平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

日勤教育と失敗学

2005年05月02日 | Weblog
JR福知山線の大事故から1週間が過ぎました。お亡くなりになった方々と、ご家族の皆さまには、心からの祈りを捧げたいと思います。

事故の全貌も徐々に見えてきましたが、その中で、JR西日本が行なっていた「日勤教育」という「教育」には驚きました。

人間であるからには、どんな人にもミスや失敗はつきものです。失敗をしたときに、どういう対処をするかで、その失敗を活かすことも、逆に次の――より大きな――失敗に膨らませることもできるのです。

失敗から学ぶことを「失敗学」といいます。JR西日本には真の意味での「失敗学」はありませんでした。

報道されたところによると、「日勤教育」は、オーバーランなどのミスを犯した運転手に、反省文を書かせたり、草むしりをさせたり、という内容だったそうです。そして、こういう処罰を受けた運転手は、月給やボーナスが減らされるそうです。数回ミスを起こすと、運転手から降ろされるそうです。運転の技術的な再訓練はなかったようです。

日勤教育を命じられた人からは、一種のいじめであった、との指摘さえあります。

日勤教育は、恐怖を与えることによって人間を緊張させ、ミスを起こさせまいとする、徹底的にネガティブな条件付けです。しかしこれでは、生身を持った人間はたまりません。こういう環境に置かれれば、逆に萎縮し、ミスを起こしやすくなることは、ちょっと自分を振り返って考えてみればすぐに分かることです。

日勤教育は失敗であった――このことを素直に認めるところからしか、JR西日本の再生は始まりません。そして、「失敗学」を必要としているのは、JR西日本だけではありません。

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失敗学(2002年12月)

 失敗は成功のもと――とは必ずしも言えない。人生には失敗はつきものだ。とくに新しいことを始めるときには、誰でも失敗する。失敗の中から様々なことを学び、それが次の成功の土台となる。ただし、そのためには、失敗と正しくつき合う方法を知らなければならない。それを知らなければ、失敗は次の失敗のもとになるだけだ――と畑村洋太郎東大教授は述べる。

 政治、経済、外交、教育、科学技術、医療など、日本のあらゆる領域で、不祥事、事故、組織腐敗が起こっている。これらはすべて失敗の諸形態と呼ぶことができる。あるいは、失敗にうまく対処できなかった失敗とも言える。失敗を隠そうとして、次のより重大な失敗が引き起こされる。あるいは、失敗を恐れ、必要以上に慎重になり、疑り深くなり、果敢な決断や行動が取れなくなれば、それもまた失敗につながる。今の日本は失敗の悪循環におちいっているのかもしれない。

 畑村教授の専門は機械工学であるが、新しい機械の設計にはよく失敗が起こるという。機械が計算したとおりに動いてくれないのは日常茶飯事だ。しかし、その失敗の原因を徹底的に解明することによって、次の進歩が生まれる。失敗の本質を正しく認識し、失敗と前向きにつき合うことが大切だ、という体験から、畑村教授は「失敗学」なる新しい学問を提起している。

 失敗学のいくつかのキーワードをあげると、「失敗情報は伝わりにくく、時間が経つと減衰する」「失敗情報は隠れたがる」「失敗情報は単純化したがる」「失敗情報は変わりたがる」「失敗は神話化しやすい」「失敗情報はローカル化しやすい」(『失敗学のすすめ』講談社)――いずれも、ははんと思い当たることばかりである。

 誰でも失敗はしたくない。しかし、失敗が人生の一局面である以上、失敗のない人生は存在しない。失敗にどう取り組むかということを学ぶことが大切である。失敗をきちんと活かすことができれば、それは次の創造、次の発展につながる。失敗を隠蔽したり、他に責任転嫁しているような個人や組織は、いずれ衰退する。

 失敗を活かす出発点は、失敗を失敗として認めることである。失敗を失敗と認めることができなければ、いつまでも同じ失敗を繰り返すことになる。失敗を認めるためには、正直な心と勇気が必要である。次に、その失敗にいつまでもくよくよして、自分を過度に責めないことである。また、周囲の人も、失敗した人を批判ばかりしていてはいけない。失敗は学びの経験としてとらえ、失敗の原因を自分なりに把握し、二度と同じ失敗を繰り返さないことが大切である。そうやって、失敗を活かすことができる人は、失敗を通して豊かな人生へと成長することができるだろう。

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