おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

L&G「あかり天国」

2007年05月20日 08時03分42秒 | 財務金融
最近はインターネットでビジネスをしている人もどんどん増えてきて、言葉が紛らわしくなってきているとは思いますが、ネットワークビジネスは連鎖販売取引のことです。

「マルチ商法、ネットワークマーケティング、MLM、マルチ・レベル・マーケティング」などの別称で、インターネットの普及で非常に言い方がややこしいと思っています。

今まで私は、こういうもの中の比較的メジャーなもの、アムウェイとか、ニューススキンとか、あとなんだったか名前は忘れましたけど、五つくらい入っていたと思います。多くの政治家もこれに入っています。ほとんど票のためでしょう。人脈を作るにも適しているでしょう。

それでほとんどの人は、こうしたものに対して反対するわけです。私ははっきり言って、熱心でないかわりに別にどうでもいいと思っていたのであまり考えてきませんでした。これでお金が入ってきたことも一度もありません。そのかわり買ったことも全くないです。だから興味がないのにいろいろと入会してきたのですが、こういうシステムというのは資本主義を肯定している以上、当然に存在する事だと思っています。

これらが胡散臭いもの、良くないものということの説明をすると、資本主義を否定する事につながります。だからホリエモンが衆議院に出た頃、平和党としては批判しました。あるいは、彼の経済思想はとても日本には馴染まないものだといいました。しかしながら、彼は資本主義の成熟・末期においては必然的に出てくるものです。そして、彼は裁判の過程で、なぜこれが犯罪になるのかということについて、世の中に広く学ばさせたのではないでしょうか。

何が合法で、何が非合法か、そんなものは政府が勝手に決めているだけです。かつてはフランチャイズ形式というものも搾取の方法として非難されたことがありましたが、今はあまりそんなことを言う人はいないでしょう。

しかし今でもコンビニ経営者などは、大いに搾取されていると思います。しかし、これは資本主義の仕組みなのです。いずれにしても、今の資本主義というものは、破滅の方向にむかって一生懸命走っていることは間違いないです。プラス利子がプラス利子を呼び、どこにも存在しない富を求めてかってにみなが遊んでいます。遊んでいるだけならいいけれども、それによって自殺に追い込まれたり、教育に影響を与えたり、犯罪を作り出したり、果ては戦争を起こしたり、人々にストレスを与えて病気を作り出しています。

だから既成政党に自然主義経済について気づかせるか、それはおそらく不可能であるから平和党政権にするしかないわけです。

「格差社会から共生社会に」とスローガンを掲げている野党の政策などをみてみますと、それらの政策を達成するためには全く無関係なことばかり並べている、若しくは願望だけが書いてあるものばかりです。本質は、資本主義のプラス利子構造にあるのです。このことにどの参議院選挙立候補予定者も気づいてません。この中から何を選んでも解決しないことは明らかです。

それで話を元に戻しますと、資本主義経済というのはいわば仲介の経済であります。貨幣が物事を仲介するがゆえにプラス利子になります。あのロビンソン物語を読んだらそれはよくわかったと思います。ならば当然、大資本たるところが、さらに大資本をかき集めるというのは必然のことでしょう。それで末端の労働者は無駄な労働を、人々が本来必要でないようなものをわざわざ売るわけです。日々、やってくる営業マンをみると本当にそう思います。彼らはモノやサービスを売るためにやっているのではなくて、自分の生活のためにやっています。なぜならば搾取する側があるからそうならざるを得ない。これは自然主義経済のマイナス利子による通貨で全てが換わるわけです。

なぜ私がここでネットワークビジネスの話をしたかというと、つい先ごろ、「あかり天国」というものを主宰している人が話題になったからです。
三年くらい前になると思いますが、私がこれを知ったのは、知人のオフィスにこのパンフレットが置いてあったからです。それをただボーッと読んでいただけですが、その数ヵ月後だったか、またそのパンフレットを別のところでみました。それでこれは縁があるなと思って、もう一度よく読んでみました。

そうするとそこには、お金に支配されない世の中を作ることが書いてあります。それで私はこれをみんなに見てもらおうと思って、その「あかり天国」というものをやっているエルアンドジーというところに電話をして、平和党本部に50冊送ってくれと言いました。

ようするに独自通貨を発行して、全ての経済構造を作ろうという点においては平和党と同じなわけです。でも減価する通貨ではないから、今一般に流れている地域通貨と同じようにいつか沈んでしまうだろうなと思ったわけです。

でも地域通貨とはちょっと違うのは、全国規模で自給自足させようという意味もこめられているような気がしたので関心を持ったのです。

それともう一つの疑問点は、マルチ商法のようなことも同時にやっているからです。独自通貨の運動だけで十分だと思いましたが、なぜこういうことをやっているのかと私は考えました。

地域通貨というのは福祉、ボランティアなどのいわば政府・自治体がやるべきようなことを主にやっていて、人々の欲望をかきたてていません。そして、全ての地域通貨は減価機能がありません。したがって、地域通貨には限界があると感じていました。だから、エルアンドジーのように、人々の欲望をかきたてるような方法を用いれば、人は集まってきやすいでしょう。ただ単に独自通貨を作りましょうと言っても、人々には何のメリットもありません。それにお金から開放された経済ネットワークを作るといっても、やはり当初は資本が必要でしょう。そこでこのようなことをしているのだろうなと、私は推測したわけです。

それで新宿のヒルトンホテルで、ここのトップの波和二さんという人に直接、平和党の考えを伝えようとしたわけです。なぜなら、その前の時点で、通りがかりのときに波さんは私たち夫婦に「あとで来なさい」となぜか言ってきたからです。それで開場になってから、波さんに近づいていったのですが、多くの人々に私が波さんと話そうとすることを止めに入るわけです。

なぜなら、彼らには「ネットワークの掟」などがあるのやら、Aが親でBが子でCが孫で、とかいう序列があるので、それを飛ばして波さんに対して話し掛けるのはNGだということです。

それでまあ、私は面白くなくなって参加しなくなっていくわけです。それで私に帝王学を教えたと自分で言っているある人が言っていたことを思い出すわけです。「ネットワークビジネスには手をだすな。なぜならば、人の傘下に入るということは、己が政治家や経営者としてトップを目指す以上、傘下に入ることは、自分の舎弟・子分たちもひいては舐められるようになる」ということです。つまりこれには経済的利益も資本主義の道徳も全く度外視しています。それよりも優先することがあるという教えです。

