大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

日向232ピースの小宇宙

2010年12月07日 | 集落の地誌
年賀状のシーズンが近づいてきました。

相手先を記載するときに、○丁目○番地と数字で表記される現在の住所ですが、かつて使われていた字名といった地名を調べてみると、藁科川上流の日向地区だけでも、その数や「232」!。普段、何気なく目にしている風景や生活圏内が、これだけ事細かに見分けられ、名付けられていることに、とにかく驚いてしまいました。

大きな区分に名前をつけて、後は空間を数字で整然と区切っていくという現代の発想とは異なっているのでしょう。
地名によっては、近隣の名称と重なっていたり、含まれていたり、同じ地名の言いかえだったりするところもあって、区分は細かく複雑で、地層のように積み重なり、いわば一種の小宇宙です。
リストを眺めていると、山や沢、丘、くぼ地、石といった特徴ある土地の一つ一つに、形状や利用形態、似た形からの連想やその土地の由来、生き物との関係や村の中の力関係等によって名付けられ、土地の履歴に溢れています。

こんな地名リストを手にしながら、昔の村人の視線になって、どこがどの地名にあたるのか見当をつけながら歩いてみるのもきっと楽しいことでしょう。
さてと、家の地名はどこかな?^_^;

===================
『日向地区地名要覧』

1 まこもが原(小学校プール付近)
2 中川原(大川連絡所付近)
3 森の腰(宮の沢口、森林組合前台地)
4 切くい(かり道の対岸)
5 天神(籠沢奥)
6 和田(連絡所うらの台地)
7 小向(番田沢から籠沢の間)
8 竹沢
9 梅平(五郎右衛門宅地)
10 樋口(伝蔵宅付近)
11 下島(中村前の田)
12 栗原前(陽明寺西側一帯)
13 栗原(陽明寺西側一帯)
14 井ノ下
15 河ばた
16 助成(陽明寺前)
17 寺の下(陽明寺下)
18 おごう(栗原から川上一帯)
19 梅津(おごうから川上一帯)
20 田代
21 霜の間間(陽明寺前、県道下)
22 千田(白髭神社前台地)
23 堂下(安倍農協大川支所付近)
24 御堂坂(福田寺参道)
25 ひかげ島(農協対岸の台地)
26 堂木沢(不動ぼつの横の沢)
27 堂沢(福田寺の西側の沢)
28 原かいと(四辻付近の台地)
29 四辻(中村にある昔からの十字路)
30 家の前(日向郵便局付近)
31 寺やしき(かじや林内の庵跡)
32 中村(日向の中心)
33 家の軒(大川中学校の裏山)
34 家の上(中村をとりまうく裏山)
35 家の脇
36 家の下
37 関の平(城山西側の台地、昔の関跡)
38 矢平(諸子沢入口より湯島よりの田)
39 松の平(火葬場付近、藁科八社大明神の旧社地)
40 いも穴ぼつ(いっぼの対岸の山林)
41 川原田(下島の川沿いにあった田)
42 つかいど(簡易水道水源地付近、通称ぬくゆ)
43 いちやしろ(福田寺境内より藁科川へ突き出した台地)
44 うしめん(堂沢口、庚申塔付近)
45 久保田(栗原内にあり)
46 しょから田(中学校寮の前の川より)
47 石の平(しょから田の上方)
48 二ツ石(籠沢川のであいの対岸)
49 井の上(平太夫屋敷)
50 あじや(能又の内)
51 さわばた(茶荒にそそぐ沢)
52 かし穴
53 よき又(石だるから西方全域)
54 かたかし(能又の杉尾境)
55 みさご松(かり道の上方)
56 かまの口(能又の上流)
57 城山(小郷の対岸)
58 大芋地(杉の沢林道の上方)
59 青岩(籠沢の奥)
60 灰焼戸(畑色 東平の一部)
61 ひたいとりば(畑色地内)
62 やなぎ沢(沢ばたの対岸)
63 荷付戸(藁山の上方)
64 くわのたわ(夕暮山の南側)
65 六百地(杉の沢奥の小さなくぼ地)
66 奥ほその(夕暮山すそ)
67 えの木はたけ(横久保沢の南)
68 矢平びや屋敷(矢平の内)
69 こえんもう(本川根町境)
70 白ひむき
71 おうぎばたけ(畑色地内)
72 しい山(畑色地内の南側)
73 西沢たのうちど(籠沢奥、天神ぼつ)
74 むぎや○ひかけ(西沢の対岸)
75 中の平(くるみやぶの内)
76 こじろの段(萩の平の台地)
77 ところのおう(能又の中流)
78 ぬたのおばね
79 さすかわ(西沢の内)
80 ぼていはしば(休石とのだのだんの間)
81 なばりや(茶荒のむかい)
82 いちいはし田の敷(関ノ平内)
83 三八三郎(梅津の上方山林)
84 萩の平(中村上方の山林)
85 菖蒲のぬた(畑色地内、池の段内)
86 野田の段(西沢の上方)
87 市井橋(関ノ平内)
88 めおと石(能又の上流)
89 いやした(畑色下)
90 耳切れ(畑色の上)
91 そとむき(石だるの湯島側)
92 ほその(夕暮山の付近)
93 いぼごなら(籠沢奥の横久保付近)
94 うるしくぼ(西沢と諸子沢の境付近)
95 西沢(籠沢奥)
96 こうのいた(能又奥)
