先日のズームの参加者さんからもお誉めを頂きました拙講座での「ローソクの焔とガラスに着くススを使った喩え」。
仏教が何を目的として、何をしなければならないのかが大変よくわかりましたと、また別のお方からもご感想を頂きました。
もちろん、それから「形象虚偽」と「形象真実」についての考察を進めましたのは、この喩えからの拙見解を明らかとするためでありました。
形象虚偽であれば、凡夫は、まず1ミリも空性を理解し得ないことになりますが、拙生はそうではないのではないだろうかと長い間、ずっと疑問に思っていました。
凡夫であっても、たとえ僅かでも空性や縁起を直観知にせよ、分別知にせよ理解し得ていることがあるのではないかと。
当然に、凡夫であっても、本当のところはそれ、それらは実体として成り立っていないと理解していること、感づいていることだってありますし、無常や因果、事象、現象、存在等から縁起と空性を一部、僅かでも理解していることだってあるからであります。
また、煩悩障と所知障も、その濃淡、度合いがそれぞれにおいてあるはずです。無明や悪業も含めて、皆が同じ状態なわけはありません。
ですから、空性、縁起の理解についても、その濃淡、度合いがそれぞれにあってもおかしくないからであります。
以上のようなことから、直観知、分別知において、凡夫でも空性、縁起を捉えられているものがあると考えるのが妥当ではないかと。
ましてや、ツォンカパ大師は、分別知でさえ全てが虚偽として完全否定はなさられなかったのですから、ましてや直観知においてやでもあります。
後期中観派の論師たちの大多数は、「形象虚偽」を支持するわけですが、ツォンカパ大師の高弟のケートゥプジェ大師だけは違っていました。
ツォンカパ大師の伝記を多く記されたケートゥプジェ大師が、どれほどツォンカパ大師のことを尊敬、敬愛なさられていたかは伝記から知ることができます。ツォンカパ大師晩年にお二人は出会われていたのにも拘らず。
ケートゥプジェ大師が「形象真実」を支持なさられたのも、当然にツォンカパ大師の思想的な背景からであってもおかしくないはずであり、もしかすると拙生の推測するのと同じような考えであったからであるのかもと思う次第であります。
・・
唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(2)
・仏陀の如量知には、形象は何も現れないのか
→ (通説)形象は何も現れない
→ (拙見解)「離戯論のみをご覧になられる」と表現されるところですが、それなら「離戯論」のみは知に現れられている可能性はあると言えます。もちろん、「離戯論」とは「空性」ということの一表現となりますが、「空性」である「縁起」の現れを捉えることはできるのではないかと考えます。もし、何も形象が現れないとすれば、衆生の救済にあたられる根拠となるもの、つまり、衆生の迷い苦しみのありようを知ることもできないということになります。もちろん、衆生の心のありよう(個別具体の無知・無明、業のありよう)を仏眼(神通力)によりて覗かれるということになりますが、ならば、それは仏知に一応映えないと知ることができないものとなります。知ることができなければ、対機説法、善巧方便も難しいものとなってしまいます。また、凡夫がどのように外界の世俗世界のことを認識しているのかということは、衆生それぞれの心のありようを通じて知られるところにもなりますが、それも、覗かれた衆生の心のありようを通じた外界世界のありよう(形象)が仏知に映えないと知ることはできないものとなります。
・空性は何も現れはないのかどうか、形象はないのかどうか
→ (通説)空性は虚空の如きと表現されるように、まるで澄み渡った秋空の深淵がどこまでも続くが如くに形象は何も見当たらない。
→ (拙見解)(1)でも述べたように、現れる形象が、「空性」を指示した「縁起」としての現れと捉えられるものであるならば、それを「空性」の現れ、形象と考えることができる。また、全ての形象は空性を本質とした現れであるのだから、逆に、現れ、形象が無いとすれば、「空性」を否定してしまうことにもなりかねない。
・空性を本質とした現れの面としての縁起における現れ、形象は全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)になるのか
→ (通説)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は全て虚偽であり、虚妄分別として退ける。
→ (拙見解)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は、当然に「空性」を本質とし、「空性」を指示するものであり、全て虚偽であり、虚妄分別として退けるのは虚無主義、悪しき無分別主義に陥ると考える。知の力は、あくまでも無記、中立的なものであり、問題となっているのは、真理を知ることを妨げることになっている無知・無明・煩悩・悪業(煩悩障・所知障)であり、現れ、形象にあるわけではない、その現れ、形象が、真実か虚偽かと議論することは正直、仏道においてはあまり益にならない。それよりも、どうして煩悩が生じ、間違った反応を起こしてしまっているのか、悪業を積むことになってしまっているのか、その原因となっている煩悩障・所知障を対治していくために、「空性」とそのヒントとして与えてくれている「縁起」による現れのありようについて考えていくことが重要となります。逆に、現れ、形象があるということだけでも、衆生にとっては大変に有り難いことなのである。空性、悟りへの手かがりを示してくれているのだから。
