日記

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「新しい領解文」問題の根っこにあるもの 「空」「縁起」「無分別」をめぐる解釈の誤用

2024年05月05日 | ブログ
いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。

有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。

どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。

もちろん、従前より親鸞思想・浄土真宗教学において最も弱いのが、空思想、中観思想であります。もっとも、元々は世親、曇鸞、道綽、善導と空思想、中観思想を扱わなかったというわけではないものの、その比重は明らかに軽くなっていくことになりました。

これにはもちろん大きな理由があり、般若の智慧、空性の悟りは、自力聖道門における修行の力により獲得していくものであるとして、非常に難解で困難を極める空性の智慧を求むることは、凡夫愚鈍なる者の救いの道にはならないとして否定していくことになるからであります。他力浄土門へといっそうに傾斜していくことになるわけであります。

そのため、「空」、「縁起」、「無分別」に関しての議論も必要なく、彌陀本願の勅命、本願招喚の勅命へ向かって、いかにあるべきかということに教義的な主眼がおかれることになっていったわけであります。

このため、当然に弱いのは仕方がないのですが、それなりに仏教の基本、基礎も学び、大学でも教授クラスにあるとされている勧学(しかも与奪者)でも、まさかの誤用を擁護するという愚挙には、開いた口が塞がらないということであるわけです。

極論ではなく、悪取空見による慈悲殺生、利他殺生の容認とも似たような論理を述べることになっているのであります。

それは、「一切は空、無分別であるのだから、何をしてもそれは善悪の分別も関係なく許容されるものとなる」ということであります。要は、「仏も凡夫も、また仏の行為も、凡夫の行為も、その全ては空であり、無分別であり、善悪もなく、同じである」という、このようなことを述べているのが、「新しい領解文」であり、満井論文であるというわけなのであります。

有志の会は、この点をもっと問題にしないといけないと思うのであります。

・・

先に示した満井秀城勧学(与奪者)の改悔批判における

『「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。』

の主張に対しての拙反論のあれだけで、もう十分にお腹いっぱいという感じでもある。。

要は、論文における下記に対して反論するだけで、もう十分ということである。

『・・これを私は約仏の視点として説明して来た。約仏の視点としての「生死即涅槃」とは、仏の眼からご覧になれば「自他一如」として、仏と衆生との間には、何も隔てるものはない。相手のいのちに自らのいのちを見るのが、仏知見というもので、仏の無分別智から見れば、仏と衆生とは隔絶していない。それを衆生の側が、凡夫の妄分別によって生仏を隔絶して捉えてしまうのである。・・』(『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』満井秀城・序論より)

主張したい、正論としたいのは、この点なのである。

もちろん、間違っているし、トンチンカンな主張である。

それは、前回に拙生が述べてあるとおりである。

[・・仏智見は、単純に、自他一如と観るわけではない。仏智見とは、一切は空性として如実に直観知する仏陀による見方のことである。確かに、空性としては、一切、自他共に一如ではある。つまり、悟りも煩悩も当然に空性を本質としているということは同じではあるが、それで、悟りと煩悩が同じとはもちろん言えないのである。はたらきがまるで違うし、煩悩があるならば、まず迷い苦しみは無くならないし、空性を了解すること自体も、そもそも難しいのである。また、凡夫の分別心が、悟りと煩悩を分けるわけではない。悟りと煩悩を分けるのは、空性了解の有無である。空性了解できていない凡夫が、悟りの状態にあるなどとはもちろん言えないのである。更に、悟りは無分別ではない。悟った仏陀は、如実知と如量知にて、空性了解から世俗の煩悩による迷い苦しみのありようもご覧になられるのである。空性了解のない凡夫煩悩からではもちろんそんな見方も無理なのである。正確に述べるのであれば、無分別なのは、空性として離戯論であるということを示している事態であり、世俗、凡夫、煩悩のある立場からでは、それも真に理解することも無理なのである。空性を本質としてあること以外に悟りと煩悩が同じなわけなど全くないのである。・・]


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