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『大川の風土記』47~諸子沢部落②~

2011年08月23日 | 大川の風土記
湯ノ島在住の故小沢慶一氏が著した『大川の風土記』(1966)を再録します。

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諸子沢②

まず諸子沢道路は昔の道も現在路線をたよって開削したと想像するもが、明治三十七、八年頃当時の青年会の記念事業として大川村全地域単位で道路の開削が竣工して居るので、諸子沢道路も一部分はその事業の一ツに挙げて居ること思料する。大正、昭和初年の農村救済事業の県営工事として諸子沢入口を着工したので、入口は県道と同じ幅員で漸次改良工事を遂げて、現在では国営の農道施工で局部的に改修せられて居る。安倍郡玉川村横沢境の一本杉の登山道は昔日の感がある現状下にある。

諸子沢で昔の地図にある柿の平の登り口に建立する地蔵堂は明治初年の建築物であるも、その構造方式は当時の建築の粋を集めたという。現在の家造大工ではその構造や方式が想像もつかなく創意工夫をこらしてあると言う。道路端には一基の常夜塔が山の中腹にありて、信仰の根深さを物語って居る。

少し前進すると道路上には曹洞宗のお寺で永久寺吉祥寺がある。

この寺は檀徒は諸子沢のみであるが寺有耕地と寺有山林の所有反別では、大川村寺院中最高であると伝う。かつては自作農創設法の制度で寺山が小作人の手に渡れたが、小作人らは寺の普請修補に多額の寄付を与金し、他の諸氏らも勧誘した結果が、吉祥寺の華麗な寺院の維持せられたと思い、祖先の霊に敬虔の意を表した。

寺の維持や山林の植付人夫等は現在の分収林方式がの定めて実行せられてと言う。また他方では無蓋講の制度も実行せられたと伝う。
大川村各大字でも何々左エ門講や秋葉講、伊勢講等と称する無蓋講が開かれていたが、経済状況から現在は閉鎖されて跡形もないようだ。
このの古老で人生一代記の日記を一日でも怠りなく書き残されたと伝う老人もあれば、漢方医薬で救世治療を家伝とし呪い、易占い、灸の施術をしたという人々があったと伝う。

大川村各のところどころにこうした人々が存在して居って医学の進歩しない昔の救世治療に大きく役立ち、闘病生活者に安心感を与えた。

村境の一本杉の登山口の付近には米づくりの時代の米一升の貴さと、自給自足の方則の農業時代譜とを物語るように山の裾に水田開墾事業に丹精した農夫らの面影を偲ぶかのように、段々畑が拵えてあって昔日の汗の結晶が残って居る。同地は今は植林地と変わって居る。
同地は植林地帯と広葉樹林に囲まれて電源開発の送電線の鉄柱数基が現世的な電化事業の発展と進歩を裏付けて大きく飛躍した。

この地域で大川村住民として深いつながりのあるのは村有財産統一の事業で村財政の安定と将来の財政に大きな功績を残した先覚者の功績を忘れてはならない。村有財産は百三十八ヘクタールが統一せられて植林したるも一部は新制中学校建築資金のため住民に売渡し、現在その地に残る十一ヘクタールが美林として残り、崩野に営林署と契約の分収林六十八ヘクタールがある。諸子沢の村有林は元は湯島の提供統一林で、さきに大川小学校坂ノ上分校の改築資金充当のため、立木のみの売却処分によって処分せられ、その管理は村において植林をなし、現在では同地随一を誇る美林である。この山の裾の道端に巨大なる石が転々として、なにがの伝説があるようである。

山頂を征服して高原にたどりついて眺めのよさ山野を跋渉する敵地。山頂の山波は遠に展開して千二十六メートルこの地帯には野うさぎ、猪、熊等が棲息して、猟期ともなればハイカーの諸氏で賑わい、猟銃の響きが谷間にこだまし、冬山の炭小屋からは美林の中に散在し、紫雲立ち昇れる風景は、山村の景物の一であり、下り迂回道を安倍郡玉川村横沢に至る。

その間に天狗嶽の奇景もまた格別、玉川村横沢に至る区間一料の長瀑、巨大なる転石、谷間に点在し奔流石を噛み、岩肌を現出し、自然の厳しさを印象づけられて居る。この瀑布は水豊季の景観特に壮絶で、玉川村の景勝の一ツであると共に、大川村の将来の観光資源開発のため受益将に百パーセントと言えるでせう。

青少年の体育づくりの叫ばれる今日、大きく活眼して本問題が解決する方途が開けてんことを切望するものである。玉川村からのバス利用可。

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)


『大川の風土記』46~諸子沢部落①~

2011年08月22日 | 大川の風土記
湯ノ島在住の故小沢慶一氏が著した『大川の風土記』(1966)を再録します。

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諸子沢①

健脚コース

静鉄バス諸子沢入口で下車、所要時間一時間三十二分で到着。小型自動車の利便もあり。
諸子沢健脚コースは最近青少年学生たちの利用度が高く評判がよい。
先ず諸子沢は明治五年の人口調を見ると、戸数四十戸人口二百七人と記してある。
昭和四十年十月第十回国勢調査の世帯数四十五戸人口二百三十七人、内男百二十八人女百九人になって居る。
産業交流と職業の定着で著しく人口異動の渦中にある現今の大川村の各大字を対象とする時、諸子沢は住民の定着率は高い方で、最近の農業センサスの耕地面積が広く各世帯の所有反別でも最高農家が多かったと村の記録にはある。
一握りの米、一粒の麦、一杯のめしに大切に真剣に生き抜いてきた祖先の人々は、土に愛情を求め土の歴史の中で生活を築き、現世的文化の過程と心強く土と一体となって生きた住民である。住民のシンボルは産土神即氏神である。