それで私は、自分の会社の社員に、「社長、こういうネットワークがあるから入ってください。私の下になっても、入る利益は私と同じですから心配しないで下さい」といわれたことがありましたが、断りました。私は、「もしもやるのであれば、うちの会社であなた自身がやりなさい。うちは不動産業だが、他に何をやってもいい、自分の好きなことをしたほうが自分のためにも人のためにもなるから」と言いました。

つまり、人の傘下にトップ自身が入るということは、平和党であれば党員、会社であれば社員がその下ということが付いて回ります。社長というのは資本金がいくらであれ社長です。政党も国会議員数が何人であってもトップは党首です。問題は見た目の大きさではなくて、本質の大きさです。だからそのときに、ネットワークビジネスの孫の孫なんてやっていたら、従業員や党員にとって、あとあと不都合な事が必ず起きます。だからそういう意味において私は入らないことを決めました。


で、エルアンドジーはほったらかしにしていたわけです。

そしたらニュースでこのエルアンドジーの話が出たらしい。伝え聞きだからよくわからないが、会員からお金を集めて、その返済が滞っているとのこと。ここのシステムはどんどんみんなが投資して、無限にお金が増えていくという、よくあるやり方。

それで私が思うに、これが違法行為であるというのであれば、国がやるのはなぜ違法ではないのかということ。つまり年金はこれと同じではないか。だが破綻は目に見えているのに、あたかも払わなければ悪人のごとく、社会保険庁は取り立てている。つまりプラス利子を前提にした経済システムというのは、これと同じことをやっているのです。ホリエモンがどうして非合法になるのかについて、考えなければならないのは、資本主義という経済システムが大いに関係しているからです。

だがいずれにせよ、私はエルアンドジーがネットワークビジネスの類であるならば、人のつながりで面倒くさいことがあるのならばやりたくないし、その無限にお金が増えていくという方法も、資本主義に則ったやり方であるから、こういうものはなくしたほうがいいと考えているので、やらなかったわけです。

それでそのニュースで波さんがインタビューで言ったことというのは、「俺が法律だ」と述べたらしいです。なんとも横暴と思えるようなものですが、しかし実際問題、この経済社会を考えてみてください。いったい政府のやっていることと何が違うのでしょうか。

政府ならばいい、民間はダメというのは、北朝鮮にも近いようなことも感じ取られます。では、みんなが勝手になるから政府が取り締まるべきだという意見もわかります。しかし、みんなが勝手にやるとはどういうことでしょうか。たとえばお金を預けたら無限に増えていく。こういうことを民間でしてはいけないのであれば銀行がやるのはいいのか。なぜ良いとするのかといえば・・・・と根源をたどってみると、そんな理由はないことがわかります。

だから私が疑問なのは、エルアンドジーは商取引だけをすればいい。彼らは日銀券に変わる「円天」という通貨を使っています。それで三年前に比べれば多くの物・サービスができつつあります。ここにだけ専念すればよいのであって、余計な投資などを考える必要はないと思います。

それで会員の中には、投資したお金が返ってこないといって騒いでいる人もいるでしょう。資本主義とは自転車操業なのです。どこにお金を注ごうとも、そのお金はもうそこにはないのです。銀行だってそうだし、証券だってそうです。ただ規模がでかいと回せる。規模が小さいと回せない。それだけです。

ある不動産業者でとても悪い奴がいます。彼は、賃貸契約者からの前家賃・敷金・礼金など、貸主に支払うべきものを全て自分の懐に入れてしまうわけです。しかし、次の契約者から得た分で回していきます。だから、これが順繰り順繰り回っている場合は、悪い奴にはなりません。しかし、ひとたび契約件数が滞ったりすると、貸主から「契約金はどうなったの」と催促されるので逃げ出すわけです。でも、また回り始めたら、支払うということを永遠とやるのです。しかし、使い込みすぎたりするとそこでエンドとなります。彼はこういうことをやって三回会社を潰しています。今、彼は渋谷の業者にいます。

だから小さい規模の会社ではこういうことがうまくいきません。大きい規模ならできるけれども、それにもその枠の大きさというものがあって、資本主義は永遠の成長とプラス利子を正義としてしますから、必ずこういう破綻が起きます。どこにも存在しない富をみんなが崇めているのだから当然の事でしょう。だから、自然主義経済にしなければならないと平和党は再三にわたり言っているのです。

エルアンドジーは商取引がもしも活性化しなかったときのことを考えて、投資させてそれで埋めることを考えていたのかもしれません。しかしながら、通貨を減価させることで、そのような詐欺まがいのことをする必要はなくなるわけです。

しかし、わずかな年数で、ここまで作り上げるということは地域通貨ではできることではありません。やはり人々の欲望を動かさない限りは無理なのでしょう。

だから自然主義経済は人々の欲望を抑えるために存在するのではなくて、減価することによって、より多くの自分が得たいものを買えるように、そして自分がつきたい職業に誰でもがなれるようにしているわけです。

ロビンソン物語の解説

2007年05月20日 08時02分12秒 | 財務金融
「自然主義経済は実現できたらいいね」とかそのような甘いものではないことを認識していただきたいです。

つまり、これをしないとどんなことになるのか。賢明な人間が、今後の世界人類の展開を予測していれば、当然に自然主義経済に帰結するだろうと考えられるからです。そして、これは単に一経済政策の問題ではなく、戦争と平和、福祉、教育、地方自治、財政、治安ありとあらゆる分野に及びます。

だから今は泡沫政党扱いで、かなり舐められてはいますが、これは時間の問題です。徐々に人類は、現代の行ってきた矛盾に目覚めるでしょう。

そして、今までの常識から超大規模なる大転換がなされます。世界観・価値観がだいぶ変わります。今日までみなさんが地球の周りに太陽や星が回っていると考えているのと同じように、お金に利子がつくのが当たり前だと信じています。そして、お金で全てのことが可能であるとまで言う人までいますが、こうした考えは打ち砕かれます。すでに、社会にきしみが出てきているからです。

なぜ平和党がどこの政党とも近くないか。どこかの既成政党やミニ政党の二番煎じではないかということがよくわかると思います。

板垣退助結党の自由党ができて明治以来多くの政党を輩出しましたが、ここに気づき、新たな政治イデオロギーを提唱したのは平和党が近代史上初となります。そして、これは実現されます。


