日記

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『空と縁起』~勝義菩提心と勝義方便~ 平成24年度・秋彼岸・配布用資料

2012年09月13日 | 徒然日記・日々の記録
『空と縁起』~勝義菩提心と勝義方便~
平成24年度・秋季彼岸施餓鬼・配布用資料 

岩瀧山・往生院六萬寺 副住職 川口英俊

 「空と縁起」に関しましては、昨年度のお盆施餓鬼法要の際の法話内容をまとめさせて頂きました資料を昨年度の秋彼岸にて配布させて頂きました。
( 『空と縁起と』~仏教の存在論~ 参照 http://t.co/wHL7TR0 )

 また、仏教における「悟り」を目指していくために必要なことにつきましては、拙論・「菩提心論」( http://t.co/aSBtLQQI 「菩提心論」・「川口英俊」の検索で参照)にてまとめて、本年度のお盆施餓鬼法要の際に配布させて頂きました。

 今回は、それらの内容を踏まえて少し補足致して参りたいと存じます。

まずは、チベット仏教ゲルク派宗学研究所・齋藤保高先生の詠まれました以下の偈頌(げじゅ)をご紹介させて頂きます。

幻の如き空性。
縁起の第三層の意味。
世俗の自相さえ否定し、
相互縁起の連鎖と世間極成のみを存在の根拠とする
単なる言説有…。
これらの意味を学び、分別で多少理解できれば、
慈悲や世俗菩提心の行境がいかなるものか、
その本当の在り方に光が射し込む。
虚空の如き空性から、
有辺の壁と無辺の崖の挟間に、
幻の如く甦る器世間と有情世間。
これをおいて他に、
慈しみ愍(あわれ)むべきものを、
一体どこに求めようというのか?
帰謬論証派の空性理解の片鱗に触れたとき、
執着から離れた純粋な慈悲の何たるか、
その輪郭が初めて見えてきた。
この教えを知らずに抱いていた慈しみや愍みの心は、
確かに善きものであったかもしれないけれど、
今となっては何と色褪せて見えることか!

参照 チベット仏教ゲルク派宗学研究所  
http://rdor-sems.jp/
教理の考察・フロントページ下段 
http://t.co/AGbEca7S


 齋藤先生は、この偈頌にて、世俗菩提心による慈悲・利他・善行と勝義(しょうぎ)菩提心による慈悲・利他・善行の相違を示唆なされていると解することができます。

 つまり、勝義菩提心、更には勝義方便(真なる慈悲・利他行の働き)というもののあり方についてであります。世俗・勝義の菩提心の内容につきましては、拙論「菩提心論」にても簡単に述べさせて頂いておりますのでご参照頂ければと存じます。

 齋藤先生は、まず、分別(思考・思慮)によって「空と縁起」の理法をある程度正確に理解できれば、慈悲や世俗菩提心のあり方を解することができると述べられておられます。

 そして、世俗菩提心・世俗方便行のあり方を解することから、更にチベット仏教・中観帰謬(きびゅう)論証派の空性理解へと進むことで、真なる空性の了解(りょうげ)を目指すための勝義菩提心、そして、勝義菩提心に基づいての真なる方便行のあり方を伺い知ることができるであろうことを述べられておられます。

 「帰謬論証派の空性理解の片鱗に触れたとき、執着から離れた純粋な慈悲の何たるか、その輪郭が初めて見えてきた。この教えを知らずに抱いていた慈しみや愍みの心は、確かに善きものであったかもしれないけれど、今となっては何と色褪せて見えることか!」と述べられるわけであります。

 「幻の如き空性」・・「空性」とは、無実体・無自性のことを言いますが、この場合、決して「幻」とイコールではないことには注意が必要です。「幻の如き」・「幻のような」という表現を誤って解してしまってはいけません。存在は、「幻」ではなくて、「幻の如き」・「幻のような」ものであることが重要であります。存在は、決して「無」ではなく、確かに存在しているのであります。その存在のありようについては、「縁起の第三層の意味」※1を理解した上で、「相互縁起の連鎖と世間極成※2のみ」を根拠として成立している「単なる言説有」として措定されるものであるということであります。

