おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

ロビンソン物語の解説

2007年05月20日 08時02分12秒 | 財務金融
「自然主義経済は実現できたらいいね」とかそのような甘いものではないことを認識していただきたいです。

つまり、これをしないとどんなことになるのか。賢明な人間が、今後の世界人類の展開を予測していれば、当然に自然主義経済に帰結するだろうと考えられるからです。そして、これは単に一経済政策の問題ではなく、戦争と平和、福祉、教育、地方自治、財政、治安ありとあらゆる分野に及びます。

だから今は泡沫政党扱いで、かなり舐められてはいますが、これは時間の問題です。徐々に人類は、現代の行ってきた矛盾に目覚めるでしょう。

そして、今までの常識から超大規模なる大転換がなされます。世界観・価値観がだいぶ変わります。今日までみなさんが地球の周りに太陽や星が回っていると考えているのと同じように、お金に利子がつくのが当たり前だと信じています。そして、お金で全てのことが可能であるとまで言う人までいますが、こうした考えは打ち砕かれます。すでに、社会にきしみが出てきているからです。

なぜ平和党がどこの政党とも近くないか。どこかの既成政党やミニ政党の二番煎じではないかということがよくわかると思います。

板垣退助結党の自由党ができて明治以来多くの政党を輩出しましたが、ここに気づき、新たな政治イデオロギーを提唱したのは平和党が近代史上初となります。そして、これは実現されます。


ここではロビンソン物語の解説をしてみます。
(原注1)事は自明でありながら、自明であればこそ、今日まであらゆる利子理論家は、かかる利益を認めることがなかった。プルードンでさえ見過ごしたのである。
 
プルードンとは、19世紀フランスの社会主義者です。彼はアナーキズム(無政府主義)を唱えました。しかしながら、そんな人でも利子が当然にあるだろうと考えたものの見方をしています。

つまり政府がない状態を理想としながらも、現実的には利子がないとうまくいかないだろうと考えた人です。ようするに誰もが、利子というものは当然に存在するのだという大前提のもとに、近代以降、ありとあらゆる政治思想・経済思想は成り立ってきたわけです。でも、それが自然界との対話を考えたならば、全くもって無理が生じるということを誰もが見過ごしてきたのです。
(原注2) クヌート・ヴィクゼル『価値、資本および利子』83ペイジ。「しかるにベーム・バベルクは現在財は必要とあれば将来のために『保存しうる』のであるから、少なくとも将来財と同等であると主張している。これはおそらく大きな誇張というものである。ベーム・バベルクはこの法則の例外、すなわち、氷や果物などの、損なわれる財に言及している。しかし、どのような食料品にも、そのことは例外なく高かったり低かったりする程度で妥当しているのである。確かに、こうした財は、将来のための保管に特別な労苦や配慮を必要とせず、しかも危険にも会わないような貴金属や宝石類という財とは違っている。しかし、それらにしても火災やこれに類する災難によって失われることもあるのである」(今日、銀行は金や宝石、有価証券保管用に、個人向けの特別な個室を用意している。しかし、それには賃貸料を支払わねばならないのだ。その金額分だけ、「現在財が将来財に」及ぶということはないのである。)
(現在持っている財産)=(将来持っている財産)
この方程式が成り立つものには、何があるでしょうか。
腐らないもの、なるべく保存のきくものです。ワインなどは熟成させたほうがいいでしょう。

そうするとワインなどの場合は、
(現在持っている財産)≦(将来持っている財産)
になります。

しかしこれは正確には、
(現在持っている財産)+(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)=(将来持っている財産)
です。

そして、必ずしも(現在持っている財産)+(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)が変換して、おいしいワインができるとも限りません。火災・地震などの災難がおきて失われる可能性もあります。だから、そのために(保管の手間・貯蔵に使用するエネルギー)のために保険料がかかってきたりもします。地代も家賃もかかっています。そのときの人件費もかかるでしょう。

時間の問題を入れずに今日の経済学はできています。我々は三次元の人々なので空間しか考えないで、時間の問題を見過ごす事が往々にしてあるわけです。

それでは宝石の場合はどうかとなります。
これは
(現在持っている財産)=(将来持っている財産)
が成り立つじゃないかと。
そして保管するにも、費用をかけずに、しかも、盗まれないように自分の庭の誰もわからないようなところに埋めているとします。

それをなぜ彼が埋めるかと言えば、一つはその宝石をお金に換えれば高値になるということであり、もう一つはそれは将来にわたってもその高値であろうということからです。

ここでの確実性というのは、今売れば高値であるということです。将来、自分は死んでいるかもしれないし、宝石そのものに価値を見出さない世の中になっているかもしれません。あくまでも「かもしれない」です。だからそのとおりかもしれませんが、今はっきりとわかっていることは、今売ったら高く売れるということだけです。つまり現在のほうが保障の価値は高いのです。ということは、その時点では、
(現在持っている財産)≧(将来持っている財産)
ということになります。