諸子沢の氏神は最初は大間川に面し、を背にした宮森にあったのを、氏子連中が交通と祭祀上不便である処から現在の位置に移転したと伝う。

白髭神社として祀られておるが、白髭神社の境内には大日如来が別棟で祀られていて、春の例祭には遠近の参詣人で賑わい、昔は玩具屋や漫談単談ののぞき屋で市をなしたと古老が話して呉れた。子供のお小遣いは、白銅五銭が斎行で最低二銭の硬貨、通称銅貨であった。

「みやもり」には現在でも密林地帯がありて竹藪や柿の大木があるも、柿の赤く熟した実を喰うと必ず腹痛を起こすと伝いて、村人は一切手に触れないという。

現在の白髭神社は、境内が拡大でかつては新制中学校敷地候補地にも挙げられたが、境内の樹木の樹齢から観察してもあまりに古い歴史はもっていないと想像する。

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』45~湯島部落⑱~

2011年08月21日 | 大川の風土記
湯ノ島在住の故小沢慶一氏が著した『大川の風土記』(1966)を再録します。

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湯島⑱

二ツ岩のアユ釣りはまた有名で、天然もの遡上期には水量に恵まれ、魚影が濃かった。この話は、明治末期から大正年代の情報で期待できない。この辺から「サカイの渕」までの区域上の方は唐沢口から餅田、上湯島辺がよい釣り場であって、稚アユが夕方にかばりの浮き釣が有望であった。最近は河川工事で天然鮎の遡上はまったく影を消し、漁組の放流稚アユによるもので、十分の楽しみも期待が薄いが、やまめ、うなぎは宝庫らしい。

昔はこの辺の川や用水路の排水口には「鮎かけ」、俗名「アユかけあんごう」。ちょうど大カエルの頭が大きく、しかも口のところに針をそなえナマズの尾がなく、短かくした形の川魚で、食用となっていたも近年はこの種の川魚は見ないが、小さな川魚の同類は魚影を濃く捕獲する。

「巡回文庫と水泳」明治四十三年から大正三年まで満四年幾ケ月か安倍郡長に在任した故田沢義先生ご企画の安倍郡巡回文庫を指す。当時の安倍郡は全部で二十四ケ町村であった。

巡回文庫は堅牢なる大きな木製の箱「本箱の大」錠前付で貸し出日記もあって、一ケ村約一か月位ので幾組もあった。

その巡回文庫が日向青年達の手で二箱入り。夏の太陽の下で重い書籍の運搬、金鉄も溶ける暑さで、さっそく二ツ岩の水泳場に飛び込み涼を求めた。河童

「河童」かっぱ頭に皿があって、水中にすむという想像上の動物。人を水中に引き込んで溺れさせるという。五月から盛夏の八月頃に川に住むので、各地で子供達の水泳には大人達を友添えにしたが、川に溺れて死んだ人達もあると伝う。

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』44~湯島部落⑰~

2011年08月20日 | 大川の風土記
湯島の故小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑰

昔の二ツ岩の付近では、古式による火伏の行事が毎年十二月頃「六根清浄」を唱える法院六部らで行ったもので、村の人達は薪一把宛を持ち寄って、山の如き積んだ処に火が燃えて広がった頃、法院が唱え事をなした後、村人達は徐々に火の中を歩いて参拝し、防火祭「火祭り」が斎行された。

世に名高い「火まつり」が斉修せられるのは周智郡春野町静岡県一級社秋葉神社で、毎年十二月十五、十六日火災消除の祈祷が厳修せられ古式豊かな古伝の弓、剣、火の三舞の神事が神秘荘厳のうちに執行し、善男善女の参拝者で賑わう。近郷では、清水市の西久保の秋葉神社峯本院でも防火祭が執行するも、戦前はで時々執行していた。

六根清浄を守護神とした法院もの西組に住みて、易断呪文ごとや神事を修めたと伝うも、現在も祈祷所の屋敷跡や法院の墓所も現存して居り、その子孫が祭祀香華を供えている。
防火祭は火まつりで、火災消除で消防での火の用心であるが、湯島も公設消防組が昭和十年五月三十日付で組織せられて現在に至る。での火災発生件数は明治十年代に家屋が二軒、明治二十年代に家屋が二軒で、大正年代に家屋が一軒に製茶工場一棟が焼失している。

伊勢参りの帰りの報知を受けると、での馬の飼主から馬具一式と馭者一人付で借り受けて、馬に盛装かざり物をつけ、湯島と日向の境のところまで出迎いをした。参加者は参拝者の家族親類やの老若男女の皆さんで迎えた。伊勢詣の人が多いときは、代表者とか馬に馴れた方が乗馬をし、厳粛なる入りを行い、二ツ岩の砂陵で、赤白の菓子その他をまいたと伝う。

ごく最近まで馬の飼主の家にはかざり物付の鞍や、あぶみ等が保存されて居った。

伊勢詣りの人達は氏神に参いりの家に色々なる土産物を配布し、同時に守礼も配った。

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)


『大川の風土記』43~湯島部落⑯~

2011年08月19日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑯


二ツ岩付近の昔の材木情景を二ツ三ツ挙げて尽きぬ慕情のなつかしさが浮かんでいる村の人達の共通の懐古かも知れない。

ホーキ沢に修羅を敷いて、丸太を配列して組立てそれを沢底に敷く。その丸太の上を木材を走らせて山出し(運材)する方法その他は肩に委ねて人力を以て搬出した。

この方法は大川村各地で取り入た出材夫の作業であったが、肩の担い方は山方の人が力もちだと途中の分担の人夫等苦労するので、毎日交代制で山方と土場に区別、運搬したと伝う。

