大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

坂ノ上のお茶摘みさん

2014年11月07日 | 歴史&文化
藁科川上流の坂ノ上を流れる杉尾川と藁科川本流が出会う手前の右岸側の斜面に、昔の形をした茶畑を見つけました。

坂ノ上に通ってきたお茶摘みさんの様子です。山間にお茶摘みさんの歌声が響き渡るのを聞いてみたかったです。


「大川村坂ノ上にも焼津、藤枝、川崎から若い娘を中心に一日がかりで歩いてやって来ました。上着はかすりの“ジバン”に“赤いたすき”下はかすりの格子縞の“腰巻き”をしめて、“手甲”“はばき”をつけて、頭には“手ぬぐい”を姉さんかぶりにかぶって“草草履”をはいてやって来ました。
 朝の暗いうちに茶摘みに出掛け、うす暗くなって帰ってきます。食事は一日四回食べました。麦飯に香香(こうこう)、味噌、わらじ、いもがらなど家で作ったもので、出汁にいわしの小魚を使う程度でした。お茶の他に養蚕もやっていたので、勝手をする婦人は二時間くらいしか睡眠がとれず、げっそり痩せてしまいます。
 毎年坂ノ上だけでも、約二〇〇人位のお茶摘みさんが入ったからにぎやかなものでした。焼津、城之腰からきたお茶摘みさんは聞き返すのに『何でがーえれ』と言葉尻に方言を使ったので、すぐわかりました。両氏の娘たちで威勢がよかったから『焼津城之腰は荒浜育ちお茶も荒いが気も荒い』と歌われました。
お茶摘みさんとお茶師はよく掛け合いで歌を歌いました。『あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔みたや』とお茶摘みさんが歌うと、茶部屋のお茶師さんが『赤いたすきで気をきくなれば、わしら主さん野暮じゃない』と返すという具合でした。茶摘みが終わって家に帰る時にも、歩きながら歌っていきました。お茶摘みさんには歌は欠かせないものでした。」

『藁科路をたずねて』(海野實.明文出版社.昭和59年)

300年前のお墓

2014年10月18日 | 歴史&文化
静岡市葵区坂ノ上の南地区を歩いてて、敷地の隅に祠のような石が集まっているのを発見して覗いてみると、中央に“○○信士”と書いてあり、お墓のようです。

宝永二年と刻まれていましたから、1705年に建てられたもので、今から300年ぐらい前のものです。

ウェキペディアで調べてみると、同じ年にはこんなことがあったそうです

宝永2年、京都を中心にお蔭参りが大流行する。
10月6日 徳川吉宗紀州藩の藩主に就任。
12月15日 霧島連山、高千穂峰御鉢噴火。
12月 桜島噴火。

富士山が噴火したのはこの2年後。

何気ないことですが、300年前のものが、暮らしの中に今なおひっそりと佇んでいます

蛇塚の古式神楽「鬼の舞」

2014年10月14日 | 歴史&文化
本祭りの前夜祭として、静岡市葵区黒俣の蛇塚地区にお邪魔し、古式神楽を拝観してきました。いつもはしーんとした子の神社の舞台で、太鼓と笛の音にあわせ、神々が舞う姿は圧巻でした。

今回は仮面をかぶった舞が多く奉納され、この写真はその中の一つの演目、子どもを食い殺してきた鬼が隠された我が子をさがし彷徨う「鬼の舞」です。

大原・森の山之神社 湯立

2014年10月09日 | 歴史&文化
静岡市葵区大原の森にある山之神社の湯立て場です。しっかりとした石組みの釜です。神事の際に、この場で湯を沸かして、無病息災や五穀豊穣などを願うため、玉串に見立てた枝葉を浸して、お祓いの意味で周囲に湯を撒いたりして使われますが、実際ここではどのように使われているのか見てみたいです。

坂ノ上薬師如来(「野山の仏」から)

