おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

肯定力が産み出す発展性

2007年05月24日 16時37分45秒 | 財務金融

人愛塾の杉山塾長
http://blogs.yahoo.co.jp/jinaijyuku
にトラックバックされたのでもう一度よく前例を考えてみます。
私はこちらの塾の一期生です。これだけが自慢です。

「どんなに理屈が立たなくても自分だけは肯定し、気に入らないものがあれば否定するというのは己の破滅を導き、自分も他人も肯定することは発展を作り出す。」と私は言いました。

Aという人は、「平和党は共産党よりもたちが悪い左翼」と言いました。

私は、そのことについて、A氏には謝罪も撤回も求めていません。彼は終始勘違いしていたようですが、私は「決して撤回しないように」ぐらいのことまで言いました。

私は、どのようにして「平和党は左翼として定義づけられるのか」について聞きました。答えはありませんでした。彼は、答えにならないようなことを言い続けていました。
ここでは私は彼の政治思想について一切否定することなく、話を進めています。つまり保守・右派、右翼であっても極右であっても否定していません。

こうした人であるのならば、日本文化伝統としての礼節を守り、多様性を認めるべきでしょう。

結局のところ、彼は敗北したと自分で言って討論は終わりました。けれども私にとっては、理屈もなく否定するということを問題視しているのです。しかし、彼にとっては、自然主義経済に対して、あるいは平和党が左翼として定義づけられるだけの「論破する技術的な力がなかった」としか思っていないでしょう。

どうしてこうなるかというと、本当は、世のために作られた自然主義経済について、理論もなく「まずは否定したい」という我欲から始まっているから起こる問題です。

もしも彼が勉強に勉強を重ね、自然主義経済を論破するだけの知識を身につけたとします。しかし、それが何になるのですかとなります。だから知よりも、愛が優先するということを言いたいのです。

勉強に勉強を重ねた結果が、自然主義経済を上回る解決方法、即ち愛国の達成が可能であれば問題はないでしょう。しかし、論破そのものに注力していれば、そもそもの救国ということの目的がどこかへ行ってしまうのです。だから、「勉強する場合には気をつけろよ」ということです。

次にBという人もいました。彼は自然主義経済について、「一つ一つのパーツは正しいことを言っているが、論理展開はおかしい」と言って来ました。

では、「どのようにしておかしいのですか」と聞いたらば、「自分は無知なので説明できない。しかし、それが間違っていることだけは正しいと自負している」というわけです。

なんとも傲慢なものです。王様の場合は、こういうことを言ってもいいでしょうね。でも回りはなんと思うか。単なるお坊ちゃまとか、うちの姫様の言うことだからとか、そういう感覚になります。

これも「どんなに理屈が立たなくても自分だけは肯定し、気に入らないものがあれば否定するというのは己の破滅を導き、自分も他人も肯定することは発展を作り出す。」に相当します。

Aの場合は最終的に敗北を自認したので今後の余地はありますが、Bの場合は逃亡しました。

私は実は、自然主義経済なるものを論破する方法を知っています。人間が考え出す方法なんて完璧なものはないからです。論破する方法を私が知っているから、どんな人と討論しても、「あ、おしいんだけどちょっと違うんだな」と思ったりしてイライラするわけです。

自然主義経済は最強の矛であり、最強の盾です。だから矛盾といいますね。だからどんな人がきても盾を使っているんですけれども、実は矛も持っています。

でもその矛をもってして、相手を突付いたところで、つまり自然主義経済というものの無益性を説いたところで、誰が得をしますかということです。

つまり論破するということは、相手を否定する事ですね。でも私が今までに全く否定していないかというとそうでもないことは多々あります。安倍政権はダメだと言ったり、民主党も他の野党も全てダメだと言ったりもします。しかしながら、彼らが本来目指しているものについては尊重しています。そして、ダメだと言った以上、それで終わらせずに自然主義経済に導くべきだとしています。このために必要最低限のことをしていると思っています。政治の場合にはいたしかたないところがあるでしょう。

