大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

大川の方言 ち之部

2011年01月31日 | 方言・言い回し
藁科川上流・大川地区の方言を再録してみました。
「ち」からはじまる言葉です。

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ちいとばかり   少し 少ない  「ちいとばかだが もらってくりょー」
                 (少しばかりだけど受け取って下さい)
ちいっとつら   すこしずつ   「ちいっとつらおきるようにしているさ」
                 (少しずつ起きるようにしているよ)
ちいらっせ    じゃんけんのかけ声
ちがわっか    違わないよ   「そんなにちがわっかーさ」
                 (そんなに違わないよ)
ちっこい     小さい
ちったあ     少しは
ちみぐる     つねる
ちょー      ・・・ということだ ・・・だそうだ
         「あそこーあんねーはいま ふこーかにいるだっちょー」
         (あそこの家の姉さんは今、福岡にいるそうだ)
ちょうず     便所 厠 「ちょっくら ちょうずへいってくらあ」
              (ちょっとお便所に行ってくるよ)
ちょうだい    帳台 納戸 寝室
ちょっきり    ちょうど
ちょくちょく   時々 おりおり
ちょっくら    ちょっと  「ちょっくらつかいにいってくらあ」
               (ちょっと買い物に行って来る)
ちょっぺん    頂上 頂き  
         「あそこーやまのちょっぺんは はい しろいなあ」
         (あそこの山の頂上は、もう白いですね)
ちょちょ     蝶
ちょろまかす   ごまかす
ちょぼっと    少し
ちょうらかす   子どもをあやす
ちゃんこう    ちゃんちゃんこ
ちんちんこ    片足遊び
ちんぶりこく   気に入らぬ顔をする すねる

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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)

大川の方言 た之部

2011年01月30日 | 方言・言い回し
藁科川上流・大川地区の方言を再録してみました。
「た」からはじまる言葉です。

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たあけ   たわけ 馬鹿者
たあぶれる たわむれる ふざける じゃれる
たあんと  たくさん
だいじょうくぼ  女郎蜘蛛
たかる   集まる 群がる
たがや   桶屋
たぎる   切れること
たけんかー 竹の皮 「たけんかわに うめぼしをくるんで なめたっけなー」
          (竹の皮で梅干をくるんで舐めたよね)
たったくます 打ち壊す
たばーける  ふざける 「あんまり たばーけるなよ」
            (あまり、ふざけるなよ)
たる     滝
たんと    たくさん どっさり

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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)

大川の方言 そ之部

2011年01月29日 | 方言・言い回し
藁科川上流・大川地区の方言を再録してみました。
「そ」からはじまる言葉です。

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そいだって   そうは云ったって それだって
そいだもんで  そうだから それだから
そいでさー   それから それでね
そうしっざー  そうしましょう   「そうしっざーや」
                  (そうしましょう)
そうずらやあ  そうでしょう
そうばな    粗い
そーぞおしい  騒がしい
ぞっぐりこく  びっくりした
        「急にとびだしてきたもんで ぞっぐりこいたっけよ」
        (急に飛び出してきたもんだから、びっくりした)
そつ      無駄にするな
そのいちら   それっきり
そのいとに   その間に その内に
そらっつかい  知っていて知らんふりをする人
そらあつかう  知らん振りをする
それさあら   それごと   「それさあら もってきてくりょー」
               (それごと持ってきてよ)
ぞんぐりする  ぞっとする
        「ちかくでひのたまあみたもんで ぞんぐりしたっけよ」
        (近くで火の玉を見たものだから、ぞっとしたよ)
ぞんざりかあって 行儀が悪くて
        「そんなにぞんざりかあって よーはんくうなやー」
        (そんなに行儀を悪くして、夕飯食べないでよ)
そんなり    そのまま

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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)

大川の方言 せ之部

2011年01月28日 | 方言・言い回し
藁科川上流・大川地区の方言を再録してみました。
「せ」からはじまる言葉です。

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せこい   ずる賢い ずるい
せず    しない
せせくりまわす いじくり廻す
せせくる  いじくる 弄ぶ  「そんなにせせくるな こまれるっで」
                (そんなにいじくるな、壊れるから)
せせる   いじる 触る
せちがる  せがむ ねだる  「そんなにせちがるなよ」
               (そんなにせがまないでよ)
せっつく  つきまとい催促する 「せっつくなやあ、いまやっているっで」
                (急がせないでよ、今やっているから)
せっくり  しゃっくり  「せっくりがとまんのうだよ」
             (しゃっくりが止まらないよ)
せど    家の裏 裏手  「おやじーはせどにいるよ」
              (親父は家の裏にいるよ)
せばい   狭い
     「かどんとこーせばいもんで くるまーだしいれぇえらいだあや」
      (角のところが狭いものだから、車の出し入れが大変なんです)
せらい   方向が定まらない風
せわしい  忙しい
せんころ  先頃