そして将来、たしかにその価値が保存できていて、過去に売ったときと同じ価格で売ることができたならば、
(過去に埋めた財産)=(現在掘り出した財産)
です。

だけれども、その保存していた間、彼は「将来無価値になってしまうかもしれない」というリスクを背負っているわけです。

競馬で考えてみましょう。Aは馬券を買おうとしています。

そのレースは一頭だてです。単勝は一通りしかありません。オッズは0.75倍です。なぜ一倍ではないかというと25パーセントは胴元が持っていくからです。そのレースをやるのにも諸費用がかかるからです。宝石を土に埋めた場合には、それなりの労力がかかっているでしょう。
ここに100万円投げ込んで、レース終了後に75万円受け取る。こんな馬鹿なことはしません。

では百歩譲って、胴元が金をとらないとします。
そうすると100万円は100万円として返ってきます。得もしていないし、損もしていない。財産が保存できたからよかったと考えられるでしょうか。

レース前に馬券を買うときに、彼はその100万円を使って飲み食いもできるし、他のギャンブルの楽しみもできます。つまりレース前にはいろいろな可能性があったが、彼は馬券を買うという1点に絞り込んだ事によって、そこに拘束されています。

では彼と同じように100万円持っているBという人間がいて、彼は馬券を買わずにAを眺めていたと。馬券を買おうと買うまいと結果は同じです。

だからこそ、将来にむかって、それはリスクであるから利子をつけましょうということになります。

今100万円を使わないで銀行に預金します。利子がつくとします。今はつきませんね。なぜかというとこれは資本主義の末期だからです。今後、高い預金金利がつくことは永遠にありえません。そろそろおしまいだからです。

だからここではバブル時代、かつて宝くじで3億円当てたら利子だけで一生食べていけると信じられていた時代のことを考えてみます。

金利5%とするならば、3億円預けている人は一年後に1500万円、百万円預けている人は、一年後に5万円受け取れます。元金はどこにありますか。銀行にあるでしょうか。確かに通帳には3億円なり、百万円なり、数字としては書いてあります。しかし、最初に日銀券として預けた紙幣は、銀行の手許を離れているでしょう。また、利子で得た収入の中からも税金で引かれていますから政府や自治体に流れています。
 
で、銀行はどこにやったかというと、企業などに貸し出しをします。返済のときに利子をつけて返してもらいます。それで銀行は成り立っています。

私は子どものときにこれが理解できませんでした。つまりなぜ我々は銀行にお金を預けるだけで、利子をもらえるのか。その利子はどこから調達してくるのかということです。なるほど、銀行は企業にお金を貸してその利子をもらって、それで我々にその一部を利子としてもらえるんだなと、ある年齢にいったときに皆納得するのですが、私には釈然としないものがありました。

なぜなら企業は借りたときよりも、より多くのお金、つまり利子分をつけて返します。ということは、借りたときよりも返すときのほうが大変です。これは企業経営者でも消費者金融で借りた人でもわかるでしょう。でも、その返済すべき利子分はどこから得るのかということです。

どこかにブァーッと分散した不安定なところから収入を得ると、人は理論がうやむやになるのです。

そして平和党を作ってからよくわかりました。そんなものはこの世には存在していないんだと。

でも、こういう言い方ができます。借り入れのときよりも、返済のときのお金が多いということは、経済全体として成長する。伸びていく。つまり前年度よりも国内全体の経済がよくなる・・というのがあります。これが経済成長だと今まで言ってきています。ということは自転車操業です。最初のうちは、いいけれども、そのうち自然界に存在している物質と、お金とが等価にならなくなるでしょう。では将来の富であると仮定して、それはどんどん先送りを作り出します。

よくわかりませんね。みんなこのへんで考えるのをやめて「ああ、そうか」と思ってしまうのです。竹中平蔵氏の書いた漫画の経済学の本なんかを読んでもそう思います。つまり、どこかで思考を停止させてしまう。根源までいかずに、これは昔からこうなっているから・・ということで、どの経済学者も終わらせてしまっているのです。

だから、よく国の財政赤字の問題で、「将来の子どもたちに借金を残すな」とか言っている人がいますよね。一方で、現代のプラス利子制度を認めているというのは大いなる矛盾なんです。

それで現代まですんできたからいいけれども、今の経済社会がおかしくなってきているのは、こうした思考の停止が原因だと思うわけです。つまりずーっと政府は、財政注入、金融介入をやってきて日本経済は成り立ってきたが、それがどうにもうまくいかなくなった。

これは今まで言われてきた経済の法則とは違う事になってきた。あきらかに違うことはわかっているのだけれども、いったいどうしたらいいのだろうと。だから古典経済学に帰って、政府はなるべくタッチしないほうがいいんじゃないかと、小泉・竹中の構造改革というのはそういうことです。とりあえずわからないから昔に返ってみたのです。そうしたら案の定、格差社会ができて弱肉強食の市場経済ができてきました。これは結果的にはみえています。けれども、他にやりようがない。しかも小泉さんの場合は、田中角栄憎し・竹下登憎し・橋本派憎しできていますから、それに輪をかけて徹底的に利権政治をつぶしにかかった。