彼らが本来目指しているもの、つまり既成政党が目指しているものとは、どういうことかというと、彼らの私利私欲の権力獲得以外の部分です。つまり政策実現です。

平和党は、全ての既成政党が政治目的としている内容について、全て達成してしまいます。だから肯定力が働いているのです。他の政党は、自分以外の政党を否定するところから始まっています。ここが根本的に平和党とは違うところです。

例えば、自民党は利権政治をやりたい人と、市場の競争原理で経済を発展させたいとしている人がいます。民主党にも同様にいます。それに加えて民主党は労働者の権利も得たいとしているでしょう。軍事的には、他国から攻められてもしっかりとした国防をしたいと願っているでしょう。共産党・社民党は、労働者の権利、軍事力のない平和な社会、人権を尊重する社会を目指しています。

あるいは日の丸・君が代について強制したいという人と反対したいという両方の意見も満足させます。南京大虐殺はあったという人とないと言っている人の両方を満足させます。

彼らの政策目標を全て自然主義経済は達成します。唯一、達成されない部分というのは、自分やその仲間だけが政権についておいしい思いをしたい・・・というところだけです。

この部分については平和党政権になったとしても、平和党自身もそのおいしい思いすら享受されません。

なぜならマイナス利子で分散される富が有効に働くからです。今までの政治は富を、社会主義政権の政府やら資本主義経済での勝ち組たる大企業、あるいは政府と繋がる特定の企業など、どこかに集中させる事によって機能してきました。しかし、その富がどこにも集中しないで、みなが経済生活・文化生活ができる仕組みが、平和党によって発見されたからです。それがマイナス金利に基づく自然主義経済です。

だから自分だけが偉くなりたいとか、自分だけが金が欲しいとか、ようするにクモの糸の一番上にたって、下の奴らを切ってやろうとかそういう考えで政治家になりたいと思っている人は平和党にきても得になりませんからご注意を。

それで具体的にどのようにして達成してしまうのかについて、おおざっぱですがご説明させていただきます。

1.利権政治をやりたい
2.市場競争で経済を発展させたい
3.労働者の権利を得たい
4.しっかりとした国防体制を作りたい
5.軍事力のない平和な社会
6.人権を尊重する社会
7.国旗・国歌の強制と解放
8.歴史的事実の有無

1.は、なぜ生まれるかというと、資本主義経済が弱肉強食となっているからです。国民新党などは1.の考えですが、まさかマニフェストに「利権政治をやります」なんて書かないでしょう。良く言えば、彼らは地域共同体としてみんなが助け合って生きていくのが当たり前だというのが彼らの政治主張です。だからどうしても資本主義経済に対して、修正するための政府や自治体による弱者の援助ということを考えるわけです。このたびチベット研究家のベマ・キャルポ氏が国民新党公認で立候補しようというのもこのような考え方があるからです。でも、ちょっと待ったと私は言いたいですが、まあしょうがないですね。

どうして政府や自治体の財政支出を必要とさせるかについて考えれば、それが資本の力、お金の力だからです。これが自然主義経済であると、政府や自治体の援助はいりませんね。どんどん流通されていきます。そして地域単位で物事が動いていくので、皆が助け合って、人間的なつながりをもって生きていけます。農村に道路を作るのだって、道路そのもののために工事しているんじゃなくて、地方にお金を回すためにやっています。どこから持ってくるかというと東京の資本力を地方に回しているわけです。

しかし、地方には豊富な農産物がありますね。なのにどうして東京よりも弱いのかというとお金本位の制度にしているからです。本来、農産物のためにお金が生まれたのに逆のことをやっているからこうしたことが生まれているのです。自然通貨によって取引がなされたら、地方のほうこそ強くなります。東京・横浜・大阪などは急いで食糧自給を上げねばならなくなるでしょう。

先ごろ、山口県の萩市に行って来たのですが、竹が生え放題です。なぜ放置されるのか。これだけの資源がありながら、東京都よりも財政が豊かでない理由はなぜか。プラス利子だからです。竹を使うなら安い中国産のものを使うでしょう。日本だと人件費が高いからです。そして木材もそうですが切らないことによって芽が生えてこなくなり、それによって山口県は衰退していきます。実に細かな話からプラス利子が弊害であり、マイナス利子が夢と希望をもたらすことが内在されています。

