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『聖一国師年譜』~修行時代①~

2012年01月29日 | 聖一国師
藁科川上流・大川地区の栃沢に生誕した聖一国師の生涯を記した「東福寺開山聖一国師年譜」の現代文訳を記録します。

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(二)修業時代

○建永元年(一二○六)丙寅(ひのえとら)
 円尓五歳になる。母はかつて久能寺の堯弁大徳師の言われたことを思い出して、円尓を連れて久能山に登り、円尓を堯弁に預けることにした。円尓は『俱舎頌』*1を与えられたが、これを全部暗唱できるまでに読んだ。

○承元元年(一二○七)丁卯(ひのとう)

○同 二年(一二○八)戊辰(つちのえたつ)
 円尓七歳になる。『俱舎円睴頌疏』*2を習った。

○同 三年(一二○九)己巳(つちのとみ)
○同 四年(一二一○)庚午(かのえうま)
 円尓九歳になる。『俱舎論普光疏』*3を読破した。
○順徳天皇建暦元年(一二一一)辛未(かのとひつじ)
○同     二年(一二一二)壬申(みずのえさる)
○建保元年(一二一三)癸酉(みずのととり)
 円尓十二歳になる。法華の妙玄(玄義)を習う。
○同 二年(一二一四)甲戌(きのえいぬ)
○同 三年(一二一五)乙亥(きのとい)
○同 四年(一二一六)丙子(ひのえね)
 円尓十五歳になる。ある日、止観*4の講座に席を連ねた時、古い四諦*5の外別を立て法性*6という句に至って、講師の僧侶が上手に説明できなくて難渋していたので、円尓はその句の解釈を滔々とやった。しかも、言葉の意義が明快・整然としていた。講師は感心して、「この句の解釈は、昔から賢者も苦心したところである。小僧の明快な説明は生まれながらにして身につけたと思われるほどである。私は大変はずかしく思う」と言った。

○同 五年(一二一八)戊寅(つちのえとら)
 円尓十六歳になる。法華文句・摩訶止観*7の始めから終りまですべてをよく調べた。
○承久元年(一二一九)己卯(つちのとう)
 円尓十八歳になる。名僧智証大師(円尓)の遺蹟を慕って、近江の園城寺*8にのぼり大本山に入り仏門に入るための儀式を行い髪を剃る。十月二十日南都(奈良)の東大寺に赴き、戒壇にのぼり戒法を受けて正規の出家となった。
○同 二年(一二二○)庚辰(かのえたつ)
 円尓十九歳となる。京都に行って孔老の教え(儒学)を学んだ。外部の人達からのはずかしめをうけないためであった。


*1『俱舎頌』(くしゃのじゅ)
 梵語のkosa gahaの訳。世親の俱舎論からでた小乗仏教の一派ー俱舎宗の仏典、偈、仏徳、教理を説いている。
*2『俱舎円睴頌疏』(くしゃえんきのしゅそ)
 俱舎論の中心となる頌疏(頌の注釈書)
*3『俱舎論普光疏』(くしゃろんふこうのしょ)
三十巻。世親の著。玄奘の訳、詳しくは阿毘達磨俱舎論。小乗仏教の教理の集大成である。「大毘婆沙論」の綱要書。一切諸法を五位七十五法に分け、迷いと悟りについて詳細に論ずる。仏教の基礎的教学書を唐の僧玄奘が大小乗経律論を訳して注釈したもの。「普光之に預る。時に大乗光と号す」とある。
*4止観(しかん)
 多くの雑念を払い捨てて宇宙の真理を悟ること。止は雑念をとどめて起こらないようにすること。観は真理を悟ること。
*5四諦(したい)
迷いと悟りの因果を説明する四つの真理。苦(現世の苦悩)、集(肉体・財産への執着)、滅(安楽の境地)、道(実践修行)。四聖諦(ししょうたい)の略。
*6法性(ほっしょう)
 一切存在の真実の本性、真如・実相・法界などと同義に用いられる。
*7法華文句・摩訶止観(ほっけもんく・まかしかん)
 法華経の文字句・天台宗の観心を説き修行の根拠となるもの。
*8園城寺(えんじょうじ)
 三井寺、天台宗寺門派総本山。聖一国師十八歳のときここで剃髪し、出家した。