2014年05月15日 | 歴史&文化
大川地区坂ノ上にある薬師如来について、「野山の仏」(戸塚孝一、金剛社、1963)から再掲します。

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『坂ノ上薬師如来』

 坂ノ上の薬師堂の裏山には、昔立派な寺院が建立されていた。いつの頃か、この寺院は火災に逢い、焼失してしまった。薬師堂に祀られている薬師如来は、鎌倉時代の作と言い伝えられているが、いまだに金色の光は失せてはいない。瑠璃光如来といわれるその名の如く、まばゆい威厳が感ぜられる。この如来の両側には十五善神の木像(多聞天王、広目天王、阿弥陀如来、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、大日如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、四天王、金剛手菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩)が立っているが、最初は十六善神であったといわれ、そのうち一体は寺院の火災の時か、あるいはここに安置されてからかはわからないが失われてしまった。如来の左右の二体は、特に黒く燻っているのは、火煙を浴びたものであるとの人々は語っている。

 薬師如来は須弥山(中央アジアのチベットにあって、インダス川の源となっているカイラス山のこと。ヒマラヤの大連峰続くナンダ・デヴィ<高さ七,八一六メートル、富士山は三.七七六メートル>の北西に当る秘境)の東方浄瑠璃世界に住み、十二の大願をたて。衆生の救済にあたり、無病息災長命を約束して下さる他に、衣服や飲食などを満足させて下るなど、現世的な利益を授けるといわれている。形像も右手は施無畏印のように掌をあげ、左手に薬壺を持っている。坂ノ上の薬師如来もこのお姿であり、眼病を治してくださる如来として名高い。

 立派なお堂は一九・八平方メートル(六坪)の大きさで、よく掃除が行き届いており、八畳の畳も新しく浄められ、さい銭箱や机も整頓されている。私たちがここを訪れた時、第一に驚いたことは、妻が「きれいですねえ」と感嘆の声をあげるほどの清潔さであった。ここからの人々の真面目な生活態度と信仰の深さがうかがいしれ、生涯を大切にして真剣に生き抜こうとする人々の心に触れたような気がしたのである。私たちの祖先の人々は、土に生き、土の歴史の中に生活を築き、そこに土の文化を生んできたのであるが、このの人々も今あなお土と水と太陽の懐に抱かれて暮らしている。このような日ぐらしでなければ作物も実ってこないし、樹木も成長しなち。の人々の切なる祈りの姿や魂がこのお堂の中に充満してるようだった。

 同行の友は合唱して如来を拝む時。「私には如来を拝む資格はない。もっと如来の慈悲に応えられる心にんばって、あらためて拝みにきたい気がする。」と、ひとり言のようにつぶやいた。金網に隔てられて触れることはできないが、木造らしい如来の坐像の尊い姿に心を打たれたのであろう。次に驚いたことは、眼病治癒を祈願した誓願書の多いことである。の人々に尋ねても「願をかければ、必ずなおります。」と言い切るのである。Proof of sureness ー確実の証明である。

「信心をば、まことの心とよむうえは、凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり、この仏心を凡夫にさずけたもうとき、信心といわるるなり。」-最要鈔ーと、の人々はこの言葉の意味を長い間の体験から会得したのであろう。素朴で真面目な人々の真心をこめたの祈りは、何事にもかえがたく尊いものであり、人々の必死の願いはなにかに感応しないわけはないであろう。私たちの肉体も肉体のみによって生きるものではなく、反面、精神によって生かされているわけである。「病気は気から」といい、ストレス学説や精神身体医学や精神療法の説かれるのも心が肉体に需要な役割を持っている証拠である。
 敬虔な心のうちに、絶対なるものを信じ、静かに、しかし、力強く土と一体となって生きる山の人々は幸せである。