ここではロビンソン物語の解説をしてみます。
(原注1)事は自明でありながら、自明であればこそ、今日まであらゆる利子理論家は、かかる利益を認めることがなかった。プルードンでさえ見過ごしたのである。
 
プルードンとは、19世紀フランスの社会主義者です。彼はアナーキズム(無政府主義)を唱えました。しかしながら、そんな人でも利子が当然にあるだろうと考えたものの見方をしています。

つまり政府がない状態を理想としながらも、現実的には利子がないとうまくいかないだろうと考えた人です。ようするに誰もが、利子というものは当然に存在するのだという大前提のもとに、近代以降、ありとあらゆる政治思想・経済思想は成り立ってきたわけです。でも、それが自然界との対話を考えたならば、全くもって無理が生じるということを誰もが見過ごしてきたのです。
(原注2) クヌート・ヴィクゼル『価値、資本および利子』83ペイジ。「しかるにベーム・バベルクは現在財は必要とあれば将来のために『保存しうる』のであるから、少なくとも将来財と同等であると主張している。これはおそらく大きな誇張というものである。ベーム・バベルクはこの法則の例外、すなわち、氷や果物などの、損なわれる財に言及している。しかし、どのような食料品にも、そのことは例外なく高かったり低かったりする程度で妥当しているのである。確かに、こうした財は、将来のための保管に特別な労苦や配慮を必要とせず、しかも危険にも会わないような貴金属や宝石類という財とは違っている。しかし、それらにしても火災やこれに類する災難によって失われることもあるのである」(今日、銀行は金や宝石、有価証券保管用に、個人向けの特別な個室を用意している。しかし、それには賃貸料を支払わねばならないのだ。その金額分だけ、「現在財が将来財に」及ぶということはないのである。)
(現在持っている財産)=(将来持っている財産)
この方程式が成り立つものには、何があるでしょうか。
腐らないもの、なるべく保存のきくものです。ワインなどは熟成させたほうがいいでしょう。

そうするとワインなどの場合は、
(現在持っている財産)≦(将来持っている財産)
になります。

しかしこれは正確には、
(現在持っている財産)+(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)=(将来持っている財産)
です。

そして、必ずしも(現在持っている財産)+(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)が変換して、おいしいワインができるとも限りません。火災・地震などの災難がおきて失われる可能性もあります。だから、そのために(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)のために保険料がかかってきたりもします。地代も家賃もかかっています。そのときの人件費もかかるでしょう。

時間の問題を入れずに今日の経済学はできています。我々は三次元の人々なので空間しか考えないで、時間の問題を見過ごす事が往々にしてあるわけです。

それでは宝石の場合はどうかとなります。
これは
(現在持っている財産)=(将来持っている財産)
が成り立つじゃないかと。
そして保管するにも、費用をかけずに、しかも、盗まれないように自分の庭の誰もわからないようなところに埋めているとします。

それをなぜ彼が埋めるかと言えば、一つはその宝石をお金に換えれば高値になるということであり、もう一つはそれは将来にわたってもその高値であろうということからです。

ここでの確実性というのは、今売れば高値であるということです。将来、自分は死んでいるかもしれないし、宝石そのものに価値を見出さない世の中になっているかもしれません。あくまでも「かもしれない」です。だからそのとおりかもしれませんが、今はっきりとわかっていることは、今売ったら高く売れるということだけです。つまり現在のほうが保障の価値は高いのです。ということは、その時点では、
(現在持っている財産)≧(将来持っている財産)
ということになります。

そして将来、たしかにその価値が保存できていて、過去に売ったときと同じ価格で売ることができたならば、
(過去に埋めた財産)=(現在掘り出した財産)
です。

だけれども、その保存していた間、彼は「将来無価値になってしまうかもしれない」というリスクを背負っているわけです。

競馬で考えてみましょう。Aは馬券を買おうとしています。

そのレースは一頭だてです。単勝は一通りしかありません。オッズは0.75倍です。なぜ一倍ではないかというと25パーセントは胴元が持っていくからです。そのレースをやるのにも諸費用がかかるからです。宝石を土に埋めた場合には、それなりの労力がかかっているでしょう。
ここに100万円投げ込んで、レース終了後に75万円受け取る。こんな馬鹿なことはしません。

では百歩譲って、胴元が金をとらないとします。
そうすると100万円は100万円として返ってきます。得もしていないし、損もしていない。財産が保存できたからよかったと考えられるでしょうか。

レース前に馬券を買うときに、彼はその100万円を使って飲み食いもできるし、他のギャンブルの楽しみもできます。つまりレース前にはいろいろな可能性があったが、彼は馬券を買うという1点に絞り込んだ事によって、そこに拘束されています。

では彼と同じように100万円持っているBという人間がいて、彼は馬券を買わずにAを眺めていたと。馬券を買おうと買うまいと結果は同じです。

だからこそ、将来にむかって、それはリスクであるから利子をつけましょうということになります。

今100万円を使わないで銀行に預金します。利子がつくとします。今はつきませんね。なぜかというとこれは資本主義の末期だからです。今後、高い預金金利がつくことは永遠にありえません。そろそろおしまいだからです。

だからここではバブル時代、かつて宝くじで3億円当てたら利子だけで一生食べていけると信じられていた時代のことを考えてみます。

金利5%とするならば、3億円預けている人は一年後に1500万円、百万円預けている人は、一年後に5万円受け取れます。元金はどこにありますか。銀行にあるでしょうか。確かに通帳には3億円なり、百万円なり、数字としては書いてあります。しかし、最初に日銀券として預けた紙幣は、銀行の手許を離れているでしょう。また、利子で得た収入の中からも税金で引かれていますから政府や自治体に流れています。
 
で、銀行はどこにやったかというと、企業などに貸し出しをします。返済のときに利子をつけて返してもらいます。それで銀行は成り立っています。

私は子どものときにこれが理解できませんでした。つまりなぜ我々は銀行にお金を預けるだけで、利子をもらえるのか。その利子はどこから調達してくるのかということです。なるほど、銀行は企業にお金を貸してその利子をもらって、それで我々にその一部を利子としてもらえるんだなと、ある年齢にいったときに皆納得するのですが、私には釈然としないものがありました。