山出した木材(川利運材)は筏に組んで藁科川を流下した。筏の組み方は丸太をたくさんつなぎあわせたもので、水に浮かべたものをイカダ組み方は丸太を並べる一枚のいかだに大小に区別し、太いもの五本、細丸太十本位にして前の切口を揃えて並んだものを小さな「ねこ」を丸太に打込み、それを樫木の細いものを二本上下に支えて置いて、藤の綱でゆわえ、前後同様に組み立て三枚乃至五枚位に一連とし、川の流れの水勢によって尾にそだをとりつける仕組み。「そだ」は杉の葉をたばにしたもの。急流のとき二把、普通時一把位だと伝う。「ねこ」は金ねこ、木製ねこ。木製のものは樫木の成年木のものを二寸五分位に切断して小さく割り、先をとがらし元を幅広く削ったものをその道では「ねこ」と呼んでいた。厳寒の作業も真夏の太陽の下の仕事も皆天職として毎日義経もどきにピョンピョンと飛んで、イカダ乗りが筏から落ちればだめとトビ一本にかけた人生でもあり、当時は尊い稼業だったに違いない。には水に達者な猛者がいた。竹の筏も同様な方法の仕組みであったと伝う。

省力化した作業も架線によって藁科川の沿岸まで運材搬出した。木材は堆積置場で川狩りの季節を待ち、九月十月の頃になると村の人達のほとんどが人夫としてかり出され、一日何程の労賃収入を得た。この川狩風景も一入懐かしい思い出で、当時の若者達の特異性を持つ仕事でもあった。川狩が始まると、大川村各字の人夫達や清沢村や静岡市の飯間辺りの人達が湯島に泊り込みで出掛け、流下すると共に、大川村の各の人夫連が静岡市まで出稼ぎに行き、約二十日間位は不在であった

昔、奥地の原始林の伐木された際は、皆大木であったので、大間川は水量が少ないので水を貯めて一度に放出して木材を流下した鉄砲川運材方式も用いられた。その木材の堆積置場がないので、二ツ岩から中島辺り積んで玉取(木材の太さを計等する法)(一名うぐいすの谷わたり)には人夫が数十名で約一か月位を要したと伝う。

大正九年頃大川村日向立石を取水口にして水力発電所設置なるや川狩は廃止したので、陸路運搬として馬力業が繁昌し、湯島にも飼育頭数五頭があって営業を開業し、藁科街道を往来していた。
戦時中は、軍用保護馬に指定を受け、毎月鍛錬日に参加し、徴発馬として従軍している。
水力発電所取り入口が完成後も川狩は当分の間、会社との話し合いで継続されていた。
最近は大型車両による運搬で今昔の感が深い。湯島では馬の飼育戸数が昔から多い処から、牛馬斃死処理埋葬地が上湯島日掛に指定しあるも、現在までに処理埋葬した頭数は僅かと伝う。明治の末期頃は藁科川が砂利が堆積して運航の便がよい頃は赤い旗を立てて湯島二ツ岩の岸辺には荷物を積み込んだ曳航の船が毎日往復したと伝うも、川の荒廃が多い今日では採等不能ばかりか、今日の若者達ならなんだ馬鹿ばかしいとしてあざけり笑う、先ず実現不能は確実だ。


『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』42~湯島部落⑮~

2011年08月18日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑮


「天の川扇の風に霧はれて、空すみわたるかささぎの橋」と唱え歌を芋の葉にたまった露をすずり水にしてすり、唱え歌を書き、七月七日七夕の朝に七色の色紙に書き、新竹を竹に結びで、早朝に家の前に建てる習慣は今も残存して居るも、現今では各地で商店の商いや観光のために賑やかな行事が競われて居る。

漢方薬が草根木皮で樹木について人間の健康管理の効能書のような記録を書いたが、対照的な草根がないは題名に副はないので草根をたずねると、例えばげんのしょうこ、毒だめ、わたぶどう、白ふし、かきとうし、南天、ちその葉、さふらん、桃の葉、かに葉、雪の下、猿取ばら根、ごんぞうばら根、山人参の根、昆虫類では黒とんぼ、赤せみ、魚類のやまめ、こい、蛙の卵等数知れない程の漢方薬の原料が樹や草によって人間の体力、体質増強や病根を切断し、美と健康増進のため服用して参ったことが窺われる。

大正七年頃に住人の小沢某氏が漢方薬、製薬免許を受って製薬に従事した。当時静岡税務署に申告した製薬方名は感胃散、咳治湯、小児延寿丸や胃熱下し、養胃湯、天松湯、中黄膏、日米膏、小児整腸散等で、製薬販売は一服の定価は十銭から二十銭で高価なものが、小児延寿丸の一服五十銭一円であって、年産の予定額千四百四十一円位であったが、交通不便と営業不振で事業を中絶し、朝鮮に渡り修業し、製薬に専念したが後ち病のため帰省中再起及ばず中道で歿した。

 健康で生かせ薬の正しい知識
 よい薬正しい知識でききめが生きる。

湯島の中央を藁科川が貫流し、それに沿って県道が通り、山は南北に亘り地勢周囲が高中央が低い。その中にホーキ沢、漆屋沢、唐沢、小沢。上湯島は対岸の山林、庄野、大津山から小さな渓流があり、上湯島の日掛には地下水が多い。

その昔、藁科川沿いの餅田の対岸の渕を取り入れ口として東組の水田の用水路として道路端に簡易用水路を掘削したが、常備用水として途中に二軒位の水車小屋もあって、毎日動いていた。家の前の水路を利用し、泉水も築造して邸宅を立派に取り挙げた人達もあった。

下湯島は夜景がすばらしく夜の西組を庚申さんの眺めはまた格別で、上湯島の昼の風景は一入良いと旅からの外来客がささやいていた。西組のを山道の急坂を約五百米位い登ると、地名なすの畑に至る。ここで富士の姿が見える。大川村での付近で富士の展望する場所は、湯島のなす畑ここ位でせう。

西組の小沢は山から民家の点在の間を縫って流れている沢で、沢の岩にはセキショウが生えている。沢にセキショウの生えていて珍しいのは日向・堂下沢、諸子沢・大道島辺りの民家の処の沢に密生している。セキショウは手足の関節の痛み、また挫骨のとき石湯の中で沸して患部に浸していると効果が多いといって採集する。

