大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

釜石峠の言い伝え

2014年10月31日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区栃沢から足久保へ抜ける“釜石峠”には次のような伝説があります。

「昔の旅人は釜石峠を越して足久保街道を通り駿府に出ていました。峠の少し手前に石仏のお堂があり、山道はここで三本に分かれて、左が玉川、中は足久保、右は突先の登り道になっていました。栃沢から峠に着くと初めての人は迷いやすいのです。
昔何かの急用で夕方栃沢より登った旅人は一本道と思ってか途中で水をたずねずに登ってきました。そしていつしか玉川に通じる道に迷い込んでいるうち、とうとうあたりは暗くなってしまい、深山で野宿しました。ここで山の動物にくわれては大変と寂しくなるばかり、そこで思いついたのが峠の石仏のお堂のことで、急いで手探り足探りで今来た道を引き返し、漸く峠のお堂にたどりついて『願わくは道に迷いし者、せめて一夜の宿を貸し給え』と心で念じてお堂の中へ入りました。その夜は旅も疲れでぐっすり眠りましたが、夜明け間近と思う頃、石仏さまが夢枕に立ち『お前は道に迷っている様子、夜があけたら中の道を大タルの方へ下るがよい』と告げられました。これに気が付いた旅人は石仏に三拝九拝してお礼を述べ、夜明けをまつ間に一夜の宿を貸してくれた上に夢枕に道案内までしてくれたことをこまごま書置きして峠を下りました。それから幾日か過ぎた日、その書置きを村人たちに見出され『それは大変お気の毒であった』というこどえ、それからだんだんに分かれ道や難所に道しるべが建てられて、迷う人もいなくなったといいます。」

『藁科路をたずねて』(海野實.明文出版社.昭和59)

たんろく屋敷跡

2014年10月19日 | 言い伝え&伝承
やっと見つけました、たんろく屋敷跡。

静岡市葵区坂ノ上には、時雨山たんろくという、それは強い強いお相撲さんがいて、その噂を聞きつけわざわざ江戸からやってきた相撲取りが、その怪力ぶりに舌を巻いたというほど。

その時雨山たんろくの生まれた家が坂ノ上の地区内になると聞いていたのですが、地元の方に伺ったところ一発で、“その家の裏の田んぼのところ”と教えていただきました。

やはり地元の方に聞くのが一番ですね。

今は田んぼになっていて強者どもの夢の跡です

伝承『山の神の崇り』

2012年10月24日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流・栃沢地区に残る伝承を再話します。

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ある時、樵が山に小屋を作って泊まっていたが、夜中に泣き叫ぶ赤ん坊を背負った女の人が訪ねてきた。女は、この赤ん坊は乳よりカネモノが好きで、腹をすかして泣いている、何かくれてほしいと言う。樵は仕事の役にも立たないような金物をくれてやったが、赤ん坊はそれをすべてナメ尽くしてしまい、今度は樵の飛び道具(鉄砲)までもほしがって荒々しく迫ってきた。樵は身の危険を感じてだんだん後ずさりしているうちに後ろの戸口から身が転げ出し、気がついてみると村の近くに居た。あれは山の神の祟りだっけと樵はいい、村の氏神様がオレを助けてくれたものだともいっていた。

大川地区・栃沢 米沢賢一郎(明治二十九年生まれ)


『安倍川ーその風土と文化ー』(富山昭・中村羊一郎.静岡新聞社.昭和55年)

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『木魂伝説』

2012年10月10日 | 言い伝え&伝承
木魂伝説に関する文献を抜粋する。

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木魂伝説

 海岸部から南アルプスに至る広大な面積の静岡市、すなわち安倍・藁科川の流域地区は、地質、地形、気候上などの諸条件が重なり、極めて豊富な種類の植物の生育が見られる地帯である。
 そこに生い茂る樹木にしても、針葉樹、落葉樹、照葉樹と、地域に応じた多様な植生が見られ、人々はそうした豊かな森林に親しみ、これを生活の糧ともしながら生きてきた。古くはこうした駿府周辺の豊富な材木が一般に「安倍材」と称され、安倍・藁科両河川の水利によって上・中流域から、駿府の木材市場に搬出されていた。
 一方でまた、山には山の、森には森の、あがめるべき神の存在を信じたこの地方の人々であったから、少なくともそうした神の表象であると目される木々だけは、たとえばこれを「山の神」の木などと称して、厳重に伐採等を禁じたのももちろんであった。平地山地を問わず、殊に目立った大木老木をして、これをのちに伝説の木とせしめた理由もそこにある。
 安倍・藁科の流域一帯に伝えられる杉、カシ、クスノキなどの数多い樹木伝説は、いわば豊かな樹木の恵みの中に生きてきた人々の、一方で恐れなければならなかった神聖な木々への信仰であり、その名残であろう。その伝説の多くは、そうした木々の霊妙さや、禁忌を犯した場合の不幸などについて説いている。
 藁科川上流部の日向に伝わる「木魂明神」の伝説は、まさにこうした流域n人々の生活と樹木のかかわりの中から生まれた悲しい物語の一つであるように思う。かいつまんでそれを紹介すると次のような話である。

