最近の傾向は、安倍内閣をはじめとして、「自称保守論陣」を語る人々が、どんどん日本人的なるものを捨てていっている。
反日勢力を斬るのもダメ教師を切るのも別にいいが、こうしたものが本来の保守とは、大いにかけ離れていっていることに、気づかない世論がまさに今存在している。
『なぜニッポン人は美しい風習を捨てるのか―親日家8人からの熱きメッセージ 』では、むしろ外国人のほうが日本の古き良き伝統に気づいていると思う。
これは、日本人がいつのまにか西洋化されているにもかかわらず、自覚症状なしに溶け込んでいて、自称保守愛国者たちが、全く日本的ではないものを、日本の伝統なんだと勘違いしているところから始まってきている。
西洋のものを受け入れるという面において、つまりその許容性の高さにおいては、日本人の伝統を守ってはきてはいるのだが、西洋一辺倒になっている。
というのがビル・トッテン氏の書いたもの。
彼は和服を着つづけている。日本の気候風土には和服が最も適したものであり、それまで日本がしてきたことというのは、服飾文化に限らず、全てが理にかなっているというもの。
彼は和服を着つづけている。日本の気候風土には和服が最も適したものであり、それまで日本がしてきたことというのは、服飾文化に限らず、全てが理にかなっているというもの。
だが、形式的にだけ日本の伝統を重んじている自称保守主義・自称愛国者ばかりで、結局西洋式の国家思想を土台に物事が考え出され、そして議論がなされている。
なぜ神社神道が存在してきたのか。彼らの発想は、うわべだけの神道の考えであるので、論理破綻を多く起こしてきている。つまり自然と調和した政治思想になっておらず、排他主義に基づく「自分の考え以外は排除されよ」という切捨て型が横行しているのである。
次に道教についてだが、これは西洋式の資本主義とは相反する考え方を持っている。「天皇」という尊称も道教に由来している。自然は循環して全体のバランスを保つが、人間社会はその逆を行こうとする。だから戒めている。
仏教でも同じく、輪廻循環を説いているが、現代の保守思想というのは西洋型資本主義の保守であり、西洋式の経済体制、一直線で生産から廃棄まで向わせ、他に自分とは違う考えのものがあれば、痛めつければよいというものだ。
安倍首相には、日本の本来持っていた叡智なり伝統なりを開花させる力はない。なぜなら大きな勘違いをしてしまっているからだ。
彼の考えている保守思想とは、明治からの日本の伝統であり、西洋の真似をすることが発展だと考えられたときからの考えだ。だから、実に歴史の浅い保守なのである。
江戸時代の武士道というのは、「さやのうち」という考えがあり、統治機構にもこれを取り入れているがゆえに260年の平和が続いているが、明治以降に曲解された武士道は、人を斬ることを考えている。これは西洋思想が流入されたからであろう。だから、大きな違いがあるのだが、自称保守・愛国者たちが考えている武士道は、伝統的なる考えとは一線を画している。
日本をどうすべきかと考えた場合に、江戸時代以前からの歴史と伝統を連続的につなげていく事が本来の保守であるはず。だが、彼ら自称保守の人々こそ、歴史を分断して考えてしまっているのである。
これを日本人に気づかせてくれるのは、冒頭述べた著書『なぜニッポン人は美しい風習を捨てるのか―親日家8人からの熱きメッセージ 』である。
安倍首相は「美しい国」を言うが、その内容は、かなり日本の伝統たる美しい国のあり方を切り捨ててしまい、西洋式を身にまとうことが保守であると大きな勘違いをしていることに、なぜ誰も気づかぬのだろうか。
箇条書きに要点だけ述べると、彼らはいずれも
●神社神道を形式上、尊んでいるが、あくまでも儀式としてだけである。自然との調和・環境と経済がいかに共生できるような経済政策を立てているかという点においては全く逆の事をしている。
●日本国家に歯向かうものには、国内・国外を問わず罵倒する。人々の多様性を認めない傾向にある。つまり自分たちと同じ考えでないものは排除されて当然だという一神教的なる考えをもっている。
●国家のありかたとは、明治維新以降に舶来されてきた社会科学上のものを国家と呼び、それらを基準としている。したがって、同時に故郷心というものはなくなってきている。もしも存在するとするならば、それはいかに地方を金銭的に潤わせるかという現世利益的なものばかり。
●自分は正義であり、もしも悪なるものが存在していたならば容赦なく斬りきざみ、その後のことはその斬られた人間は好きにするがよいと考える。更正するような面倒はみない。死んで当然であると考えている。つまり思いやりがなくなっている。弱者に対する配慮もなくなった。弱そうな人間をみつけてはいたぶろうとする。
このようなものに成り下がった、現代の政治思想だからこそ、本来の日本の伝統・文化を継承する保守政党というものが必要になってくる。
そこでの理念は、
●日本国内に点在している神社神道は、人間が自然と調和していくためにこれまで続けてきたもの。電位を計測しても、ほとんどの神社で還元型の結果が出ている。これは死にそうなものを蘇生する力がその土地に存在している事を科学的に証明しているものである。だから、都市であろうと農村であろうと、自然と調和した経済社会を作る必要があり、その恵みについて地域の神に感謝すべきである。そのためには、現在の破壊型資本主義経済体制をやめて、自然の摂理にほど近い「自然主義経済」になおす必要がある。
●全ての人々の考え、全ての政党が求めているものを尊重し、全ての考えが反映されるようにする。これを西洋式の政治学では不可能であるとしている。多数決原理の考えだが、これは物事を二極に分けようとするから生まれる問題であって、無イデオロギー、八百万の神々の視点に立てばいずれも可能なものである。
●国家のありかたとは、それぞれが自分たちの地域を大切にすることであって、その集合体が日本国である。抽象的概念たる大規模な日本国家から物事を考えれば、愛国心には程遠くなる。西洋式の国家の考え方も存在してもいいが、これらを主軸とすると破滅が待っているだけだ。
●聖徳太子は和をもって尊しとした。これは第一条に掲げられており、全てに優先する事である事を教えている。平和とはこうしたところにあるのだが、現代は平和主義なるものが争いごとを作っている。そして、これら和の考えというのは、相手に対する思いやりから始まっている。決して学問ではない。
他人の考えを認めず、「これだけが正しいのだ」ということを押し付けてはいけないということだ。だから、どのような考えも存在していいと考えなければならない。そんな政治制度なんてありえないと多くの人は言うだろう。しかし、それが西洋式にしみついた政治学なのだと平和党は言う。
こうしたことというのは、おそらく日本人同士で話しても、いっこうに切り開けないような気もする。だから外国人が、日本のよさというのはどこにあるのかという論評を多く目にすることは大事だと思う。
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