小沢には昔は水車小屋が上の段に一軒、沢端に一軒ありてきわめて水も豊かで水田もあったと伝うも、現今では減水して居るため川魚も住んでいない。西組の用水であったが、減水のため西組は共同資金と村の補助金を以て簡易飲料水道を敷設して給水を充足している。

西組の和田平付近は地下水の水域で、台風の時は増水し崩壊が起きる危険地帯で、最近がけ崩れが多いので、西組の水道給水槽付近にえん堤の砂防工事の施工が目下工事中である。

「奇景二ツ岩」を中心とした昔から伝承した関連なる地方的行事や産業への発達との経路を書くも、現今は中絶した影もなく近代化経営でその姿がすたれたも唯だ思い出の物語にすぎない。その姿が湯島の発展につながる段階で時代の流れと要求でもあったにちがいない。

その昔から二ツ岩は両岸の岩の間の底を奔流が不気味な程で、白練が玉と砕けて流下していて岩の上には松の緑が清流に映して麗しく景観特によい。付近の野辺には昔はたんぽぽ、つくし、仲よし草、すず玉の草、よし草のつる、あざみやほうづき、名の知れない草花野ぎくが繁茂し、東組の水田や用水路の排水が流れ出て一大砂場であり、子ども達の遊び場でもあった。夏の休みは学童達の水泳場で、大人も混同して水泳に避暑地ともした。

二ツ岩の上の松の木は、大正三年八月三十一日静岡市を中心として襲来した時化の際、水位が岩の上に達して、流木が累積のため損傷して枯死した。また最近に至り、樹齢百五十年目通六尺位の老木が枯死した。水位が二ツ岩の上につく位の台風は、最近は稀である。
二ツ岩付近の砂場も近所の百姓が開墾してえんどう、小麦等を栽培し、大正の初期は桑畑であったが、近頃では普通畑となっている。

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』41~湯島部落⑭~

2011年08月17日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑭

「木」か「蔦」「つる草」か判定しにくいのは藤で、「つる」になり花は野山のものは紫の房が咲き、庭木のものは白色の房をもつが、この頃は鉢物が出回るも、鉢物には紫の房の花が多い。

「藤の花」も季節と深いつながりがあって、藤の花盛りには、川魚の「ふじはな」が大群して遡上したので、三十年前には湯島辺り川原の川岸で捕ったもので、時代と共に影をひそめたといえる。

昔は藤のつるは「藤布」「葛布」「ぐその葉」で繊維として着物を織り出した。伝統の大間の住人砂宮太夫が羽鳥村の田植の娘さんと対話したときの服装は「たふの着物にたふの袴」を穿いて居ったので、羽鳥の稲の穂が「さっぱった」と伝う。
藤のつるは丈夫で、昔は茹でてよく乾かし繊維で網を作りて運搬用の縄の代用や藤蓑等に使用した。また筏乗りの材木の組立の材料として重宝しており、野山の花はまじない事に使用せられ、庭の白い花は陰干しにして置いて、漢方薬に用いたと伝う。
 
「上にいて下を見おろす藤の花」

仏にゆかりのある深い樹木は「こうばな」「もくぎ」、墓所にゆかりのあるものは百日紅、椿木、仰木、つつじのうち、「赤い花を咲かせるさつき」等が挙げられ神社や神棚に由緒ある樹木は「あせもしば」「榊木」等を挙げて居る。「こうばな、もくぎ」は仏さんに供え、「仰木」は仏さんの箸を作る材料となる。

 湯島では、昔から先祖を敬い、敬神の念が多い処か、村中のここかしこに、榊木、香花木、もし木が散在し、相当の樹齢に達して居る。

大川村では「榊木」の多い山は、楢尾の氏神様付近、日向の小郷、諸子沢の氏子様付近に多く見受ける。「こうばな」は湯島の二ツ岩付近、能又の奥の日尻平付近、大間川の左岸の道端に多い。樹木は各に大同小異区々であって、いま述べた木は大川村各地に共通し山野に生えた樹木で、人間生活に密接し、村の重要な資源となっている。
草木と百姓と時節の暦には、深いつながりがあった。たとえば「すもも」「栗の花」の咲く時節には入梅となるし、柿の葉に小鳥がつつまれるまで葉の伸びた頃や、さつきの花盛りのとき、一番茶の摘採期にはいったと。桃の花が咲くと三月の節句、あやめショウブの咲く頃は男の子の節句の五月。ぼけの花やみそ萩の花が咲くと盆とか、秋の七草が咲く頃は月見や、いもの葉に朝露が漂うときは七月の七夕祭りの朝を迎えるとあまり人の好かない「そそやけ」の花から「ガラガラ」の実の鳴る頃に小豆の種蒔をし、夏の土用を告げと昔から伝う。

「そそやけ」は戦争中は染料に採取した時があったが、その効果は如何でしたか知らない。
昔の宮人達の唐衣裳の染料は「あざみ」の茎を染料に使用したと伝う。秋の七草はハギ、ススキ、オバナ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウである。


『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』40~湯島部落⑬~

2011年08月16日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑬

「松の木」も湯島には少ないが、庚申窪(ボツ)の庚申塔の建立する間に黒松一本目通七尺余のもの高さ十メートル樹齢約四十年位、赤松も並んで生えて居る。「奇景二ツ岩」の上にも赤松が三本生えて居り、山林にも赤松が点綴りして居る程度で、庭木にも点々として植え込んでいて、珍しくない。能又の奥の湯島人達の所有山林には、目通一丈余の赤松もあり、その昔馬込山林で松の大木が伐出された時代もあった。