だけれども、古典派経済学をやろうと、ケインズ経済学・利権政治をやろうとも、あるいは社会民主主義にしてみようと、果ては共産主義にしようとも、全ては同じ土台。即ち資本は強く、お金はモノよりも強い。プラス利子である・・・ということに最大の要因があるのです。それで、これまでにこうしたことを言うことはアホじゃないかと、言われてきたわけです。それにそんなこと言う人間もいなかったのです。でも、こうして平和党として現れてきました。

つまり今まで根源となる部分について、誰もが無視してきました。だから、マイナス利子の自然主義経済なんて絶対にできっこないといっている人、今まで多くいましたね。彼らとブログで議論していると、いつのまにか答えられなくなって、いなくなってしまうんですよ。

よくわからないというのは、悪いことではないし、これから発展的なものにつながることです。ただ、人間は思い込みが先立っています。だから、どうしても平和党の言っていることは否定したいと思っているでしょう。でも理屈が成り立たないのです。どの人もみんな。

抽象的に「そんなんじゃダメ」とか「タコ部屋みたいになる」とか「原始共産主義になる」とか言っている人はいくらでもいます。でも、どうしてどういう過程でそうなるのか、全く説明ができていません。ただなんとなくダメだ。俺はそんなもん見たことないから無理だとか、なるほど見たことがないとわからないというのであれば、資本主義の破滅を待つしかないでしょう。これでは政治の役割を果たせません。政治がなぜゆえに存在しているのか。人々の幸福を作るためであり、危機的状況があればいち早く察知して回避するためにあるのです。

彼らは、今後も経済成長が永遠に続くと思っています。それは続かないものだと私は証明できます。しかし、自然主義経済を否定し、まだまだ永遠に経済成長が続くというのであれぱ、自然主義経済によってどのように経済破綻が起きるのかを説明できなければなりません。でも、いずれの人も説明ができません。これはケインズにおいてもそうです。そして、最終的にはケインズ自身も、資本主義が終わることについては認めています。マルクスも、アダムスミスもシュンペーターもワルラスも、ほとんど多くの偉大な経済学者は、資本主義に限界がやってくることについて書いています。

でも、そのあとに何がくるのかがわからない。マルクスが提唱したのは、単なる別の形の資本主義です。そして、これは自由を認めないがゆえに真っ先に消滅しました。今度は資本主義が終わります。

政治家・官僚は経済政策を考えるときに、政府寄りか民間寄りかを考えます。ところがここに落とし穴があって、どちら寄りであろうとも貨幣の本質を変えない限りは同じなわけです。ここを誰もが見落としています。そして、このような政党が今まで存在してこなかった。みなが資本から物事を考えているからです。
 
労働力は利子(剰余価値)の源泉である。貨幣を資本に転化させる利子は貨幣に起因することはありえない。

貨幣が交換手段であることに間違いなければ、商品価格を支払い、商品を購入する以外のことをしはしない。

貨幣がそのように変わらずにあり続けるならば、価値を付け加えることはない。

それゆえ剰余価値(利子)は購入され、より高価で販売された商品に由来する。

この変化は購入においても、販売においても発生しない。

これらの行為においては、いずれも等価物が交換される。

それゆえ、商品を購入して使用し、再び売却することによって、この変化が起こるということは依然、た
んなる仮定として任意のものである

(マルクス、『資本論』、第6章)
漫画だともっと簡単なセリフで終わらせいました。

「物やサービスを余るほど生産してその余りが利子を作るんだろう?」「NO」
「では、商人が仕入れ値と売値に差をつけるせいか?」「NO」

となっています。

それでロビンソンはこれについて理解できないわけです。マルクスの資本論を引用しています。つまり、マルクスは資本主義者だったということです。資本主義というのは、民間とか政府とか関係ありません。とにかくお金がプラス利子に働くことが資本主義であるということです。


訪問者、漫画ではメンサナ青年が、「利子の発生は貨幣が原因」としています。しかし、誰もがロビンソンと同じように貨幣は単なる交換手段であって、銀行に預けたりしているから、利子というものは発生すると信じています。ほとんどの人は、貨幣と利子は別の問題であると考えています。


だから貨幣がある限り、利子は発生するといえます。つまり物々交換ではないから利子が発生するということです。でも物々交換はとても不便です。だから、貨幣にマイナスの利子を与えるということです。

では、仮に、「マイナス利子の貨幣では私は売りません」といったお店があるとします。それは自由です。逆に、「マイナス利子の貨幣でも私は売ります」という店があったら、どういうことが起きるでしょうか。マイナス利子の貨幣を持っている人は、早く手放したいからそちらへ行くでしょう。売りませんといっているほうは物が売れなくなります。やがてつぶれます。しかしマイナス利子貨幣を利用しているお店は、自ら得た収入もまたすぐに手放さねばならないのですぐに物を仕入れたり、経費の支払いをするでしょう。

なぜ、こんな簡単な事を人々は「ありえないこと」といってレッテルを貼るのでしょうか。今までの考えを全て捨てなくてはならないために、嫌な気がするのでしょう。規制緩和によって利権構造を破壊された人たちと同じ気分を味わうからです。今まで学んだことが覆ってしまうので人々は抵抗を持つのです。しかし、それは時代の転換期にしなければ、次の未来を作れません。

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