 村の旧家の一人娘の所に夜な夜な通う若武者があり、親が怪しんでその正体を探ると、ある峠に立つ大きな杉の木霊の仕業らしいとわかった。そこで親たちはこの大杉を伐り倒したところ、同時に娘が蛇体となってしまった。親は蛇体になった娘を家にはおけぬと意を決し、この杉の木で舟をこしらえ、娘を乗せて藁科川に下した。母親は娘こいしさのあまり、そのあとを追ったが、こがらしの森の辺りで別れ別れになってしまう。娘の舟は大水に流されてふな山の辺りで転覆した、後の世に「木枯しの森」「舟山」と呼ぶのはこの故で、また清沢の赤沢の対岸櫛筐峠は、娘が母への形見にと途中舟から櫛を投げ入れたことに由来するという。村の人たちは、大杉を伐った跡には「木魂明神」をまつり、そこを「伐杭神社」と呼んだ。

 この話は「静岡県伝説昔話集」では、人間と蛇の婚姻譚として分類されているが、私はやはり、神聖な大杉を伐ったことの崇り、そのおそろしさを説くところに話の眼目があったように思う。
 そうしていま一つ、この伝説創造の背景には、かつてこの地区で盛んに行われていた「筏流し」の体験があると思われる。昔は日向の更に上流の八草辺りからも、バラ流しで大量の木材を木枯しの森まで流していたというし、舟イカダも各所で盛んに行われていた。この伝説中の地名説話の部分などは、やはり筏師たちの考えつく話であったに相違ない。
 たまたま、神聖なる大杉の禁忌を犯したたたりが、伐り倒した材木を運ぶ筏流しにその不幸が及ぶ、そうしたこの地方の信仰と現実の体験とが「木魂明神」を祭り、その伝説を生み出す背景となっていたのではあるまいか。
(p56-58) 

『安倍川ーその風土と文化ー』(富山昭・中村羊一郎.静岡新聞社.昭和55年)

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伝承『棺は空っぽ』

2012年01月26日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流・栃沢地区に残る伝承を再話します。

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『棺は空っぽ』

昔、服織村の洞慶院の僧が大川村栃沢辺りまで托鉢をした。夕立にあったその時、向こうから葬式が来た。僧は葬式に近付いて「可哀そうだな、棺には死人がおらぬ」とつぶやいた。それを耳に入れた一人が「何を言うだか、乞食坊主が」と、くさしたものの気がかりなので、棺を下ろしてふたを開けてのぞくと「いない、いない」。困惑して僧に「死人を納めて下さるまいか」と頼んだ。僧は呪文を唱え「入ったよ」と言った。成程入っていた。
(静岡県伝説昔話集)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『大間の不動』

2012年01月25日 | 言い伝え&伝承
藁科川の最上流・大間地区に残る伝承を再話します。

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『大間の不動』

 大間の滝口に不動明王が出現した。村人はこれを敬って字タチカラに小詞を建て、その辺の榧(かや)の木を伐って像を刻んで安置した。その後、堂宇を今の氏神の境内に移そうとして滝口の檜(ヒノキ)を伐って像を刻んだ。そのため大間の人々は榧や檜で敷居を作らない。榧や檜で不浄用の器具を造ることをしないのも、このためである。
 また清沢の鍵穴の不動明王のご神体は、ある年の洪水の朝、村人が近くの河原で流木を拾ったが、毎夜猛火が燃え上がるので、陰陽師にお占ってもらったところ、流木は大間の不動を刻んだ用材の一部であると言ったので、この木で不動を刻み祀ったものだといわれている。
(美和村誌)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『楢尾稲荷神社』

2012年01月24日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流・楢尾の稲荷神社に残る伝承を再話します。

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『楢尾稲荷神社』

昔、楢尾から南を遥かに眺めると、駿豆の海上に毎夜大きな火光があった。そんなある年、霰(あられ)が降って災害を被った。また、その後年は大飢饉が来て、悲惨で目もあてられなかった。村民は産土の神社に集まって五穀の神を勧請して豊作を祈った。すると神徳により穀物が豊熟して餓死を免れた。稲荷神社は後世ますます敬仰の度を高め、毎年陰暦二月二の午の日に例祭を行っている。
(美和村誌)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『勘助屋敷』