97 つつみのどう(切杭の内、天神沢出口付近)
98 栗の木山
99 藤代(玉川、栃沢との境付近)
100 彦蔵
101 奥平沢(畑色内)
102 水の段(畑色内)
103 あいもの久保(畑色内)
104 池の段(畑色内)
105 はしかけさわ(畑色内あいもの久保南側)
106 丸畑(畑色内)
107 かまぶちの上(原坂の間)
108 牛道(水の段の下)
109 勘次郎地
110 前林(大林下)
111 亀蔵地
112 いや沢(番田沢上流)
113 下栗(竹の沢の内)
114 ふろのたき
115 屋千辻(大川中学校裏山上の辻)
116 台の間間(霜の間間と同じ)
117 もちぶち(能又、かまの口)
118 ひっこし山
119 黒石山(道光)
120 たんでぼつ(畑色地内)
121 火打あら(萩の平東側)
122 大ぞうれ(野田の段下の通称33曲がり)
123 うさぎ石(休み石の上)
124 天山(萩の平と野田の段の間)
125 いしほとけ(篭沢茶荒の奥)
126 よし原(休み石の奥、ゆたん橋ともいう)
127 なぎばたけ(天山の一部)
128 よーぐれだけ(夕暮山)
129 鞍掛沢(横久保と栗の木山の境)
130 おかどう(和田の山頂)
131 きんぜい久保(畑色内)
132 ほつどの平
133 横久保(樫の木峠途中のくぼち)
134 井戸沢(麦焼石ととびのすの間を流れる沢口)
135 休石(篭沢の中間)
136 東平(畑色の上)
137 はたいろ(開拓地)
138 きりのくぼ(立石の向かい上方の山地)
139 たちらほつ
140 二つ石林(切杭と日陰島の間)
141 志なのたわ(栗の木山と向かい合う下側の山地)
142 つくえ平(篭沢、青岩沢との合流点)
143 からすのねば(畑色内)
144 まとふ(小向上の山林)
145 かり道(森林組合とおんせんの間)
146 はづのもと(沢ばた沢の付近)
147 蔵作山
148 ふめの森
149 のだけのほつ(杉の沢の東側)
150 くるみやぶ(道光)
151 大林(畑色下)
152 彦次山(野田の段の東側)
153 とびがみ(下栗の上の方)
154 杉の沢(篭沢堰堤のところ)
155 戸たて山(杉の沢の奥)
156 いね平場(道光ぶちの上)
157 かきのほつ(能又の奥)
158 茶荒(篭沢の中間)
159 れっちだけ(茶荒の向かい)
160 千田沢(堂下を流れる沢の流域)
161 よしの沢山(助大横の沢奥)
162 まあの久保(萩の平)
163 竹の沢(小向と千田の間の台地)
164 馬込山(開拓地)
165 猿小路(能又奥、釜の口山頂)
166 赤なぎ(めおと石と黒木山の間)
167 桃のくぼ(はずのもとの東側)
168 あかも立
169 上の山
170 杉の沢蔵兵エ地
171 岡堂山(かきのほつの隣)
172 とびのす(つくえ平の上)
173 一本栗(大林と畑色の間)
174 石だる(火葬場付近)
175 くろのたき(栗原の対岸)
176 ゆた橋(休石の上)
177 久太屋敷(関の平)
178 むぎ地の沢(大林と関の平の間)
179 道光ぶち(火葬場向かいのふち)
180 うばのふところ(番田屋敷の上)
181 つくろいば(いなぎ山の対岸)
182 上谷沢(立石むかいの山)
183 とっきん石(彦次の山の下方の沢ばた)
184 篭沢
185 いなぎ山(千田と竹の沢の間)
186 ひじりの段(能又、萩尾ぼつの上)
187 ねざさ(畑色内)
188 安永(和田とかり道の間)
189 切屋敷(上和田)
190 ひらば(畑色内)
191 むじな石(篭沢奥)
192 水の本(道光)
193 ほんじゃ(連絡所付近)
194 のみたち
195 森の久保(彦次山の内)
196 岩沢(番田沢の奥)
197 井口(二ツ石付近)
198 榧の木下
199 藁山
200 番田屋敷(小向入口)
201 天神沢(切杭地内)
202 ふるす(切杭地内)
203 天神前(切杭地内)
204 大岩(やなぎ沢奥)
205 黒石の段(萩の平山頂)
206 五輪段(切杭地内)
207 兵衛沢(千田沢の中流)
208 倉の段(いなぎ山と同じ)
209 南天板(堂下と千田の境)
210 原坂(中村との間)
211 不動ほつ(原坂の対岸)
212 うとう(栗原の対岸)
213 いっぼ(栗原の外側)
214 一本松(休み石の向側)
215 かーご沢(33曲がり付近)
216 だいきち(栗原のつづき)
217 たかうちど(彦次山)
218 みさき石(切杭と日陰島の間)
219 すなっとり(篭沢堰堤南側)
220 もみじ山の神
221 へびいし(むじな石手前)
222 善兵衛島(ほんじゃの川むかい)
223 大くぼ(杉の沢頂上)
224 きつね平(岡道)
225 くずれ合い(ところのう)
226 大やしき(能又の奥)
227 六郎平(かたがしとかきのほつの間)
228 三郎平(あじや)
229 久造島(めおといし)
230 なべふせ(かまの口)
231 水神坂(森林組合前の坂道)
232 御堂本(福田寺前)



