湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。
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湯島温泉の伝記
湯島玄国和尚を祀れる玄国堂から県道に至りて五百米歩くと上湯島のバス停留所がある。この上湯島は戸数八軒以上の世帯があることなく、八軒以上になる場合はその本家分家の掟が現在でも守られて居って、新居を作る場合は某氏の分家者若しくは親戚同族の名乗りを称えて居住したと伝う。
上湯島は明治初年米づくりの盛んだった時代に水田計画が進み事業着工する寸前に設計者の病気により中止したもその工事の跡が崩野川の川岸に残って居る有様で、同は平坦地である。その処に湯本某氏の邸内より温泉が湧出せしことありと伝う。
年代は不詳で伝う処によると、当時はここに溶客大に郡集し、一大小都会を成したりしが、或る時入浴に来れる二人の武士が遊女のことより争闘をなし、某女を斬りてその首を浴槽中に投げ入れしが、温泉忽ち冷却して後ち湧出せざるに至ると伝う。それより同所に居住するものは今なお湯本を以て氏となし湯の権現を祭祀し、毎年春秋二回の祭典を行って居る。境内には樹齢二百年以上の目通り四メートル八十程度の杉の大木や樫の木類の白樫等数十本が繁茂して居って、湯の権現さんのご神体と伝う。長さ約二尺(五十センチ)位の白蛇が時々姿を現すとのこと、最近湯本の邸内より白色の水が多量に湧出して五分程度で止ったという。
この湯本お温泉にちなんで地名を湯島と称すると謂う。現在県の試掘申請中でボーリング工事を行って居る。
湯島鉱泉は水系が安倍郡梅ヶ島の同一水系鉱脈が大川村地内に及ぶという。湯島地内でも唐沢道光地域に鉱泉湧出、崩野川右岸泉沢、大間川右岸大畑橋の近傍、諸子沢吉祥寺横の小沢、日向仮道の一帯、坂ノ上唐沢川及び四十一坂峠の近傍に湧出して居るも、現在の状況から勘考するも将来有望地を探求するに乏しいが、観光資源として投資を希望し期待する処が大きい。
(~P67)
『大川の風土記』(小沢慶一.1966)
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湯島温泉の伝記
湯島玄国和尚を祀れる玄国堂から県道に至りて五百米歩くと上湯島のバス停留所がある。この上湯島は戸数八軒以上の世帯があることなく、八軒以上になる場合はその本家分家の掟が現在でも守られて居って、新居を作る場合は某氏の分家者若しくは親戚同族の名乗りを称えて居住したと伝う。
上湯島は明治初年米づくりの盛んだった時代に水田計画が進み事業着工する寸前に設計者の病気により中止したもその工事の跡が崩野川の川岸に残って居る有様で、同は平坦地である。その処に湯本某氏の邸内より温泉が湧出せしことありと伝う。
年代は不詳で伝う処によると、当時はここに溶客大に郡集し、一大小都会を成したりしが、或る時入浴に来れる二人の武士が遊女のことより争闘をなし、某女を斬りてその首を浴槽中に投げ入れしが、温泉忽ち冷却して後ち湧出せざるに至ると伝う。それより同所に居住するものは今なお湯本を以て氏となし湯の権現を祭祀し、毎年春秋二回の祭典を行って居る。境内には樹齢二百年以上の目通り四メートル八十程度の杉の大木や樫の木類の白樫等数十本が繁茂して居って、湯の権現さんのご神体と伝う。長さ約二尺(五十センチ)位の白蛇が時々姿を現すとのこと、最近湯本の邸内より白色の水が多量に湧出して五分程度で止ったという。
この湯本お温泉にちなんで地名を湯島と称すると謂う。現在県の試掘申請中でボーリング工事を行って居る。
湯島鉱泉は水系が安倍郡梅ヶ島の同一水系鉱脈が大川村地内に及ぶという。湯島地内でも唐沢道光地域に鉱泉湧出、崩野川右岸泉沢、大間川右岸大畑橋の近傍、諸子沢吉祥寺横の小沢、日向仮道の一帯、坂ノ上唐沢川及び四十一坂峠の近傍に湧出して居るも、現在の状況から勘考するも将来有望地を探求するに乏しいが、観光資源として投資を希望し期待する処が大きい。
(~P67)
『大川の風土記』(小沢慶一.1966)
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