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『大川の風土記』25~湯島・湯島温泉の由来記~

2011年07月31日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島温泉の伝記

 湯島玄国和尚を祀れる玄国堂から県道に至りて五百米歩くと上湯島のバス停留所がある。この上湯島は戸数八軒以上の世帯があることなく、八軒以上になる場合はその本家分家の掟が現在でも守られて居って、新居を作る場合は某氏の分家者若しくは親戚同族の名乗りを称えて居住したと伝う。
 上湯島は明治初年米づくりの盛んだった時代に水田計画が進み事業着工する寸前に設計者の病気により中止したもその工事の跡が崩野川の川岸に残って居る有様で、同は平坦地である。その処に湯本某氏の邸内より温泉が湧出せしことありと伝う。
 年代は不詳で伝う処によると、当時はここに溶客大に郡集し、一大小都会を成したりしが、或る時入浴に来れる二人の武士が遊女のことより争闘をなし、某女を斬りてその首を浴槽中に投げ入れしが、温泉忽ち冷却して後ち湧出せざるに至ると伝う。それより同所に居住するものは今なお湯本を以て氏となし湯の権現を祭祀し、毎年春秋二回の祭典を行って居る。境内には樹齢二百年以上の目通り四メートル八十程度の杉の大木や樫の木類の白樫等数十本が繁茂して居って、湯の権現さんのご神体と伝う。長さ約二尺(五十センチ)位の白蛇が時々姿を現すとのこと、最近湯本の邸内より白色の水が多量に湧出して五分程度で止ったという。
 この湯本お温泉にちなんで地名を湯島と称すると謂う。現在県の試掘申請中でボーリング工事を行って居る。
 湯島鉱泉は水系が安倍郡梅ヶ島の同一水系鉱脈が大川村地内に及ぶという。湯島地内でも唐沢道光地域に鉱泉湧出、崩野川右岸泉沢、大間川右岸大畑橋の近傍、諸子沢吉祥寺横の小沢、日向仮道の一帯、坂ノ上唐沢川及び四十一坂峠の近傍に湧出して居るも、現在の状況から勘考するも将来有望地を探求するに乏しいが、観光資源として投資を希望し期待する処が大きい。

(~P67)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

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『大川の風土記』24~湯島・宝積寺~

2011年07月30日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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宝積寺伝説
 
 湯峯山宝積寺境内に祀れる金比羅神社は、萱ぶきでお堂の建築も大変に技術を施してあって、用材も堅牢なるものを使用し、当時の村人の敬神の年の強さと共同心が窺われる。
 年代は不詳なるも金比羅大権現の尊像は高さ15センチの立像で、色彩を施したものを安置奉公し例祭は玄国和尚と同じ春の彼岸の中日春分の日に行う。
祭典の当番は湯島の若者連中で家嗣の長男若しくはその家の跡取りとして養子の男子を部落総会の席上に指名するが、人数は大体五人程度し、任期は五箇年以内で次代と交代する慣習となって居って行事は大体金比羅神社の例祭、玄国和尚の年忌例祭、盆の施餓鬼法事の当番等の使役、接待役、設備取付取り除けを行う。金比羅神社の社殿の壁間には慶応三(1867)年八月に村人某の寄進したもので絵画は江戸末期と思われるが彩色を施せる。天女の舞の像他に大正四(1915)年頃各の俳句愛好家による俳句集が壁間に額としてかけてある。その他鰐口や幟もある。春の彼岸の中日にはこの幟の白地に墨痕が鮮やかに中天に高く押し立てるが、この行事に類似して各大字の神社仏閣とも春秋の祭の花火の音が天に鳴り響くと共に、この幟も中天に翻って寄進者の名前や何々連中何年何十二支の別の文字を書き現して時代の平和な明るい村の象徴がうねずけられる。
宝積寺の境内には、杉の大木があったが、寺の普請の際に伐木したり台風で根こげて倒れたりして、切り残された一本の杉の大木樹齢約四百年、目通り一丈三尺位で根元のみが残れる。梨の木樹齢は不詳なるも相当の星霜を経たることと思う。宝積寺は盆、施餓鬼祭や雨乞いに使用し、明治末期には村の若者連中による盆踊り和讃唱和会等が行われて、葬送の才の野辺の送の和讃新盆の衆の会等盛り沢山の行事があったが、現在は跡を絶った。何とかして現存する人達で保存したい。雨乞の願の行事は各で実施した行事の一つで、湯島の例を挙げると、約十五メートルの麻縄を作り、玉を繋いで「じゅず」その玉は大体ミカン果実位に桐の木で造って麻縄に繋いで輪としたものを村人が車座となりて百万遍唱ふので「百万遍」と言い、雨乞いの祈願成就の時は村人達が寺に集合して酒盛りしてお礼をする風習が残って居る。何千年も昔から神と人間、仏への愛惜の情が湧いてくる。そこに人間の価値がある。