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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)

大川の方言 す之部

2011年01月27日 | 方言・言い回し
藁科川上流・大川地区の方言を再録してみました。
「す」からはじまる言葉です。

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すいほろ   風呂  「すいほろにみぞーいれといてくりょ」
           (お風呂に水を入れておいてよ)
すいほろぼ  風呂場
すこい    悪賢い ずるい  「あいつぁすこいできをつきょー」
                (彼はずるいから、気を付けなよ)
すか     断り しようか はずれること  「くれすか」
                       (上げない)
すきにしっちょう 好きなようにしな
ずだい    少しも いくらも ろくに 大分
すっこぬく  引き抜く
すっぽい   すっぱい
すばる    はにかむ 人見知りする
       「そんなとこですばってないでこっちぃきてみょー」
       (そんな処ではにかんでないで、こちらに来てみなよ)
すびく    確かめる
ずない    気が強い 負けん気なさま 云うことを聞かないさま
       「ありゃあ ずない子だなあ」(あの子は気の強い子だね)
ずなりまわる 猛烈な勢いで走り回る
       「にいこうらあ そんなずなりまわってなにょーしてるやー」
       (あななたちは、そんな勢いで走り回って、何をしているのm)
すもくれる  糸がからむ
ずらかす   ずらす   「せきゅーひとつずらかしてくりょーやー」
             (席を一つずらしてください)
ずるい    悪賢い
すんみ    少しは

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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)

大川の方言 し之部

2011年01月26日 | 方言・言い回し
藁科川上流・大川地区の方言を再録してみました。
「し」からはじまる言葉です。

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しくたー    意気地のない人 根性無し
        「あんしくたー何処へ行きゃあがっただか」
        (あの根性無しはどこへいったのか)
しくたーやろう 意気地のない男 根性のない男
じぐるう    あばれる 苦しむ  
        「はらあいたくて ゆんべはよっぴとい じぐるっていただよ」
        (お腹が痛くて、昨夜は一晩中苦しんでいたよ)
じごうり    霜柱
しすかっちょー ~しない 「そんなこたあしすかっちょー」
             (そんなことはしないよ)
しずらい    しにくい
しっずよ    しましょう しよう 「将棋でもしっずよ」
                  (将棋でもやろうよ)
しっつ(す)か するわけがない 「そんなことーおれがしっつか」
                (そんなことを俺がする訳がないよ)
したべろ(くちべろ) 舌
しだむ     容器に入れる  「お茶をしだむ」
                (お茶を茶碗に入れる)
しっかあ    しようか    「晩飯にしっかあ」
                (夕食にしようか)
しっぱね    裾にはねついたどろ
してばり    夕方川の水底に餌をつけた釣り糸を浸しておいて、
        翌早朝あげるウナギなどを釣るための方法
そとーけ    しておきなさい
しなくれる   萎びる  「このはなあ しなくれたなー」
             (この花、萎びちゃったね)
しなっこい   柔らかい 「しなっこい手だなあ」
             (柔らかい手だねぇ)
じばん     襦袢
しびる     大小便を少しもらす
じべた     地面 大地
しもざ     囲炉裏の座(主人の正面の座・・・下座)
しょうらいさん 盆の精霊
しょいだす   担ぎ出す 背負い出す 連れ出す
しょぐなる(しょんじょくなる)  しゃがむ
        「としょーとったせいか すぐ しょぐなりたいさー」
        (年を取ったせいか、直ぐにしゃがみたくなるよ)
しょうしいな  ありがとう
        訪ねて来た人に手土産などを渡された際の気遣いの言葉
しょずむ    摘む   「ヨモギョーしょずんでいかっずよ」
             (ヨモギを摘んでいこうよ)
しょぼたれる  (雨などに)大濡れに濡れること
しゃあがるな  してはいけない
しゃっつら   顔 相手を罵って、その顔を云う
しゃっつらにくい 憎い 気に入らない
しゃてい    弟
じゃむし    くわがたむし
しゃらくさい  生意気
じゃんじゃんばし 鉄線の吊り橋
しょうがあらすか 仕方がない しょうがない
しょうき    仕置き
        「あんまりずないっで しょうきをしてやらすか」
        (あまりに云うことを聞かないから、仕置きしてやるか)
じょうび    いつも 常日頃
じょうや    度々 しばしば
しょうよ    しなさい
じょうり    草履
        「むかしゃーじょうりょーはいてがっこうへいったもんだよ」
        (昔は、草履を履いて、学校へいったんだよ)
しょずと    ふくらはぎ
しょちゅう   度々
しょっくち   建物の入り口
しょっちょこばる 小さく堅くなって座っているさま
しょっつかまる  捕まる
しょっつきにくい 近寄りがたい 「どうもあのひたあ しょっつきにくいよ」
                (どうもあの人には近寄りがたいよ)
しょっぱ(な)  初め
しょろくた    のろのろ ぐずぐず 
         「しょろくたすんな」(のろのろするな)
しょろしょろ   ぐずぐず もたもた
         「しょろしょろすんな」(もたもたするな)
しょんない    仕方がない 仕様がない
しょんぼろくさい 小便くさい
じるい      道などがぬかるんでいること 柔らかい
しらすか     知らない
         「そんなこたーしらすか」(そんなことは知らないよ)
しらっか     知らない
         「そんあこたーしらっかやー」(そんなことは知らないよ)
しらっくら    そらを使い態度がはっきりしないこと
しらもの     生娘
じんじい     爺 おじいさんを罵った言い方
じんじくたー   じんじいを更に罵った言い方
しんぜる     神仏に供える
しんな      するな 「そんなこたーしんな」(そんなことはするなよ)
しんびれ     手足のしびれ
しんのうぶるまい 屋根替えの時の祝宴
しんめー     おしめ おむつ 
         「しんめーかえたか」(おむつを替えたか)
       
