大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

藤盛り

2011年05月06日 | 地名の由来
藁科川にそってカーブを右や左にハンドルを切ると、必ずと言ってよいほど、山の斜面から点々と巻き付いて下がるヤマフジの花が目に止まります。

木の末をたわめて藤の下りけり 子規

この写真は、藁科川上流・県道60号線をあがってくる途中にある藤の花に取り囲まれた黒田渕の祠です。
中には、弘法大師を祀った石碑と、観世音菩薩の石仏、そして黒田渕お稲荷さんの三体が仲良く並んで祀られています。

この祠のもとにある黒田渕は、かつて黒田というおまわりさんが、この場所を通過中にあやまって自転車でこの渕に転落し、亡くなってしまったことに名前の由来があるそうです。

渕のうえ藤に抱えられたる祠かな 葉茶



畑色と大平見の由来

2011年03月16日 | 地名の由来
藁科川上流の畑色は、スカッと眺望の良いところで、向かいの東側の突先山から天狗岳へと連なる山々が一望に見渡せます。藁科川沿いには、富厚里にダイダラボッチという山の名前が残るなど、数々の言い伝えをこの地域に残していますが、畑色にもこんな伝説が残っています。


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「畑色と大平見の由来」

昔、二つの大きな山が向かい合い、そびえ立っていました。
一つの山には、ダイラボッチという男が住んで居り、こちらの山にはミコシという、それはそれは大きく恐ろしい男が住んでおりました。
その恐ろしさというと、上から見下ろすと小さく見えるが、下から見上げると天まで届くのではないかと思うほど大きいという不思議な男でした。
そして、その男の目は太陽に近いせいかギラギラと不気味な光を放ち、向かいのダイラボッチの住む山をしじゅう睨んでおりました。ダイラボッチは、毎日毎日矢の様に刺さる目の光におびえ、不安の日々を送っておりました。
そんなある日、とうとうたまりかねたダイラボッチは「よし、こっちから石をなげてやれ」と回りにある石を、体の力をふりしぼり向かいの山めがけて投げ続け、とうとうその大男をやっつけました。
ダイラボッチは、長い間続いた不安の日々からやっと解放され喜びいさんで、その山の頂きの一つに旗をかかげました。
それが今の畑色であり、石のまとがはずれとんでいった所を栃沢と言い、ミコシのいた山を大平見と言うようになったそうです。
坂ノ上 吉野らく

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「ふる里わら科八社~第三集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

清名塚の由来

2011年02月28日 | 地名の由来
地元の友人と話していると、友人同士でふと昔の小字の名で地名を呼び合っていることがあります。

「陣馬河原」もそんな時に出た場所で、しばらくどこかなと思っていましたが、昔の地名地図が出て来てわかりました。藁科川上流の坂ノ上地区の今は田んぼが広がっている辺りの場所です。

「机平」も対岸の小高い丘のところにあって、だいたいの場所は分かったのですが、下の言い伝えの主役である清名塚だけはわかりません。坂ノ上集落の東側の藁科川左岸に竹藪があって、その辺りかなとも思い、土地の人にもうかがったことがありましたが、場所はわかりませんでした。

今は平和な田園風景が広がっている場所に、武士たちが争った残像を、うまく思い浮かべることはできませんが、川沿いの風に吹かれる竹藪を見ると、「忘れるなよ」と言われているように感じます。

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『清名塚の由来』

むかし、坂ノ上郷に、たたかいがありましたそうです。それは、大きなたたかいの、落武者の討伐でありました。東西にわかれてのそのたたかいでは、一隊は、東の小高い丘に陣取り、西の一帯は河原をはさみ、竹藪に陣を布き、抵抗しましたが、たたかい利あらず、遂に降伏して、平和の里に、よみがえりました。

このたたかいで多くの武士たちが亡くなり、その死骸は、丁重に埋葬し、竹を植えて目標としました。村人たちはこの場所を発掘すると祟りがあるといって、戒めあいました。その後、村人たちは「五輪の塔」を建立して霊前に祈りを捧げました。そしてその地名をとって「清名塚」として祭りました。また、その時の戦場を「陣馬河原」とよび平和協定した場所を「机平」と今もその地名として残っております。