(~P67)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

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『大川の風土記』23~湯島・玄国和尚伝説~

2011年07月29日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島玄国和尚伝説

 県道大川村地内湯島橋のバス停留所付近からの四十度の急坂を登る高台に曹洞宗に属する「湯峯山宝積寺」がある。この寺は昔は日向にある陽明寺の末寺として上湯島の宮ノ段の飯綱神社左隣に建立しあるも、ある年寺の裏山が崩壊して土砂に埋まったので現在の寺の屋敷に再建したと伝う。湯峯山の名号は最初の上湯島付近が温泉多量に湧出した処から湯峯山と称したという。同寺は明治初年頃までは住職が住んでいて、法事を営みしも現今は無住寺となり、戦後改築して公民館として現在に至る。この公民館より右方百メートルの山腹に建てたるお堂が玄国和尚を祀れる玄国堂で毎年春の彼岸の中日に例祭を執行し、彼岸の行事として遠近の参詣の人々で賑う。
 従前は玄国和尚の命日旧暦二月二十七日に行われ、その後に変更せられて旧暦二月十日なりしを最近彼岸の中日春分の日となった。
 玄国和尚さんは、今から二百年前に甲斐国八代郡大島の生れ(現在の南巨摩郡身延町大島)。幼少にして仏門に入りしが長じて後ち大川村に来たりて日向陽明寺の住職となる。学徳共に高く大いに檀家の景仰する処たるも晩年職を後嗣に譲り、静かに老を湯島の宝積寺に養ひしが玄国和尚はいつの頃からか瘡腫にかかり、日夜病魔に悩まされ闘病生活幾年月の永きにわたりたるも治療方法のない昔、漢方薬草の投薬や禁厭、または祈祷によって根治すべし全精魂を傾注したるが肉体の力や薬物及び霊の術は人界のものだから祈祷禁厭または呪詛の類が迷信だして一切を断定したと伝う。
 玄国和尚は自ら悟りし村人を頼んで生き埋めにしてもらうことを決意した。人々も和尚さんの酷い姿を見るに忍びず、嘆願について相談すること句日「人命」小田原会議に終始したのでまとまらないが和尚さんを苦しみから救うためならと相談が一沢し、和尚の申し出の通り生き埋めにした。
 玄国和尚は村人と最後の別れを告げて墓穴に入る時に村人から渡された若干のお菓子をおし頂いて仏具を片手に持ちたという。
 不治の病にかかり不遇の和尚さんも埋められた墓の中から念仏の声が一週間続いて聞こえたと言い伝えられている。
 時に安永四年末二月二十七日行年八十二才。
 玄国和尚入寂後既に二百年に及び村人が病気治癒の祈願をなし、應病成就すると。就中皮膚病、乳幼児湿疹、膿皮症、痤瘡に霊験あらたかく、今尚霊前に香華の絶えたることなく以てその学徳の如何に崇高であったかを窺われる。
 玄国堂は最初は墓所の下に建立したが腐朽甚だしくかつまた狭隘のため宝積寺境内に移したるも現存する金毘羅権現の神社と並ぶので再び移転して今ある屋敷に建立し現在に至る。祠堂には土地の人の敬いで一体の尊像、高さ五十センチの座像を安置す。これ座像は名古屋市の某仏具店で謹作したもので、最近塗替補修を施したが近郷にはない彫刻とも云う。 では目下二百年の遠忌の祭典の計画中ある。祈願成就のお礼参りのおはたしは菓子類の供物、おふきん、えま等が供えてある。
 戦前までの村人の病気平癒祈願の例を挙げると、先ず病人の隣り近所の人達が集りて相談して玄国堂に会合して霊前に車座を作りて誓願を各個人個人が唱え祈祷する。その経文眞言宗の和諧文で例示すると
 おんあぶきゃぴ、るじやのわかもだら、まにはんどま、じんぼら、はらはりたやおん。
の唱えごとを繰り返す。その際は時間は約一時間戦前中市販されて居った線約五センチのもの二本程度でその線香の絶える時間継続して唱和するもその途中に線香の煙が中絶すると願事が不成就といい伝う。
 眞言宗派の和讃文の唱え事が湯島の人々に充許されたのは年代不詳なるも、昔安倍郡玉川村桂桂山の某寺に大持会を開いた時に許されてから玄国和尚への集団祈願の例としたという。個人参拝は従前の方の方式が行っている。
 本堂改築に際して従前からの堂の建築古材を村人が譲り受け物置小屋にして使用したるに、霊験の具現によるものか穀物貯蔵中「ネズミ」その他の侵害なし。永年保存するも味の変質もなく収穫期と同様で戸締一切無用であったと伝う。

(~P65)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

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『大川の風土記』22~楢尾~

2011年07月28日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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特産こんにゃく楢尾