引用:『聖一国師年譜』石山幸喜編著.羽衣出版.平成十四年

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『聖一国師年譜』~誕生と幼年時代2~

2012年01月28日 | 聖一国師
藁科川上流・大川地区の栃沢に生誕した聖一国師の生涯を記した「東福寺開山聖一国師年譜」の現代文訳を記録します。

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○土御門天皇 建仁二年(一二〇二)壬戌(みずのえいぬ)

 円尓の血族は平氏で、駿州安倍郡藁科の人である。正月十三日の夜。
円尓の母(税氏)は、手を挙げて明星(明けの明星)の光を採って、これを呑み込もうとする夢を見て子(円尓)を孕んだ。身ごもったことについては何の心配もしなかった。ぼんやりとして自分を忘れている時、光に乗って青衣をまとった天女があらわれ、母に付き添った。母はある日、久能山に登り堯弁大徳*1にお目にかかった。堯弁の居室の壁に画像がかけられてあった。像の顔形はあたかも母に付き添う天女のようであった。母は堯弁に聞いた。「これは何の神様ですか」と。堯弁は「これは大弁財天女である」と答えた。「この神様は仏法を守らせ、衆生に御利益を与え、大きな願いごとを叶えてくれるのです」と言った。
 母は申し上げた。「私はいま身重の身体になっております。この神様はわたしをお守り下さっているのですね」。堯弁は「おそらくは、生まれてくる子は賢い子でありましょう。もし果してそうであったなら、その子をそのまま俗世間に置かないようにしなさい」と言った。
 円尓が生まれようとするとき、母の胎内から声が聞こえた。十月十五日の暁のころに生まれた。生まれたその時、めだたい徴の純白の雪が庭をおおい、金色に輝く朝の光が産室にみなぎった。

○建仁三年(一二〇三)癸亥(みずのとい)
 円尓二歳になる。人々が話をしている内容を聞き容れて、その是非を説明した。人の顔色を見て、人には悲しいこととうれしいことがあると知る。その冬は大雪であった。円尓は降り積もった雪を指さして母に聞いた。「これは何ですか」と。母は答えた。「これは雪というものですよ」と。円尓は「私が生まれた時にもこの雪が降ったのですね」と言った。

○元久元年(一二〇四)甲子(きのえね)
○同(一二〇五)乙丑(きのとうし)

*1 堯弁大徳(ぎょうべんだいとく)
  久能寺の学僧

引用:『聖一国師年譜』石山幸喜編著.羽衣出版.平成十四年

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『聖一国師年譜』~誕生と幼年時代1~

2012年01月27日 | 聖一国師
藁科川上流・大川地区の栃沢に生誕した聖一国師の生涯を記した「東福寺開山聖一国師年譜」の現代文訳を記録します。

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東福寺開山聖一国師年譜

前住の太宰府崇福寺の小師比丘円心が謹んで編さんした。
前住の彗日山東福禅寺の遠孫比丘方秀が校正した。

(一)聖一国師の誕生と幼年時代
 聖一国師は字は円尓(圓爾)といい、一生この字を用いた。若い頃、中国の宋に留学し、径山*1に行って無凖師範*2の教えを受けていた。仏鑑(無凖)は円尓を弟子と呼ばないで、尓老と呼んだ。円尓の人格は思いやりがあり、人を愛する広い心の持ち主であった。若い修行僧に対しての呼び方も気安く、「おれ・おまえ」と呼び合っていた。修行に関わる好期は逃さず、自らすすんで修学・修業を行い、決してなおざりにしなかった。無凖師範も同様に、決して妥協することなく、厳しく突き放す態度をとるだけであった。性と相*3に関する諸徳について円尓が仏鑑(無凖)のもとに来て「別伝*4宗旨*5を選びたい」と言ったとき、無凖はまず、その宗旨の疑問としている点を提示して、問いを出した。問いに対して容易に答えられたときは、即座に次の難問を提示して、きびしく修行するように言い、答えられないときは、説明しながら言った。「私もいまだ仏法・仏の教えを上手に説明できません。ひたする仏法を修学したいものである」と。このような教え方をしなければ、受講する僧たちは人の悪口を言い、禅宗はいつまでたっても興隆しなかったであろう。円尓はかつて道理*6を授けるため、修行僧の指導法を向上させるために三宗旨*7を論じた。済北の錬公(虎関師錬)は言った。「建久年間に西明庵(栄西)が黄竜一派を導いたのがその始まりである。建長年間に隆蘭渓(道隆)*8が鎌倉で三宗*9を唱えるようになったが、いまだに京都まで行き渡っていない。慧日(円尓)の立派な活動を朝廷の知るところとなり、京都をはじめ各地に広く行き渡るように教化*10して、誰からも辱めを受けないように正しい教えをして、教義の綱領を整えて禅宗の綱領を提示した。まさしく、祖道の時宜を得るものである」と。ああ、錬公(虎関師錬)もまたこの時期を知っていたのであろう。正和の帝(花園天皇)は後日に、聖一国師と諡*11した。この事は語録にあり、世の中で使われた。