※1 縁起には、三つの階層があり、第一に、「原因・条件と結果との依存関係」、第二に「部分と全体との依存関係」、第三に、「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名(けみょう)・仮説(けせつ)・仮設(けせつ)されることによるという依存関係」となります。
※2 世間極成とは、存在の概念に関しての一定範囲の社会の共通認識のこと。

 「虚空の如き空性から、有辺の壁と無辺の崖の挟間に、幻の如く甦る器世間と有情世間。」・・非有非無の中道における存在措定が重要となります。

 「空と縁起」としての正しい存在のありよう理解であります。但し、ここでの理解はあくまでもまだ世俗的分別理解というものの領域であり、不十分なものであることには注意が必要です。

 「帰謬論証派の空性理解の片鱗に触れたとき、執着から離れた純粋な慈悲の何たるか、その輪郭が初めて見えてきた。」・・世俗的「空と縁起」によっての存在理解から、次に、中観帰謬論証派の空性理解、勝義的「空と縁起」によっての存在理解を目指すことが重要なこととなるのであります。

 つまり、中観帰謬論証派の空性理解をいっそうに深めていくことによって、やがてその理解の極致たる「空性の現量了解(げんりょうりょうげ)」に至ることが求められるわけであります。

 「現量了解」とは、空を直観的に体得している智慧となります。「空性の現量了解」に至ることを目指す中における真なる慈悲・利他行としての方便による働きのいかなるかの片鱗が少しくも垣間見えたとき、いまだに煩悩を断じていない中における菩提心・方便の働きが「何と色褪せて見えることか!」と述べられて締めくくられているわけであります。

 慈悲については、三つの段階に分けて説明されることがあります。第一が「衆生を所縁とする慈悲」、第二が「法を所縁とする慈悲」、第三が「無所縁の慈悲」であり、このうちで最も優れた第三の「無所縁の慈悲」が、真なる慈悲・利他行としての方便による働きとなるわけであります。

 第一の「衆生を所縁とする慈悲」とは、この輪廻世界で迷い苦しんでいる衆生に対して、世間一般的に生じる、憐れみや思いやり、優しさ、厚意、親切さといったことに基づく慈悲であると言えます。これは仏法を学んでいない者であっても普通に生じうる慈悲心と言えるでしょう。

 第二の「法を所縁とする慈悲」は、仏教の基本的な理法、例えば、四法印(諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静)、四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)を学び修する中において、それらの法に基づいて生じる慈悲の心と言えます。世俗菩提心による慈悲心と解することができます。

 そして、第三の「無所縁の慈悲」とは、空と縁起の理法の理解において、特に「空性の現量了解」を目指して生じる勝義菩提心によっての慈悲心であり、この「無所縁の慈悲」による働きが、勝義方便と言えるもので、智慧と慈悲を円満に究竟していけるように調えていくことが重要となります。

 さて、悟りを目指す上においては、悟りへの障害となっている「煩悩障」と「所知障」[一切を知ることの障り]を断じていくことが求められます。

 「煩悩障」の原因となっているのは、煩悩を生じさせる根本的な無知、つまり、無明(むみょう)というものですが、簡単には、真理を知らないことにより、存在を実体視執着してしまう性向のことであります。その無明によっての煩悩が悪業を生じさせていく根本原因であり、更に悪業を集積させてしまうことにより、迷い苦しみの輪廻をさまよい続けることになってしまいます。

 次に「所知障」の原因となっているのは、煩悩障の原因である「無明」によっての「習気」(じっけ)となりますが、「習気」とはどのようものであるのかということの詳しい例えについては、【「ダライ・ラマの仏教哲学講義」・大東出版社・p111】から引用させて頂きます。

『もしニンニクを器に入れておくと、その器にはある種の匂いが溜まります。そこでその器をきれいにしようとしたときには、まずニンニクを取り除く必要があります。それと同様に、実体的存在を思い込む意識、これはちょうどニンニクのようなものですが、それが、実体的存在を現象させる潜在力を心の中に植え付けるのです。こうして、心という器の中に残っているニンニクの匂いのような潜在力を心から浄化するためには、まず、心から実体的存在の思い込み全てを取り除かなければなりません。まずニンニクを取り除き、そして始めてその匂いを取り除くことができるのです。(引用ここまで)』

 つまり、この場合のニンニクが実体的存在を思い込む意識、つまり「無明」であり、ニンニクの染みついた匂いを「習気」というわけであります。悪業を生じさせていく潜在力と捉えることができます。

