日記

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疑心残存説についての続き

2024年06月03日 | ブログ
疑心残存説についての続き。

煩悩障を断滅しても、所知障が対治できていない限り、悟りへと至れることがないように、信心決定、疑心断滅しても、所知障と同じように残り香的、習気として、何らか疑心の残存もありうるかどうかであるが、これはありうると考えるのである。

まず、所知障とは何か、ということであるが、拙図を参考にして頂くと、簡単には「虚偽の現れ」をもたらす障りのことである。

この「虚偽の現れ」とは、モノ・コトは本来は空性であり、実体として成り立ってはいないものであるにもかかわらず、まるであたかも実体として成り立ってあるかの如きにモノ・コトが現れてしまっているありようのことである。

もちろん、煩悩障を断滅した行者においては、三昧・等引から離れた後得知の状態において、そのような「虚偽の現れ」があったとしても、もう騙されずに、煩悩が生じることはなく、また、業も汚されることがなくなっているのである。そのため輪廻することもなくなった解脱した存在となっているのであります。

このことと同様に、信心決定、疑心断滅した行者においても、「疑心を生じさせうるような現れ」があってもおかしくはないと考えるのであります。

では、この場合の現れとは何かとなれば、「本願への疑い」を生じさせ、惑わせうるような現れであると考えられるわけです。やはり、長い間、輪廻する中において醸成させられてきた強烈な疑心によっての残り香、習気のようなものと考えられるわけであります。

しかし、そのような惑わすような現れがあったとしても、煩悩障断滅後と同様に、騙されることはなく、疑心断滅後において、再び疑心が生じ、信心が退転することはないわけであります。

つまり、信心決定した、疑心断滅したという行者は、そのように惑わすような現れのからくりについて、よく通達して見通せる者となっているわけです。

それは、現実に起こっていると錯覚していたことが、実は巧妙に仕組まれた映写機による映像、つまり、虚像だったと知ったということで、もう何も騙されなくなっているのと同じようなことです。

最後には、その映写機を止めて、その「虚偽の現れ」を完全に無くせばよいのであります。それによって、真なるありようを、真に知ることができるようになるのであります。

拙図における煩悩障と所知障を断滅した行者においては、空性現量了解のままにおいて、一切を見通せる悟りに至ることができるようになるということであります。

いずれにしても、信心決定、疑心断滅が、真実浄土への往生の必須条件であることは変わらず、また、信心決定、疑心断滅した行者においては、その退転もあり得ないと考えるのであります。

疑心があっても真実浄土へと往生できる、信心決定・信心獲得できていなくても真実浄土へと往生できる、というようなことは、あり得ないと考えるのであります。

・・

疑心残存説について、疑心が無くなった後に、疑心が生じたり、残ったりすることはあるのかどうか、ということですが、これは煩悩障におけることと同様の事態として考えればよいのである。

煩悩障断滅後には、煩悩は一切生じることはなく、業が汚されることもなくなります。

同様に考えれば、疑心が無くなり信心決定した後に、疑心が生じたり、信心が後退することはないと考えることができます。つまり、不退転(位)ということです。

ただ、煩悩障の場合、煩悩障を断滅しても、その残り香的な習気である所知障が残ることになります。

ならば、同様に、疑心を無くし、信心決定しても、疑心の残り香的な習気は残ってあることは十分に考えられるものとなります。

疑心残存の事態をこのように考えるならば、どのようなものとなるのか?

要は、疑心の本体は無いが、その残像があるようなイメージである。

お皿にニンニクがあったとして、ニンニクを取り除いても、お皿にはその痕跡となる臭いがまだ残ってあるという感じである。

この臭いと同じことが疑心残存にも言える可能性はあることにはなります。

では、その残存に、信心決定後、疑心断滅後において、良いにせよ、悪いにせよ、何らかの作用がはたらくことがあるのかどうか、である。

これも煩悩障断滅後における所知障の状態においての、その作用のありようについて考えると、何か分かることがあるようには思うのである。

ちなみに、「疑心往生」、「疑心残存」に関する議論につきましては、こちらの岡林愚聞さんの解説が一つ分かりやすく参考になります。
「疑心往生とは?」(ゲスト) 岡林愚聞 住職【桜嵐坊の 仏教 部屋 】

https://youtu.be/BN2YvX3_OHg?si=7XBJRzKxmQRbwftB



疑心残存説について

2024年06月03日 | ブログ
疑心残存説について、疑心が無くなった後に、疑心が生じたり、残ったりすることはあるのかどうか、ということですが、これは煩悩障におけることと同様の事態として考えればよいのである。

煩悩障断滅後には、煩悩は一切生じることはなく、業が汚されることもなくなります。

同様に考えれば、疑心が無くなり信心決定した後に、疑心が生じたり、信心が後退することはないと考えることができます。つまり、不退転(位)ということです。

ただ、煩悩障の場合、煩悩障を断滅しても、その残り香的な習気である所知障が残ることになります。

ならば、同様に、疑心を無くし、信心決定しても、疑心の残り香的な習気は残ってあることは十分に考えられるものとなります。

疑心残存の事態をこのように考えるならば、どのようなものとなるのか?

要は、疑心の本体は無いが、その残像があるようなイメージである。

お皿にニンニクがあったとして、ニンニクを取り除いても、お皿にはその痕跡となる臭いがまだ残ってあるという感じである。

この臭いと同じことが疑心残存にも言える可能性はあることにはなります。

では、その残存に、信心決定後、疑心断滅後において、良いにせよ、悪いにせよ、何らかの作用がはたらくことがあるのかどうか、である。

これも煩悩障断滅後における所知障の状態においての、その作用のありようについて考えると、何か分かることがあるようには思うのである。

ちなみに、「疑心往生」、「疑心残存」に関する議論につきましては、こちらの岡林愚聞さんの解説が一つ分かりやすく参考になります。
「疑心往生とは?」(ゲスト) 岡林愚聞 住職【桜嵐坊の 仏教 部屋 】

https://youtu.be/BN2YvX3_OHg?si=7XBJRzKxmQRbwftB