静岡市の西北部に位置する。
藁科川の清流に沿って三十キロ静鉄バスで約一時間四十分。終点崩野入口停留所に到着する。この辺は川巾漸(ようや)く迫って崩野川と大間川との合流点で、両岸屹立し、岩壁からは名も知れない雑木が相相互し、川底の清流は両岸の鬱蒼なる樹木の間に隠見し、見事なる渓谷をなし、奔流石を噛み巨大なる転石の間に白練幾条泡なちを現出するかと思ふと、少し下流はよどみ静かな流れ、激流から静流へ、騒音から静穏へ。新緑紅葉は特に麗しくカメラに収めたく食指そぞろに動くの絶景景観随一。この辺はやまめの繁殖もよく、釣りの好適の場所として一般に知られて居る。電源開発の送電用の鉄塔が偉容なる姿で数基山の尾根に連なる。テレビ等のように羅列する姿も特異性がある。県道井川線は大間へ、村道崩野道路は崩野へ、その岩壁を縫って通ずるも楢尾はごく最近まで直下二十三メートルの木橋を渡りて四十から五十度の急坂を登ったが、ここ数ヶ年前から清水土地改良事務所の主管において国営農道が開削されて、目下工事進捗中で時代の恩恵によるものと地元住民は大喜びで将来二千八百米の本村まで継続事業の趣きて大いに張切って居るも、地元負担金も多額拠出なるように聞き及びたるも遠大なる理想郷建設のため一致協力して完成を望む者である。
 昔の楢尾街道も迂回街道で困難が多く、荷物の運びは天秤棒や背負わこ類を使用したもの。この道路完成の暁には、小型自動車の利便が多い。
 往昔土着の農民たちがこの辺の広葉樹を素材として炭焼を業とし時代今から七十年前はこの地の窯渡し木炭価格金一円で大体六十貫匁(もんめ)で取引し、製茶は横浜港開港の波によって九貫匁入一袋凡そ金二円五十銭程度で取引されたという。楢尾は周囲は広葉樹に囲まれて東経一三〇、一一北緯三六、一一海抜六百五十米で面積三三一㎢戸数三十八戸人口百八十八農林兼業形態で構成し、産業は地域産業の主軸を多角経営で農産物は茶、こんにゃく、そ菜麦類を生産し、林産物は木材、薪炭、乾シイタケ、山葵等を産出し最近は換金作物に転換農家も見受ける近況なるも、郷里を後に都会に住み替えし大体が世上の後継者問題とか三ちゃん農業と喧しく唱導する問題も、この狭い土地も大きな波及して居る。こんにゃく芋の産額巨額に達し、戦後耐乏生活の続いた時代は主要食糧同様に需要が多く流通出荷による収益を収めた。
 この地区は土地肥沃にしそ菜に次いで麦類・甘藷・大根・人参等の産額多く、就中大根・人参・麦類は時季によって漬菜等の需用のため村内各に売出され、殊にこんにゃくの産額は本村第一位で郡下でも名声を挙げた時世も現出たわけ。
 には楢尾小学校と併置した大川中学校楢尾分校ありしも、中学校分校は人口の減少と時流の順応に嚮(むか)って最近分校廃止し本校に統合し、楢尾小学校のみがへき地教育の強化育成に努め大川村文化発祥地として期待する処多し。本校は昭和三十六年県へき地教育研究校になって図工科を通して描画の概念自信を深め、地域の材料を生し、特に昭和三十八年の造形展は児童会館で開かれ、いかにも山の情緒あふれるものがありて、新聞・テレビ・全国学習等で広く紹介されたほどであった。
 本村の中心地には消防団の詰所、火の見櫓が整備せられ山の中腹には曹洞宗のお寺があるも無住寺で名は海前寺という。毎年盆月に当たる日を定め、先祖のために施餓鬼祭を行う。
 氏神は天満宮と稲荷大明神を合祀する母屋造りの建築で大正年期に再建したもの。
 伝説によるとその昔永久年間(1113~1117年)同所より南方を眺めると駿豆の海上に毎夜大なる火光あちろまた或る年に大なる霰が降りて災害を蒙りしことあり。後年大飢饉来たりて、その悲惨な状実に言うべからず。ここにおいて村民産土の社に集まりて五穀の神を勧請し豊作を祈りしが、後神徳により毎年穀物豊熟して村民安堵して生業につき後世その神徳を敬仰して稲荷大明神を祀り、毎年二月の初午に祭典を執行し参拝者多数あり。その社から大間街道に至る山道には亀石もあり、楢尾石仏もあるも由来は不詳。楢尾の背面には七ッ峯の山裾が近くに現れ、智者山や天狗石嶺が手にとるように眺め、古野の滝の白条の朝日に映ずる景観また格別。吉野不動の上方一帯の植林地面積六十八町歩は大川村対営林署による分収林がある。前方眼下に南方は駿豆に面し、大川村全域を一望に収め、数条の山並が或いは高くまた低く重畳しその自然の姿、美林の山岳は独特の美しさここに山の幸あり。特産こんにゃく芋の産地楢尾の誇りであることを確信して記録したが、こんにゃく芋は全村に亘る産物なるも楢尾に次いで諸子沢、湯島などが主産地で年産額巨額に達するも本村に入り来たりて栽培した事は文献不詳ですが、その中に入手経路を訪ねたい。
※楢尾よりの観光
  天狗石七ッ峯の展望
  福養滝ハイキングコース
  原生林の探勝と南アルプス展望
(~P60)

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』21~八草~

2011年07月27日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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特産山葵崩野(※続き)