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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)

大川の方言 さ之部

2011年01月25日 | 方言・言い回し
藁科川上流・大川地区の方言を再録してみました。
「さ」からはじまる言葉です。

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さーら    ~と一緒に  「ふくろさーらくりょー」
              (袋ごと下さい)
さーる    坐る さわる 「さーらしてくりょー」
              (坐らして下さい)
              「それぇ さーるな」
              (それに触るな)
さーやげる  掃除し片付ける きれいにする
ざいしょ   実家
さいで    そうで
さいなするか さようならをしよう
さがしい   険しい    「さがしい坂だで気をつけて下りてくりょー」
              (けわしい坂だから気をつけて下りてください)
さきいたって 先に行って 先になって 「さきいたってくりょー」
                   (先になってください)
さきっちょー 先端 先の方
さっつける  突きつける 押しつける
       「人に役をさっつけて さっさとかえりゃあがったよ あんひとぁ」
       (人に役を押し付けて、さっさと帰ってしまったよ、あの人は)
さっくべる  薪などを燃えている火に加える
さばける   破ける  「袋がさばけちまった」
            (袋が破けてしまった)
さぶい    寒い   「けさあ やたらさぶいなあ」
            (今朝はかなり寒いね)
さぶしい   さびしい さみしい
ざぼる    投げ捨てる  「そりゃあ はいいらのうで ざぼってこいや」
              (それはもう要らないから投げ捨ててこいよ)
ざまっちゃ  態度又は服装、格好(女性語)
       「あんたっちゃあ ざまっちゃ」
       (あなたたちは、なんて格好なの)
さらいつける 投げつける
さんだす   差し出す  「そこにあるさらあ さんだしてくりょー」
             (そこにある皿を、差し出してください)
さんざっぱら 思う存分にする 「はいさんざっぱらあそんだで かえっらずよ」
               (思う存分遊んだから、帰ろうよ)
       
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「ふるさと大川の方言」(大川クラブ創立80周年記念事業実行委員会.平成17年)

昔の人の天気予報

2011年01月24日 | 料理・食べ物
藁科川上流の坂ノ上を通過すると、左手の山の山腹に絵に描いたようなお堂が建っているをきっと目にすることでしょう。薬師堂です。更にこの上には坂ノ上神社というお社がありますが、この山を堂山と呼びます。
さて、この堂山、昔の人にとってはお天気を占う山だったとか。以下のような言い伝えが残されています。