*1 径山(きんざん)
 径山寺。中国五山の一つ。浙江省臨安県天目山の北東峰にある。八世紀中頃、法鉄の開創、禅の道場として栄えた。興聖万寿禅寺。
*2 無凖師範(ぶじゅんしはん)
 無凖禅師(一一七七~一二四九)名は師範。聖一国師の大恩師。宋国蜀の梓潼の人。姓は雍氏。拙庵徳光らに参じた後、破庵祖先に随従しその法を嗣いだ。
*3 性と相(しょうとそう)
 性相(しょうぞう)事物の本体(性)と現象的性質(相)。唯識説では円成実性の心理と依他起性の諸法。唯識と俱舎との教学。性相学。
*4 別伝(べつでん)
 一人または一事に関する逸事・奇聞の終始を小説的に書いた作品。特別の伝授、教外(きょうげ)別伝の略ー禅宗で仏の悟りは経文に説かれるのではなく、心から心に直接伝えられることをいう。→不立(ふりつ)文字。
*5 宗旨(しゅうし)
 その宗教の主意・教義の中心になっているもの。同一宗教の中での分派・主義・主張・主な意味・主旨。
*6 道理(どうり)
 正しい仏教の考え方。
*7 三宗旨
 永明延寿が大乗経のうちに設けたもの。
*8 隆蘭渓(りゅうらんけい)
 蘭渓道隆らんけいどうりゅう(一二一三~一二七八)、鎌倉初期の臨済僧。字は蘭渓。宋の西蜀の人。寛元四年(一二四六)来日。北条時頼の帰依を受け、建長寺の開山となる。一時京都の建仁寺に移ったが、のち鎌倉に帰り北条時宗の帰依を受ける。わが国最初の禅師号である大覚禅師と勅諡。その法流を大覚派(建長門人)という。
*9 三宗
 唯識宗ー法相宗、三論宗ー破相宗、華厳宗・天台宗ー法性宗
*10 教化
 衆生を教え導いて仏道に入らせること。
*11 諡す(おくりなす)
 諡を贈る。

引用:『聖一国師年譜』石山幸喜編著.羽衣出版.平成十四年

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伝承『棺は空っぽ』

2012年01月26日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流・栃沢地区に残る伝承を再話します。

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『棺は空っぽ』

昔、服織村の洞慶院の僧が大川村栃沢辺りまで托鉢をした。夕立にあったその時、向こうから葬式が来た。僧は葬式に近付いて「可哀そうだな、棺には死人がおらぬ」とつぶやいた。それを耳に入れた一人が「何を言うだか、乞食坊主が」と、くさしたものの気がかりなので、棺を下ろしてふたを開けてのぞくと「いない、いない」。困惑して僧に「死人を納めて下さるまいか」と頼んだ。僧は呪文を唱え「入ったよ」と言った。成程入っていた。
(静岡県伝説昔話集)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『大間の不動』

2012年01月25日 | 言い伝え&伝承
藁科川の最上流・大間地区に残る伝承を再話します。

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『大間の不動』

 大間の滝口に不動明王が出現した。村人はこれを敬って字タチカラに小詞を建て、その辺の榧(かや)の木を伐って像を刻んで安置した。その後、堂宇を今の氏神の境内に移そうとして滝口の檜(ヒノキ)を伐って像を刻んだ。そのため大間の人々は榧や檜で敷居を作らない。榧や檜で不浄用の器具を造ることをしないのも、このためである。
 また清沢の鍵穴の不動明王のご神体は、ある年の洪水の朝、村人が近くの河原で流木を拾ったが、毎夜猛火が燃え上がるので、陰陽師にお占ってもらったところ、流木は大間の不動を刻んだ用材の一部であると言ったので、この木で不動を刻み祀ったものだといわれている。
(美和村誌)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『楢尾稲荷神社』

