平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

5月4日の中国

2005年05月05日 | Weblog
5月4日の五・四運動記念日は、中国では大きな反日暴動もなく過ぎたようです。

これは、中国政府当局が反日デモを徹底的に抑え込んだからです。抑えようと思えば、抑えられるのです。ということは、4月の反日暴動は、抑える気がなかったということになります。というよりも、あれは中国政府当局がやらせた反日デモであったわけです。

今回は、反日デモを抑え込みましたが、反日教育によって若い世代に植え付けられた反日感情はそう簡単には消えないでしょう。こういう憎悪を吹き込む教育は、日本にとって迷惑なだけではなく、憎悪を吹き込まれた中国人にとっても悲惨なことです。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」というメールマガジンに、ある読者の方のこういう意見が出ていました。

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 先年、ポルポトの暴虐を逃れたカンボジア系米国移民のTVルポを観て、心底感動したことがあります。亡命した親たちは、子供たちに無用な憎しみを植付けひねくれた暗い性格の人間に育ててしまうことを恐れて、同胞から受けた謂われ無き非道について、子供たちに一切教えなかったというのです。

 憎しみも恨みも自分だけで背負って墓場にもっていこうというのです。私はこれほど深い慈愛に満ちた親心というものがあるのだと、その親たちと、彼らを育んだカンボジアの文化に深い畏敬の念をもちました。

 このたび(有難くも中国政府の許可をもらって)中国の歴史教科書について日本も物申すそうで、何が飛び出すか楽しみにしておりますが、そこで思うのは、議論のスタンスです。

 「日本人として」いうのは当然ですが、できうれば、かのカンボジア難民の顰に習い、より志を高く持ち「人類の名において」物申すだけの気概をもってほしいと思います。

 中国共産党や韓国政府がうら若い億千万の国民に植え付けた日本への憎しみ、当事者でないだけに消し去る術もないネガティブな感情、、、。

 これは日本人に対してである以上に、そのような洗脳を受け、やり場無き憤りと悲しみを生涯に亙って植え付けられた当の億千万の民に対する「人道上の大罪」以外の何物でもありません。同じ人間として許されざる罪である、という批判のスタンスが是非必要だと思います。

 これに関連して、最近憂慮していることがあります。中国共産党や一連のハネッ返り中国人を軽蔑するあまり、同じ次元に落ち込んだ低劣な言説をなす日本人が増えているように思えてならないのです。在留邦人のブログなどを注意深く読むと、上海のデモ隊に向かって「こんなことして何になるんだ!」と怒号する老いた中国人などが散見されたらしく、彼の地の住民は、流連荒亡の歴史で鍛え抜かれた面従腹背のアナーキストですから、さもありなんと思います。仕事の議論などでも、日本人なら顔を紅潮させる場面ですら、どこか平然とした余裕を感じる人が多く、よくも悪くも独特の懐の深さについては、素直に他山の石とすべきとすら思います。

 「騙されたから騙し返せ」的な議論は自らを貶めるものです。本当に言葉(と心)を届けるべき相手は誰なのか、それをよくよく絞って考えれば絶対に出てこない発想だと思います。私が言葉を届けたいと思うのは、彼の地で家族のために辛苦に耐えつつ報われない無数の無辜の民であり、圧政を逃れ亡命した民主活動家であり、彼らと心を同じうする多くの精神的亡命者の数々です。

 批判は絶対にすべきです。しかし、それがもし「人類」の名において、民主・自由といった普遍的(いろいろ欠陥はありますが、ここ当面はこれ以上の政治体制は見当たらないという意味において普遍的な)理念に照らしてなされるものでないとすれば、日本の批判は世界の軽蔑を招くことにしかならない、そう危惧します。
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