日記

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浄土真宗における無帰命安心の傾向が、神学による影響があるとしたら・・

2024年08月02日 | ブログ
無帰命安心の傾向が、神学による影響があるとしたら、その是正を図るために、わざわざ新しい領解文でも、念仏者の生き方、生活指針までの指示が必要になるほどになっているとも考えられなくはない。

社会的な(仏教的な功徳とは異なる)功徳の実践を親教において門主が訴えないといけないほどに、、

阿弥陀如来の神格化がそこまで浸透しているということでもあるのかもしれない。

悟りと煩悩は本来一つも、全知全能最高善神が、煩悩など衆生にお与えなさられるわけはなく、ただの救いへの試練の一つ、救われる、悟りへの試練に過ぎず、悟りと本来繋がってあるもの、とも考えられるわけです。

しかし、このようなあまりにもご都合主義な考え方では堕落を促す恐れもあるため、堕落への予防線を張ったのが、後段とも。

単なる異安心ではない、神学転換である可能性もあるわけだ、、

また少し動画でもまとめてみたい、、

・・

新しい領解文、疑心往生、十劫安心など、異安心に陥りやすい背景として、予定調和主義も関わってある可能性について少し述べたわけだが、拙見解としては、仏教における悪取空見、勝義と世俗の間違った理解、混同によるものである可能性が高いとしていますが、神学における予定調和主義の考え方は、阿弥陀如来の本願と結びつくと、無帰命安心へと向かいやすいものとなるのではないだろうかと、その可能性の方が高いとのご指摘を頂いた。

そこで思い出したのが、「神は乗り越えられる試練しか与えない」である。これもある意味で予定調和主義の考え方である。

そこで、原文を調べてみると、「耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」とある。

なるほど、本願と結びつくと、「どんな試練(俗世の迷い苦しみ、境遇、境涯)であっても、耐えることができる(耐えなさい)、(なぜならば)逃れるための救いの道(往生)があり、神(阿弥陀如来)が救って下さる(から安心しなさい)」となりやすいということと言えるわけである。

もちろん、現実、実際は乗り越えられない試練など山ほどにあるのではあるが・・

新約聖書・コリント信徒への手紙・10章13節
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(口語訳)


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