※写真の右側が「堂山」

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「昔の人の天気予報」

坂ノ上の村中に堂山という山がある。この山は、坂ノ上の人達には大切なありがたい山で、山の頂上には氏神様、山の中段には薬師如来様がおまつりしてあり、その少し横には西側の家々の先祖のお墓が建てられていて、村を見守ってくれているようです。
この堂山の麓に生まれ育ったお年寄りに聞いた昔の人の天気予想のお話。
「わしらの時代には、天気のことなど教えてくれるものなど何もないので、空を見て流れ方とか、山にかかる霧の動き様とか、体に感じる具合、例えば頭が痛むとかなど、色々考えたり、試したりして仕事をしたもんぢゃよ」と言って前の堂山を指さして「この山の中程が霧の久保という所で、あの辺一帯に霧がもくもくしているうちは天気はよくならん。山裾から霧がのぼっても、空へすーと消えてゆくと曇っていても良い天気になるんぢゃよ。これは本当ぢゃよ。わしも家のじいさんに教えられて、何度も試してみたが、大体当たった。それから夜上がりもいかん。夜雨が止むと天気は長続きしない。朝曇があかね色でも朝焼けは近く雨が降ると言ったもんだ。月がカサをかぶって、その中に星が一つあると、一日後に雨だとか、まぁこんなことで昔は天気のことを予想して仕事の段取りをしたもんぢゃよ」と教えてくれました。おわり
坂ノ上 宗野きま

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「ふる里わら科八社~第三集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

栃沢・東福モミジを植えようプロジェクトスタート

2011年01月23日 | 行事レポート
藁科川上流の大川地区・栃沢は、お茶どころ静岡にお茶をもたらした聖一国師さんの誕生地。その聖一国師さんが開かれた京都のモミジの名所ともなっている東福寺から、栃沢の方がイロハカエデとモミジの種を持ち帰り、大事に育ててきた苗が育ってきました。

そ・こ・で!

このモミジを栃沢町内の至る所に移植させて頂いて、彩(いろどり)ある山里づくりのために、「東福モミジを植えよう」プロジェクトがスタートしました。

1回目は、まずは10人の地元の方や関係者の皆さんが集まって、道々どこに植えようかを話し合いながら、各戸で何本苗が育っているのかを確認する町内ツアーを実施しました。

今後は地主さんとの調整などを経て、3月13日(日)に移植作業を行います。
20~30年後の赤や黄色に彩られた栃沢の風景を夢見ての移植作業が楽しみですね。

縄文時代の大川

2011年01月18日 | 歴史&文化
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勝見惣太郎氏「ふる里道中(二)」

縄文時代は、今より八・九千年前から二千年ほど前までと言われる。この間に縄文式土器という土器が、さかんにつくられた。日本各地で掘り出されるこの土器が、大川にもあった。
弥生時代には、ムラ人たちが共同で田畑を作り作物を分けあって暮らした。そしてムラを治めたり、よそのムラとのつきあいに指導者ができた。


「縄文式時代」 約五千年~二千年前(大川地方)

日本の原人という三ケ日人・牛川人・明石人の頭骨化石は一万年以前のものと言われる。では、藁科の祖先は、大川の原人はどうなのか。
何はともあれ、日向字野田の段で出土した縄文土器の発見は、画期的な偶然であった。

三千年前のものと言われるこの土器が発掘された動機は、昭和二十五年、この土地を所有する旧大川村が施設の財源に当てる必要から地元の佐藤吾兵衛氏に払い下げた。佐藤氏は、この山を畑にするため、昭和二十六年から開墾作業を続ける内発見したというもの。戦後の食糧増産で厳しい対応に迫られていた頃である。それにしても貴重な土器の多くは、県内外の人たちに持ち運ばれたというが、当時の世相からすれば、止むを得ないことであったかも知れない。

野田の段という地名は、広い陸田(畑)の段丘と解釈されるが、もとは烽火の段であったかも、という説もあるが、確かに当時の部族には、何か異変のある時の警報や何かを起こし始めようとする時の合図に、焚火を煙らせてあげることが重要な手段であった。
狩猟と農耕に生きる部族間では、お互いに共通した観念に立って連携を緊密にしたことも確かである。
それにしても部族たちは、どのように展開したのだろう。他の場所にもまたあった筈の文化遺産がないのは、先に述べた地質変動のいたづらとも言えるが、小規模な山の崩壊は今でも続いている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

中生代・新生代の大川

2011年01月17日 | 歴史&文化
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勝見惣太郎氏「ふる里道中(二)」

「中生代」 約二億~六千万年前

この時代は、古生代のような大規模な変動は少ないが、河川の氾濫は一層激しくなり、大量の土石流が南下して河床がだんだんと下がってきた。
しかし地上には雑草が生い茂り、松・杉・桧などが発生し、両生類、軟骨魚類など葉中動物が繁殖したという。