資本主義のルールのもとで1.を達成させると2.には絶対になりません。橋本派支配時代まではこれでしたね。逆に2.をやると1.になりません。小泉政権以降の現状はこれですね。

しかし自然主義経済だと1.も2.も両方一辺に実現されます。どんなものでもよく売れますが、やはり買うほうは良いものを買いたいでしょう。そこで商売人や職人・作る人、サービス業の人は己の技術などに磨きをかけます。もちろん努力した人が報われます。失敗が許されますから、それこそ何度でもチャレンジができます。失敗しても政府の援助などいりません。現在の安倍政権の再チャレンジ制度というのは、プラス利子で資本を伴うから結局のところ限界があるでしょう。自然主義経済には限界はありません。

3.は労働者というよりも、全てが自営業者化されます。大資本の企業に従事する必要性がなくなるからです。大資本が多くの雇用を必要とするのは、大量生産・大量消費・大量廃棄に基づきますが、自然主義経済であると少量生産・少量消費・大量還元になります。

プラス利子制度は、大資本を作り出します。だからいらないものをどうしても作り出していきます。雇用のための経済ができるからです。自然主義経済はテレビならテレビを、自動車なら自動車を、注文を受けてから作ります。あるいは事前に作っておいてもいいでしょう。いずれにせよ、大工場ではなくて、小さい工場がそれを引き受けます。だから技術のないところはできません。これにより今までしなびていた東京の大田区、大阪の東大阪市などは復興できます。大手に搾取されることもありません。そこで師弟制度ができあがり、教育は改善されます。

次に軍事について、4.をやれば5.でなくなり、5.をやれば4.がなくなるというのが今日までの発想でしょう。

改憲の人は、自国の平和のために武力が必要であり、集団的自衛権を認めるべきだとしています。ではなぜ他国が攻めて来るのか、他国の一般人が個人で包丁もっては来ません。これも国家政府の仕組みによってできています。

富を政府が掌握しようとするからです。しかし自然主義経済であると、政府に富が集中せずに成り立ちます。国民経済も成り立つし、政府も成り立ちます。政府の成り立ち方は今とかなり違いますが、政府は外交・軍事・治安・司法・国家財政など究極の小さな政府として必要とされるでしょう。自然通貨によって、税金を無駄遣いする必要性がなくなります。

お金は貯めておいても力が働かないので、他国に侵略しようと考えても全くムダです。そんなことをするくらいなら自国の食料・エネルギーを充実させたほうが良いとなります。

だから憲法9条を改正するよりも自然主義経済が近道である事がわかるはずです。また、これまでの怨念を中国や朝鮮半島が抱くのはなぜですかと、富が蓄積できて政府が潤うからでしょうと、なります。彼らは怨念を原動力として経済の活性化を図っているのです。だからそんなものに応じてはいけません。反日思想に敏感に反応するのは、日本が彼らの言うことに一理あるなと思ってしまうから反応してしまうわけです。そんなものはないから無視すれば大丈夫です。

逆に、護憲の人は世界平和を願っています。武器のない世の中を作ろうとしています。では武器のない世の中が平和になるとその人が信じているのであれば、どのようにして各国の武力をなくしていくのがいいのかと考えていきましょう。これも先に述べたことと同じです。政府は富を集中させようとするからです。そうなると自然主義経済というものが、憲法9条を守るよりも近道であるということがわかるでしょう。

6.は先ほどの反日感情に反応するのと同じです。人権というものが尊重されていないと感じるから、差別問題について関心を持つのです。人間にはそもそも偉大なものがあるのです。こうしたものがないと思ってしまっているから法律でわざわざ定義しようとしたがります。

江戸時代以前と違って、我々は法治国家を経験してきたゆえに、今度自然主義経済の世の中にして、ほとんどの法律規制をはずしたときには、人権は自動的に尊重されます。というよりも人権という言葉はなくなります。「人権というものはない」と思ってしまうからわざわざそういう言葉を作り出してしまったのです。