なぜなら企業は借りたときよりも、より多くのお金、つまり利子分をつけて返します。ということは、借りたときよりも返すときのほうが大変です。これは企業経営者でも消費者金融で借りた人でもわかるでしょう。でも、その返済すべき利子分はどこから得るのかということです。

どこかにブァーッと分散した不安定なところから収入を得ると、人は理論がうやむやになるのです。

そして平和党を作ってからよくわかりました。そんなものはこの世には存在していないんだと。

でも、こういう言い方ができます。借り入れのときよりも、返済のときのお金が多いということは、経済全体として成長する。伸びていく。つまり前年度よりも国内全体の経済がよくなる・・というのがあります。これが経済成長だと今まで言ってきています。ということは自転車操業です。最初のうちは、いいけれども、そのうち自然界に存在している物質と、お金とが等価にならなくなるでしょう。では将来の富であると仮定して、それはどんどん先送りを作り出します。

よくわかりませんね。みんなこのへんで考えるのをやめて「ああ、そうか」と思ってしまうのです。竹中平蔵氏の書いた漫画の経済学の本なんかを読んでもそう思います。つまり、どこかで思考を停止させてしまう。根源までいかずに、これは昔からこうなっているから・・ということで、どの経済学者も終わらせてしまっているのです。

だから、よく国の財政赤字の問題で、「将来の子どもたちに借金を残すな」とか言っている人がいますよね。一方で、現代のプラス利子制度を認めているというのは大いなる矛盾なんです。

それで現代まですんできたからいいけれども、今の経済社会がおかしくなってきているのは、こうした思考の停止が原因だと思うわけです。つまりずーっと政府は、財政注入、金融介入をやってきて日本経済は成り立ってきたが、それがどうにもうまくいかなくなった。

これは今まで言われてきた経済の法則とは違う事になってきた。あきらかに違うことはわかっているのだけれども、いったいどうしたらいいのだろうと。だから古典経済学に帰って、政府はなるべくタッチしないほうがいいんじゃないかと、小泉・竹中の構造改革というのはそういうことです。とりあえずわからないから昔に返ってみたのです。そうしたら案の定、格差社会ができて弱肉強食の市場経済ができてきました。これは結果的にはみえています。けれども、他にやりようがない。しかも小泉さんの場合は、田中角栄憎し・竹下登憎し・橋本派憎しできていますから、それに輪をかけて徹底的に利権政治をつぶしにかかった。

だけれども、古典派経済学をやろうと、ケインズ経済学・利権政治をやろうとも、あるいは社会民主主義にしてみようと、果ては共産主義にしようとも、全ては同じ土台。即ち資本は強く、お金はモノよりも強い。プラス利子である・・・ということに最大の要因があるのです。それで、これまでにこうしたことを言うことはアホじゃないかと、言われてきたわけです。それにそんなこと言う人間もいなかったのです。でも、こうして平和党として現れてきました。

つまり今まで根源となる部分について、誰もが無視してきました。だから、マイナス利子の自然主義経済なんて絶対にできっこないといっている人、今まで多くいましたね。彼らとブログで議論していると、いつのまにか答えられなくなって、いなくなってしまうんですよ。

よくわからないというのは、悪いことではないし、これから発展的なものにつながることです。ただ、人間は思い込みが先立っています。だから、どうしても平和党の言っていることは否定したいと思っているでしょう。でも理屈が成り立たないのです。どの人もみんな。

抽象的に「そんなんじゃダメ」とか「タコ部屋みたいになる」とか「原始共産主義になる」とか言っている人はいくらでもいます。でも、どうしてどういう過程でそうなるのか、全く説明ができていません。ただなんとなくダメだ。俺はそんなもん見たことないから無理だとか、なるほど見たことがないとわからないというのであれば、資本主義の破滅を待つしかないでしょう。これでは政治の役割を果たせません。政治がなぜゆえに存在しているのか。人々の幸福を作るためであり、危機的状況があればいち早く察知して回避するためにあるのです。

彼らは、今後も経済成長が永遠に続くと思っています。それは続かないものだと私は証明できます。しかし、自然主義経済を否定し、まだまだ永遠に経済成長が続くというのであれぱ、自然主義経済によってどのように経済破綻が起きるのかを説明できなければなりません。でも、いずれの人も説明ができません。これはケインズにおいてもそうです。そして、最終的にはケインズ自身も、資本主義が終わることについては認めています。マルクスも、アダムスミスもシュンペーターもワルラスも、ほとんど多くの偉大な経済学者は、資本主義に限界がやってくることについて書いています。

でも、そのあとに何がくるのかがわからない。マルクスが提唱したのは、単なる別の形の資本主義です。そして、これは自由を認めないがゆえに真っ先に消滅しました。今度は資本主義が終わります。

政治家・官僚は経済政策を考えるときに、政府寄りか民間寄りかを考えます。ところがここに落とし穴があって、どちら寄りであろうとも貨幣の本質を変えない限りは同じなわけです。ここを誰もが見落としています。そして、このような政党が今まで存在してこなかった。みなが資本から物事を考えているからです。
 
労働力は利子(剰余価値)の源泉である。貨幣を資本に転化させる利子は貨幣に起因することはありえない。

貨幣が交換手段であることに間違いなければ、商品価格を支払い、商品を購入する以外のことをしはしない。

貨幣がそのように変わらずにあり続けるならば、価値を付け加えることはない。

それゆえ剰余価値(利子)は購入され、より高価で販売された商品に由来する。

この変化は購入においても、販売においても発生しない。

これらの行為においては、いずれも等価物が交換される。

それゆえ、商品を購入して使用し、再び売却することによって、この変化が起こるということは依然、た
んなる仮定として任意のものである

(マルクス、『資本論』、第6章)
漫画だともっと簡単なセリフで終わらせいました。

「物やサービスを余るほど生産してその余りが利子を作るんだろう?」「NO」
「では、商人が仕入れ値と売値に差をつけるせいか?」「NO」

となっています。

それでロビンソンはこれについて理解できないわけです。マルクスの資本論を引用しています。つまり、マルクスは資本主義者だったということです。資本主義というのは、民間とか政府とか関係ありません。とにかくお金がプラス利子に働くことが資本主義であるということです。


訪問者、漫画ではメンサナ青年が、「利子の発生は貨幣が原因」としています。しかし、誰もがロビンソンと同じように貨幣は単なる交換手段であって、銀行に預けたりしているから、利子というものは発生すると信じています。ほとんどの人は、貨幣と利子は別の問題であると考えています。