2012年01月24日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流・楢尾の稲荷神社に残る伝承を再話します。

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『楢尾稲荷神社』

昔、楢尾から南を遥かに眺めると、駿豆の海上に毎夜大きな火光があった。そんなある年、霰(あられ)が降って災害を被った。また、その後年は大飢饉が来て、悲惨で目もあてられなかった。村民は産土の神社に集まって五穀の神を勧請して豊作を祈った。すると神徳により穀物が豊熟して餓死を免れた。稲荷神社は後世ますます敬仰の度を高め、毎年陰暦二月二の午の日に例祭を行っている。
(美和村誌)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『勘助屋敷』

2012年01月23日 | 言い伝え&伝承
藁科川・上流日向地区に伝わる伝承を再話します

カンスケさんのお宅ってどこだろう?
言い伝えの中で、お金持ちの例えとして、よくこの“人の地所を踏まずに○○へ行ける”という表現をみます。


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『勘助屋敷』

日向に勘助屋敷と云われたお大尽の家があった。その家の持地所を道の幅になおせば、府中まで人の地所を踏まずに行ける勘定であった。日向福田寺の裏山にある宝筐印塔は、お大尽の息子が下女と心中したのを供養したものである。
(小沢慶一)

『梶原景時の生涯ほか』(松尾四郎.松尾書店.昭和54年)

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よいしょよいしょ(汗)クイズラリー&新年会

2012年01月22日 | 行事レポート
「ここでだるまさんがころんだをしたら先に進むべし」「ここでは大声でヤッホーと言ったら前に進め」などなど、難問疑問を答えながら、藁科川上流の坂ノ上地区を子どもたちが走り回るクイズラリーを開催♪
まずは今年はじめての子ども会の活動ということで、公民館前に集まってみんなでハイタッチをした後に、小さい子どもたちはリヤカーにのせ、「大川黄金伝説」と称して、宝物をさがすクイズラリーに出発しました。公民館→夏祭りの広場→耳地蔵さん→坂ノ上の田んぼ→坂ノ上大橋の吊り橋→診療所→庚申塔→薬師堂→消防の火の見やぐらをめぐって、なんと最後のクイズはもとの坂ノ上公民館の裏!そこにあった黄金の大川の宝とは・・・・・(゜Д゜;)









(子どもたち)みんな自身だ!






というオチに、宝物を狙いにいっていた子どもたちからはため息が・・・^_^;
でも本当のことだからしょうがないでしょ

その後は、公民館の中に入って新年会&新しく入った友達の歓迎会で、お母さんたちが作ってくれたカレーや数々の料理に舌づつみを打ちました。
おいしかったね。

伝承『崩野明神』

2012年01月21日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流・崩野に残る伝承を再話します。

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『崩野明神』

ある時、賊軍が当所に乱入し、いたるところの民家に火を放ち略奪した。村民はこれを恐れて、氏神の神体と私財家具等を力の限り担いで西北方の高山の中腹に隠れた。賊軍が去った後、再び帰って氏神を通称字宮本(当時は松下)に奉祀した。当時村人が隠れた所は、字カクシゾウレ、クラノダン等と言われている。
 氏神は文明年中(1469~87)日向字松の平に奉還されたが、天文年間(1532~55)に再び旧社地の宮本に遷し、文化十四年(1817)二月、現在の地字横開土に遷座したのだ。(美和村誌)

『新版 駿河の伝説』(小山枯柴編著.羽衣出版.平成6年)