自然主義経済であると全ての人々が、その役割・能力に応じて社会で活動できるようになります。それが全て経済活動としてなりたちます。だから全ての人々が尊重されます。現代は、ある一定の決まりにあてはめて同じ方向性で動かそうとするから、差別が生まれるのです。

7.と8.は一括して説明します。
自然主義経済になれば、教育は国家支配から解放されます。すなわち自治体ごとに行われます。その自治体において決められますが、さらに細かく地域によって決められます。そうなってくると、自由が認められるようになるでしょう。「お上がこういっているから」というのは通用しなくなります。各地域において、今まで金にもならなかったようなことまで、自然通貨が流通されているので、その密度は濃くなります。

であるから、7.についてほとんどの人が国旗・国歌を掲揚すると思いますが、中にはそうではない人もいるでしょう。そういう人はそっぽを向かせても良いという自由な社会ができます。

私は「国旗・国歌を尊重せよ」という人に言いたいのですが、ようするに勝手に平和党を反国旗・反国歌だろうと思い込んで、君が代のビデオを当ブログのゲストブックに六つも七つも貼り付けて、嫌がらせをしているつもりなんでしょうけど、そんな人がいました。

日本国家を尊重するというのであれば、それは現代においては自由を尊重する社会です。つまり今日まで、日本が存続してこれたのは、社会主義政権ではなかったからです。自民党政権は共産党の存在を許します。しかし各国の共産党政権国家を見ればわかるとおり、自由主義の政党の存在すら認めないわけです。

だから日の丸・君が代について無視している輩に過敏に反応する必要はないと私は思うわけです。大きな懐があるのがこれまでの保守だったのに、今はだんだんとそれが崩れてきていますね。

それで8.にもつながることですが、これは両方の意見があって、どちらが事実なのかということについて人によって割れているという事実そのものを教えるべきでしょう。あるいはそれすら、その地域の自治権において決めてもいい。

結局、こういう問題というのはいくら論じても、子どもたちが大きくなったときに、「ああ、こういうことで大人たちはもめていたのだな」と考えるのです。大人は、「こう教えなきゃ大人になったら悪くなる」と思っていますが、これは押し付けの発想であって、結局のところ、子どもたちはやがてであっても自分で物事を考えます。だから双方に分かれて戦っているという事実そのものを伝えるべきです。

「子どものうちは判断能力がないから」とかいうのは、親の勝手です。つまり親が無理に子どもをコントロールしようとするからそういうことを言うのです。でも、子どもが成人したら自分で物事を考え、やがて親子は年齢とともに、知識の面では対等に近くなっていきます。親が無理に押し付けることで、のちのちになってかえって親は子どもに馬鹿にされてしまうのです。子どもが小さいうちに、自己主張を教え込もうというのは親に自信がない現われです。

例えば教科書問題一つとってみても、その歴史的立場のどちらか一方に立とうとする考えでいく人もあれば、「ああ、くだらん論争をやっているのだな」と思うのも自由でしょう。どちらかに強制しようとしても、教えたこととは逆にいってしまい、裏目に出ることというのはあるものです。だから、どうにもならないことです。したがって、その地域において決めればいいのです。

ただ根本として、他人の意見を尊重する。自由な言論を認めるということが重要なのです。

だから肯定力というのは今後重要なキーワードになってきます。これは政治思想にも教育にも生かされます。

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日本人的なる介護

2007年05月24日 16時36分03秒 | 厚生労働


http://blog.goo.ne.jp/heiwatou/e/bec1eeec88aeb224975dd9bb5af2da12
で自分の書いた記事を見て、

「しかしながら先に愛がなくては、ものを知る吸収力も育たないし、肉体も鍛えらないし技術も身につきません。そういう元となる原動力というのがあるのだと私は思います。つまり相手に対する肯定力です。」