2012年01月23日 | 言い伝え&伝承
藁科川・上流日向地区に伝わる伝承を再話します

カンスケさんのお宅ってどこだろう?
言い伝えの中で、お金持ちの例えとして、よくこの“人の地所を踏まずに○○へ行ける”という表現をみます。


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『勘助屋敷』

日向に勘助屋敷と云われたお大尽の家があった。その家の持地所を道の幅になおせば、府中まで人の地所を踏まずに行ける勘定であった。日向福田寺の裏山にある宝筐印塔は、お大尽の息子が下女と心中したのを供養したものである。
(小沢慶一)

『梶原景時の生涯ほか』(松尾四郎.松尾書店.昭和54年)

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伝承『崩野明神』

2012年01月21日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流・崩野に残る伝承を再話します。

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『崩野明神』

ある時、賊軍が当所に乱入し、いたるところの民家に火を放ち略奪した。村民はこれを恐れて、氏神の神体と私財家具等を力の限り担いで西北方の高山の中腹に隠れた。賊軍が去った後、再び帰って氏神を通称字宮本(当時は松下)に奉祀した。当時村人が隠れた所は、字カクシゾウレ、クラノダン等と言われている。
 氏神は文明年中(1469~87)日向字松の平に奉還されたが、天文年間(1532~55)に再び旧社地の宮本に遷し、文化十四年(1817)二月、現在の地字横開土に遷座したのだ。(美和村誌)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『護応土城』

2012年01月20日 | 言い伝え&伝承
いくつかの伝承を生み出した藁科川上流・松の平には現在茶畑が広がり、火葬場は廃止され、七人塚も取り払われています。

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『護応土城』
 
 徳山城の砦の城で、城を中心に地下七米位に掘下げ周囲広大二条の城壁を築造し、地形はきわめて平坦で山岳起伏が多く谷深く東に大井川まで川が流れて天然の要害地であったが、今川範氏が徳山城を陥れて続いて護応土城日向の上の萩田和城が落城し廃城となり、現在では熊笹がおい繁り狐狸が出没しておる。護応土城攻略に討死した武士の霊を祀った「ごおと地蔵」を祀った堂宇が現存して居る。残党が残って杉尾の桜石仏で切腹しこの地に霊を祀ったので桜石仏と名付けて山の神として現在でも山林所有者が祀っておる。残党が能又川を下り、現在の日向の松の平で切腹したとの伝説が残り、この地に七人塚があってこんもりと茶畑の中に土が盛り仏の樹木の類の香花の木があったが、現在伐木し地蔵尊を建立して碑面には為当所無縁諸精霊頓生菩薩、昭和九年盛夏陽明寺二十九世建立。当地は茶畑が多く七人塚の付近には大川地区の火葬場も設置してある。
萩田和城は落城後山林となり山の神(兵乱山神)として住民は恐怖心をもつと伝えておる。(上湯島、小沢慶一)

『梶原景時の生涯ほか』(松尾四郎.松尾書店.昭和54年)

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伝承『狼から新墓を守る』

2012年01月19日 | 言い伝え&伝承
現在は姿を消してしまった狼。狼の絶滅がシカの繁殖を増やし、現在の様々な山の害につながっているという指摘もあります。

藁科川上流の旧家では、墓が敷地内にあり、狼の存在が屋敷の配置などを決めていた要因であったという視点は初めて知りました。

「梶原景時の生涯」の収められていた史話と伝説を再話します

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『狼から新墓を守る』

 山の狼は時代によって増減があったように思える。平安の末期、大川村栃沢に野馬の群れがいたのは、さ程狼が居なかったことを暗示している。天文年間(1532~1554年)、砂宮太夫が多間に入植した時、矢鍛冶を伴って来たのは、狩猟のためであるが、狼対策も含まれていたと考えられる。江戸期に入って狼が増え、特に幕末には民家に被害を与えた記録が、各地に増えている。
 昔は土葬であったから、新しい墓はすぐに狼に掘られてしまう。清沢村坂本では、狼はの中までは入って来なかったから、墓は各戸のすぐ裏に造っていた。
 甲州八代郡では村外れに墓地があったので、長さ三四尺の太竹を半分に割って、竹の内部を外に、逆に反らして輪にしたものを墓の上に半ば埋めておいた。夜になって狼が墓を掘ると、竹がハネ返って狼の頭を強打する事になっていた。これを「犬っぱじき」と云った。

『梶原景時の生涯ほか』(松尾四郎.松尾書店.昭和54年)