だから貨幣がある限り、利子は発生するといえます。つまり物々交換ではないから利子が発生するということです。でも物々交換はとても不便です。だから、貨幣にマイナスの利子を与えるということです。

では、仮に、「マイナス利子の貨幣では私は売りません」といったお店があるとします。それは自由です。逆に、「マイナス利子の貨幣でも私は売ります」という店があったら、どういうことが起きるでしょうか。マイナス利子の貨幣を持っている人は、早く手放したいからそちらへ行くでしょう。売りませんといっているほうは物が売れなくなります。やがてつぶれます。しかしマイナス利子貨幣を利用しているお店は、自ら得た収入もまたすぐに手放さねばならないのですぐに物を仕入れたり、経費の支払いをするでしょう。

なぜ、こんな簡単な事を人々は「ありえないこと」といってレッテルを貼るのでしょうか。今までの考えを全て捨てなくてはならないために、嫌な気がするのでしょう。規制緩和によって利権構造を破壊された人たちと同じ気分を味わうからです。今まで学んだことが覆ってしまうので人々は抵抗を持つのです。しかし、それは時代の転換期にしなければ、次の未来を作れません。

ロビンソン物語

2007年05月20日 07時56分29秒 | 財務金融
 
ここで詳述される利子理論の導入部として、また、とりわけ利子問題に関連して強く残っている古くさ い臆断を容易に取り除くためにも、私はロビンソン・クルーソー物語から始めなければならない。

よく知られているように、ロビンソン・クルーソーは健康上の配慮から、山の南面に家を建て、これに対して、北面の湿潤で肥沃な斜面で農作物を栽培した。

したがって彼は山を越えて収穫物を運ばざるをえなかった。この労働をしなくて済むようにしようとして、彼は山の周囲に運河を建設しようとした。この企ては沈泥が運河を塞いでしまうのを避けるために中断せずに継続されなければならないが、それに必要な時間を彼は3年間と見積もった。

したがって彼は3年間の蓄えを調達しなければならなかった。数頭の豚をし、肉を塩漬けにした。地面の穴に穀物をいっぱいに満たし、入念に覆いをした。鹿皮をなめして衣服に仕立て、木箱の中にしまい込み、衣魚除けにくさいスカンク腺で覆った。

要するに彼は自分が考えた通りに、これから三年間のことを考えたのである。

計画した通りに「資本」が間に合うかどうか、最終的な予測を立てていると、一人の男がやってくるのが見えた。

「やあ」 と、その訪問者は声をかけてきた。 「私の小船が難破してしまったので、この島に上陸してきました。田野を開墾したいのですが、最初の収穫が得られるまでのあいだ、あなたの蓄えで私を救ってくださるわけにはいかないでしょうか」

 この言葉を聞くや、ロビンソンの頭には、自分の蓄えが利子と金利生活者の栄光をもたらしてくれる、という考えが閃いた。彼は急ぎその申し出を承諾したのである。 「ありがたい」 と、その訪問者は答えた。そして、 「しかし、あたなたに言っておかなくちゃなりませんが、私は利子を支払いませんよ。払わなければならないくらいなら、狩猟や漁でもして生きていきますよ。私の信仰は利子を取ることも、支払うことも禁じているんです」

ロビンソン 「それはまた結構な宗教をお持ちだ。でも、あなたが利子をこれっぽっちも支払わないとするなら、いったいどうして、私が蓄えたとっておきの品をですよ、貸し付けると思うんですか」

訪問者 「それは私利からですよ、ロビンソン。儲かるからですよ、あなたにもわかるでしょう。あなたは利益を得るんです。それもかなりな額ですよ」

ロビンソン 「そういうなら、まず、あなたがその計算をしてみせてくださいよ。正直いって、蓄えをですよ、無利子で貸し付けて、どれくらい利益が得られるのか、見当がつきませんしね」

訪問者 「では、全部計算してみましょう。ご自分で計算しなおしてみれば、無利子で貸し付けたうえに、お礼までいうことになりますよ。そうですね、私にはさし当たり衣服が必要です。見ての通り、裸ですから。衣服の蓄えはありますか」

ロビンソン 「その木箱には、上のほうまで衣服が詰まっています」

訪問者 「それにしても、ロビンソン。あなたがほんとうに賢ければいいんですけどねえ。誰がいったい木箱なんぞに衣服を三年間もしまっておこうとしますか。それもですよ、鹿皮です。なんと衣魚の好むごちそうですよ。鹿皮でなくとも、衣類というものは風通しをよくして、油脂を擦り込んでおかなくては。そうしておかなければ、傷んだり、蒸れたりしていまいますよ」

ロビンソン 「おっしゃることはごもっともですが、じゃあ私は他にどうすべきだったというんです。衣装棚にしまっておいたほうがいいなんてことはありません。そんなことしても、ここでは、ネズミがやってきますし、衣魚だって入り込んでくるんですよ」

訪問者 「ああ、木箱にだってネズミが入ってくるでしょうね。見てください。ほら、もうかじられてしまってますよ」

ロビンソン 「まさか、そんな。こういう被害というのはまったくどうにも防ぎようがないですね」

訪問者 「あなたはネズミから身を守る術をご存じないようだ。算術を学んだとはいえませんね。私たちのなかで、あなたのような境遇にあるひとが、ネズミや衣魚、それに腐朽や塵芥、黴から身を守る方法をお話しましょう。私に衣服を貸してください。必要な場合はすぐにでも新しい衣服を、あなたに揃えてあげることをお約束します。あなたは、引き渡したのと同じ程度の衣服を取り戻し、しかもですよ、その衣服は新しいものになっています。必要になって後で木箱の中から引っ張り出してくるものより、はるかに上等ですよ。ましてスカンク油の悪臭なんて付いていません」

ロビンソン 「わかりました。あなたに木箱ごと、衣服ともどもお渡ししましょう。そうしてみれば、無利子で衣服を貸し渡しても、私の利益になるということが、私にもわかるというものです」(原注1)