というのがありました。

愛によって肉体を鍛えるとはいったいどういうものであるかと。それは決して、夜の生活の話ばかりではありません。

ここでは一例をあげたいと思います。

今、NHK教育で介護の番組をやっているのですが、「はぁ、なるほどなぁ」と勉強になると思わされるものがあります。

ようするに高齢者を起き上がらせたりする方法というのは、今まで西洋の物理学の法則ばかりでやってきているので、介護福祉士の腰に相当な負担をかけているのです。あるいは家族の中で介護しているお母さんがたもそうでしょう。

それであまりにも介護福祉に関する職員も含めて、なり手が少ないと。どの介護関係の人も雇用確保に困っているわけです。

私は、介護福祉施設で、介護保険の九割が国・自治体負担の保険料金計算の仕事(ほとんどコンピュータまかせ)もやったり、病院から高齢者を乗せて運転もしたりしてきたので、現場をけっこう見てきましたが、かなりの肉体労働です。


ようするに今までは、プラスAというベクトル方向に対して、マイナスAのベクトル方向を力として加えて、高齢者をベッドに寝かすなり起こすなり、椅子から立たせるなりしてきたわけです。

でもその番組でやっていたことは、頭を足よりも前に置いて、起き上がらせたり、手を下に引張って立たせたりするわけです。なかなか言葉で説明するのは難しいのですが、ようするに古武道なんかで教えているようなものに近いわけです。柔道とかは、相手の力を利用して自分の力にする効率的で安心確実なる方法です。

今までの「物理的力に真っ向から反対する」という、ようするに逆ベクトルに力を加えて無理やりなす方法というのは、疲れるわけです。

ところが東洋式の場合は、どちらかというと、すでにある力を自分の力にしてしまう素晴らしいものが多いんですね。

明治時代以前は「スポーツ」という言葉はありませんでした。だから「体育」という言葉もこの明治時代に作られたそうです。何が西洋と違うかというと、スポーツというのは運動力学で考えます。

明治以前のスポーツに相当するというものは、ほとんど武道しかありません。蹴鞠なんかは遊びでしょう。

柔道・剣道・弓道・乗馬・やりなどなどです。

実用価値のあるものばかりです。それでいずれも腹式呼吸を大事にしたり、礼を大事にしたりします。こういうところに武士道精神がありました。つまりこうしたところに関心があったからこそ江戸時代は平和で安定していたわけです。

今の武士道精神はまるで戦争のためみたいなところがありますね。そしてスポーツ力学が重視されています。

ニュートンが作用・反作用の法則を発見して、西洋のスポーツはAが押して、Bが押して、強い方を勝利とします。

日本では相撲の場合をみてもわかるように、相手の力を利用する場合があります。

介護の場合、介護する人もされる人もどのように楽になれるかという意味で、あの番組での動き方というのが発明されたのだと考えられます。だから美しい愛から生まれた技術でしょう。

必ずしも西洋のものが愛から生まれていないとはいえませんが、運動力学での考え方、武道での考え方は日本にはこうしたものがあるでしょう。

それで日本人というのは、アメリカの真似をすることが進歩する、発展するのだと思い込むようになってから、最近では経済の政策や政治の思想まで真似しようとしています。

しかし、もはやアメリカでは、日本の古きよき文化・伝統を学ぶといった動きがあります。今まではどちらかというと日本の表面的なものばかりをアメリカの人たちは学ぼうとしていましたが、最近は、日本のそういう和の精神、寛容なる精神、多様性を認める文化、相手の力を自分の力に変えていくことなどに対して目が向けられつつあるということです。

でもアメリカ人は、わざわざ日本をみなくても、アジア人と呼べる素晴らしい伝統をもつインディアンがそこにいるのだから、先住民族の文化に習ったほうがよいと私は思います。

日本人はかつての日本の方法や、あるいはアイヌや琉球の生き方に注目してみたらいいと思います。現在政治の世界では似非保守が横行しています。本当の保守とは、新しいものを認める寛容力です。しかしながら、古きよきものも同時に守っていきます。この2つのことを忘れています。温故知新を忘れています。