大川村の各地でも、現在松の植林地帯も見受けるが、比較的松の植林は少ない。

松の自然林は、大川村では坂ノ上の下和田、大間の大畑辺りに多い。松の木は家屋建築用材として用いられて居る。小さな松の枝は正月用の飾り物に使われて、都に出る。

「松の葉」や「杉の葉」「カヤの葉」は、昔は蚊いぶしに使用し、高山の冬山で寒さで遭難した人の救急用たき火に使用したと伝うも、本村では事例がない。

高山の樹木には「ぶなの木」「とちの木」「えての木」「猿すべり」等が多い。県道用宗停車場線井川村の経由の玉川三ツ峰の標高千米より千三百五十米の区域には斧 を知らないブナ・カエデ・モミ・ツガ等の大木が残っているという。ブナは枯れ木が腐った処の湿気を帯びると、夜は夜光虫のように光を出す。湯島の村の中の川原木を拾って薪に作りて置いた処、夜に光を発したので驚いて確認したら、昼間の川原木であったという。「カヤの木」も伐木の時節には、切り口から血を吹き出すことがあると伝う。

「とちの木」は湯島には、能又の「アジヤ」の沢端の一本あるも、杉の木の間木としての植込みなので大木ではない。実は皮の上が「針ネズミ」のような針があって硬し。実は漢方薬に用いられていた。とちの木は元東川根村智者山神社付近には目通一丈七尺位の樹木が、枯木で腐っていた。

「さるすべり」は木肌が薄くなめらかで赤い入りを呈し一見してきれいな木であって高山に見るが、村の裾にはなし、深山に多い。山林でも付近では太いものは見受けない。
県の木は懸賞募集の結果「もくれん」だが、大川村には樹木が少ないので残念だと思う。県の花はつつじ、県民鳥は富士山麓に生息する「サンコウチョウ」、静岡県章及び県の旗は目下募集中。

「樟脳の木」は何々記念樹として植樹したもので、各の氏神の社の境内木が多いが、湯島の場合も一本植えてあって大木になっている。「樟脳の木」はの山林にあった木は伐木して、用材や「タンス」仏具用の木魚に作ったというが、桐の木の「タンス」より優ると伝う。

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』39~湯島部落⑫~

2011年08月15日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑫

 柿の実には「シブガキ」「アマガキ」の二種類があって大別して「シブガキ」は干柿とし、「アマガキ」は収穫とともに食用とし市場に出荷して居る。

 「柿の木」は高さ十メートル位に成長して五年六年生で実をつけ始めるが、実は秋には赤くなる柿にまつわる伝統口碑も多い。柿エ門伝は有名。柿は庭木はすくなく、原野の荒地利用が多く、年輪十年位の処では湯島の中「ホーキ沢」「柿ノ平」「家ノ上」「和田平」「天神下」「アジャ」「大津山」「日掛」などに多いが、今は「アマガキ」を植え付ける傾向となった。

 柿を干すまでの概要は、柿の木から実を収穫し、秋の夜長のときとあって近所の娘さんたちが集まって「へた」とりから柿むきをして夜遅くまでかかって終わり、一本串に十個乃至十五個つける。つけた串を十本位に組み、陽の当たる処に干場を設け、これを吊るしおき、北風の吹く頃には赤黒黄の混合色をつけて干しあがる。年末から正月にかけて市場に出荷し、一把何程の値段で取引が出来る。

 柿は昔から迷信が多いが、これは作為のもので真偽は不明なるが、俗にいう「トマト」は実が赤から昔から栽培しないと古老達から伝承した通り、柿も赤いから栽培しないといったものらしいが、大川村各では柿の植え込みは多く、収穫量も大きいが、藁科筋の富沢、富厚里など特産次郎柿富有等のように品種改良に肥栽管理n重点をおく必要性を痛感し、各地で目下改植を行うよし。

 「シブガキ」は夏の土用のとき青い実を取ってその身を臼でつぶし汁を取る方法で、用途は渋がっぱ、渋蛇目傘、敷物用合羽、容器の上張等に使用し、敷物用合羽は昔は寝具用として用いた。

 青い柿の実は各で盆の仏間に供物として用いて居る。柿渋の絞り残り品は土用「ウナギ」の捕獲用として使用した。昔は夏の雨乞いの時は、公然として部落総出で先に書いた処の山椒の木の皮、「クルミ」の根等を使用して川魚を捕獲し、その後で河原で宴会を催して、雨乞行事を公開的に実施したと古老が伝う。

 「何んにもならぬ裏の柿の木」

 「寝ぶの木」は湿地地帯に育つ樹木で、地上枝が拡大して成長率も良く、夏の土用に赤い真綿と「カゲロウ」が彩色した優しい花をつけ、秋にさや豌豆のような実をつけるが、木は用途が少ない。「寝ぶの木」の名前は、日中花や葉が精力が現出して居るも、夕方から「ねむる」ので、その名が代名詞として残って居る。

 「あかもの木」は「寝ぶの木」と同類で、葉が普通の広葉樹木の中も最も広く「ホー木」の葉に次いで居る位であって、木の皮が赤く繊維になって居り、皮は昔から切り傷や外傷に使用し、効果があった。

 「ホーの木」の葉と同じな葉は、「青木」「オオキ葉」「モチの木」があるも、みな庭木として使い植えこんでいる。子供の「だましに」したり、昔の祭り縁日に買った「ニッケイの木」も、湯島に多く散在して居るが、枝が地上から広がり、葉が正中線を保ち根を掘っておもちや食用となし、漢方薬の材料となりて昔から植えこんで居ったが、諸子沢の大久保、栃沢等には目通六尺位から一丈位のも数本がある。苗木は実を小鳥が餌にした実から生える。(~107p)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』38~湯島部落⑪~

2011年08月14日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑪

 「桜の木」は、昔は湯島の地名小路久保や雨降松などに大木があって花の盛りには鑑賞したもので、大正年期に伐木したが、当時は普請木となり豪華なる住宅の用材として売行き良好であった。現代の成長木は「ナメゴ」の原木として役立てている。