(原注1)事は自明でありながら、自明であればこそ、今日まであらゆる利子理論家は、かかる利益を認めることがなかった。プルードンでさえ見過ごしたのである。

訪問者 「ところで、小麦をみせてくれませんか。種まきに使うし、パンを作るのにも必要です」

ロビンソン 「その丘をくだったところに埋めてありますよ」

訪問者 「あなたというひとは、小麦を三年間も地面の穴のなかに埋めておくのですか。黴や虫はどうするというのですか」

ロビンソン 「分かっています。でもどうしたらよいんです。どう考えても、これよりよい貯蔵方法など思いつきませんでした」

訪問者 「かがんで、ご覧になってください。表面に虫がはね回っていますでしょう。塵芥がわかりますか。黴は生えていないですか。すぐにも、小麦を取り出して、風にあてなければなりませんよ」

ロビンソン 「この資本はもうだめです。自然のもつ、こうした幾重もの破壊力から身を守る方法がわかっていればよかったんですが」

訪問者 「ロビンソン、私たちのところではどのように家屋を造るかお話しましょう。風通しのよい、湿気のない小屋を建てるんです。床は頑丈な板張りにしますが、そこに小麦を振りまくんです。それからシャベルで全体を掘り返しながら、三週間ごと、定期的に、入念に風にあてるんです。ネズミを捕まえるために猫を飼います。罠も仕掛けますよ。どんなものにも火災保険をかけ、毎年毎年、品質や量目の損失が10%を超えないようにしています」

ロビンソン 「そうだとしても、その仕事やその費用を考えてみますとね」

訪問者 「その仕事を恐れることなどないですよ。なにも費用など要らないんです。どうしたらよいかお話しましょうか。あなたの蓄えを私に貸してください。私が収穫が得られたら、新鮮な穀物で、ポンドならポンドで、袋なら袋で、渡してくれたものを返済しますから。あなたは小屋を建てずにその仕事を済ますのです。つまり、シャベルで掘り返すこともないし、猫に餌をやることもないのです。量目でみてもなにも失うものはないんです。 古くなった麦の代わりに、いつも潤いのある、新鮮なパンを手に入れることができるんです。どうでしょうか」

ロビンソン 「たいへんありがたい。その申し出を受け入れましょう」

訪問者 「それでは無利子で小麦を貸してくれますね」

ロビンソン 「よろしいです。無利子で、当方の感謝までそえます」

訪問者 「でも、私は一部を使うだけです。全部は引き取りませんよ」

ロビンソン 「それでは、10袋につき9袋を返却してくださればよい、という条件で、あなたに蓄え全部を提供しますが、どうでしょう」

訪問者 「いや、結構です。それではまるで、利子付きで、しかもですよ、値打ちを引き上げる正の利子ではなくて、引き下げる負の利子のもとで働くようなものですよ。売り方の代わりに資本家の買い方がいるようなもんですよ。でもね、私の信仰は高利を禁じていますが、また、転倒された利子も禁じているんですよ。ではこうしましょう。私が監督しますから、小麦のストックを取り出して、小屋を建て、必要な作業を行うというのはどうでしょう。その代わりに、毎年、10袋につき2袋を私に報酬として支払ってください。それで折り合いをつけましょう」

ロビンソン 「その支払い分を高利といおうが、仕事と呼ぼうが、そんなことは私にはどうでもいいことです。とにかく、あなたに10袋を渡しましょう。あなたは私に8袋を返す、これで折り合いがつきましたね」

訪問者 「しかしまだ、私には、別の物も必要です。鋤や荷車や手工具です。これら全部、無利子で貸してくれませんか。返す時はどれも変わらぬ品質で、新しい鋤なら新しい鋤を、新しい鎖なら錆のない鎖を返済することを約束します」

ロビンソン 「もちろん、ご用意しましょう。今は、どの蓄えも私には労力のかかる物ばかりですから。この間などは、小川が氾濫して小屋は水浸しになり、なにもかにも泥を被ってしまったんですよ。その次はといえば、嵐で、屋根はむしり取られ、全部、雨で台無しになってしまいました。いまどきのように、天気が感想すると、風が小屋の中へ砂や塵を吹き込むんです。錆や腐朽、倒壊、日照り、光と暗闇、木喰虫、白蟻といったなんやかやで仕事には絶え間がありません。泥棒や放火魔がいないことがまだましですけれど。これらの物を、手間もいらずに、費用もかけずに、損失を受けることもなく、よい状態を維持しながら、あとで役立つように保管できるとは、喜ばしいかぎりです」

訪問者 「それでは蓄えを貸し渡すことが利益になるとわかったのですね」(原注2)

(原注2) クヌート・ヴィクゼル『価値、資本および利子』83ペイジ。「しかるにベーム・バベルクは現在財は必要とあれば将来のために『保存しうる』のであるから、少なくとも将来財と同等であると主張している。これはおそらく大きな誇張というものである。ベーム・バベルクはこの法則の例外、すなわち、氷や果物などの、損なわれる財に言及している。しかし、どのような食料品にも、そのことは例外なく高かったり低かったりする程度で妥当しているのである。確かに、こうした財は、将来のための保管に特別な労苦や配慮を必要とせず、しかも危険にも会わないような貴金属や宝石類という財とは違っている。しかし、それらにしても火災やこれに類する災難によって失われることもあるのである」(今日、銀行は金や宝石、有価証券保管用に、個人向けの特別な個室を用意している。しかし、それには賃貸料を支払わねばならないのだ。その金額分だけ、「現在財が将来財に」及ぶということはないのである。
ロビンソン 「率直にそのことを認めましょう。でも、疑問に思うのですが、なぜ海の向こうの故国では、そのような蓄えが所有者に利子をもたらすのでしょうか」

訪問者 「あなたは、その説明を、海の向こうではこうした取引の仲介をしている貨幣に求めなければなりません」

ロビンソン 「なんですって!貨幣のうちに利子の成因があるというのでうか。そんな」ことはありえません。マルクスが貨幣と利子について述べているところを聞いてみてください」

「労働力は利子(剰余価値)の源泉である。貨幣を資本に転化させる利子は貨幣に起因することはありえない。貨幣が交換手段であることに間違いなければ、商品価格を支払い、商品を購入する以外のことをしはしない。貨幣がそのように変わらずにあり続けるならば、価値を付け加えることはない。それゆえ剰余価値(利子)は購入され、より高価で販売された商品に由来する。この変化は購入においても、販売においても発生しない。これらの行為においては、いずれも等価物が交換される。それゆえ、商品を購入して使用し、再び売却することによって、この変化が起こるということは依然、たんなる仮定として任意のものである(マルクス、『資本論』、第6章)」