また、戦死した武士の「鎧」「太刀」など地元の旧家に残っておりましたが、今はその家もありませんので、どうなったか分かりません。
塚は今もそのまま残っておりますが、最近土地の地主が変わったので、土地に守り神とし、丁重に祭られております。  おわり

坂ノ上西組 勝見賢清
      勝見まさ

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「ふる里わら科八社~第一集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1980)

カイトの由来

2011年02月23日 | 地名の由来
藁科川上流の大川地区に「○カイト」という地名の場所がいくつかあります。カタカナで表記されていることもあり、英語のカイトを思わせ、随分粋な地名と感じていました。以下の文献を読んで、カイトは“開戸=開かれた場所”というような意味であったことを知りました。写真は栃沢の西カイトです。

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「地名開戸の由来」

栃沢の小字は百余りを数えられています。
その内で開戸と云う地名が、向カイト、上カイト、西カイトの三カ所ございます。古い昔の謂われなど、くわしい事は判りませんが、とにかく冬の日当たりも良く、飲料水にも恵まれた位置で、ある処から開拓が始まり、各開戸を中心にして、だんだん四方に住まいが出来、栃沢開発の起点になった事から、向カイト、上カイト、西カイトと云う地名が出来たと伝えられています。   おわり
栃沢 内野志か江

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「ふる里わら科八社~第三集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

野田ノ段

2011年01月12日 | 地名の由来
地元の古老の方と、歴史に精通していらっしゃる地元小学校の校長先生とこの地を訪れた時に、足元に器のかけらと思われるものをいくつか拾い見せて頂いたことに、とても驚きました。
「野田ノ段」は、かつての茅場で、縄文時代の遺跡が見つかった地。藁科川上流の大川地区に古くから人が住んでいたという証拠ですが、今は気が付かなければ行き過ぎてしまう茶畑が広がっている台地です。

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「野田ノ段」

約3,000年前「縄文時代」の日向人は「野田ノ段」に住み、狩猟生活と農耕を始めたと思われる。最近開墾により出土した数々の土器、石器、曲玉等により知る事が出来る。したがって「野田ノ段」と呼ばれたのだろう。また一説には「狼煙(のろし)の段」がなまって「野田ノ段」になった。私しは二説とも十節ではなかろうか。「野田ノ段」は「萩多和城跡」より低いため全面見渡せますが、籠沢の渓谷は「野田ノ段」によってのみ見ることができないので、争乱時代には「狼煙の段」と呼ばれたと思う。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

小城の段

2011年01月10日 | 地名の由来
藁科川上流の大川地区・日向の福田寺裏手からの山道を10分ほど登った「矢上げ辻」から更に5分ほど登った場所に「小城の段」の表札がかかった台地があります。
以前は茶畑だったと見え、その名残の茶腹が残るものの、矢上げ辻同様辺りはスギ・ヒノキ木立に囲まれており、以前は寝泊まりして山の作業にあたったであろう、比較的しっかりした小屋が残っています。

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「小城の段」

小城の段は「一谷城」と「萩多和城」との中間に有り、「矢上げ辻」より約100㍍位登った所で、西方には「関の平」「秋葉参道」を間近に見ることが出来、「矢上げ」「鍛冶製品」「一谷城」よりの情報、物資等、中継の役目を果たした重要な地点と思われる。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

矢上げ辻

2011年01月09日 | 地名の由来
藁科川上流の大川地区・日向の福田寺の裏から、中学校体育館の裏から、そして地区唯一のガソリンスタンド内野商店の裏手から、それぞれ山道をたどると、この矢上げ辻に行きあたります。
現在は、下記の文章にある茶畑ではなく、スギ・ヒノキが整然と並ぶ人工林となっています。


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「矢上げ辻」

一谷城の空堀を渡り、尾根伝いに登った所と、鍛冶屋林を登った道がまじわう所を、矢上げ辻と呼ぶ。辻の西北は広い台地となり、萩多和城の西南の郭と思われる。現在は一面茶畑になっており、更に登ると小城の段、萩多和城跡へと続いている。終わり
佐藤らく 小長井ひさ

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「ふる里わら科八社~第三集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

矢下(矢平)