 「桧の木」は高さ四十米ほどになり、湯島には美林が多く木材として美しく丈夫で使い道が広く、これも豪華なる木造住宅の柱として重宝な用材で、村の中には目通一丈余のものが西端の和田平の湯島西組簡易飲料水水槽設置箇所付近に、上湯島宮ノ平の鎮座飯綱神社境内木で目通一丈三尺位のものがあるが、樹齢は大体三百年位に達して居るのではないかと古老は話した。桧も杉も樹齢三十五年生の程度の樹木が種子採種木として適齢木という。

 「スギ」は桧と共に日本に産する樹木で、「スギ」の幹はまっすぐな木で、高さが四十米位に成長する。昔から地方的には家の普請の用材としての需用度が最も広く、用途多岐で、湯島でなく大川村の経済を大きく支配して来たのが「スギ」であった。かつては農村恐慌時代の大正八年八月から十月に至る間、日本各地に米騒動が起こり、白米一升が二十三銭位で、小売値段が一夜の内に白米並物が一升当り五十銭に謄貴した際の物価高で、或る種の主義者の暴徒による事件のあった頃、坂ノ上の人が下和田の山林を伐木造林し、川に積立した材木を、当時静岡市の材木商が金壱万数千円で取引したとの風評があった。

 湯島でも地名「シラカシ」「田ノ平」の自己所有山林立木を当時金壱万円で売却したと専ら評判が高く、殖林の尊さが高く評価された。湯島では、大正十一年に電燈建設の時も、山林所有者がつい早く良い杉の木数本ずつ電柱に提供して呉れた美談もあった。

 湯島には、今も村の中に地の神が山の神の森のようにこんもりと杉の大木が残されているが、昔からの人達の普請木として成長木を貯木林として造成した、と古老が話して呉れた。

 現在湯島地名「ホーキ沢」「家ノ上」「和ノ平」「中島」、上湯島「日掛」「宮ノ平」には、樹齢百年以上のもの、氏神様の杉木は年齢四百年以上で、目通標高一丈七尺物があるが、山林面積のない湯島には美林が多く、未だ斧鉞(まさかり)を知らないともいえる大木が鬱蒼として、ただ樹海を見る心地で居って、地域が広い処なれば観光自然林だ。

 「柿の木」は湯島の昔は目通り七尺乃至一丈物が各組にあった。昔の大きな柿の木があったところを地名ごとに挙げるとホーキ沢に五本位、岡道に二本、大曲の茶園の中に三本、小沢組登りガイト三本、萩尾三本、中島一本、西端の川端一本、橋詰に二本、天神下三本、沢端に三本、和田平五本位、上湯島日掛五本、宮ノ平三本、「こがき」一本などが挙げられて、現在も立木として役目を果たしている。老木は西組の公民館の前に樹齢百五十年で目通が一丈物が一本あるが、所有者が木の幹の方を切り崩したので、高さはないが、良く実はつけて珍しい木である。西組の和田平の西端沢端に樹齢百年以上で、目通り八尺位のもの五本があって、良く実をつけて、目下農家の副業収入となっている。上湯島の宮ノ平の下に「コガキ」一本が残って居る。「コガキ」は食用にはあまり用いず、専ら「シブ」取りようとして重宝なものであった。(~104p)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』37~湯島部落⑩~

2011年08月13日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑩

 「栗の木」の花も入梅期に花盛りて白き花から赤みをおびたころが地面の湿気の最も悪い時節で、古老は栗の花が藤の木が花を咲き初めたのですぐ入梅だと頭で判断したと伝う。

 柑橘類には「ミカン」「コウジ」「ユズ」等があるが、「ミカン」は暖国産のもので、本村には適地でない。潮風のあたる地方の植物で、湯島にも栽培家庭は僅か東組五戸西組四戸上湯島二戸位な処で、ただ試作程度が一軒で十本位を植えて居る程度。「ユズ」「コウジ」は昔は集約的栽植し家の庭の空き地利用で相当な樹木があり、殊に「ユズ」は目通五尺位のものが一か所五本くらい植えてあったが、十年前に襲来した寒波で枯死したのは残念であった。「ユズ」も「ミカン」も同類木で六月頃白い花が咲き、秋に黄色い実が熟す。実は食用となり、青い実は取って影干しにして置いて煎じて飲用すると、暑気あたりの薬になるので、六月土用の丑の日には、必ず古老達が取って干したもの。黄色い実は絞って汁をためて農家では酢の代用品として料理に用い、また果実の良質なものは正月中の家庭料理の材料やゆず湯の原料に販売して居る。

 「梨の木」は園芸樹木で、湯島には少ないが、上湯島西端の少数の家で栽植して居る程度。昔は湯島宝積寺境内に目通八尺余の老木があり、寺の隣の家には、今も目通七尺位の老木一本があるが、話によると根元は下の地上に植えて居ったが、昔の人が石垣を築造の時積み込みして作業をしたので、現在の地上から五米下(さがり)が根元で、年輪もかなり昔に植えたという。お寺の境内木も約三百年位を経過している居ると土地の古老が伝う。梨の木は山林に植えている樹木は大木で、高さも十米位ものがあるが、では園芸の方式で大きな木がない。湯島の人達の所有山林「アジャ」の山林のものは大木で、実も豊富につける。

 湯島の岡道の裏山の地の神の梨の木と椿の木と宿木があるも、共に根元では約七尺で目通の処でも七尺位である。梨の実も大きなものが熟して居り、椿の花も盛りには華麗である。「椿の木」は山の神や家の地神の神木する慣習が多い。假令ば、日向の和田の平の旧家の裏山の丘陵にある地の神は椿の木と榊の木の宿木のようだが、共に大木で椿の木は花は一杯に咲くが、実が一個もならないとのことで、木に「オス」「メス」の分類があるのかと話しておった。