訪問者 「この島で暮らし始めて、もうどれくらいになりますか」

ロビンソン 「30年です」

訪問者 「人間というのは、忘れないものですね。あなたはそんな価値論をいまだに引き合いにだします。ロビンソンさん、これは片づいてしまいました。彼の価値論は死に絶えたのです。それを主張するひとなどもはや誰一人もいませんよ」

ロビンソン 「なんですって。利子に関するマルクスの理論が死に絶えたとおっしゃるんですか。そんなことはありえません。たとえ、もはや誰ひとりとしてそう主張する者がいなくても、私はそれを主張します」

訪問者 「それなら、言葉だけではなく、行為によっても主張するがよいでしょう。そうしたいのなら、私と対立することになりますね。私は、ただいま締結した商取引から身を引きましょう。あなたはここに蓄えを持っています。その蓄えは、その性格と用途からその本当の形態であるとみなされるもの、つまり一般に「資本」と呼ばれるものです。私にはあなたの品物が必要ですが、あなたは資本家のように私に対立しようとします。いま、私はあなたに対峙していますが、労働者が資本家にそんなにもあからさまに立ち向かったことはありません。私たちの対立関係のように、資本の所有者と資本を必要とする者との関係が、こんなにも踏みにじられるとは。私から利子をとることができるかどうか、さあ、試してごらんなさい。それとも、もう一度初めから商取引を始めますか」

ロビンソン 「いや、あきらめます。ネズミや衣魚、錆が私の資本家的精力を殺いでしまいました。でも、あなたはこのことをどう説明するというのですか」

訪問者 「説明するのは簡単です。あなたはたったいま私に無利子で貸してくれましたね。しかし、この島に貨幣経済が成立しているとしましょう。その場合、遭難者である私が貸し付けを必要としているとすると、必要としている物を購入するために資金供給者に頼み込む必要がでてきます。資金提供者はネズミや衣魚、錆、火災や屋根の損傷に苦しめられることはありません。ですからあなたとの場合のようには対立しないでしょう。物品の所有に結びついている損失を考えてください。そこでは犬があなたの、そして私の鹿皮を引きずっていっていってしまいます。犬が運んでいってしまうのは犬が保管しているも同然です。どのような配慮も、そしてわたしがあなたを納得させた十分な証明も、資金提供者にとっては関係のないことです。私が利子の支払いを拒んでも、あなたは皮の衣服が入った木箱を閉じはしませんでした。資本の性格があなたをさらなる交渉へと向かわせたのです。しかしです。貨幣資本家は私が利子を支払わないといえば、すげなく私を追い払ってしまうでしょう。私には貨幣そのものが必要だったのではありません。その皮の衣服が必要だったのです。皮の衣服をあなたは無利子で貸し与えてくれます。なのにです。私はそのために貨幣に利子を支払わねばならないんです!

ロビンソン 「そのように利子の原因が貨幣のうちに求められるなら、マルクスは間違っていたのでしょうか。マルクスはどこかでこう述べていましたね。 『本来の商業資本において、G-W-G(貨幣-商品-増殖した貨幣)形態、より高く売るために購入することが最も純粋に現れる。他方、あらゆる資本の運動は流通の局面の内部で起こる。しかし流通そのものから資本の貨幣への転化を説明することは不可能である。そこで等価物が交換されるや否や、商業資本は不可能であるようにみえる。だからこのことは購入や売却をする商品生産者たちから、それらの間に割って入る商人が二重にだまし取ることからだけ導きだされる。商業資本の換価が商品生産者をたんに詐欺にかけるということから説明されるべきでないとするなら、そこには多くの中間項が必要である』(資本論、第一巻)

訪問者 「ここでもマルクスは完全に間違ってますね。国民経済学の重要な核心である貨幣について思い違いをしているから、彼はいたるところで誤りを犯しているに違いありません。マルクスは、また、あらゆる彼の信奉者も同様ですが、貨幣の本質をその考察の範囲から除外するという誤りを犯しているのです。

ロビンソン 「このことは、貸付についての私たちの交渉が実証してくれましたね。貨幣はマルクスによれば交換手段にすぎませんが、貨幣は単なる「購入した商品の価格を支払う」ということ以上であると思われるような働きをしているんですね。利子を支払おうとしないとき、商品(資本)の所有者を苦しめる憂慮も知らないで、貸付を受ける受取人の鼻先で銀行員が金庫をぴしゃりと閉めることは、商品を超えた貨幣それ自体がもつ権力に負っているのですね。そこに商品の弱点があったのですね」

訪問者 「ネズミや衣魚や錆が、なんという証明力をもっていることでしょう」

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集団的自衛権の問題

2007年05月20日 07時52分58秒 | 外務

民主党の岡田克也元代表は、「憲法9条改正は実現しない」だろうと言っています。私もそう思います。

http://blogs.yahoo.co.jp/seitouheiwatou/19434544.html
ここの記事にも書きましたように、そもそも憲法そのものが果たして有効なのかどうかもわからないわけです。もしも有効であるとするのであっても、護憲を主張している党派が、「私学助成せよ」とか、国民投票法を作るのはいけないといって民主主義を侵害するとか、とにかく誰もが憲法を無視しています。

改憲しようという側も、改正までには三年はかかるから、とりあえず現行の憲法のまま、集団的自衛権を認めてしまえと、なっていますから、誰一人憲法なんてものに拘束されていないわけです。

これはいつもいうことですが、憲法とは本来、全ての法律に優先させようという意味で作られました。なぜなら、法律を作る国家がいつでも横暴になる危険性があるからです。しかし、その憲法自体を今までさんざん踏みにじってきています。だから、憲法をいかように変えようとも、解釈次第でいかようにも国家権力は好きなようにできるわけです。

それでみんな、平和とか国民主権とか、そういう考えを離れて、憲法そのものに執着を持ち、くだらぬ争いに明け暮れるのです。

「憲法がなければ国家ではない」という人もいます。そういう決まりを決めたのは誰ですかといいたいです。それは国民が決めたのだというのであれば、国民に決定権があるわけであり、憲法に決定権があるわけではありません。