『ふる里わら科八社(第二集)』
(大川寿大学講座受講生一同.静岡市中央公民館大川分館.1980)
======================
  

 




藁山の風

2010年11月18日 | 集落の地誌
藁科川上流の日向地内の藁山も、さらに上流の八草と同じように、今は人が住まなくなった集落です。

お隣りのトシさんに道を教えてもらって、畑色に向かう林道を途中右に折れて、そのまま未舗装の道を進むと、道は突き当たって廃墟になった家を囲んで茶畑が広がっていました。

茶畑自体は、人が通い手を入れていて、剪定が済んだ茶腹の向こうには、秋色をした山並みがすっきりと広がっていました。しばらくその広がる景色いっぱいを見渡しながら、ここに人がいた頃の声を風に聞いてみたりしました。

残念ながら帰り道さがした神社とあごなし地蔵が祀られているという祠の跡を、今回は見つけることはできませんでした。

=============
藁山(わらやま)

藁科川上流右岸の山間地に位置する。江戸時代の天明年間までぇあ一村を形成していたが、その後次第に村人が村を去り、江戸時代から既に過疎地の様相を呈していた。現在は小字になっている。
地名は藁科山を略して「藁山」となったという(駿河国新風土記)
[近世]藁山村
江戸期の村名。駿河国安倍郡のうち。幕府領。村高は寛永改高7石余、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに22石余。「駿河記」によれば、地内には古くは家数20軒ほどあったが、天明年間には6~7軒に減少したという。道光村と同様に生活困窮のため、村人が次第に村を去り他所に移住した。地内には神明神社があり、雑穀・竹木・茶・椎茸・藤布などを生産していたという(駿河志料)。
明治初年頃に日向村に合併、現在は日向の小字名。

注記(『駿河国新風土記』の著者新庄道雄は、「藁山」は藁科氏の居所があったところで、近くにある日向の「萩多和城」は藁科氏の山城という説を述べている)

「藁科物語 第3号 ~藁科の地名特集~」(静岡市立藁科図書館.平成6年)