 八草は崩野から半里の地点にあるにして、明治五年の当時の戸数八戸人口六十三人と記載して居るも、現住戸数五戸十三人で今は頓んど老人達の過程で所謂二ちゃん農業で後継者の問題も深刻化して居る現況下である。同所の高橋氏の墓所には、石碑を抱えた老栂があるも、最近は枯木となり倒れて居るもその栂の巨木は目通り五米でその昔に墓標の傍に建った卒塔婆の栂樹が漸く成長して碑石を抱え込んだものと言う。
 昔の風習でその家に三十三年忌に相当する仏のある場合は止年忌と言って栂の木或いは杉木の五年生位の生の木を墓所に建つ風習が残っていて同地でも栂の木を建てたという。
 石碑は明暦年代(1655~1657年)の明暦二丙申年、墓石には空来宝妙泉禅定尼と記してある。例の江戸大火振袖の大火令から二百八十年前で江戸城の本丸も焼失した当時に、この石碑が建っていたので高橋氏は地方の名望家で現住者の家長十七代神官を奉仕した旧家である。栂の木は目通一丈四尺三寸で枯木で倒した。
 三十三年の止年忌で建った卒塔婆が成長した事例は諸子沢にもあり、目通三米余位杉木なりしもごく最近伐木して根元が残って居る。八草の氏神は同所の裏山に鎮座し神明宮で祭典も少数の民のみで執行して居る現状にあり、将来は大川村全地域の合祀の神社の実現もある時代にまで発展するやも知れず。崩野と旧八草街道の分岐点にも小さな地蔵尊を詣れるお堂が建てられて居るも、現実にノ山の仏で居るもその出現由緒は不詳です。
 宝光寺から約四粁北方に奥に行く細道を進む処に古野滝あり一名朝日滝とも言う。榛原郡本川根町藤川の智者山の尾根伝いの大川村の天狗石嶺千三百六十六米の麓との処で滝流泉直下十五米幅十米水豊、四季を通じがん上珠を転ばす幾条の白練、旭陽に映し観望壮大なとものあり。
 その一帯は大川村特産わさびの主産地として有名、年産巨額に達す。また同地は大川村特産しいたけ栽培方法の発祥地やと伝う。
 吉野不動の滝付近は嶺上から拡大なる広葉樹の山岳地帯であるだけに山葵栽培の適地で清澄な水は豊富。栽培温度の九乃至十二度Cを保つ湧水のたえることない条件は天恵であるので、静岡県特産伊豆産のわさび天城山わさびを峻賀する程の生育であり、住民よく肥栽管理に当り年産巨額を産出して居る。
 静岡名産のわさび漬けとして世にもてはやされて居りて、静岡市を訪れる客はかならずや静岡名産山葵漬と安倍川もち、丸子のとろろ汁が食い道楽の通の味方で旅情を慰むも、一入趣味多し。吉野の滝は崩野川の源をなし下流各所にやまめの釣り場もあり。八草よりの小渓流の泉沢は自然のうなぎの魚族豊富。やまめは四季を通して適地でラジオ放送にて釣り便をなし下流大間川の合流点の景色また格別。西岸峡り断崖絶壁奇岩多し、多種変化に富み付近に楢尾橋あり湯島大橋等の架橋。春の新緑秋の万木の紅葉、四季の観賞まだ豊で山水の美を添え自然の景色は一幅の絵の如く一日の清遊によい。少し下りバス停留所の付近に湯本温泉の鉱泉も目下試掘中。その昔の伝説もあり付近の宮の段には湯島の氏神飯綱神社も鎮座あり。同神社は創設年代は不詳なるも約七百五十年前で保食の神で京都稲荷大明神の分身とも伝う。同地には年代不詳なるも五輪の塔も境内に祀られ居るも同境内の隣に湯峯山宝積寺の寺屋敷跡が残り門前のある屋敷には地蔵尊が小さな祠に祀られて居るも風化のため大変に損傷があるので、信仰が薄いように現が地方の人々は朝晩に信心して居ると伝う。
(~p55)

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』20~崩野~

2011年07月26日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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特産山葵崩野

 静岡からバスで終点崩野入口で下車、所要時間一時間四十分を要す。小型自動車利用も可。断崖絶壁の箇所を爆破によって開催した難工事の跡が歴然と伺われる。
 昔は湯島字橋元から目掛を越して松尾に出て、現在の道路と連絡したが、崩野道路は数十年の継続事業と地元住民の膨大なる負担が課せられたもの。その事業も最初大川村五道路線で材費支辡、次いで農山村失業救済県営村道し、或る時は森林組合直営工事となり。最近静岡県第六次綜合開発林道崩野線として全線開通したもので、崩野と同様にある八草は今だ昔日の感があり、将来榛原郡本川根町を結ぶ林道の開通を望むものであるも道遠の感ある。道路の川沿いには小判平(こっぱんたいら)と名付ける団地があるも、昔の米くぐり時代に田に開田した処と言ふが、水稲が不作と用水が不便のため現在は茶園となって居るも同地は楢尾の飛び地となって居る。
 この崩野も伝説に富み、往昔賊軍が乱入し民家をおどし物品を掠奪をほしいままにせしため里人はこれを恐れて氏神の神体や資材家具等を西方部の中腹に匿し置き難を逃れたとい伝う。後、氏神の社も種々なる変遷を経て、現在地に白髪神社とし祀りあるも現在の地はその昔土岐山城守の古址で、円囲は城壁が廻って居て山城守も同所に居住したと伝う。
 城の跡には曹洞宗に属し東谷山宝光寺がある。宝光寺は昔の寺子屋時代の学校を開設した処で、現在も地方青年少年たちの修養道場やの集会場に提供して融和協同心の育成に努む。境内には別棟に小さなお堂がありて千手観音分冊の金属製の座像があり、毎年春秋の彼岸中日に例祭を執行する。
 寺の境内には、目通り一米余の静岡県下に比類のない菩提樹やびゃくだん樹、八重櫻等が植えられ菩提樹の開花期には脂粉の匂いが四方に放ち、その情緒豊かなものありと言う。
 この菩提樹は珍品なので県天然記念物の指定申請したが目通りの点で失格し現在に至る。千手観音菩薩を祀れる堂の側にある八重櫻は以前は向かい山の中腹にありしが、或る晩に住職の夢枕に立ち、是非とも観世音様の庭にいきたいと申出ありて、そのお告げ現在地に移植したと言い伝い居る。
 崩野は昭和初年において生活改善優良として指定さられ、宝光寺先代は時の記念の日以外の日にも梵鐘を打ちて時報を村民に知らせた。
(~p52)

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』19~智者山~

2011年07月25日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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※周遊コース(続き/17智者山植林地域)