2011年01月07日 | 地名の由来
続いて、藁科川上流の大川地区・日向に残る地名の由来です。中学校の体育館になっているところにも昔の地名が残っているのは当然と云えば当然ですが、近代的な建物の下に残る昔の由来は、不思議な感じがします。

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「矢下(矢平)」

現在、大川中学校体育館の所で、萩多和城より射た矢が落ちたところと伝えられる。また、湯ノ島へ行く途中の水田を矢平と呼ぶが、此処も同じように萩多和城より射た矢が落ちたところと伝えられている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

樋口

2011年01月06日 | 地名の由来
藁科川上流の大川地区・日向の福田寺境内の奥・白髭神社へと登る鳥居の横に幅1メートルほどのまっすぐな道が伸びています。この道を樋道というそうで、かつての用水路の跡だと地元の方から伺いました。
資料にも下記のように残っています。

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「樋口」

白髭本社大明神前の大銀杏から東北へ通じる横道を樋道と云い、その先の行き止まりの場所を樋口と云う。ここはその昔、一谷城の用水路跡で、今でも樋道と呼ばれている。


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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

蔵ノ段

2011年01月05日 | 地名の由来
藁科川上流の大川地区・日向の地名は、集落の中央の舌状台地を中心に様々な地名が残されています。この「蔵ノ段」という地名も、一谷城との関係から命名された名前のようです。

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「蔵ノ段」
一谷城の東方、千田沢を隔てた台地を蔵ノ段と云う。北西部は千田台地に連なるが、他の三方は断崖に囲まれており、現在は茶畑になっている。
ここは一谷城の東の郭跡で、食糧や武器などを常備した蔵の跡と云われている。現在はこの蔵ノ段の中央に灌木の茂みがあるが、何かこの段の秘められた歴史を物語っているようにも思える。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

一谷城

2011年01月04日 | 地名の由来
藁科川上流の日向集落の中央に残る「イチヤシロ」という地名は、一時的に社が留め置かれたことから“一社”という由来があると、地元の郷土史家から伺ったことありますが、山頂の萩多和城の麓にある出城として“一谷城”が地名の由来という説もあります。どちらでしょうか?

写真の右手から突きだしている台地上に一谷城があります


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「一谷城」

一谷城は、日向の中央に突き出した舌状の台地にあり、東、南、西の三方は、千田沢、藁科川、堂沢の三川bに囲まれた断崖上の要害に位置している。城の北方には萩多和城跡、小城の段があり、矢上げ辻より降りたところは、堀切りで遮断されている。
堀切りに続く台地は、法相宗朝旭山福田寺の境内で、その前面は御堂本と称し、古来、社家内野右近大夫家の屋敷であったが、現在は茶畑になっている。福田寺境内を東にとると白髭本社大明神の神境にいたり、樋道を経て、更に先へ進むと樋口へと続いている。
一谷城北の堀切(空堀)跡は、秋葉街道として利用され、東西の坂道は御堂坂と呼ばれており、この道は萩多和城詰の城への道であったと思われる。北の堀切りを越えて尾根を辿ると、庚申塔、秋葉山常夜燈、そして宝筐印塔をまつる聖域となっている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

峯林道を上がる

2010年12月27日 | 地名の由来
藁科川上流の諸子沢は、天空の茶園と称せられるほど、空に近い山里です。

その諸子沢からは、地内の平ノ尾を経て更に高度を上げ、雨降松から藁科川の分水界を川根にのっこす南アルプス線に至る峯林道が通っています。

赤カブ栽培で有名な、雨降松というところまでは行ったことがあったのですが、その先はどうなっているんだろうという単純な動機から、更に林道を奥へ奥へとはいって行きました。

地元の友人からは、オフロードバイクで面白いコースと聞いていて、山の中のぐねぐね道を予想しておりましたが、意外や意外、ススキが茂るぽっかりとひらけた平原に出ました。昔の茅場のだったのでしょうか、周囲の山並みも見渡せ、星空もここだったらかなり美しく見られることでしょう。

もっと先にと車を走らせましたが、凍りついた車道や、木を切り出す作業現場でロープが張られているような場所にも出くわし、今日のところはここまでと、大間と湯ノ島の間に抜ける川久保林道を降りて帰りました。