===============

一点の灯・崩野の地誌

2010年11月15日 | 集落の地誌
谷をはさんだ向こうの山の中腹に、白い大きな建物が見える。

「あそこまで毎日この谷を、降りては登って降りては登って通っていたんだよ」

道を尋ねた崩野の人が、かつての楢尾小学校の校舎を遠く指指しながら教えてくれた。

「ここでは、ありがとうを“おおきに”ってまだいう人もいるんだよ」
目の前に広がる山並みを眺めながら、言葉の由来や集落の暮らしのこと、今は少年の家になった施設の利用法など丁寧に教えてくれた。帰りには、“もっていけ”と大きなシカの角を頂く。

「夜になると、この辺り真っ暗なるんだけど、明かりをともして待っててくれるんだ、とあそこの人は」

と、これも決して近いとは言えない、小さな谷をひとつ挟んだ登り尾の民家を指差す。
真っ暗な山道を抜け、ポッと灯る明かりにどんなにホッとすることだろう。
厳しい山里暮らしの中だからこそ、お互いのことが思いやれる、小さな心遣いが崩野には残っていた。


=====================

「崩野(くずれの)」

藁科川支流・崩野川の右岸斜面にあり、お茶や林業を生業としている。山間高地にあるため、崩野川対岸の楢尾集落が見渡せる。地内の農家の民家の赤い屋根が、緑の山々と溶け合い美しい風情が楽しめる。
曹洞宗宝光寺境内の観音堂(本尊は千手観音坐像)は、近年まで茅葺の屋根で、藁科地域に現存する数少ない古建築として貴重である。また地内の「月小屋」(生理中の女性が住む小屋)は改造されているが現存している。

[中世]
「崩野宝光寺境内は往古土岐山城守の居城せし所なりといひ、里人此処を土岐殿屋敷といふ」(静岡県安倍郡誌)とあって、南北朝には徳山城と関わる土岐一族の者が居住したと考えられている(静岡県の中世城館跡)。
遺構その他は不明であるが、智者山や千頭に至る中継地点として築かれたと想像される。

[近世]崩野村
江戸期~明治22年の村名。駿河国安倍郡のうち。幕府領。村高は寛永改高24石余、「元禄郷帳」95石余、「天保郷帳」96石余、「旧高旧領」95石余。「駿河記」によれば、家数32.寺社は曹洞宗宝光寺、白髭社ほか3社。
明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年に静岡県に所属。明治7年に宝光寺境内に洗心舎を開き地域の教育を開始したが、同11年対岸の楢尾小学校海禅寺境内に移転、同13年に楢尾小学校となる(静岡市立小中学校沿革の概要)。明治22年、大川村の大字となる。

[近代]崩野
明治22年~現在の大字名。はじめ大川村、昭和44年からは静岡市の大字。明治24年の戸数32・人口211.静岡市内でも有数な過疎地で人口が激減している。
崩野はかつて隣接した八草(平成6年戸数1・人口2)と一町内を形成している。
平成5年楢尾小学校が閉校したため、崩野地内の小学校は大川小学校に移籍された。

「藁科物語第3号~藁科の地名特集~」(静岡市立藁科図書館.平成6年)

======================

湯ノ島の地誌

2010年10月28日 | 集落の地誌
藁科川上流の湯ノ島には、その名もズバリ温泉が湧き出て、市営の温泉浴場があります。周辺はシーズンに応じて新緑や紅葉が楽しめ、湯質もよくゆっくりできます。大人一人500円。その温泉がある「湯ノ島」の地誌を以下に紹介します。


===============
「湯ノ島」

藁科川上流に位置する。地名は、昔ここから温泉が出て多くの人々が湯治したことにちなむ(駿河国新風土記)。旧大川村の時代までは「湯島」(ゆじま)と呼んだが、昭和44年静岡市に合併してから「湯ノ島」(ゆのしま)と呼ぶ。理由は、静岡の大字に「油島」(ゆじま)があり、ここと混同するためである。
地内は、「上・下湯ノ島」に分かれている。また玄国堂には、即身仏の伝承が残され、また地内にある江戸時代の稗倉は貴重である。