馬込から西北部を展望すると南アルプスの山裾に接続するが山並の起伏し標高千二百三米の智者山、その雄大な森林地帯で面積凡そ六百余町の美林が自然を征服して目も鮮やかなる緑色を漂わす景観、将来道路建設の計画中と聞く。この地は八草の入会地と云うも社領地で現在の分収林だったかも知れない。
 崩野並びに湯島の住人が地上権を獲得して原始産業の雑穀類を栽培してきた山林ともいうが、交通と経費の点が問題となり先住者が分散して大正時代に小野田林業の企画にて植業となり、現在に至るも同山林中には幾多の小渓流ありて、これら集注する処をまじ川と云うが、その渓澗には特産のわさびの栽植年産巨額を産出し、まじ川にはやまめ、いわなの郡泳する渓流で、釣り人の醍醐味もまた格別という。智者山神社は大野神社と智者山千手観音菩薩が祀られてあった。明治初年にはモミ・ツガ・ブナ・トチノキの原生林が生い茂って昼なお鬱蒼としていた。同所には仁王門が建立されてあったが、明治初年に神仏合祀廃止の掟により門前の仁王尊は撤去せられて、現在は現存せぬが仁王尊は神奈川県横浜市の或る寺院に国宝に指定されて保存されて居るやうに伝う。
 智者山大野神社、智者山千手観音菩薩は雨乞いの神社仏閣で有名で、夏の登山者が多数参拝し、明治以来の戦の守り神でもあって霊験著しく毎年春秋の彼岸の中日に例祭ありて、遠近の善男善女の参拝者で賑う。
 祈願成就のおはたしお礼詣りには、戦国動乱の武将の高位高官が人質として敵方に預けられた習慣に習ったのが、その由来を知る由もないが、智者山神社の御礼詣りには家を出発から神社到着まで跣(はだし)で参拝する風習が残っていたが、祈願の時も丑の刻、今の真夜中に参詣して社殿に一夜を明かし神霊が恍惚と現出したと伝う。その尾根を尾根を梅地街道の曲がりうねった坂道を登ると、秘峯天狗石嶺標高千三百六十五米に達す。この深林中に西大井川の東岸より高さ数千米の山嶺を打越し、大川村崩野の古野瀑布、不動の滝に至るまで幅六米延長六粁余その間一八ℓの約一斗樽大のものの石塊を一面に磊々として敷き並べた処あり。これが往昔一夜のうちに天狗の敷き並べたといい伝う。山頂を征服し自然を親しみ雄大なる姿、遠く赤石連山の雲表に迫り将来本川根町においてその計画の道路網の施設を要望すると共に接続町村とを地点にある国立南ア登山口の周遊コースとして亦た有望視されるものと将来を期待して居る。帰路は崩野入口バス利用。
(~p49)

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』18~馬込~

2011年07月24日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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※周遊コース(続き/15開拓地馬込地域)

 この筋を西北部に林道を進むと電源会社の送電鉄塔が数基が建ち、列をなして我が大川村の領域にまたかつい居る。この地を馬込開拓地と稱(とな)え入植戸数十一戸。現在では電灯も導入。最近は国の施策によって総工事千二百万円を投じて開拓道路開削で昭和四十二年に完成予定という。
 馬込の地名は往昔安倍郡井川村が産金地として主要せられ、武田全盛期から徳川幕府の慶長小判の金採掘地であったと伝うが、一部の鉱区は最近まで採掘し、大東亜戦争中の金鉱整備によって廃鉱となったが、井川ダムには砂金が巨額に採掘工事の土砂の中に埋蔵せられたと。この井川村笹山産の金塊を当時の府中に運び金の精錬所(現在静岡市金座町)の間井川村から山の尾根伝いに大川村の馬込に至り洗沢に通ずる所謂梅地街道を利用し悉く人の肩に委ねた、金の運搬には幕吏によるご用職が馬で運んだと伝う。
 その途中八草と智者山とを結ぶ嶺上椿き坂付近に馬を繋ぎ休憩所があったが、放馬しては馬込に入り込むことが多いので、後にこの地名を「まごめ」と名付けた。馬込入植者は土地の土着の農業経験者が晋ね入植し、主産物は茶そ菜育苗等が挙げて居るも、農営もう一歩と云えるでせう。戦後食糧危機克服のため各地の団地を開拓して営農に精進し今日に至った。
(~P47)

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』17~洗沢~

2011年07月23日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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※周遊コース(続き/13清沢村境洗沢地域)

 杉尾は現今では明治時代の先住者は少なく、開拓入植が多い。この開拓地は大川村の開拓地とは異なりて、満州からの引き揚げ者その他で土地の土着者の二男三男でない処が違っていて、主に乳牛飼育の酪農が中心で、村の補助金も交付せられ近代的施設を郡下随一を誇っている。杉尾には大川村木魂大明神の口碑に伝はる大杉を切りて倒れたので地名を杉尾と名付けたとか、一説には切杭の杉の木があまり高く空にそびえて居り夕陽に映ずる影が現在の杉尾の山にさすので、その地を杉尾と名付けたとかといい伝う。
 県道静岡春野天竜線榛原郡本川根町藤川小字洗沢は、榛原郡・志太郡・安倍郡の郡境に位し一名郡界ともいう。かつて交通不便と特定郵便局との相互連絡に悪条件の時代の郵便物の交換所がこの洗沢にあった。大川村の方は日向局から未明朝の四時頃特定の逓送夫が赤行嚢袋を背負って城山の道を藁山道光の上を通り石仏片樫を過ぎ洗沢に到着し、朝の八時頃、榛原郡千頭局も日向局同様に高山経由で洗沢に到着し、相互郵便物の交換を行った。昭和の初年から坂ノ上天王峠を経て、清沢村小島・鍵穴・寺島を通り清沢局との間で交換するまでは、洗沢が交換所に指定されて集配人は厳冬盛夏の時といえども四里以上の険坂難路を物の数ともせず恪勤した陰の人々も多い。
 洗沢は智者山の山裾で、駿河湾や御前崎の展望よく、その風光明媚の景観また格別快適さ最高。洗沢を通り、千頭照るてる、小長井曇る、の千頭小唄の一節を思い出し、昔山家のお江戸と他自共に誇りと粋を集めた銘茶川根路を右折し、県道沿いに有名なる護応土城の跡があり。徳山城の砦の城で、城を中心に地下七米位に掘り下げ、周囲拡大二条の城壁を築造し、地形は極めて平坦地で、山岳起伏が多く谷深く東に大井川まじ川が流れて天然の要害の地であったが、今川範氏が徳山城を陥れて続いて護応土城・萩田城落城し廃城となり、現在では熊笹が生い茂り狐狸が出没変化したと明治末期頃の大川村の農家の人々が原始産業の雑穀獲得のためその地に求めた。護応土城攻略戦に討死した武士の霊を祀った「ごおうど地蔵」を祀った堂宇が現存して居る。
(~p45)

