奥の細道むすびの地の水門川です。かっては運河として使われ多くの川船が行き来していたそうです。画像の正面に浮かんでいるのが現存する一隻とのことです。その右上に住吉灯台が残されています。芭蕉と曾良はここから船で桑名まで下り江戸へ戻ったようです。
3年と3ヶ月、14回に亘った、長かった奥の細道歩きが完結しました。
蛤のふたみに別行秋そ (はまぐりのふたみにわかれ ゆくあきぞ)
奥の細道むすびの句が蛤塚として残されていました。
奥の細道むすびの地の水門川です。かっては運河として使われ多くの川船が行き来していたそうです。画像の正面に浮かんでいるのが現存する一隻とのことです。その右上に住吉灯台が残されています。芭蕉と曾良はここから船で桑名まで下り江戸へ戻ったようです。
3年と3ヶ月、14回に亘った、長かった奥の細道歩きが完結しました。
蛤のふたみに別行秋そ (はまぐりのふたみにわかれ ゆくあきぞ)
奥の細道むすびの句が蛤塚として残されていました。
画像は左が芭蕉で右が谷木因です。木因は大垣の廻船問屋の主人で芭蕉とは京都の北村季吟(きぎん)の相弟子で芭蕉も大垣は何度か訪ねている。大垣の俳偕を指導した 2人の像が、ここ奥の細道むすびの地である水門川のほとりで迎えてくれました。
3日目はひたすら歩くのみ。そして4日目最終日、県境を越えて岐阜県に入る。まずは関ヶ原古戦場に立ち寄る。ここでは西軍・東軍がどういう布陣で対峙したか、現場に立って想いをめぐらした。石田三成の陣がここにあった、徳川家康の最後の陣がここにあったと、見たのはこの2ヶ所だったが、全体像は観光案内版やチラシでイメージをふくらました。現場に立ったからと俯瞰できるものではなく、それなりに受け止め通過した。
2日目、炎天下を南下し、滋賀県との県境手前にある民芸茶屋 孫兵衛に立ち寄る。ここには奥の細道原本2冊のうちの1冊が芭蕉死後弟子の向井去来を経るなどして西村孫兵衛に渡り、現在素龍清書本(西村本)として当西村家に所蔵(国の重要文化財)されている。実物は見れなかったが店内のショーウインドウの中にレプリカが展示されていた。通りの向かい側に母屋がありその庭に芭蕉の句碑がある。
松風の落葉か水の音涼し (まつかぜの おちばかみずの おとすずし)
一休みした後、引き続き街道を南下し塩津浜の琵琶湖畔に出る。そのまま進み長いトンネルの手前で山越えに入る。1時間半かけて湖畔の飯浦に出、塩津街道を直進して今日の泊りの木ノ本に到着。
青い海、白い砂浜。とても国内の海とは思えない画像です。総じて日本海の海はきれいですが。ここはまた格別です。芭蕉も船で訪れました。ここの本隆寺にも芭蕉の句碑があります。
衣着て小貝拾わんいろの月 (ころもきて こがいひろわん いろのつき)
ここは歌枕の西行法師の歌に惹かれたのでしょう。同じように色ヶ浜で小貝を拾おうとしたのかも。ここには西行法師の歌碑があります
この後西福寺他2ヶ所を訪ねる。
溜まっていた諸々がようやく片付いてきました。奥の細道歩き回顧編もいよいよ最終回です。7月11日敦賀にやってきました。10ヶ月ぶりです。この間、2011年3月11日の東日本大震災で中断の止むなきに至り、ぽっかり穴の開いた宮城県松島から岩手県平泉を経て宮城県の岩出山に至るルートを埋め、江戸(東京)深川から敦賀までを一本に繋げました。松尾芭蕉の奥の細道600里も最終の地大垣まで残りわずか、いよいよ最後のひと歩き、脚にも力が入ります。それにしても暑い!この日は最高気温が35℃、早い梅雨明け後の厳しい暑さの下での出発となりました。
画像は初日訪れた氣比神宮の高さ11mの大鳥居です。この鳥居は春日大社、厳島神社と共に日本三大木造大鳥居として重要文化財に指定されており、鳥居をくぐった右手に芭蕉像と句碑があり、句碑には次の句が刻まれています。
月清し遊行のもてる砂の上 (つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ)
十五夜の前日、冴えわたる月夜と遊行上人と参道の真砂を想い描いたのでしょうか。