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神楽に酔う

2012年10月08日 | 歴史&文化

藁科川上流は秋の祭礼のシーズン。それぞれの集落でちょっとずつ日をずらして、それぞれの神社で神楽が奉納されます。この笛の音を聞くだけで、どこか心の奥底を掻きむしられるような郷愁を感じるのはなぜでしょうか?
今日は藁科川上流の諸子沢のお神楽を、子どもたちと見に出掛けました。
地元、神楽保存会の方々が大切に受け継いできた演目。今回披露されたのはその中の6種類。
今回は上座に挙げて頂いてまじかでその踊りを見ることができて、本当にうれしかったです。
ただあまりにすすめ上手の地元の皆さんのお酒に、気分もお腹もすっかり酔ってしまって、途中から踊りを覚えていないのが心底残念。今度はしっかりみたいです。

『お茶摘みさんの来た村々』

2012年05月03日 | 歴史&文化
藁科川流域はお茶摘みの時期になりました。
かつてどこの茶畑にも繰り出し、収穫時期によってその上流へと河岸を替えて行った“お茶摘みさん”。
今は機械化の影響でその姿を日常的に見る機会はなくなりましたが、その時の名残は、ご年配の方に記憶に焼き付いています。
各村々を訪れた“お茶摘みさん”の様子を『藁科路を訪ねて』(海野實著.明文出版社.昭和59年)から抜粋します。

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お茶摘みさんの来た村々

 次にお茶摘みさんの入った各地の様子を紹介しましょう。
・・・(中略)
 大川村崩野は、大川の西北の山の中腹にあり、ここにも戦前まで一戸に二、三人、多い家には十人もお茶摘みさんが久能、藤枝方面から入りました。お茶師も入り、免状のあるお茶師(“旗持ち”という)は茶部屋に「何々流」と書いた旗を立てて、得意気に茶揉みをしました。みんな良い茶を早く揉みたい、朝の暗いうちから始めて競争しました。一日四ほいろ、一ほいろ四○○目で一貫四○○目揉む人は一人前のお茶師さん。免状持ちの先生は四ほいろで二貫目揉んだといいます。腕の良いお茶師は早く終わって茶畑にお茶摘みさんを冷やかしに行く余裕もあり、お茶摘みさんの人気者になりました。茶ぶしにも「あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔見たや」。得意気なお茶師の姿が目に浮かびます。
 隣の楢尾、山一つ越した大間にも藤枝、相良方面からお茶摘みさんが多い家には十五人位、お茶師も四、五人も入り、両村で一五○人位が毎年一番茶に入りました。
 海抜七○○メートルの高原のため南部より十五日も茶摘みが遅いので、南部を摘み終ってのぼって来たお茶摘みさんはここを最終にして帰っていきました。
 大川村坂ノ上にも焼津、藤枝、川崎から若い娘を中心に一日がかりで歩いてやって来ました。上着はかすりの“ジパン”に“赤いたすき”、下はかすりの格子縞の“腰巻き”をしめて、“手甲”“はばき”をつけて、頭には“手ぬぐい”を姉さんかぶりにかぶって“藁草履”をはいてやってきました。
 朝の暗いうちかに茶摘みに出掛け、うす暗くなって帰ってきます。食事は一日四回食べました。麦めしに香香、味噌、わらび、いもがらなど家で作ったもので、出汁にいわしの小魚を使う程度でした。お茶の他に養蚕もやっていたので、勝手をする夫人は二時間位しか睡眠がとれずげっそりやせてしまいます。
 毎年坂ノ上だけで約二○○人位のお茶摘みさんが入ったから賑やかなものでした。焼津、城之腰からきたお茶摘みさんは聞き返すのに「何でがーえれ」と言葉じりに方言を使ったのですぐに分かりました。漁師の娘たちで威勢がよかったから「焼津城之腰は荒浜育ちお茶も荒いが気も荒い」と歌われました。
 お茶摘みさんとお茶師はよくかけ合いで歌をうたいました。「あけておくれよ茶部屋の障子、たまにゃお茶師さんの顔みたや」とお茶摘みさんがうたうと、茶部屋のお茶師が「赤いたすきで気を聞くなれば、わしら主さん野暮じゃない」と返すという具合でした。茶摘みが終わって家に帰る時にも歩きながらうたって行きました。お茶摘みさんには歌は欠かせないものでした。