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』16~片樫~

2011年07月22日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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※周遊コース(続き/12清沢村境片樫地域)

 安倍郡清沢村杉尾との境の嶺上にある片樫は、一種の奇異なる樹木て目通一丈余で、根元は風雪のため洞窟となり居るも、一年交代で枝の新芽を出すと云う。即ち一年は北方清沢村へ、一年は西の方大川村に新芽を出す。昔から交互連年変わりないが、今から二十余年前に東京の某大学に依頼して調査したるも地質上の変化による現出との鑑定せるも、大川小学校の某先生もこの樹木の研究したと聞くも結果未発表。県天然記念物保存会の県官も現地踏査したこともありしが、土質の結果であるとのことですが、その付近は広葉樹林の一帯で、能又川の渓谷には冬山ともなれば白煙が各所に立ち昇り、炭焼風景が一入冬の厳冬を思い出すものなりしも、現存では電気製品の需要のため跡を絶ちた。広葉樹を原木とする椎茸の自然栽培方法が、この片樫一帯で創始されたと云う。椎茸栽培者は本村崩野の人で、年代名前名字は不詳なるも、片樫近傍が椎茸の原木の適地であることは事実である。この事柄は京都大学の一学生が植物学と特産品の研究資料として本村の椎茸が挙げられて、同大学で専攻の結果、静岡県安倍郡大川村日向地内片樫が椎茸の栽培地であることを確認したと、今から二十年前に照会がありて、本村特産品椎茸の発祥地ともいえる地である。
 片樫と並んで櫻石仏があるが、この処の名の知れぬ石仏も戦国の世に小長井長門守の武士達の討死の跡かも知れないと想像する。
(~P43)


『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』15~道光~

2011年07月21日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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※周遊コース(続き/9開拓地道光地域)

 日向に曹洞宗日向山陽明寺があるが、この寺の開基で雲叟深耕大和尚の誕生地も道光村と伝う。幼少にして仏門に入り、剃髪得度し本山として有名で各大字に隠居寺を開創し弟子たちをしてその寺の往持として宗旨の布教し、本村全戸が曹洞宗たる所以も、その功労と云えるでせう。和尚は後年寺を出しに任せ、日本各地を遍歴布教し、最後に現在の神奈川県愛甲郡に光澤寺を開創し、ここに足跡を止めた。現在でも光澤寺は現今し数年前に日向の檀徒有志は同寺を訪れて住職と面接したという。
 現在の陽明寺も創立以来五百年の歳月を経た。創立当時の用材も道光村佐藤某の寄進という。
 小長井長門守と道光村との伝記もあるが、小長井長門守の出所由来がどのような人物であったか伝記だと貞観五年三月十七日、時の帝清和天皇より小長井山城守清房と名乗りを許され、その子孫小長井氏河内国より榛原郡本川根町小長井城に移りてよりこの城に止まること百四十三年。その間領地を治めて子孫代々相受継ぎしも戦国の世となり、元亀元年小長井長門守の時、多勢の敵に囲まれ遂に落城。戦後残り一族此処に「小長井奥都城」を指す。落ち延びて切腹したと云い伝う。長門守が石に腰かけて切腹したと云う腹切石は徳谷神社に保存してあって、小長井城跡は東小学校がある。
 長門守の栄華と寵愛を甘受し、常に綾羅の上衣真紅の下着を身にまとうて成長した姫君の一人が道光村佐藤某に輿入嫁入したと云う。この盛儀の式典に山道を開削し行列がえんえんと三百米に達したと云うが、現在も杖之置場や御所のわき車の平とか云う処や
地名が残って居って道光村に通ずる道幅も広い。
野山の仏として残って居るは不動明王の自然石が一基と数基の地蔵さんが草むらに建立しあるも、不動明王は能又川の水源地付近の不動の瀧の分身であって、今の字釜ノ口の大淵に残る天狗との業で当時の崇りを除けての祈願成就の御礼に不動明王の尊体を自然石に刻みて建立したと云うも風化しては居らない
この道光開拓地をあとに山道を幾重にも曲がりくねっている道の山頂につく処で開拓大川清沢道路と結ぶ。
この辺も平坦地で朝晩の空気はさわやか。秋になると一面ススキの穂が柔らかい日差しに輝き、雲の色さえ夏とは違っている。
野ウサギ・キジ・ヤマドリの鳥類の繁殖棲息して、猟期ともなればハイカーの猟声で野山は賑く獲物も豊富である。
(~P42)