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イラク特措法改正で

2007年05月24日 16時34分48秒 | 外務

政権交代がしたいのかもしれないけれども、やってしまったことに対して、徹底的に責め上げたところで、政府がイラクから撤退することにはつながらないでしょう。

本日の参議院本会議における白眞勲議員(民主党・新緑風会)の質疑を聞いてそのように感じました。

すでにイラク戦争は間違いであったと、大量破壊兵器なんてなかったと、ブッシュ大統領も認識している。さらに久間防衛大臣も核兵器をイラクが保有しているという予測は違っているんじゃないかと認める発言をした。

それで、そこをせめてどうになるものでもない。単に民主党の自己満足だ。

本当にイラクから自衛隊を撤退させたいというのであれば、政府をイラク撤退に誘導させるべきである。だが、野党はまず真っ向から対立し、「政府は悪である。民主党政権になったら世の中こんなによくなるんだ」と、つまりイラクを撤退させるそのものよりは、民主党政権になることを彼らは望んでいる。だから、国のことよりも党のことが優先されている。

また安倍首相も、間違ったこととは知りながら、民主党にそこまで言われてしまうので意地になるしかない。なんとか正当性を一生懸命探さなければならなくなる。そして、ますます頑なに米国ととともにイラクに専念する事になる。

こうした悪循環があるのだと思う。

安倍首相はイラクに自衛隊を送り込む事は、何ら間違っていないと信じているだろう。そこへさらに民主党が、自分の政権ほしさに政府を非難すれば、ますます安倍首相は自分の信念が正しいのだと再認識していく。

内閣法制局とて、今の安倍内閣が憲法解釈として間違っていることは知っていても、そんなことを民主党議員が質問して、まともに答えを引き出すことなどできないだろう。うやむやな解答が帰ってくるだけだ。そして、そのうやむやな解答を期待して、「みてください。安倍内閣ってダメな政権でしょう」と証明するためにやっているわけだ。

安倍政権がダメであることは、民主党になんか言われなくてもわかっている。国民だって不支持のほうが高い。だからといって、民主党に政権を任せたいなどと思っている人は極めて少ないのも現状である事をよく認識したほうがよい。

アメリカと一蓮托生が嫌だというのであれば、日米安保条約を守るといっている民主党には大きな矛盾を抱えている。

社民党は、守るといったり守らないといったり一定していない。国民新党は、郵政の問題で自民党を出ていってしまってから、今まで自分たちが仲間としてやってきた内容全てにケチをつけている。

これからすると共産党は筋が通っているが、国連信仰という面では、他の政党と何ら変わらない。国連主義、国際社会の協調を言いながら、戦争組織たる国連を賛美するわけで、彼らはこの辺が間違っている。

公明党が論外なのは言うまでもない。

日本には日米安保条約があるゆえに、イラクに自衛隊を派遣せざるを得ない。また憲法9条があるゆえに、日本はこうしたところに後方支援という形で、自衛隊を送り込まざるを得なくなる。日本は肩身が狭いのである。

平和党は、国連平和維持活動などもそうだが、海外の武力紛争地域に自衛隊を派遣することは一切禁じるべきとしている。その国にはその国の自治権があり、彼らに例え内紛が発生したとしても、介入すべきではない。国内で紛争が起きたのも、その国の国民の責任である。

そのような中で、貧困や病気によって飢え等にいたる人もあるだろう。それらは救済すべきものであるが、国家権力に対して介入すべきではなく、彼ら国民自体に向けて、救い出すべきだ。北朝鮮への食料援助なども政府向けにして行っているから、金正日などが独り占めして北朝鮮国民には行き渡らなくなるだけである。