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伝承『玄国和尚の一代記』

2012年01月18日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区に残る伝承を再録します。

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 今から、二百年まえのむかし、しずおかけん、あべぐん、おうかわむら、ゆしまというところに、かいのくに、やしろぐん、おうしま、むらから、玄国和尚と言うみすぼらしい、和尚さんがまいり、あるおうきい、百姓家の主人公に、かわいがられて、しばらく、のあいだとまつて、おつたそうです。むかしのこと、ですから、たべることだけでも、なかなか、たいへんなので、その主人彦右衛門と言う、うちで百姓をてつだつておつたそうです。が和尚さんはそのうちに日向というところの陽明寺の小僧ぼうさん、としてやとつてもらいつとめていたと言うことです。そのご、ゆしまのお寺には、和尚さんがいないので、ゆしまのお寺に入ることゝなり、そしてむらの人たちは大変んかわいがつて、やりました。たべものをもつてゆき、むぎ、ひえ、あわ、芋のような、ものをほどこして、やり、しんせつにしておきました。ところが、和尚さんには、からだに、きずが、たくさん、できており、和尚さんは大変くろうしていました。そして病気を苦にして、村の人たちに、私はどうにも、ならない、からといつて、たのみ、その彦右衛門さんと言う人に、私をお寺の本堂の、うしろ側に生きうめにしてくれと、たのみ竹のふしをとり、中の箱にいれて、うずめてもらいました。そして鐘をはこの中にいれて、うずめてもらいました。そしてその晩から鐘の音が七日七夜、ならしてこの世を去ったそうです。
 それからと言うものは、ひろく世間にうわさされて和尚さんをまつり、りっぱなお堂をこしらへて、まつりこみ今では、世間にできものの神様として宏くしられています。日夜おまいりする人の、おせん香のかおりがたへません。できもので、おこまりの人は、この和尚さんの本堂におまいりする人がおうくなつているわけであります。
和尚さんのなくなつた日は、安永四(1775)年二月二十七日です。毎年、祭天は三月二十一日、春の彼岸の中日に行はれています。
佐藤竜作

「ふる里わら科八社~第一集~」(大川寿大学.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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伝承『女杉と池の段のお話』

2012年01月17日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区に残る伝承を再録します。

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 静岡市八草より少し登った所に女杉と言う地名のところがあり、また八草より少し南の方へ登っていくと、池の段と言う所があります。その池の段と女杉とは、いっしょの話で、女杉は大木で、中が穴なので、中に女の大蛇が住んでおったそうです。そして池に行ったり、来たりで居り、時々、女杉の近所では、女に化けて、はたを織ったりして暮らして居たそうです。其のうち大暴風雨がやって来て、住んで居た、大木は倒れ、意見水はあふれ出るし、又、女が池で洗濯をしたと言うお話もあります。その太蛇は住んで居るのに困り、下川根町家山と言う所の野守の池へ、逃げて行ったと言うお話です。それから女の太蛇が住んでいた杉なので女杉、また太蛇が住んでいた池を池の段という地名になって居るという昔からのお話です。
大川井かや

「ふる里わら科八社~第一集~」(大川寿大学.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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伝承『治郎吉と狸の話』

2012年01月16日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区に残る伝承を再録します。

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『治郎吉と狸の話』

むかし、ある村に、治郎吉というじいさんがおりました。治郎吉じいさんは、田のだんと言うところに、山小屋をつくって、一人でとまっておりました。ある夜更けのこと、小屋のそとに一匹のたぬきがやってきました。そして「治郎吉とんことん」となきました。そこで治郎吉じいさんも、負けずに「言う奴とんことん」とやり返すと、たぬきは、また「治郎吉とんことん」とつづけてなきます。治郎吉じいさんも「言う奴とんことん」と言い返してそのくりかえしのやりとりが、夜明け近くまでも続けられました。狸は一層かん高い声で「治郎吉とんことん」と、なきさけんでいましたが、そのうちに、ばったりとなかなくなってしまいました。治郎吉じいさんも、やれやれと思いながら、つかれたのでそのままごろりと横になって、いつの間にか、ぐっすりと寝込んでしまいました。
 目がさめたときは、もう、外はすっかりあかるくなっていたので、治郎吉じいさんが、小屋のそとに出て見ると、なんと大きな狸が口から血をはいて死んでいました。治郎吉じいさんは、お茶でのどをうるおしながら、相手になっていたので、たぬきにまけなかったのだと言うことです。それでめったに、とりやけものの鳴きまねはするのではないと、小さいころに聞かされた、お話であります。
楢尾 佐藤勇次郎

「ふる里わら科八社~第一集~」(大川寿大学.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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