『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』14~道光~

2011年07月20日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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※周遊コース(続き/7開拓地道光地域)

 藁山集落野田ノ段を西北に進むと、開拓地道光に至る。この道光村もかつての寺子屋学問時代のお手本に道光村と書き残されて居る。道光集落は往昔は戸数十三戸。現在開拓戸数僅かに四戸で、それもそこに住み込んで居る者なく、ここには神社も寺院も建立して佐藤某氏が豪農を張って住んで居ったが、現在は皆他村に移住して神社寺院もなく、ただ草むらに屋敷のみが昔の栄華を偲んでいる。
 栄枯盛衰が人生の行路のを大きく支配されることは佐藤某氏の屋敷跡で窺われた。
 道光村は、超人物の輩出した処であると伝う。先ず人物往来誌上から拾った記録を転記し書かれざる郷土史には、指を駿府国静岡市出身と云う山田長政仁左衛門の伝記秘録中の山田長政がどこで生まれたのか、はっきりしない。駿河国とも言われるし、尾張国だとも伝えられる。伊勢国山田で産まれたという説もあるそうだが、駿河国というのが一番よいらしい。少なくとも彼長政は駿河国に縁故がもっとも深かったと見て良いと言う。そこで駿河国の国府馬場町に住む紺屋仁左衛門の伜だという説も出ているし、或いは同国の藁山で産まれたとも言われている。長政は元和年間に二十八才でシャムに渡った。寛永五年一六二八年には在畄日本人の団長云々と記録されて居るが、駿河国の藁科とは現在の安倍郡大川村日向字道光を指すと伝う。
 静岡浅間神社と駿河国の道光村との由来について、道光村には豪農佐藤某氏が住居し、いまだかつて斧釿を入れたことのない山林ばかり二百余町歩を所収し居るため、遠く平安朝のj昔から駿河国の総社として有名で浅間神社の現在の社殿は、文化元年一八〇四年から六十年間にわたって造営されたという。その大拜殿の大柱が当時の浅間神社御用掛職の命により道光村の佐藤氏に指名され、スギ・ヒノキ・ケヤキ数十本を寄進されたと伝うが、そのうちのケヤキ一本には寄進者の氏名が刻み込まれて居ると伝う。交通不便な往昔の運搬にも、相当の日数を費やしたという。
 義僕八助は徳川幕府中期の頃、駿河国道光村の産で幼少の頃駿府、今の静岡市呉服町の某家に丁稚奉公に出たという。八助の性格は仁侠心に富み、主人に忠実に仕え商売には実直そのもの、陰日向なく働いた甲斐あって多少の貯えができ、年期明ける間近に主人が或る事業に失敗し倒産寸前なので、八助は家運挽回のため自分の貯えた金子全部を惜しげなく主人のため差出して、なお御恩返しのお礼奉公まで申出て忠勤に励んだこの事が時のお上に知れて賞を受けた。後人呼んで義僕八助と後世に伝う。
 現在静岡市南安倍町国鉄安倍川鉄橋付近のささやかなる堂宇の境内に義僕八助の墓がある。
(~p39)

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』13~藁山~

2011年07月19日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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※周遊コース(続き/5藁山地域)


 畑色を過ぎて西北杉尾に向かう途中、明治初年の寺子屋時代の学問のお手本にも残る藁科村ずくしの中の藁山の上に至る。
 日向の字藁山はもと数軒の家が集落を形成して居り小さなで古くから祀られてあるあごなし地蔵が安置し、最近随筆家によって野山の仏地蔵の話が数々と書き残し読む機会を与えられるようになった。
 あごなし地蔵は歯痛に悩む者が今も祈願して居るが、おはたしは萩の木でようじを造ってあげるが現在でも根深い信仰となってまた残って居る。数軒の集落の者はみな移住して、現在は住家は一軒もなく耕地ばかりであごなしという由来を知っている者はなし、無住のに地蔵尊はひっそりと残って居るも耕地所有者小長井某氏によって香草の絶えたことなしという。年代不詳なるも、各大字ごとに祀り居りし氏神を共同祭祀し現在の日向松ノ平に合祀鎮座し毎年氏子が集合し祭礼を行ったと伝う。或る年の祭典に氏神の方式の取扱方法と当番制につき氏子同士の争いから端を発し、鎮座神体の分散を余儀せられ各に祀ることになり、各代表者今の氏子惣代も格の人が守護神の尊体を分身したが、例の藁山の代表者が遅れて参ったので、守護神の分身を持ち帰ることがなく、浜行用の米俵の「サンダーワラ」を持ち帰って行ったと伝う。それ以来「サンダーワラ」を丁寧に取り扱うと伝う。現在でも数軒の集落の時世の頃と同様に毎年祭りを行うて遥かなる祖先の営みを継承してこの地に最初から住んだ人の子孫も現在日向に住んでいる。
 藁山の少し上った処に坂ノ上、日向各及び杉尾方面の分かれ辻があるが、人が称して野田ノ段というこの場所に住んで居る年老いたる狐が出没して妖怪変化して無智の里人をだましたと伝うこと現今でも知れて居る。

『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』12~畑色~

2011年07月18日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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周遊コース