[近世]湯島村
江戸期~明治22年の村名。駿河国安倍郡うち。幕府領。村高は寛永改高23石余、、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに53石余。「駿河記」では家数35。寺社は曹洞宗宝積寺(ほうせきじ)、飯綱権現社ほか3社。
安永4年(1775)2月27日没した宝積寺住職の玄国和尚が、即身仏として当地に祀られたことが『玄国和尚伝』に記されている。明治元年幕府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年静岡県に所属。明治22年大川村の大字となる。

[近代]湯ノ島
明治22年~昭和44年までの大字名は「湯島」。昭和44年からの大字名は「湯ノ島」。大川村、昭和44年から静岡市の大字。明治24年の戸数34・人口194、厩1.
昭和63年から平成元年までの市による温泉掘削工事の結果、1,000mの地底より温泉が湧き出た。このため、平成5年から静岡市営として4番目の「湯ノ島温泉」の建設が進められ、同6年4月にオープンした。温泉開設に伴い「玄国茶屋」がオープンし、地場産品の販売や食事の提供等を行っている。

「藁科物語第3号~藁科の地名特集~」(静岡市立藁科図書館.平成6年)

================

天空の山里・大間の地誌

2010年10月26日 | 集落の地誌
藁科川最上流部の大間地区についての地誌を下記に紹介します

===================
藁科川源流の七つ峰(1,533㍍)の懐、標高800㍍の高地に位置する集落。静岡県内でも有数の落差を持つ「福養の滝」(ふくようのたきー落差130m-)がある。当地の開拓者は、信州から来た「砂(いさご)宮太夫」と伝えられているが、古文書や古記録などは現存していない。

福養の滝(別名磨墨の滝)は、古来より雨乞いの神事と深く関わっており、智者山神社と関係がある名瀑。
地内の産物はお茶・椎茸・林業が中心である。大間に車道ができる前は、湯ノ島からの寂しい山道が唯一の生活道であった。このため、お茶積みさんが往来していた昭和のはじめ頃の茶摘み歌に、「七つ小袖を八着られてもいやだ大間は霧の中」(焼津市豊田の古老談)と歌われたこともある。

地名は、名馬磨墨にちなむ「御馬」(おんま)とも言われる(梶原景時の生涯)

[中世]
大間の創始者砂宮太夫の寄進した不動尊には、「天文5年(1536)12月吉日旦那宮太夫・刀工弦心」(梶原景時の生涯)の銘を残している。

[近世]大間村
江戸期~明治22年の村名。駿河国安倍郡のうち。幕府領。村高は寛永改高10石、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに27石高。「駿河記」よれば家数14、柿・梅を生産。寺社は曹洞宗竜泉寺、牛頭天王ほか1社。
明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年静岡県に所属。明治22年大川村の大字になる。

[近代]大間
明治22年~現在の大字名。はじめは大川村、昭和44年から静岡市の大字。明治24年の戸数15・人口84.当地は藁科川水源に近く、市街地から車で1時間40分あまりかかる山間地であるため、静岡県の「中山間地農林業特別対策事業地」に採択された。これにより平成3年6月に農産物販売所「駿墨庵」が営業開始(現在はゴールデンウィークを除き休止中)。
地内から井川に抜ける県道「南アルプス公園線」も開通し、諸子沢に抜ける「峰線林道」が平成5年4月に完成。同年地内にごみ産廃場ができ、環境問題となる。平成元年静岡大学小櫻義明教授が当地に定住し、「わらしな川源流・大間の里大学村建設計画」を発表して注目された。その後「縁側カフェ」や「お裾分け農園」などユニークな地域おこしの活動が継続的に行われている。

「藁科物語第3号~藁科の地名特集~」(静岡市立藁科図書館.平成6年)

===================

切り開かれたパノラマ

2010年09月28日 | 集落の地誌
先日のガケ崩れの補修工事のため、県道60号線の鍵穴のところが通行に時間制限が加えられ、市街地へ出るのに畑色方面を回ってみました。

藁科川の左岸、県道が諸子沢入口と十字になっている交差点を左折。城山橋をわたり、暗い森の中を潜り抜ける一本道の開拓道路を縫うように登っていくと、山頂付近で携帯電話の鉄塔が終わりのサインとなって、明るい平野に道が出ます。

畑色です。

点々と道沿いに現われる家々を、すごろくのように辿りながらそのまま進むと、じきに一気に視界が広がる高原に出て、茶腹の向こうに、突先山(1,021m)を頂点とした対岸の山並みが屏風を広げる一大パノラマです。

