本に挿入された愛らしい顔立ちの写真に、ぜひ出会って見たいと探していたお地蔵さんがいました。
だいたいこの辺りと、地図についた石碑のマークや、参考資料の文章から場所の見当はついていたのですが、それでもこれまでは、なかなかその姿を見つけ出すことができませんでした。
「一体どこにあるんだろう」と再度、文章を読み直して、藁科川上流の下湯ノ島の集落に入る手前のところで、今日はピンときました。
道脇の小高くなった岩山と、小屋の間に2つの小さな石碑を発見して「あれだ!」と直感。
車を止めて、急いで小屋の裏へと回り込み、3メートルばかりのほんの僅かな踏み跡を一気にのぼると、丘の上に数十体の祠がひっそりと建っていました。
「あった!あった!!」
どの石碑もツタが這い、苔がむし、あるものは倒れ、あるものは埋まり、急いで急いで、それらを取り払う。
地中に胸まで埋もれていたのが、意中の「あごなし地蔵」でした。
顔にはびっしり苔がついていたけれども、30センチばかりのその体つきからあごなし地蔵に間違いありません。
(あぁ、間に合った・・・・)
もちろん村の人たちに手入れされ、土中に埋もれ所在がわからなくなるまでに至るはずもないのですが、掘り起こしている最中に、妙な感動がどこからかやってきて、目頭が熱くなりました。
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「あごなし地蔵」
下湯島は戸数三十七の小である。の入口は峻険な山で、これを切り開いて上湯島に通じる道をつけた坂道の左側、藁科川に面した小山の上に、庚申塔、弥勒菩薩、馬頭観音菩薩、地蔵尊などの石仏群が、十体余も立ち並んでいるなかに、三十センチぐらいの小さなあごなし地蔵尊を見つけた。浮き彫りの地蔵尊の後背の左側に「虫歯守護、あごなし地蔵大菩薩」。左側に「祈願成就為小沢弘寅年三歳、日向、佐藤成一郎建立」。左側面に「おきの国すき郡中すど村大字かみにし」と刻まれている。肉身の三歳児が虫歯に苦しめられ、地蔵尊に祈願して快癒したそのお礼のため、また一つには虫歯に苦しみ悩む人がないようにとの願いで、この石仏を建てたのであろう。「あごなし地蔵」とは思いきった名をつけたものである。あごがなければ歯がないし、歯がなければ虫歯にならないし、苦しめられることもないと思ったからであろう。山の人の温かく素朴な心が、地蔵尊の姿や、微笑をたたえた顔容から、あふれてくるようである。(1962.6.24)
『野山の仏』戸塚孝一.金剛社.1963)
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だいたいこの辺りと、地図についた石碑のマークや、参考資料の文章から場所の見当はついていたのですが、それでもこれまでは、なかなかその姿を見つけ出すことができませんでした。
「一体どこにあるんだろう」と再度、文章を読み直して、藁科川上流の下湯ノ島の集落に入る手前のところで、今日はピンときました。
道脇の小高くなった岩山と、小屋の間に2つの小さな石碑を発見して「あれだ!」と直感。
車を止めて、急いで小屋の裏へと回り込み、3メートルばかりのほんの僅かな踏み跡を一気にのぼると、丘の上に数十体の祠がひっそりと建っていました。
「あった!あった!!」
どの石碑もツタが這い、苔がむし、あるものは倒れ、あるものは埋まり、急いで急いで、それらを取り払う。
地中に胸まで埋もれていたのが、意中の「あごなし地蔵」でした。
顔にはびっしり苔がついていたけれども、30センチばかりのその体つきからあごなし地蔵に間違いありません。
(あぁ、間に合った・・・・)
もちろん村の人たちに手入れされ、土中に埋もれ所在がわからなくなるまでに至るはずもないのですが、掘り起こしている最中に、妙な感動がどこからかやってきて、目頭が熱くなりました。
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「あごなし地蔵」
下湯島は戸数三十七の小である。の入口は峻険な山で、これを切り開いて上湯島に通じる道をつけた坂道の左側、藁科川に面した小山の上に、庚申塔、弥勒菩薩、馬頭観音菩薩、地蔵尊などの石仏群が、十体余も立ち並んでいるなかに、三十センチぐらいの小さなあごなし地蔵尊を見つけた。浮き彫りの地蔵尊の後背の左側に「虫歯守護、あごなし地蔵大菩薩」。左側に「祈願成就為小沢弘寅年三歳、日向、佐藤成一郎建立」。左側面に「おきの国すき郡中すど村大字かみにし」と刻まれている。肉身の三歳児が虫歯に苦しめられ、地蔵尊に祈願して快癒したそのお礼のため、また一つには虫歯に苦しみ悩む人がないようにとの願いで、この石仏を建てたのであろう。「あごなし地蔵」とは思いきった名をつけたものである。あごがなければ歯がないし、歯がなければ虫歯にならないし、苦しめられることもないと思ったからであろう。山の人の温かく素朴な心が、地蔵尊の姿や、微笑をたたえた顔容から、あふれてくるようである。(1962.6.24)
『野山の仏』戸塚孝一.金剛社.1963)
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