 静鉄バス利用で静岡より約一時間三十五分を要す。小型自動車で一時間、諸子沢入口停車所下車、諸子沢入口から反対の畑色開拓道路の藁科川に架橋する城山橋を渡る。この辺は藁科川の清流に沿い渓谷美と相俟って初夏のアユ釣り場で有名で、水ゴケが多く獲物も豊富、一日の家族づれで楽しめる快適地。
 城山橋を渡りて少し前進すると、昔の戦国動乱の世に城を築造したと云ふ城山の砦の跡が茶園の中腹にあり、対岸の日向の山の中腹には萩田城跡が戦国の名残を偲ぶかのように残って居る。萩田城は静岡県の古城址によると今川範国が延元元年一三三六年駿河の守護を命ぜられたが、南北朝抗争の最中で、容易に駿河に入ることができず、正平七年一三五二年、その子範氏に至って島田市野田の大津城を陥れ、ついで徳山城・萩田城を攻略して駿河に入ることができたと伝ふ。
 萩田城の攻略戦が激烈その極に達し、字矢平は敵味方の放し矢が山積みして居ったのでその地名を矢平と名付けたと伝ふ。
 付近には戦にて亡くなった人達を祀れる七人塚が残っており、萩田城付近には武士の屍が折り重なりて山をなしたと伝え、その地に現在でも「兵乱」と云って「ひょらん山神」を祀って霊を弔ったと伝ふ。
 畑色開拓道路は国の施策第二次清沢~大川開拓道路で総工費六千万余円を投じて開削し工事完成したが、最近相次ぐ台風にて府外発生し、崩壊箇所の補修工事にも巨額の工事費を投じ、目下工事中で完成も間近く全線開通の暁には榛原郡本川根町に接続する主要道路となり、ハイキングコースとして快適さが良い。
 畑色開拓地付近は標高五八○米で、同地は戦後新しい農政の展開と二男三男の農業開拓意欲によって入植したが、戦後二十年の今日農業の構造改善と生産力向上や流通改善の推進によって酪農と農地転用して、乳牛を飼育し目下千万余円の投資を以て事業開発運営の由。畑色開拓一帯は誘致中心のゴルフ場も可能地で、その沿道には伝説の種々相ありて大自然の神秘やこの世の奇績も怪しき伝説として、われわれには忘れ難い印象をあとづけて物語に句碑に郷土伝説として残って居る。場合により多少とも自由に行為の加えるは余儀ないが、その小さい句碑の原形が段々に滅びへ滅びへの経過に導かれて伝承の頗る変態を形成せしめる場合が多い。それは決して伝承者の創作と限りないが、真の材料が残らないので残念だ。実はただ一度だけ直接の観察を受けることが必要といふが現実に物体なり古文書、古事記等がなく唯々古老の伝承のみだ。山の霊や木の精、山村の天狗人狼ら妖怪変化も郷土の超人的なる偉人豪族の遺蹟も名の知れぬ六部の人柱、長者の盛衰、處女の悲恋物語、草木の不思議なる伝説火蛇の化身等も、一旦人々の知覚から消え去らんとしている現今、少しても伝説物語口碑として残したい祈念だ。総ての上に洗練もないし自信もないが、趣味的研究として大きく取り挙げて郷土伝説の資料として拾ってみた。
 畑色開拓地は従前は池ノ段と云い、広葉樹針葉樹の混合林地帯であって、池ノ段は名の通り大きな池があって常に水が満水であった。
 八草の女杉の池も満水の水で蒼々として竜神の大蛇が住んで居ったと云ふ。或る日、農婦が八草の女杉の池で汚物を洗濯したので竜神の祟りとなり、池ノ段に住みかえたが間もなく大蛇は静岡市水見色の山の中の池に住むようになったと云ふ。竜神の退去後はたちまち池の水は乾いて一面草木が繁茂したと伝ふ。
 池ノ段の一帯は土地肥沃して一大台地を形成して居るも、その山には大小の石塊、大きな石が絶対にないが、古老の伝説では昔この地に通称「ダイダラボッチ」と云ふ怪人が来たりて里人と口論の末、池ノ段の石を皆対岸の栃沢へ投げてみると豪語した。里人は信用せぬ言葉づかへの表情を現した。「ダイダラボッチ」は怒り、余勢を張って地上一帯の石を皆んな栃沢川へ投げ込んだと伝ふ。現在池ノ段畑色開拓の近傍には石はなく、反対に栃沢や栃沢川には無数の石が重畳と敷き並べて、創意工夫をこらして利用したら観光資源や石工の材料ともなりぬ。
(~P35)


『大川の風土記』(小沢.1966)

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『大川の風土記』11~銚子峡~

2011年07月17日 | 大川の風土記
湯島の小沢氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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大間川の幽邃*(銚子峡)

 静鉄バス利用静岡市より約二十八キロ所要時間一時間四十分で到着大字湯島の奥藁科川支流崩野川と大間川の合流点県道井川~用宗停車場線湯島大橋が架けられて、その周辺から遡上約四米から六米に狭まり断崖絶壁の激流は岩を噛み山を震わせその景観は藁科川の清流に映ゆる。新緑紅葉の美と共に四季を通じて眺めよく最近行楽の客も次第に増加しつつあり、深山の美もここならばみられない絶景藁科川の「黒部」の渓谷の観ありき。
 付近一帯はやまめの釣り場ありて四季を通じて豊富なる魚族の繁殖あり。釣りの人の訪れる者も多く、釣りの適地であって大間川の清遊と相まって、将来は「バンガロー」の設備も計画ある。
 一方この地点から右岸を遡上する崩野川もやまめの釣り場で有名となり、最近はラジオ・新聞等を通じて紹介し、静岡観光の一翼を担って居り、一日の清遊には最適地と云えるでせう。
(~P30)

*幽邃(ゆうすい)/景色などが奥深く静かなこと。また、そのさま。


『大川の風土記』(小沢.1966)

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