大好き!藁科川

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いよいよです!七草祭りがやってきます

2010年12月16日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区・日向では、あちこちの掲示板にお祭りのポスターが貼られはじめました。

「七草祭り」です。

県の無形文化財に指定されていて、400年とも言われる由緒ある田遊び系の民俗芸能。
旧暦の一月七日、来年の2月9日に日向・福田寺の境内で開催されます。

私の友人も踊り手として参加し、そろそろ練習が始まる模様。
戦争の時も絶えなかったとされる村の人々が大切に受け継いできたお祭りを、ぜひぜひこの機会、お見逃しなく!

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『七草観音堂の田遊』

いまは静岡市に編入されているが、元の安倍郡大川村の日向(ひなた)にある、七草観音堂の田遊は、旧暦正月七日の夜にはいってから奉納される。昔、ここに旭寿山福田寺という寺があったが、荒れ果てて観音堂だけが残った。そして一月七日に田遊が奉仕されることから、その踊りを七草踊、観音堂の名も七草観音堂と呼んでいる。

この田遊は、まず前日の六日に当屋(とうや)で祭典の準備がなされ、二人が浜に下って、海水と海魚、海草などの供え物を求めて来る。夜になっての全員が会食し、踊の稽古にはげむ。これを「舞揃」という。ついで七日に、夕刻から夜半にかけて本踊が営まれる。踊り手は六人で、いずれも「福」の字の紋付麻袴を着用する。この福の字は福田寺の頭文字の福をとったものである。浜行きは一人で、塩花をとって来る。若魚売も一人で、生魚をになって出てくる。駒は二人で、演技中、駒囃子の折り、ともに白衣を着、若駒に扮して登場する。鳥も二人である。

囃子方は笛一人、太鼓一人で、演奏中に拍子をとる。なお読者が一人いて、「数えもの」と称して、演奏の音頭をとり、一種の長い歌詞を朗詠する。最後の読者に限り、昔は同所の白髭神社の社人がこれに当たったが、その家が断
絶したので、同所の法印が代行するようになった。

この日は早朝に一同が本堂に集まり、僧侶がまず祈祷を行い、八将神の祭りなどがあって、日の出の祈祷をする。ついで夕刻までに、踊り子などが、それぞれ堂前の小川で七回水浴してから本堂に集まる。
六時に踊り手と祭典の係員が、舞台の上で円陣をつくり、歳徳神(としとくじん)を拝礼する。ついで笹竹一本を順次とって簡単な所作を行う。その笹は一番の踊り手が歳徳神の方へ行って、切ってきたものである。
次に、しで付きの烏帽子をかぶり、片手に扇をたずさえた紋付麻袴、脇差の六人が、交代で一本の竹を中心に、左回り、右回りを、おのおの三回繰り返し、歳徳神の方角にお辞儀をする。これを大拍子(だいびょうし)といい、地元では猿田楽と呼んでいる。

このあと、「駒んどり」がなまって「こまんず」といわれる舞が奉納される。相当長い文句で、養蚕の繁栄を祈願するものとしている。十三名の役員と舞い手が立って、それぞれ笹竹を立てて持ち、輪になる。そして歌いながら笹の先が中央で合うように動かす。その輪の中を、駒をかぶった二人が、三回回って出てゆくと、鳥をかぶった二人の若者が出てきて、また三回回る。次の順の舞では、指名された者が交代で一人ずつ四、五分舞い、表に日の丸、裏に絵のある舞扇と、鈴をとる。これは必ずしも同じ舞でなくてもよい。

そして役の一人が、仏前の塩水を参拝者たちにかけて回り、場内を清める。塩水をかけられた者は、一年のあいだ無病息災を約束されるという。また一人が米俵に魚を入れ、腰に大きな煙草入れを下げて、全く疲れ果てた様子で出て来る。そして土産の魚を舞台上の六番までの者に分ける。そして酒盛りをするが、この酒宴の姿こそ、祭りの本当のこころではなかろうか。

塩水で清めを行ったのち、今までと同じ舞をして一番から六番までの者が、太鼓をはさんで坐る。祭典長がうたう歌に合わせて、「福の種」とうたった時に、一番と六番が米を太鼓の上に蒔き、「鳥追いよ」と謡った時に祓いをする。この「かぞえもの」の奉読は、五穀豊穣を祈念するものである。最後に、六人の舞手が前回同様「猿田楽」を踊って、祭りは終わるのである。

「藁科物語第四巻」(静岡市立藁科図書館.平成6年)
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