大好き!藁科川

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坂ノ上薬師如来(「野山の仏」から)

2014年05月15日 | 歴史&文化
大川地区坂ノ上にある薬師如来について、「野山の仏」(戸塚孝一、金剛社、1963)から再掲します。

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『坂ノ上薬師如来』

 坂ノ上の薬師堂の裏山には、昔立派な寺院が建立されていた。いつの頃か、この寺院は火災に逢い、焼失してしまった。薬師堂に祀られている薬師如来は、鎌倉時代の作と言い伝えられているが、いまだに金色の光は失せてはいない。瑠璃光如来といわれるその名の如く、まばゆい威厳が感ぜられる。この如来の両側には十五善神の木像(多聞天王、広目天王、阿弥陀如来、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、大日如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、四天王、金剛手菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩)が立っているが、最初は十六善神であったといわれ、そのうち一体は寺院の火災の時か、あるいはここに安置されてからかはわからないが失われてしまった。如来の左右の二体は、特に黒く燻っているのは、火煙を浴びたものであるとの人々は語っている。

 薬師如来は須弥山(中央アジアのチベットにあって、インダス川の源となっているカイラス山のこと。ヒマラヤの大連峰続くナンダ・デヴィ<高さ七,八一六メートル、富士山は三.七七六メートル>の北西に当る秘境)の東方浄瑠璃世界に住み、十二の大願をたて。衆生の救済にあたり、無病息災長命を約束して下さる他に、衣服や飲食などを満足させて下るなど、現世的な利益を授けるといわれている。形像も右手は施無畏印のように掌をあげ、左手に薬壺を持っている。坂ノ上の薬師如来もこのお姿であり、眼病を治してくださる如来として名高い。

 立派なお堂は一九・八平方メートル(六坪)の大きさで、よく掃除が行き届いており、八畳の畳も新しく浄められ、さい銭箱や机も整頓されている。私たちがここを訪れた時、第一に驚いたことは、妻が「きれいですねえ」と感嘆の声をあげるほどの清潔さであった。ここからの人々の真面目な生活態度と信仰の深さがうかがいしれ、生涯を大切にして真剣に生き抜こうとする人々の心に触れたような気がしたのである。私たちの祖先の人々は、土に生き、土の歴史の中に生活を築き、そこに土の文化を生んできたのであるが、このの人々も今あなお土と水と太陽の懐に抱かれて暮らしている。このような日ぐらしでなければ作物も実ってこないし、樹木も成長しなち。の人々の切なる祈りの姿や魂がこのお堂の中に充満してるようだった。

 同行の友は合唱して如来を拝む時。「私には如来を拝む資格はない。もっと如来の慈悲に応えられる心にんばって、あらためて拝みにきたい気がする。」と、ひとり言のようにつぶやいた。金網に隔てられて触れることはできないが、木造らしい如来の坐像の尊い姿に心を打たれたのであろう。次に驚いたことは、眼病治癒を祈願した誓願書の多いことである。の人々に尋ねても「願をかければ、必ずなおります。」と言い切るのである。Proof of sureness ー確実の証明である。

「信心をば、まことの心とよむうえは、凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり、この仏心を凡夫にさずけたもうとき、信心といわるるなり。」-最要鈔ーと、の人々はこの言葉の意味を長い間の体験から会得したのであろう。素朴で真面目な人々の真心をこめたの祈りは、何事にもかえがたく尊いものであり、人々の必死の願いはなにかに感応しないわけはないであろう。私たちの肉体も肉体のみによって生きるものではなく、反面、精神によって生かされているわけである。「病気は気から」といい、ストレス学説や精神身体医学や精神療法の説かれるのも心が肉体に需要な役割を持っている証拠である。
 敬虔な心のうちに、絶対なるものを信じ、静かに、しかし、力強く土と一体となって生きる山の人々は幸せである。

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『耳地蔵』(「野山の仏」から)

2014年05月14日 | 祠・石碑
大川地区坂ノ上にある耳地蔵について、「野山の仏」(戸塚孝一、金剛社、1963)から再掲します。

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『耳地蔵』

 大川村坂ノ上は戸数百五十一を擁する村でも一番大きいである。ここは昔藁科川をはさんで、東西二つに分かれており、その各々に立派な寺が山沿いに建てられていたが、西の寺は現在薬師堂のある地点にあったし、東の寺は川の東の山腹の高地にあった。後者はその後比較的平坦な場所に移された。この東西二つの寺もいつの間にか廃寺となり、跡形もなく失せてしまって、古老の言い伝えを信じるより他なく、ただ墓地に残る墓標の存在によって、寺院のあったことを察するよりすべはない。村人の言い伝えを辿ると、尼寺であった東の寺はどういう訳か川を渡った西に属する今の富田新一さんの宅地内の川岸の地に移されたといわれる。昔、寺院の境内にあった地蔵尊と無縁仏塔が、道路ができて、道路沿いの今の地に移されて祭られて現在に至っている。

 この地蔵尊は約六五銭センチの坐像で、がっちりとしていていかにも頼もしそうな立派な姿であり、首に赤い小さなよだけかけをかけているかっこうは、ユーモラスであり、また、首におおきなおはたしの穴石をいくつもさげているところは、いかに肩幅が広いかっぷくのよい地蔵尊でも、「私はすこしまいったよ。」といいたげな表情である。野ざらしで祭られていた頃は、よく青年たちが、この思い地蔵尊の左右の耳の所に両手をあてて「江戸を見せてあげよう。」といって持ち上げて、力くらべをして遊んだものである。地蔵尊は子供らの遊び相手をつとめたとみえて、鼻も、目も、耳もほどんとかけて写真にみられる顔容となっている。昔はばくちうちが、焦眉に勝つために、この地蔵尊に願をかけたといわれるが、それよりも耳の病気をなおして下さる地蔵尊として古くから知られている。おはたしの穴石の数と大きさが、そのご利益のあらたかなることを物語っているようである。坂ノ上の小字の宇山には、発電所ができて用水路があるので、子供がここに落ちないようにお守りしてもらうために地蔵尊が建てられたし、南では子供の不幸を見た親たちが子供らのすこやかな生育を祈って子安地蔵が以前から祭られている。毎年九月一日には坂ノ上はあげて一日休み、この三つの地蔵尊にお参りをするのである。

 地蔵さまの信仰は、僻地にゆけばゆくほどあつい。この世の幸せを、なんでもかなえて下さる菩薩である信ぜられ、人間以上の力に頼って苦しみから逃れ、身の安全を願う人々の心が地蔵尊に向けられる。地蔵尊は現世の幸福を私たちに約束され、願いをかなえて下さる。それは地蔵尊は十福を持ち、十益を秘め、全知全能の大吉仏であり、一定の住所を持たず地獄、餓鬼、畜生の世界に苦しんでいる人間と共に暮らして、いつでも私たちを救って下さる菩薩であるからで、地蔵信仰は今日まで絶えないのである。
(一九六二.六.二四)

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