 このことについて、拙私論を次に少し述べさせて頂きますと、例えば、癌になってしまったとしましょう。治療を受けることで、やがてその原因となっている癌の腫瘍を手術で取り去ったとしましょう。この場合の腫瘍が、今回の議論における「無明」であります。

 次に、確かに手術によってその癌の原因である腫瘍は取り除くことができたとしても、その癌腫瘍によって、それまでその周りの臓器に与えてしまっていた影響、つまり、この影響のことを今回の「習気」と言えることになりますが、それもしっかりと検査し、他の臓器に悪影響を及ぼしていないか、また、転移の疑いがないか、その不安を解消することが望まれるわけであります。

 もしも、その「習気」を取り除くための手術後の検査、治療を怠ってしまえば、また、癌が再発してしまう恐れがあるということであります。それは、油断すれば、その「習気」によって新たなる癌、つまり、「無明」を再発させかねないということでもあります。

 完全な健康体、この場合は、悟りを得て一切智者・如来・仏陀となるまでは、例え煩悩障を排撃できたとしても、いつでも癌の再発の潜在力、つまり「習気」が残ってしまっている限り、また癌が再発してしまう、その「習気」により悪業を生み出してしまう可能性は否定できないということであります。

 もちろん、まずは煩悩障を排撃すること、この排撃が無ければ所知障の排撃へと移れないのは当然として、煩悩障を排撃できれば、即座に「所知障」の排撃へと着手して、なんとしても煩悩障が再発しないように「習気」をも取り除いていかなければならないわけであります。

 以上のように、煩悩障を排撃してから、すぐに勝義の菩提心を起こして、完全なる空性理解を目指して、今度は「所知障」の排撃に取り組んでいくように調えることが必要となります。この際に必要となりますのが、空性の更なる修習、つまり智慧の開発(かいほつ)と、煩悩を断じた状態にての勝義方便、つまり真なる慈悲・利他行の実践であります。

 そして、やがて空性を現量了解した段階となり、最高の智慧を獲得すると、一切衆生を遍く平等に利益(りやく)できるようになる方便行の準備も完成することとなり、一切智者・如来・仏陀という崇高なる境地に至れることになるのであります。

 情けないことながら、凡夫である私は当然もちろんながら、ほとんどの者たちも今世において煩悩障の排撃すらもままならないのが現実であります・・

 いまだ煩悩障を排撃できていない中での慈悲・利他・善徳行は、あくまでも煩悩障を排撃していくための世俗方便行でしかないものの、空性の理解と共に少しずつ一歩一歩何とか前に進めていかなければならないと考えております。そして、煩悩障を排撃できてからようやくに所知障の排撃へ向けてのスタートラインに立てることとなる次第であります。

 先はとてつもなく長く険しい道のりですが、とにかくまずは煩悩障の排撃に取り組むことにより、これ以上悪業を積み重ねないように、十善行(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不粗悪語・不離間語・不妄貪・不瞋恚・不邪見)を行い、更に世俗方便によっての善業をも積み重ねて、これまでの悪業を浄化していきながら、空性理解という智慧の開発も調えつつ、来世、来来世においても無事に仏道の修行が歩めれる存在であるようにしていきたいものであります。そして、いずれは一切智者・如来・仏陀になれるように、決して諦めずに精進努力を続けていくことが大切なことになるのであります。

平成24年9月18日 川口英俊 合掌九拝

関連考察参照・・

#勝義方便メモ No.5
http://togetter.com/li/365326

「菩提心論」川口英俊(平成24年・お盆施餓鬼法要配布用・施本)
http://t.co/aSBtLQQI

『空と縁起と』~仏教の存在論~  平成23年度・秋季彼岸施餓鬼・配布用資料
http://t.co/wHL7TR0

「自らを灯明と化した菩薩たちの願い」~チベット問題・焼身抗議を考える~ 平成24年度・お彼岸施餓鬼法要・配布用・施本
http://t.co/PwVvYWck

『東日本大震災に思う』 平成23年度・お盆施餓鬼法要・配布用資料
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/28c0cc5975d7b67227e085443ad9053f

これまでの考察記録に関しては、ブログ全体をご参照下さい。
http://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

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