そして、今、集団的自衛権のための議論が安倍首相の諮問機関でなされることとなりました。これに賛同するのも結構、反対するのも結構。しかし、これらの議論というのは根本ではないのです。つまりそのような国際紛争になる状況の大本については議論がなされません。だから、その大本を考えずに物事が審議されるのであれば、安倍首相の意見は正しい事になります。つまり集団的自衛権を認めるのは当然であるとの結論が導き出されます。

だけれどもそれは、憎しみの連鎖を永遠に続ける事となります。そこで、それを断ち切る平和の方法が必要です。その平和の方法とは、集団的自衛権を認めないということではありません。

この諮問会議で話し合われるシュミレーションは四つのケースです。
 
  1. 1.米軍と自衛隊が現場におり、敵国に米軍が攻撃された際に、自衛隊が米軍を守るために反撃に出る。
    (自衛隊法・周辺事態安全確保法・船舶検査活動法などの改正)

    2.敵国から米国本土に弾道ミサイルが発射された際、その通過点に自衛隊・若しくは日本国土が存在して
    いる場合、この弾道ミサイルを打ち落とす。
    (日米安保条約・自衛隊法・ガイドラインなどの改正)

    3.米国以外でも、国連や多国籍軍による人道復興支援の際、敵国から国連加盟国に対して攻撃があった場
    合、反撃する。
    (自衛隊法・PKO協力法などの改正)

    4.これまでは後方支援として、武器輸送などは認められていなかったが、これを今後認めるようにする。
    (自衛隊法・PKO協力法・周辺事態法などの改正)

でも、私はこの四つのケースを今ごろ論じているのはきわめて遅いと思っています。これらは軍事専門家の間では、すでに論議されていましたが、今やっと政府の土台にのぼってきただけです。しかし、時代はすでに五つ目のケース、六つ目のケースと増えていっています。それは主にテロ方式の戦争です。そしてこういうものが主軸となるでしょう。つまりミサイルやら戦艦やらでは対処できないものです。これに対しての対策は、安倍内閣はなんら考えられておられないようです。

浄水場にサリンを撒かれるとか、田畑に毒物を散布する、原発に時限爆弾をしかける。などなどいくらでもあります。

しかし、よく考えてみると、日本はこうしたことを考えていない、考える能力がないから、そういう事態に巻き込まれなかったかもしれません。つねに身の安全を細かいところまで心配している人のところには、それに応じた危害が加えられるものだからです。

それでこの四つのケースがなぜ生まれてくるのかということを考えてみましょう。3と4は国連の安全保障活動に参加するからおきることです。何度もいうように国連は、軍事組織です。戦争をするために作られた機関です。だから参加しなければいいだけの話です。

憲法9条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とあります。

正義と秩序を基調とするから、戦争が起きるのです。「俺は正義だ、オマエは悪だ」ここから戦争ははじまります。「改憲は正義だ、護憲は悪だ」その逆も同じです。

さらに憲法では、国権の発動たる戦争はいけないが、国際社会の協調の為には、国連の発動たる戦争は、正義だから人を殺してもいいという理屈が成り立ちます。この憲法は、日本が敗戦したから押し付けられた憲法です。戦争にまけたから押し付けられるのは当然です。だから連合国(=国連)は正義なんだよと、日独は悪なんだよと、日本国憲法でも国連憲章でも、このような規定になっているのです。

だから「戦争をしてはいけない」という考えの人が憲法九条を守ろうというのは理屈がおかしいのです。そして、日本は憲法9条があるから、国際社会でいつも恥をかくというものおかしいのです。
なぜ、我々はこうした無益な戦いに巻き込まれてしまったのか。というよりも、この二つを論じている人というのは専門家的な人ばかりです。つまり、一般の圧倒的多数の人々は、どちらかというとどちらの極にも偏っていないです。つまり、迷っているか、どうしたらいいかわからない曖昧なままになっているのではないでしょうか。

なぜなら、この二つの極には解答がないからです。どちらも幸福への方法が記されていないからです。

それで3と4は国連部隊に参加しなければ話はすみます。でも問題は1と2です。

1のとき、米軍が攻撃を受けたのであれば、当然に自衛隊は敵国に対して防御のための攻撃をくらわすべきであると私は考えます。警察の行動はまさにこれです。

ただ現代のテロリスト式戦争時代においては、その敵国が敵国なのかどうかわからない。あるいは少年兵だったりするときもあります。そして、それは敵国の軍隊としての少年兵ではないかもしれません。民間の子どもかもしれません。そのときの方法は現場の自衛官に任せるべきと思います。

2のとき、例えば北朝鮮が米国に向けて弾道ミサイルを発射したとします。これも1と同様に自衛隊が打ち落とすべきでしょう。これも警察の行動と同じです。

ただ、このような単純なことは現実には起きにくいことでしょう。もっと現実には複雑な要素が絡んできます。

北朝鮮がミサイルを発射した事があります。しかし日本の手前でポシャンと落ちました。これは石破茂元防衛庁長官が発言したずっとあとのことです。

石破氏は大臣時代にこのように言いました。北朝鮮がミサイル発射しなくても発射前にその確認が人工衛星などでとれているのならば、その発射台を叩く事は自衛の範囲内であると。

それであの事件の時に、発射前にすでに日本政府は米国より、発射する情報をキャッチしていましたから、発射台に向けて自衛隊なり米軍は攻撃する事が可能だったわけです。北朝鮮はそれを待っていたのかもしれません。そして、これは人工衛星なんだと言いがかりをつけて日本に謝罪を求めさせるという手だったかもしれません。

いずれにしてもあの国が、こうして日本に悪戯をしたがるのは、国内での結束を固めるためです。これは中国にもいえます。なぜそのようにしなければならないかといえば、政府が自らの権力を維持したいがゆえに敵がほしいわけです。

なぜ権力を維持させたいか、そこに資本主義というものがあるからです。富が蓄積できるからです。北朝鮮や中国は資本主義国家です。なぜ?と思うかもしれませんが、彼らがやっていることは政府型資本主義経済です。資本を政府に集中させる事によって、彼らには旨みを持ちます。こうしたことが戦争を引き出す要因になっているのです。だから、憲法を守ろうと、自衛隊を強化しようと平和には近づきません。

だから自然主義経済が重要であると言っているのです。つまり富を蓄積させずに誰もが豊かになれる社会を作れるから、一箇所に儲かっている人は必要ないというわけです。これが国家政府を発生させた要因だからです。1と2を根絶する方法は自然主義経済を実施する事です。