「仏身は法界に充満して、普く一切の群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」
・・
唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(1)
・直観知、現量に現れる形象は、真実であるのか、虚偽であるのか(基本論点)
→ 後期中観派の思想と「形象虚偽」説の考え方が近接していたため、ツォンカパ大師以降の高弟、その後のゲルク派においても「形象虚偽」説が通説的な扱いとなっていった。しかし、ツォンカパ大師の高弟の一人でツォンカパ大師の密教思想の後継となったケートゥプジェ大師は「形象真実」説を採用している。
→ (拙見解)空性と縁起を捉える知のあり方として、直観知、現量に現れる形象が、空性を指示した縁起による現れとして捉えられるものであるならば、「空性」(真実)を理解するための現れであるとして、「形象真実」と言っても私は良いと考えている。
→ (拙見解)全ての形象は空性を本質とした現れであるわけであるから、その現れを観て、空性(真実)を理解していくことにも繋がるため、全ての形象を虚偽、虚妄としては、空性の理解に向けた支障が生じてしまうと考えている。
・概念知、分別知、言説の量は、全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)であるのか
→ ツォンカパ大師は、概念知、分別知、言説の量の全てが虚偽、虚妄として退けられていたわけではない。正しい智慧に基づいた概念知、分別知、言説の量は、無明・悪業を退治するためには当然に必要なものであり、それさえも虚偽、虚妄としてしまうのであれば、仏道修行など成り立たないものとなってしまう。悟りへの階梯のための概念知、分別知、言説の量までもを否定してしまうことを厳しく批判された。
→ 「形象虚偽」説では、直観知、現量と共に全ての概念知、分別知、言説の量も虚偽、虚妄として否定した二取空、無分別知を目指す傾向が強く、この無分別知の解釈を巡って後期中観派においても議論がなされるところとなった。
→ (拙見解)無分別知はあくまでも仏陀・如来の側、つまり、結果論からみた仏陀の認識のあり方についての説明(表現)であり、凡夫の側からの説明、また理解では成り立たないものであると考えます。
拙見解
仏陀の認識においては、如量知と如実知は既に一体の知となり、空性だけをただご覧にならない仕方にてご覧になられている、現量了解というもので、如量知と如実知の一体のあり方として、あくまでも、既に凡夫のような分別のあり方ではないということでの無分別ということであり、何もご覧になられない、何も認識なさられない、何も思わない、何も観じない、何も念がない、何も想がないというわけではないのであります。(離戯論のみをご覧になられる)
仏教が何を目的として、何をしなければならないのかが大変よくわかりましたと、また別のお方からもご感想を頂きました。
もちろん、それから「形象虚偽」と「形象真実」についての考察を進めましたのは、この喩えからの拙見解を明らかとするためでありました。
形象虚偽であれば、凡夫は、まず1ミリも空性を理解し得ないことになりますが、拙生はそうではないのではないだろうかと長い間、ずっと疑問に思っていました。
凡夫であっても、たとえ僅かでも空性や縁起を直観知にせよ、分別知にせよ理解し得ていることがあるのではないかと。
当然に、凡夫であっても、本当のところはそれ、それらは実体として成り立っていないと理解していること、感づいていることだってありますし、無常や因果、事象、現象、存在等から縁起と空性を一部、僅かでも理解していることだってあるからであります。
また、煩悩障と所知障も、その濃淡、度合いがそれぞれにおいてあるはずです。無明や悪業も含めて、皆が同じ状態なわけはありません。
ですから、空性、縁起の理解についても、その濃淡、度合いがそれぞれにあってもおかしくないからであります。
以上のようなことから、直観知、分別知において、凡夫でも空性、縁起を捉えられているものがあると考えるのが妥当ではないかと。
ましてや、ツォンカパ大師は、分別知でさえ全てが虚偽として完全否定はなさられなかったのですから、ましてや直観知においてやでもあります。
後期中観派の論師たちの大多数は、「形象虚偽」を支持するわけですが、ツォンカパ大師の高弟のケートゥプジェ大師だけは違っていました。
ツォンカパ大師の伝記を多く記されたケートゥプジェ大師が、どれほどツォンカパ大師のことを尊敬、敬愛なさられていたかは伝記から知ることができます。ツォンカパ大師晩年にお二人は出会われていたのにも拘らず。
ケートゥプジェ大師が「形象真実」を支持なさられたのも、当然にツォンカパ大師の思想的な背景からであってもおかしくないはずであり、もしかすると拙生の推測するのと同じような考えであったからであるのかもと思う次第であります。
・・
唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(2)
・仏陀の如量知には、形象は何も現れないのか
→ (通説)形象は何も現れない