 椿の木の種子は、油に搾って食用に用いたのだ。梨の実は乳飲み子には与えるな「乳幼児」と言われ「モモ」の実は夜食べよとの諺が残って居る。

 「ほうの木」は深山には大木があるも、湯島の水の元の山林には大木があった。木はまっすぐにのび、葉は巾広く、若葉は五月節句の「かしわ餅」の包みものに用いられ、「ふるさとの味」「おふくろの味」は「ほうのかしわ餅をこんがり焼いて舌つづりしてだべるのが一番に味がある」と皆さんがいって居る。

 「ほうの木」は婦人用裁縫用具のたち板、乾かし板等の細工物に使用し、実は漢方薬で煎じて服用すると「のどの痛み」「声かれ」に適応薬だと伝う。(~101p)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』36~湯島部落⑨~

2011年08月12日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑨

 「カシの木」は、その昔は製炭の原木として最上木で、木炭の値段に大幅の差があったが、湯島地域には今の三本樫が混合林として見事に植林して手入れがよい。昔は湯島大崩志太の林上湯島の大津山が美林で、製炭業者が競争的に窯を設備し、もく手の製造に従事したが、現今では電化で木炭を専業とする人がなく影をひそめた。

 「カシの木」の仲間に白樫があるも、木の肌が白色にて川がなめらかで樹木の成長率が低いので、年輪が細かい。湯縞では上湯島の宮の平付近に多く氏子の敬神している飯綱神社の奥院の神木が白樫で、湯島温泉の湯の権現を祭ってある地の神の境内にも白樫がある。どれも目通り八尺位もあるので、白樫としては珍しい樹木だからぜひ保存木とした。白樫の皮をはぎ取ってかげぼうしとして置いて、それをう薄火にかけ常用薬とすると胃腸病の特効薬として昔の人は煎で用いた。湯島の小字の地名に「シラカシ」がこの辺りで、山林に白樫が自然林として生育して居る。

 白樫に並んで「シイ」かしの木があるが、「シイタケ」木にはなれども、木炭には質が軟化で火が飛ぶので家庭の需要が薄かったが、大昔の家屋の普請木として樹木の総体がまっすぐで枝下があることて家の縁の下の根太に使ってあったが、この「シイカシ」の使ってある家屋は約二百年前の建築に多い。「シイカシ」には秋に小豆大の黒い実をつけるが、実は子供達が拾い集めて、薄火にかけて食用とする。根元には「シイタケ」「ジキタケ」「シネジ」等の地木(じも)タケが密生するが、湯島の山林中家ノ上西端の和田平三本カシ等には目通り八尺位の大きな樹が多かったが、日向の中学校裏山は「シイカシ」の広葉林である。

 漢方薬の草根木皮の効能書のきらいもあるも原始時代の祖先には医者もない、道も悪くて不便な土地に住まいし。いったん病になれば府中(今の静岡市)に村の人達の総がかりでかずきて出掛け、医者さんの治療を受けることは並大抵のでなかったと思う。

 したがって病人の相手役は漢方薬が唯一のたよりであって、その原料が足元の山野にあるとき、これを常備家庭薬として、煎し出して飲用したにちがいない。せちからい時代に闘病生活に耐えた人ら、先代の遺産とも言うべき漢方薬も今や近代医療機関進歩で影をひそめつつあるも、古老間ではいまだ簡保役の薬なべを愛用の向きもあって今昔の感がある。

 湯島が漢方薬の草根木皮の標本のようであるも、この文章を書く段階にこの事柄が出会せられないので、まとめて執筆したものである。「梅の木」の縁起は日向で書いてあるも、漢方薬としては梅酢を作りてこれを飲用すれば、暑気あたりに効あり。風邪を引いた時、実を焼いて用いると熱とりとなり、その効用大なりと。

 庚申に当る縁年の梅干は流行性の熱病にも大変に効能があるといって昔から丹精したもので、大正九年の初庚申の梅干は売行きが良かったと伝うも、湯島には大正九年の庚申縁年に六十年前の梅干を保存して居った家もあった。
 
 梅の実で梅酒を醸造することは税務署で承認している昨今なので、各家庭で作り常備的に飲料酒として愛飲して居る。
 
 梅の収穫の後、梅の枝を竹の棒で打っておくと、来年豊作とも言う。梅の種類は多様だが、紅梅は庭木につくられて居る。

 湯島の山野には、梅の木が散在し昔の「六根清浄」を唱えた法院六部は、病人の枕元に梅の幹を置き宮三日夜の祈祷修行を収めたと伝う。

 各の春の氏子様の祭典に弓取の舞が執行するも、神官のつくる弓はみな梅の木であると。桃栗三年、柿八年、梅は酢くても十三年は、貯蓄を奨励する合言葉で「ス」にちなんだ果実は「すもも」「あんず」「モモ」等があるも、湯島には「すもも」の木が大変多く、老木があったが、昨今は皆切り去って、僅か村全体で十本位と推定する。「すもも」の花盛りの時は、入梅のはしりとして入梅期に入りうっとうしい天気が続く。また藤の木の花盛りの時節には、入梅は本格的だと伝う。(~98p)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』35~湯島部落⑧~

2011年08月11日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑧

 湯島には東端西端上湯島小沢組と小保組合があっての中に山が突出して居るも人の和と山と川がを美しく包んでおる。その意味で昔から湯島の人達は家の周りの西側に面した丘陵原野を利用してか「恵の木」を植えてある。「恵の木」は家の繁栄と富裕と円満を約束する樹木であると。秋頃、赤色、黄色の実を付けるが子供達の遊びつれにもなる。
 「カヤの木」は今は湯島には東端の家の上や島に散在木として残っているも、その昔は各組に数本ずつあって大きなものは目通一丈位のものがあったと伝う。「カヤの木」の実は昔から駄菓子の原料として使用し、昔の一厘菓子には中味は「カヤ」であった。木は細工物や将棋盤に用いられて居り、木の皮を皮膚につけるとかゆみを起こし、大変意地悪い人たちが山の帰り道で人間の肌につけたとさ。
 「こなら、しで」はシイタケボタ木として重宝される樹木で、湯島は昔から椎茸の生産地として高く評価せられ栽培技術も大変上達して居ったので、各地から同業者が指導受けに参り「ボタ木」積込方法焼きなどを伝授したという。現今ではの人達は共同で原木を購入して速成生産をし副業から本業に転換し換金農業とに変わりつつある状態である。適伐木期は秋の葉の色のつく旧の恵比寿講で、十一月十五日頃が最適と昔の栽培者は言っていたが、昨今では椎茸種駒菌を使用するので、天候や積込技術も度外視で素人でも結構よい。
 (~94p)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)

