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日本新党分岐点時代

2009年12月06日 20時02分15秒 | Weblog
先ほどの斉藤次郎元大蔵省事務次官の件で思い出したが、細川政権当時の私は日本新党党員であり、日本新党という政党は当時絶大なる人気を誇りながら岐路に立たされていた。

細川連立政権は、社会・新生・公明・日本新・民社・さきがけ・社民連の7党と参議院の民改連という1会派より成り立ち、政府と与党の二元化が始まっていた。

各連立与党の党首は、全員入閣しており政府を構成し、院内では各連立与党の幹事長・書記長クラスが「連立与党代表者会議」を構成し、全てはその代表者会議によって決められた。その取り仕切りは主に与党第2党の小沢一郎新生党代表幹事がやっており、副に与党第3党の市川雄一公明党書記長があった。与党第1党の赤松広隆書記長と後任の久保亘書記長、首相(細川護煕)・官房正副長官(武村正義・鳩山由紀夫)を出しているさきがけ日本新党はほとんど無視された。

現在の民主党政権が「政府一元化」を言うのはこの時の小沢一郎独裁を反省してのことである。

当初は、「新生・公明」の一・一ライン対「社会・日本新・民社・さきがけ・社民連」だった。

民社は日本新党の友党であったからこちら側だったし、大内啓伍委員長は反小沢であったから良かったが、代表者会議の権限が強くなると米沢隆書記長の発言権が増して、ワン・ワン・ライスと呼ばれ小沢・市川グループに入った。もともと民社は安全保障政策において軍拡思考であったから、小沢のタカ派政策と共鳴した。そこから小沢に付いていったのが当時民社にいた西村慎吾である。

その後、社民連は江田五月代表(科学技術庁長官)と阿部昭吾書記長が日本新党に、菅直人政策審議会長がさきがけに、田英夫顧問が社会党系に別れたが、基本的に「さきがけ日本新党」及び「社会党・護憲市民連合」は連立与党内で、小沢路線に対抗していた。

小沢は極度に社会党と労組を嫌い、次の総選挙を新・新党で戦うにあたっては次々労組系を排除する方針を決めていた。

小沢にとって許される労組とは、小沢路線に従う友愛系の民社党支持労組の団体のみで官公労系を叩き潰す。また、武村のような親中国路線を嫌い、アメリカ式の自由主義路線を基調とした。

このとき、日本新党は股裂き状態にあった。日本新党は総選挙でさきがけと合併することを公約している。しかし政権を取ってみたら、反目していた小沢と細川代表(首相)が近付き、細川日本新党と武村さきがけは別れつつあった。

小沢は、連立与党内に社会党系が多いことを厄介に思っており、なんとかして日本新党を新生・公明側に引き寄せたかった。

小沢路線というのは、人と相談しないで自分だけで決めていくことであり、斉藤次郎事務次官など官僚トップの意見を組む運営であった。これに対して、さきがけ日本新党は議会による民主的運営、官僚支配から市民支配へという考え方であり、小沢の新国家主義に対抗していたのだが、日本新党から続々と小沢に寝返る人間が増えていった。何しろ、日本新党の政治家というのは全員当選回数が一回という初心者ばかりであったから、小沢の懐柔にどんどん飲み込まれた。小池百合子や河村たかしなどはその典型である。中田宏、山田宏などは細川代表が行くからとしぶしぶ付いていった。

一方、小沢のカネ支配に逆らって、日本新党からさきがけに移動したのは、中島章夫、小沢鋭仁、五十嵐ふみひこ、枝野幸男、前原誠司、高見祐一、荒井聡などであり、遅れて自由連合経由の石井紘基であった。

小泉晨一は細川別道で自由連合結成に参加した。

それで、日本新党はバラバラになり、その本体は新進党になるわけだが、私の周りなどは、みなさきがけに入った。そもそもの筋論から考えれば、日本新党はさきがけとの合併が公約であり、小沢一郎のような自民党の最も膿の部分や、宗教団体のトップダウン政党である公明党と合流するのは、国民が期待したことに反するというものである。

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