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伝承『護応土城』

2012年01月20日 | 言い伝え&伝承
いくつかの伝承を生み出した藁科川上流・松の平には現在茶畑が広がり、火葬場は廃止され、七人塚も取り払われています。

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『護応土城』
 
 徳山城の砦の城で、城を中心に地下七米位に掘下げ周囲広大二条の城壁を築造し、地形はきわめて平坦で山岳起伏が多く谷深く東に大井川まで川が流れて天然の要害地であったが、今川範氏が徳山城を陥れて続いて護応土城日向の上の萩田和城が落城し廃城となり、現在では熊笹がおい繁り狐狸が出没しておる。護応土城攻略に討死した武士の霊を祀った「ごおと地蔵」を祀った堂宇が現存して居る。残党が残って杉尾の桜石仏で切腹しこの地に霊を祀ったので桜石仏と名付けて山の神として現在でも山林所有者が祀っておる。残党が能又川を下り、現在の日向の松の平で切腹したとの伝説が残り、この地に七人塚があってこんもりと茶畑の中に土が盛り仏の樹木の類の香花の木があったが、現在伐木し地蔵尊を建立して碑面には為当所無縁諸精霊頓生菩薩、昭和九年盛夏陽明寺二十九世建立。当地は茶畑が多く七人塚の付近には大川地区の火葬場も設置してある。
萩田和城は落城後山林となり山の神(兵乱山神)として住民は恐怖心をもつと伝えておる。(上湯島、小沢慶一)

『梶原景時の生涯ほか』(松尾四郎.松尾書店.昭和54年)

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伝承『狼から新墓を守る』

2012年01月19日 | 言い伝え&伝承
現在は姿を消してしまった狼。狼の絶滅がシカの繁殖を増やし、現在の様々な山の害につながっているという指摘もあります。

藁科川上流の旧家では、墓が敷地内にあり、狼の存在が屋敷の配置などを決めていた要因であったという視点は初めて知りました。

「梶原景時の生涯」の収められていた史話と伝説を再話します

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『狼から新墓を守る』

 山の狼は時代によって増減があったように思える。平安の末期、大川村栃沢に野馬の群れがいたのは、さ程狼が居なかったことを暗示している。天文年間(1532~1554年)、砂宮太夫が多間に入植した時、矢鍛冶を伴って来たのは、狩猟のためであるが、狼対策も含まれていたと考えられる。江戸期に入って狼が増え、特に幕末には民家に被害を与えた記録が、各地に増えている。
 昔は土葬であったから、新しい墓はすぐに狼に掘られてしまう。清沢村坂本では、狼はの中までは入って来なかったから、墓は各戸のすぐ裏に造っていた。
 甲州八代郡では村外れに墓地があったので、長さ三四尺の太竹を半分に割って、竹の内部を外に、逆に反らして輪にしたものを墓の上に半ば埋めておいた。夜になって狼が墓を掘ると、竹がハネ返って狼の頭を強打する事になっていた。これを「犬っぱじき」と云った。

『梶原景時の生涯ほか』(松尾四郎.松尾書店.昭和54年)

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伝承『玄国和尚の一代記』

2012年01月18日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区に残る伝承を再録します。

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 今から、二百年まえのむかし、しずおかけん、あべぐん、おうかわむら、ゆしまというところに、かいのくに、やしろぐん、おうしま、むらから、玄国和尚と言うみすぼらしい、和尚さんがまいり、あるおうきい、百姓家の主人公に、かわいがられて、しばらく、のあいだとまつて、おつたそうです。むかしのこと、ですから、たべることだけでも、なかなか、たいへんなので、その主人彦右衛門と言う、うちで百姓をてつだつておつたそうです。が和尚さんはそのうちに日向というところの陽明寺の小僧ぼうさん、としてやとつてもらいつとめていたと言うことです。そのご、ゆしまのお寺には、和尚さんがいないので、ゆしまのお寺に入ることゝなり、そしてむらの人たちは大変んかわいがつて、やりました。たべものをもつてゆき、むぎ、ひえ、あわ、芋のような、ものをほどこして、やり、しんせつにしておきました。ところが、和尚さんには、からだに、きずが、たくさん、できており、和尚さんは大変くろうしていました。そして病気を苦にして、村の人たちに、私はどうにも、ならない、からといつて、たのみ、その彦右衛門さんと言う人に、私をお寺の本堂の、うしろ側に生きうめにしてくれと、たのみ竹のふしをとり、中の箱にいれて、うずめてもらいました。そして鐘をはこの中にいれて、うずめてもらいました。そしてその晩から鐘の音が七日七夜、ならしてこの世を去ったそうです。
 それからと言うものは、ひろく世間にうわさされて和尚さんをまつり、りっぱなお堂をこしらへて、まつりこみ今では、世間にできものの神様として宏くしられています。日夜おまいりする人の、おせん香のかおりがたへません。できもので、おこまりの人は、この和尚さんの本堂におまいりする人がおうくなつているわけであります。
和尚さんのなくなつた日は、安永四(1775)年二月二十七日です。毎年、祭天は三月二十一日、春の彼岸の中日に行はれています。
佐藤竜作

