日記

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臨済宗の葬儀と来迎会との関係について

2024年06月23日 | ブログ
ご来迎の諸聖衆の主役は観音菩薩であり、観音さんが先頭となり亡くなられた方を浄土、阿弥陀如来のもとへと連れゆくことになりますが、その前に観音さんへと引き渡す代理として、諸聖衆を迎えるのが導師の役割となる。

入退場以外で観音帽子(もうす)を被るのが引導の時のみとなるのは、代理としての役割を許されるのは、本来、その時だけであるからである。(ずっと被ってられる例もあるが、引導以外では遠慮するのが本来の作法となる)

十仏名は、諸如来、諸聖衆により、浄土、悟りへの導き、資助を賜るために、往生咒は、阿弥陀如来の浄土へと無事に到達して往生されるようにとして来迎のために調えることとなる。

山頭念誦の阿彌陀佛名号念誦は引導法語の一字関と共に葬儀の要諦となる。

また、法炬(たいまつ)で円相後に中心にて描く種字梵字をキリークとしている。バクかアとされていることもあるようです。

とにかく来迎を全体的に意識して、葬儀での焼香も、特に雲程、浄土へと向け、たなびき送り出す雲の役割としての葬送の念をこめたいものとなります。

鎌倉時代〜室町時代にかけて、往生院では二十五菩薩お練り供養、来迎会が修されてあったことも、最近の調査、研究にていよいよ確実になったこともありますが(九條道家により東福寺末寺、臨済宗となる)、より来迎会に近いあり方で臨済宗の在家葬送が調えられることになったのも、当時の日本浄土教の来迎会や当麻曼荼羅などによる極楽誓願のあり方からも受容されやすかったと考えられるわけです。

もちろん、流入してきた宋代臨済宗は、大陸における浄土教と近接した関係性にあったことも大きいわけであります。禅浄一致思想ということです。

一方、同じ禅宗でも曹洞宗は、このあり方を大きく見直すことになり、浄土思想を葬儀から完全に排除することになったわけですが、これはほんの最近、近年になってからのことなのであります。


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