(p29~p31)

『藁科路を訪ねて』(海野實著.明文出版社.昭和59年)

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巫女の舞いデビュー

2012年04月01日 | 歴史&文化
藁科川上流・大川地区の日向では、1日恒例の春の祭礼が白髭神社で行われました。

川根から神主さんを招いて祝詞をあげて、一連の祭事が終わった後に、地元の女の子三人による神楽が奉納されました。七草祭りでも披露されましたが、神社の祭礼では久しぶりの復活!今年からは笛の演奏者も増え、弓の舞や茣蓙がえしも舞われ、地元の方々が集うとてもにぎやかな一時となりました。

芝刈りじゃないよ、柴切(しばきり)だよ

2012年03月18日 | 歴史&文化
“柴切”という意味をご存知ですか?

私ももともと“芝を刈る”とかなんとか、それに類することをを指していると思っていましたが、「その土地を最初に切り開いた開拓者」という意味なんだそうです。

藁科川上流の大川地区は、主に9つの集落から構成されていますが、それぞれにその土地を開拓した“柴切”の家があり、名家とされています。

大川に残る村誌は、こんな書き出しからはじまっていて、その家柄は今もつながっているところもあって、歴史が脈々とこの地に息づいているのを感じます。

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「深山幽谷の奥にも尚よく荊棘(けいきょく)を披(ひら)いて生活するもの出来たり、茲(ここ)に初めて幾多の村落を形成したるものならん。今尚各大字毎に柴切と称する家柄あり、例えば大間の砂宮太夫、崩野の大川井治右衛門、諸子澤の佐藤兵太夫、小林太郎助、日向の芳澤助太夫、原坂忠左衛門のごときもの是なり」

大川村誌

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森のお馬さん「大間の滝」

2012年03月10日 | 歴史&文化
藁科川流域には、馬につなんだ伝説や地名がいくつか残されています。

今では馬がいる場所と言えば、「平坦な地を柵で囲った馬場」を単純にイメージしますが、山奥の傾斜地にも野馬が多かったようです。もともと日本には馬は野生には生息しなかったので、この野馬たちもオリジナルを辿れば、この流域に平安時代に設置された官営の牧舎から逃げ出したものとのこと。

いくつかの説がある大間の地名の由来の一つに、御馬(おうま)が大間(おおま)になまったという伝承がありましたので紹介します。

ある日~♪森の中~♪お馬さんに~♪出会った~という時代もあったのですね


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『大間の滝』 

大間の滝は七ツ峰から直下百米、奇岩の間を三段になって落ちている。優に名瀑とされるのだが、両方の巨木に遮られて遠望が利かない。
 平安時代、この近くの内牧に牧場があった。そこで飼育された馬が四五才になると、良馬は「御馬」と云って朝廷の御用に、次は駅馬、伝馬となった。
 毎年五月頃、献上される馬は旅立つ前に此の大滝の水で馬身を洗い、途中無事に行ける事を願って、長駆曳かれて行った。それで此滝の事を「御馬の滝」と行っていた。
 平安末期に牧場が廃止されてから数百年の間は、ここへ来る人も無く、滝は秘境の中に隠れていた。室町の終わりに砂宮太夫らがここに移住し、江戸時代には小さな村となった。村の名を大間と云うのは、御馬の滝から来たものである。明治四十三年、時の安倍郡長田沢義輔は、岐阜県養老之滝になぞらえて、此度を福養之滝と名付けた。
 明治の頃まで近村の農家では、五月の節句に馬を曳いて来て滝の水で洗い、怪我のないよう、お産が軽くすむ事を願った。

引用:「梶原景時の生涯ほか」(松尾四郎.松尾書店.昭和54年)

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