「ふる里わら科八社~第一集~」(大川寿大学.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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伝承『女杉と池の段のお話』

2012年01月17日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区に残る伝承を再録します。

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 静岡市八草より少し登った所に女杉と言う地名のところがあり、また八草より少し南の方へ登っていくと、池の段と言う所があります。その池の段と女杉とは、いっしょの話で、女杉は大木で、中が穴なので、中に女の大蛇が住んでおったそうです。そして池に行ったり、来たりで居り、時々、女杉の近所では、女に化けて、はたを織ったりして暮らして居たそうです。其のうち大暴風雨がやって来て、住んで居た、大木は倒れ、意見水はあふれ出るし、又、女が池で洗濯をしたと言うお話もあります。その太蛇は住んで居るのに困り、下川根町家山と言う所の野守の池へ、逃げて行ったと言うお話です。それから女の太蛇が住んでいた杉なので女杉、また太蛇が住んでいた池を池の段という地名になって居るという昔からのお話です。
大川井かや

「ふる里わら科八社~第一集~」(大川寿大学.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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伝承『治郎吉と狸の話』

2012年01月16日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区に残る伝承を再録します。

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『治郎吉と狸の話』

むかし、ある村に、治郎吉というじいさんがおりました。治郎吉じいさんは、田のだんと言うところに、山小屋をつくって、一人でとまっておりました。ある夜更けのこと、小屋のそとに一匹のたぬきがやってきました。そして「治郎吉とんことん」となきました。そこで治郎吉じいさんも、負けずに「言う奴とんことん」とやり返すと、たぬきは、また「治郎吉とんことん」とつづけてなきます。治郎吉じいさんも「言う奴とんことん」と言い返してそのくりかえしのやりとりが、夜明け近くまでも続けられました。狸は一層かん高い声で「治郎吉とんことん」と、なきさけんでいましたが、そのうちに、ばったりとなかなくなってしまいました。治郎吉じいさんも、やれやれと思いながら、つかれたのでそのままごろりと横になって、いつの間にか、ぐっすりと寝込んでしまいました。
 目がさめたときは、もう、外はすっかりあかるくなっていたので、治郎吉じいさんが、小屋のそとに出て見ると、なんと大きな狸が口から血をはいて死んでいました。治郎吉じいさんは、お茶でのどをうるおしながら、相手になっていたので、たぬきにまけなかったのだと言うことです。それでめったに、とりやけものの鳴きまねはするのではないと、小さいころに聞かされた、お話であります。
楢尾 佐藤勇次郎

「ふる里わら科八社~第一集~」(大川寿大学.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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伝承『洞口ぶりのリュウ』

2012年01月15日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の大川地区に残る伝承を再録します。

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『洞口ぶちのリュウ』

昔々、とは言いましても、ご、六十年前のことですから、そんなに古い話でもありません。わらしな川の支流の、よきまたの奥に、洞口ぶちというふちがあります。そのふちにはヤマメがたくさんいるということを人づてに聞いた村のある男が「よしそれなら行って釣ってこよう。今夜はおいしいヤマメを焼いて、一杯飲めるぞ」と足取りも軽く、釣り竿と、おおきなびくを持って、草の生い茂る道を、そのふち目指して登って行きました。
洞口ぶちに着き、さっそく糸を垂れました。釣れること、釣れること、大きなヤマメばかり、面白い程に澤山釣れて、時のたつのも忘れるくらいでした。ほどなく、持ってきた大きなびくもいっぱいになり「家へのお土産も出来た」と、大喜びで帰りじたくをすませ、ふちべに腰をおろして一服し、なにげなく上を見ました。するとどうでしょう。一匹の大きなリュウが口を開け、今にもおそいかかってきそうに、身がまえているのです。男は、腰が抜けそうになりましたが、これは大変、こんな所でぐずぐずしていたら食い殺されてしまうぞと、釣った魚も竿もすのままほうり出して、命からがら逃げ帰って来たそうです。そして、その後は、二度とそのふちに、釣りに行かなかったということです。その男の見たリュウは、きっと、洞口ぶちのぬしだったのではないでしょうか。

「ふる里わら科八社~第一集~」(大川寿大学.静岡市中央公民館大川分館.昭和55年)

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