『大川の風土記』34~湯島部落⑦~

2011年08月10日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑦

 湯島の島一帯川端の一部には毎年度堤防が下がって大川村が工事請負人で仕事は地方の人達で賃取人夫で出役して居った。藁科川の下流地域の大原、谷津、新間、羽鳥、木枯しの森等では、毎年堤防工事が十一月十二月頃実施さられて、藁科川の川狩り「川の流れを利用して木材を流す」が禁止されておった。
 堤防築造は一様の方式ではなかったが、湯島の蛇籠工事の仕組みは組立式で、材料は栗木を使用し、針金でいわい、栗木を川底に敷き、その上に蛇籠に石を入れて、それを積み重ねるも、耐用期間は大体台風のない限り五年乃至七年位であった。
 竹にちなんだお話もあるが、「やぶ」の用語も大変に大川村の方言で言葉づかいの中に混用されて居るが「やぶ」を用いた言葉は標準語が多い。
 「カグヤ姫物語」今から約千年前の昔、延暦年間富士郡吉永村(今の吉原市)に竹取の老夫婦が竹の中から一人の美少女を得て育てたという不思議な話がこの裾野に広く伝わっている。
 今もその竹取姫の塚は、旧吉永村役場の西北十町の処、岡田某氏宅の竹藪の中にある墓石を統らす緑樹鮮苔は不思議な昔を物語って十分である。里人は今も同家を「やまでら」と呼んでいるのが、なんとなく奇異を感じると同家は少し人家を離れた丘陵の一軒家で立派に農業を営んでいる旧家であると、静岡県東部伝説集から転記、中国の学者に「もうそう」と申する親孝行息子があったと二十四孝にありてか「もうそう」の名を竹に付けたもので、竹は縁起よく結婚式の床の間の前の初の盆の島台。蓬莱等には松竹梅を飾ってあるお正月の門松も縁起で竹が使用する。よその家にすみこみの店員弟子たちが一月とい七月十六日には昔から藪入と呼んで自分の家に帰って休息したものだ。
 樹木について長々しく筆をとり続けて参って文章の全文を損傷したうらももたれているが、大川村の各ではその順番に当たったとき、以外にも記録したが本文の章の中の文体が梢々細部にわたりたるも、なをしばらく筆を執ることにした。
(~p92)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)


『大川の風土記』33~湯島部落⑥~

2011年08月09日 | 大川の風土記
湯島の小沢慶一氏が著した『大川の風土記』を再録します。

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湯島⑥

 「シヨノ木」も湯島のこなたかなたの谷間に密生して居り、成長率が遅い樹木で植物か樹木かは専門家ではなくては判別がつかない木で年輪が細胞で硬化質であるも全体の木は強くて腐食しないところから、農家では天秤棒として使用し、皮は「シヨロッケ」といって毎年一本の木で三枚乃至五枚位ははぎ取って販売した。はぎ取る時節は年の暮れで、用途は皮は一把十枚位で、一束何程で取引したが、戦後の取引は不詳であるも、「シヨロッケ皮」はゴミ取り使用の箒として用具、若しくは縄として使用し、細い縄は上品なる庭園の垣根の結ぶ縄、大昔は農具の雨具用にも用い、田植えの方引縄等に使用した。
 「竹やぶ」は湯島には最も多く大川村でも村中に繁茂して居る点では、最上位で「竹やぶ」と崩壊地はつきもののようで、昔から川端辺及び崩れのある個所や地震の防備に対する民の恐怖からの守りともいう唯一の防災対策でもあった。まづホーキ沢端、島の上の段、島の川端の耕地付近、西組の和田平及び萩尾、飛んで上湯島の日掛、筋向いの大津山等で特に崩壊地が多い。昔から竹やぶは山の裾に生きる植物で「イネ」の仲間という。高い山岳に登りあやまって道に迷いて下山する時は竹藪を発見すればまず安心で、竹は里のもの山の裾に成育すると伝う。竹には破竹、真竹、熊笹、孟宗等種類が多い。竹は縁起の言葉に用いられるが、葉に花が咲くと不吉な兆しあると占いこともあると伝う。竹の茎は竹細工で農家の必需品の「びく類」は全部竹を利用した。
枝は竹垣や細い型の破竹、真竹は竿竹とし漁具に、また子供達の遊具として竹トンボ、竹馬があり、昔から人間が成長して大人になり富裕にでもなれば、あれば自分らの竹馬の友として親しみを深め友情の尊さを語り合うこと多い。竹の子は食用として、各家庭の膳に供えて好物で収穫期には市場に出荷せられる。
竹は切取時節は八月が最適期でその時季を過ぎると虫が刺すので使用がダメと昔から伝う。竹の枝竹ぼうきを作り、庭の掃除に用いるが静岡市の学校のような広い校庭のある所では竹箒が大変重宝がられる。竹箒を静岡市在住某氏が米国の或る学校に送りて大変喜ばれ、日米親善の役目まで果たした。竹皮は包み物として用いられ、皮の落ちる七月下旬から八月にかけて主婦達の副業で集荷した。朝早く竹藪に入ると目を傷めると言って、地方では竹藪に入ることを忌む。葬儀用具もとる。竹の茎で昔は「蛇籠」を作り、川辺りに堤防を備える工事が行われた。 
(~p90)

『大川の風土記』(小沢慶一.1966)