イラク特措法には反対するが、反対討論のやり方をもう少し変えたほうが良い。最初に制定されたときと同じような反対討論を述べるので何の進歩もない。

イラク撤退には、政治的にもっと別のやり方があると思う。

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携帯電話ナシに通話する方法

2007年05月24日 16時33分44秒 | 総務

子どもの頃から、21歳のときもそうだったけれども、私は電気なしでラジオや無線が聞けました。

機械ももちろん、必要なく耳だけで直接聞きます。

これを回りに言ったら「んなわけね~だろ~」といわれまくりました。

自分が眠りに入りそうなときに、聞こえます。

それで耳から直接ラジオを聞いたあとに、実際にラジオの電源をつけて、いくつかのチャンネルを回して探してみると、その番組をやっています。

あるいは、トラックの運転手同士が無線で会話しているのとか、警察官の会話、東京無線のタクシーでの会話とかもたまに入ってきます。

最近、そういうことがめっきりなくなっていたのですが、昨年だったかテレビ番組で、電機大学の教授が「人間は直接、ラジオを聞ける」と言っていたのをみたのです。

ようするに人間の耳の中に、そういう電磁波をとらえるようなものがあって、周波数をとらえることができるのだと。

ああ、「俺はそれで昔できていたんだな」と、思ったし、いつもラジオが聞けているときというのは、いわば眠りそうなときばかりだから、夢みたいなもんだろうと思っていましたが、おそらく眠りそうなときには、脳からアルファ波が出るからそれで可能ならしめているんじゃないかと、自分では思ったわけです。

それでおととい、子どもを連れて、森林深い公園にいって、ああアリがおにぎりの食いカス食べて、蝿がよってきて、土があってそれを分解して、その脇に樹木があって、それで循環しているなぁ・・と、自然を深く認識しながら、眠ってしまったわけです。

そしたら聞こえてきたのは、

「ママ、北斗(たぶん名前)がボールどっかやっちゃったから捜してから帰るからまだ時間がかかる」
「じゃあ、ママももう少し公園にいるから待ってて」

それでその後も会話が続いていたようですが、眠かったのであまり覚えていません。
それでうるさいので起きてみたら、かなり遠くのほうで、あるお母さんが携帯で会話しているわけです。

それで聞いてみたら、息子の名前は北斗だという。で、眠りながら聞いていたときに、お母さんの声は二重に聞こえるわけです。

選挙のときとか、テレビ局から中継が入って、その選挙事務所でそのテレビ局をつけていると、いつも報道の人は番組を消してくれと言いますが、あれはハウリングがおこるからでしょう。最近は違うのかもしれないけれども、昔は、ラジオ局に電話して歌のリクエストなんかすると、電話の人が、「ラジオを消してください」という。こっちはなんともないけれども、向こう側はなんか障害が起きるんでしょう。

だから、そのお母さんが話すときは、二重になるからちょっとうるさいんです。それで目がさめました。

それで私がいつもいいたいことは、そりゃあオカルトだろうとか言われて、いつも見過ごされているようなことがしばしばあって、そんなところに、答えの糸口があるのだろうなと思うわけです。

で、先の電機大学の先生によれば、そういう周波数をとらえる能力というのは、人間に誰しもあるのだという。だけれども、なぜできないのかはよくわかっていないというのです。

たぶんこういうことをすでに知っている科学者というのは、いるんだろうけれども、こんなことがバレたらかなりの経済利権構造がぶちこわしになるから黙っているのかもしれませんね。

この話は音声だけだけれども、画像までできるようになったら、NTTもヤフーもいらなくなりますね。パソコンもいらないでしょうね。

そんなわきゃないだろうと言っている人というのは、ラジオが発明される前に、みんなが思っていた感覚とたぶん同じでしょう。

最近は、そういう感覚の人ばかりなので、だから科学技術が停滞しているのではないかと考えるわけです。これが発明されたら、携帯電話の会社の人たちも困るでしょうなぁ。

でも、携帯電話に使われている希少金属。これはロシア、中国、南アフリカなどからしか採れない。それでこういう国が今後どんどん高値をつけていくようになるでしょう。今後は、彼らの自国でも使うようになるのだから。

自然主義経済は一国自足を前提にしているから、自国で産出されるものから考えて携帯電話もできるようにしないとダメですね。だから確かにリサイクルは強化しなければいけない。

でも一方では、科学技術が飛躍的に、今まで気づかなかったことにどんどん突っ込んでいく必要があると思います。

「あの金属を使わなければ絶対に無理」と考えればその通りになります。しかし、全く別の観点から発見する人というのがいつの時代においても現れてくるものです。


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