なる次元での惑乱だったのであり、それゆえ長期化した。今の新領解文の問題は門主名で発布したから不必要に長期化させているだけの話しであって、全く三業惑乱に比べられないほど実に稚拙な問題なのである。新聞の見出しに「令和の三業惑乱」とか書かれ、そうなのかと重く受けとめてしまっている人は、内容がよく理解できていないだけのことであるのだ。凄く浅い異安心(不定聚邪定聚)の内容でしかない。
真の三業惑乱は、正定聚の内輪の問題だったのである。いつまで専如を門主に据え続けるの?

・・・・そんだけぇ〜〜〜ッ!


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