→ (拙見解)「離戯論のみをご覧になられる」と表現されるところですが、それなら「離戯論」のみは知に現れられている可能性はあると言えます。もちろん、「離戯論」とは「空性」ということの一表現となりますが、「空性」である「縁起」の現れを捉えることはできるのではないかと考えます。もし、何も形象が現れないとすれば、衆生の救済にあたられる根拠となるもの、つまり、衆生の迷い苦しみのありようを知ることもできないということになります。もちろん、衆生の心のありよう(個別具体の無知・無明、業のありよう)を仏眼(神通力)によりて覗かれるということになりますが、ならば、それは仏知に一応映えないと知ることができないものとなります。知ることができなければ、対機説法、善巧方便も難しいものとなってしまいます。また、凡夫がどのように外界の世俗世界のことを認識しているのかということは、衆生それぞれの心のありようを通じて知られるところにもなりますが、それも、覗かれた衆生の心のありようを通じた外界世界のありよう(形象)が仏知に映えないと知ることはできないものとなります。
・空性は何も現れはないのかどうか、形象はないのかどうか
→ (通説)空性は虚空の如きと表現されるように、まるで澄み渡った秋空の深淵がどこまでも続くが如くに形象は何も見当たらない。
→ (拙見解)(1)でも述べたように、現れる形象が、「空性」を指示した「縁起」としての現れと捉えられるものであるならば、それを「空性」の現れ、形象と考えることができる。また、全ての形象は空性を本質とした現れであるのだから、逆に、現れ、形象が無いとすれば、「空性」を否定してしまうことにもなりかねない。
・空性を本質とした現れの面としての縁起における現れ、形象は全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)になるのか
→ (通説)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は全て虚偽であり、虚妄分別として退ける。
→ (拙見解)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は、当然に「空性」を本質とし、「空性」を指示するものであり、全て虚偽であり、虚妄分別として退けるのは虚無主義、悪しき無分別主義に陥ると考える。知の力は、あくまでも無記、中立的なものであり、問題となっているのは、真理を知ることを妨げることになっている無知・無明・煩悩・悪業(煩悩障・所知障)であり、現れ、形象にあるわけではない、その現れ、形象が、真実か虚偽かと議論することは正直、仏道においてはあまり益にならない。それよりも、どうして煩悩が生じ、間違った反応を起こしてしまっているのか、悪業を積むことになってしまっているのか、その原因となっている煩悩障・所知障を対治していくために、「空性」とそのヒントとして与えてくれている「縁起」による現れのありようについて考えていくことが重要となります。逆に、現れ、形象があるということだけでも、衆生にとっては大変に有り難いことなのである。空性、悟りへの手かがりを示してくれているのだから。
「仏身は法界に充満して、普く一切の群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」
・・
唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(1)
・直観知、現量に現れる形象は、真実であるのか、虚偽であるのか(基本論点)
→ 後期中観派の思想と「形象虚偽」説の考え方が近接していたため、ツォンカパ大師以降の高弟、その後のゲルク派においても「形象虚偽」説が通説的な扱いとなっていった。しかし、ツォンカパ大師の高弟の一人でツォンカパ大師の密教思想の後継となったケートゥプジェ大師は「形象真実」説を採用している。
→ (拙見解)空性と縁起を捉える知のあり方として、直観知、現量に現れる形象が、空性を指示した縁起による現れとして捉えられるものであるならば、「空性」(真実)を理解するための現れであるとして、「形象真実」と言っても私は良いと考えている。
→ (拙見解)全ての形象は空性を本質とした現れであるわけであるから、その現れを観て、空性(真実)を理解していくことにも繋がるため、全ての形象を虚偽、虚妄としては、空性の理解に向けた支障が生じてしまうと考えている。
・概念知、分別知、言説の量は、全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)であるのか
→ ツォンカパ大師は、概念知、分別知、言説の量の全てが虚偽、虚妄として退けられていたわけではない。正しい智慧に基づいた概念知、分別知、言説の量は、無明・悪業を退治するためには当然に必要なものであり、それさえも虚偽、虚妄としてしまうのであれば、仏道修行など成り立たないものとなってしまう。悟りへの階梯のための概念知、分別知、言説の量までもを否定してしまうことを厳しく批判された。
→ 「形象虚偽」説では、直観知、現量と共に全ての概念知、分別知、言説の量も虚偽、虚妄として否定した二取空、無分別知を目指す傾向が強く、この無分別知の解釈を巡って後期中観派においても議論がなされるところとなった。
→ (拙見解)無分別知はあくまでも仏陀・如来の側、つまり、結果論からみた仏陀の認識のあり方についての説明(表現)であり、凡夫の側からの説明、また理解では成り立たないものであると考えます。
拙見解
仏陀の認識においては、如量知と如実知は既に一体の知となり、空性だけをただご覧にならない仕方にてご覧になられている、現量了解というもので、如量知と如実知の一体のあり方として、あくまでも、既に凡夫のような分別のあり方ではないということでの無分別ということであり、何もご覧になられない、何も認識なさられない、何も思わない、何も観じない、何も念がない、何も想がないというわけではないのであります。(離戯論のみをご覧になられる)