また良いシーズンに奥にトライしてみたいです。


ころころーん・ころころーん

2010年12月18日 | 地名の由来
先日、地元の友人と飲みながら話をしていたら、どういう経緯か火葬場の話になりました。

今は市街地に移りましたが、まだ友人達が小学校の頃は、藁科川上流の日向と栃沢という集落の間にある日向林道を降りていって橋を渡る手前の右手のところに火葬場があったそうです。
そこで荼毘にふされたお骨は、会葬者が列となって日向にある陽明寺まで送り届けられていたとのこと。その後は参列者にお礼が振舞われ「それは楽しみだった」とは幼い頃の友人たちの思い出話でした。

藁科川と支流の能又川がちょうど合流する地点なので、地元の人はその辺り一帯のことを“よきまた”と呼んでいるようですが、今は茶畑になっているその周辺には「松ノ平」や「石樽(いしだる)」といった字名が残っています。この地には、1469~1486年の文明年間の頃に、日向・諸子沢・湯ノ島・崩野・楢尾・八草・道光・藁山の八か村の氏神さんを一緒に祀っていた藁科八社というお社があったとのこと。歴史にお詳しい地元の小学校の校長先生にうかがったところ橋の名前につけられた“丸山”は、かつての古墳の所在地に多くつけられるているネーミングだそうで、「火葬場」「お社」「古墳」と歴史的に見てこの大川地区・北部の大事な来歴を物語っているように思えます。

交通の難所にもなっていたこの「石樽」という地名の由来にはこんな言伝えが残っています。
白キツネが渡来系の神社の由来を物語っているようです。

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『地名 石樽について』

 静岡市を中心にして、藁科川があり、川に沿って昔から山新田、羽鳥、大原株田、富沢、八幡というがあって、静岡市から大川村迄は、昔は七里という道のりでした。大川村から静岡市に着くと晩の六時過ぎにもなる大変な長い道のり、随分苦労を重ねて静岡市に行く時のこと。大川に入って坂ノ上、日向の坂をのぼって諸子沢と湯ノ島の別れ道とありなり、左にそって二町入っていった所が「石樽」という地名のところです。この地名について詳しく調べてみたいと思います。

 昔は藁科道路を通じて一番悪いところともなっていた。高さ百二十間、幅五十間ともあるところ、山道の巾は一尺くらいの道。歩いて夜通ると、誰しもが不思議なことがある。それは山の高いところから“ころころーん・ころころーん”という様な音を立てては、小石がたくさんに落ちてくる。夜になると石樽を通るには、誰しもが寂しいと、うわさが流れていたという。夜になると明かりをつけて、つまり提灯をぶらさげては通っていた時のことで、高い山の方から、ころころーん・ころころーんという様な音を立てては小石が落ちてくる。なんとおかしい変な音。誰しもが不思議に思って通っていた。その音はいかにも小さい。樽でも転がすかの様に思われる音にしか聞こえません。

 ある時、大きい嵐が起こり、大きい水が出て、村の人が川に巻き込まれて水死体となり、村の人たちが大そう心配して探しもとめて、ある晩に死体をかついでくると、一匹の大きい白いキツネが後を追ってついてきて、この寂しい石樽にて消え去ったとの噂が流れました。これまでの高いところから小石の音を立ててころころーん・ころころーんという様な音は、樽でも転がすようにも思われる音。みんなこの白キツネの仕業と村人は思うようになり、キツネのいたずらもバレて、この石樽を通る人々も、それからは安心が出来て、怖かったことも忘れてしまった、とのことです。時のことは安政元(1854)年の少し前のことだそうです。 おわり
湯ノ島 佐藤竜作

「ふる里わら科八社第二集」(大川寿大学講座受講生一同.静岡市立中央公民館大川分館.昭和55年)

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杉尾の由来

2010年12月13日 | 地名の由来
藁科川支流の黒俣川に沿って、久能尾(きゅうのう)を過ぎ、国道362号線をつづら折に登っていったてっぺんにあるのが「杉尾」という集落です。ここより向こうはもう川根となり、標高700mから周囲の山並みを見渡す眺望は絶景です。