この畑色は、戦後間もない頃に大川地区内で切り開かれた開拓地の一つだそうです。

遮るものがない景観に、森の木々を切り倒し、根をあげて、草を除き、土を耕し、耕作地にまで仕立て上げた、先人達の労苦がしのばれます。


====================
『大川開拓地』

昭和21(1946)年から、地内の馬込(まごめ)、畑色(はたいろ)、道光が開拓地に設定され29戸が分散入植。昭和22年、大川村開拓組合設立。畑色の開拓道路工事も同時に着手された。

1.馬込開拓地
馬込に至る道は、湯ノ島から入る山道だけで、全て入植者の肩によって物資が運搬されていた山中。標高700mの傾斜地に8戸が入植。47haの土地を茶園として出発した。地内に形だけの車道が開通したのは昭和41年で、その前年から電気の供給が始まる。昭和46年、静岡県補助事業として茶園造成と農道整備が実施され、経営の近代化と規模拡大を促進した。

2.道光開拓地
古くは家数15件あったが徐々に移住し廃村。昭和22年、畑色・馬込両開拓地から湯ノ島集落に下る谷間の斜面(標高400m)に19haが対象となり、地元次男、三男を対象に茶業を営む6戸が入植。現在は茶の時期に山の登り農作業が行われている。

3.畑色開拓地
藁科川の右岸、日向字中村の山の尾根(標高550m)に広がる19haの開拓地。眼下に日向の集落を見下ろす。昭和44年の台風で開拓道路は大崩壊した。このため道路が使えず、一時期は旧清沢村を経由した。昭和38年ごろから多角化経営の一貫として酪農経営を開始した。地内に「ウッドカッター畑色」が開業。

4.雨降松開拓地
昭和22年、諸子沢の平ノ尾から登り尾根伝いに進むと、標高500mの地点に雨降松開拓地がある。ここは諸子沢地内の次男、三男を対象に茶専業入植地として開拓された。現在は、この場所は人は住んでおらず、諸子沢方面から出張して茶の栽培が行われている。


『藁科物語第3号~藁科の地名特集』(静岡市立藁科図書館.平成6年)より
=====================

小島の歴史

2010年09月15日 | 集落の地誌
もし外国人の方などに“これこそ静岡市!といった風景を見せてほしい”と言われたら、皆さんなら、どちらを紹介しますか?
私なら散々迷ったあげく、ここの景色を紹介するかもしれません。

小島です。

小島は藁科川上流の清沢地区にあり、八幡から県道60号線を入って、10分ほど走った藁科川の車道の対岸に張り付いた山里です。

写真のように、山の緑を額縁にした斜面に集落が這い上がり、人家と茶畑がジグゾーパズルのように組み合わさって、そのピースを遠い先祖が一つ一つ組み上げた石垣の強いラインが縫いあげている、この景観が私は好きです。

自然と歴史によって織り成されてきた暮らしの風景が、一目瞭然に眼前に迫り、集落へと渡る小島橋は、なんだか神聖なもののようにさえ感じられます。

===============

『小島の歴史』

藁科川中流域右岸に位置し、村名の由来は、名馬摺墨を頼朝の命で受け取りに来た鎌倉の武将の一人、小島三郎によると言う。寛文13年(1673年)までは、小島、坂本、赤沢、寺島、鍵穴五か村を「清沢郷」と称したという(『駿河記』)。小島は天領で、明治になると駿府藩、静岡藩、静岡県へとめまぐるしくその所属がかわり、明治22年、上記5か村に昼居渡、相俣、黒俣、杉尾を加えて清沢村になった。
集落の背後の山の尾根筋には、川根街道が通っていた。黒俣境には相俣砦があり、南北朝時代、南朝と北朝方が攻防の歴史を留めたところとされている。小島、久能尾、笹間へとつながる東西方向の峠道も発達していて、榛原方面から藁科の谷に通うお茶摘みさん達の通路にもなっていた。かつて、洞泉寺という曹洞宗の寺院があった。神社には、天満宮、地神社、山神社などがあり、また、天満宮の脇には、五輪の塔が祀られている。
小字地名に、「大芋地」、「長麦地」などがあり、焼畑も古くから盛んに行われていたことがわかる。また地域には藁で編んだ円形の舟に松明を乗せて流す「タイナガシ」と言われる祇園祭りが残る。

『藁科川流域の民族行事』(静岡市文化財課.平成21年)に一部加筆して引用

=================

日向の歴史

2010年09月06日 | 集落の地誌
藁科川上流・大川地区の中心集落で、寛永21年(1644)に記された詞章本にも記録が残され、県の指定無形民俗文化財にも指定された、田遊び系の郷土芸能「七草祭」が今に伝承される、山あいの里・日向の概況をご紹介します。

=================
『日向へのいざない』

藁科川の上流に位置する、静岡市葵区日向は、旧安倍郡大川村(現・大川地区)の中心をなしてきた集落です。現在、お茶とシイタケ栽培を主な生業として、静かなたたずまいを見せる戸数76戸・人口207名の山里です。

日向の歴史は古く、地内の野田ノ段遺跡から縄文土器が発掘されている他、数々の古蹟と伝説に彩られています。日向の地名のおこりは、名馬を訪ねてきた源頼朝(1147~1199年)の家来、日向太郎の泊まった跡地を日向といったことに因むと言います。また「芳の沢」の地名説明にも、頼朝が休憩のため②水を求めたので、冷たい水を差し上げたところから名づけられたと伝えられています。諸子沢には、平治の乱(1159年)に敗れ、捕らわれの身となった頼朝が、伊豆に流される途中に運試しに切りつけたとされる「頼朝石」があり、日向を中心とした大川地区には、頼朝伝説が育まれてきたことを示しています。

さらに、木の精の通婚を示す「木魂伝説」が伝承され、かつては川原の中に大きな木の株が見られました。こお伝説は大杉の精が美しい男に化けて娘のところに通ってくるというもので、ついに正体がばれて大杉は切り倒され、娘は「から舟」に乗せられて下流に流されたという伝説です。七草祭を伝承する日向は、このように中世的な伝承世界を小字地名の由来に重ねて色濃く留めてきた村です。

御堂と呼ばれた福田寺観音堂は、小高い丘の上にあり、この稜線を辿っていくと、中世の山城・萩多和城に達します。また、樫木峠を越える秋葉道が、観音堂の前を通っていました。山中を東西に結ぶ道が、中世の時代に盛んに利用され、日向はそうした山の道の要衝に発達し、様々な文化を受け入れてきたと言えます。

~『静岡県指定無形民族文化財 七草祭』(静岡市教育委員会.平成5年)から一部修正し引用~
=================

坂ノ上の歴史

2010年08月05日 | 集落の地誌
藁科川上流の大川地区で最も大きい坂ノ上の集落の概況を以下に引用します。

===============

藁科川流域の上流部に位置する坂ノ上(さかのかみ)は、西側から流れ込む杉尾川との合流地点にある集落で、その地名は、清沢地区の坂本からの峠を越える四十一坂の上にあるところからきているという由来があります。また坂ノ上という豪族が住み着いたからだという説もあり、江戸時代には、旗本成瀬氏領で、村は川を挟んで東組と西組に分かれていました。明治に入ると、駿府藩、静岡藩、静岡県と所属がかわり、明治22年に大川村となりました。

現在112世帯314名の住民が暮らす坂ノ上には、かつて江戸時代に、藁科川を東西方向で結ぶこの地方最大の「ハネ橋」が架かってとされ、桑原黙斎の『安倍紀行』によれば、長さ50メートル、水面からの高さは10メートルあったと言います。

社寺には、浅間神社と小村でありながら、曹洞宗の向雲寺、向陽寺の2か寺あり、現在藁科川西側の集落内にある薬師堂は、元は杉尾川と唐沢川の挟まれた尾根部の寺森の山頂にあったといわれ、平安時代中期の地方仏師の作とされる薬師如来像等の古仏が伝えら、現在静岡市の文化財に指定されています。これらの仏像の伝播からも、東海道とは別の山間地ルートを発達させていたと考えられ、寺森の薬師堂参道は、杉尾に登り、川根街道に接続する重要な交通拠点でした。そこに、薬師堂と二つの寺を中心とした仏教文化を古い時代から発達させてきたと言えるでしょう。そのことを裏付けるかのように地内には、場所は不明ですが、経典が土中に埋葬された経塚が存在していたことが、中世の壷の出土伝承から考えられています。

『藁科川流域の民族行事』(静岡市文化財課.平成21年)より一部修正して引用

===============