かつては「杉京」とも呼ばれた杉尾の地名の由来は、藁科川筋の上流・日向の切杭に立っていた神代杉がとてつもなく大きくこの木の梢(尾)が見えたから杉尾になったという言い伝えや、杉尾地内の「まいない」というところに八畳余りの大きな杉の根っこがあったからなど様々。

どれがホント?と探っても、どれもホント!にしちゃうのも楽しいですよね。

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「杉尾の地名」

①地内の大杉を伐採して、東京浅草寺の観音像や坂ノ上村の薬師像を刻んだことに由来
②地内の小字マイガイトに、今は畑になっている寺屋敷という所がある。畑の片隅に古いお墓があり、三体の石碑と一体の観音像がある。そのお墓の近くに、樹齢約1,000年、高さ90メートル、目通りが4メートルぐらいの大きな杉の木があったそうだ。その杉のてっぺんが細くなっているので、安倍川の方から見ると杉の尾っぽに見えた。杉の尾だ、から転化して杉尾と名付けたという。またこの杉の木は、33体の観音をおまつりしている杉尾の観音堂の所で何本かに分かれていて、そこを切り捨てた材料で坂ノ上の薬師堂の木造を刻んだと言われている。

「藁科紀行ー自然と歴史を訪ねてー(前編)」(筧博克.羽衣出版.平成4年)

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ガッテン!ジメジメの理由

2010年12月09日 | 地名の由来
藁科川の下流域に建穂という地区があります。

建てる穂と書いて「タキョウ」と読み、珍しい地名とだなと思っていました。

その地名の由来を調べてみると、『修訂駿河国新風土記』によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)のお供だった建部という人物ご一行がこの地に庵を結んだので、“建部の庵”が略して「タケイホ」となったという言伝えがあるそうです。

その他にも、アイヌ語の「トキウ(葦の生えている沼地)」を語源としている説があり、沼地(湿地)を意味していると言われています。 昔の建穂は深田が多く点在していて、一面湖のような水が溢れていた事から「トキウ」となって、現在の建穂と呼ばれるようになったとのこと。他の文献にも、水辺に生える畳のなどの原料となるイ草の産地だった、という記述が見られました。

実際にこの辺り一帯を歩くと、湧き水が多く流れ出ていて、今の服織中学校はもとウナギの養殖地だったと聞いたことがあります。今では、国道362号線がまっすぐ走り、両側には宅地などがびっしりと立ち並んでいますが、かつてはかなりじめじめした土地だったみたいですね。

じゃあ、どうしてここがそんなにジメジメした土地だったのか?その原因については考えてみたこともありませんでしたが、「山と森のフォークロア」(静岡県環境民俗研修会・(財)静岡県文化財団.羽衣出版.平成8年)を読んでいて、

なるほどぉ~

とガテンしてしまいました。要は“藁科川がよく氾濫してしまう場所にあたっていた”ということが、下記の記述から分かったからです。土地勘のない方には分かりにくい記述かもしれませんが、改めて大きく地形を見ることの大切さに気づかされると共に、歌枕として詠まれる「木枯しの森」のもつ一種特異な景観の謎にも迫る興味深いものでしたので、その部分を引用してみたいと思います。

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「清少納言も知る木枯しの森」

森の所属
(前略)・・・・この森(木枯しの森)の地盤は堅い岩で出来ており、地質的には西岸の牧ヶ谷の一部であったと考えられています。古い地形を想像してみると、藁科川はちょうどここで川中に張り出した岬(現在の木枯しの森がそれにあたる)によって大きく湾曲させられ、弱められた水流は大量の土砂をこの近辺に残すことになり、その結果として羽鳥あたりは大きな湿地帯となっていた。近年の伝承でも、この湿地を利用して藺草が栽培されていたという。つまり、木枯しの森は現在の整備され太堤防から手が届くほどの近さにあったのではなく、羽鳥からは広い湿地の向こうに浮き島のように見えていたらしい。この神秘的な森に羽鳥の人々が神の降臨を願い、何等かの祈願をかけていたとの推定は十分可能だ。(後略)
執筆者/中村羊一郎

「山と森のフォークロア」(静岡県環境民俗研修会・(財)静岡県文化財団.羽衣出版.平成8年)

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