「新生代」約六千万年~現在まで

この時代は、第三紀と第四紀に区分され、代四紀は更に洪積世と沖積世に分けられる。この時代は哺乳類の全盛期で、その末期に人類が出現したという。しかし気象状態が不安定となり、百万年前から氷河時代の寒冷期に入った。積雪の圧力で固まった万年雪が、自体の重みで低地に移動する速度は、早くても1日十米を越えないという。このように冷え込んだ地球は縮み上がって高い山脈を造り、日本平や牧の原台地を盛り上げるなどの造山運動が起こり、氷河の流入と相まって海面を押し上げたと言われる。

さて、藁科・安倍の両河川は、何億年もかかって静岡・清水の平野を造成し、三保の岬もつくったが、奥地の山は、これとは裏腹に、崩れ落ちて骨と皮になった。そして残ったものは巨大な硬岩の山とその谷間にある水成岩、例えば礫岩(こもち岩)、頁岩(粘板岩)、砂岩(硬砂岩)などが、数億年の歴史を伝えている。今にして思えば、自然は美しく蘇り、地震災害に最も強い日本列島の基盤になっている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

古生代の大川

2011年01月16日 | 歴史&文化
ぜひともお会いしたかった今は亡き方のお一人に藁科川上流・大川地区の坂ノ上にお住まいだった勝見惣太郎さんがいらっしゃいます。
大川地区の歴史に関して造詣が深く、色々な資料文献でしっかりした文章をのこされていらっしゃいます。
特に1980年前後に続けて発行された「ふる里わら科八社」という地元の方々が編集された歴史書では、大川地区の歴史を古生代から書きつけていらっしゃり、その壮大なスケールの構想力と、それを次世代に残そうとご尽力された情熱に、深く教えられます。

その功績を称え、少しでも後世に残すお手伝いをしたく、勝見さん執筆された「ふる里道中」を抜粋します。


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勝見惣太郎氏「ふる里道中(二)」

「古生代」

日本列島が誕生したという、約五億年前の岩石層が、埼玉県の秩父で発見され、この層を秩父古層と名づけた。
列島の基盤と言われる最も古いこの地層が、大川地区で95%、清沢地区で50%と続いている。
その頃、藁科・安倍・川根筋の山々は、一連の高原になって、駿河湾が、吉津・谷津辺りまで入江になっていたというように、安倍川筋も深い入り海になっていたという。
そして牧の原台地が地下に、日本平が海底に沈んでいた頃、奥地の高原では、地震や火山活動、造山活動など、地殻の大変動が頻発していた。
このような激動の中で、風化した土石流が、洪水のたび毎に駿河湾めがけて押し出し、広大な扇状地の駿河平野を造成した。
然し、それは、何億年もの長い地質時代の変動で、恐ろしい現象が毎年のように続いたいたという訳ではない。
古生代というこの時期は、氷河の発達したこともあったが、だいたい温和で、いろいろの生物が発生した。植物では菌類、シダ類、ヒカゲノカズラ、スギナなどが育ち、動物では無脊椎の貝類が栄えた。
厳しい環境の中で育ったこれらの植物は、それなりに強い生命力を保ちながら、今でも、農家の厄介ものになっている。
でも、美しい黄緑の毛並みを地上に這わせるヒカゲノカズラは、その昔、神事に参列する諸公や公卿達が、冠の左右に吊るして飾ったというほど清浄な感触をそのままに、高山の湿地に自生しているが、土地の人は何気なく見過ごしている。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

眞菰の池&池の段別伝

2011年01月15日 | 言い伝え&伝承
先日記載した「眞菰(マコモ)の池」と「池の段」には、こんな別バージョンのお話も残されています。
写真は池の段が決壊した時に水が流れ下ったと思われる「堂木沢」です。

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『日向の地変』

昔は大川、日向の中央を藁科川が流過し、川のほとりは広く平らな所があって、マコモの原と言っていた。今は茶畑となっているが、宇堂沢の付近だという。

この原にマコモ池があったが、ある時、禰宣の太郎、次郎の兄弟が、兄嫁のことから激しい争論をして腕力沙汰となり、太郎の履いていた金の靴が片方脱げてこのマコモ池に沈んだ。もう片方の靴は、黄金の杯と一緒に土中に埋め、そこに梅の木を植えたというが、それはどこか分からない。また、池に沈んだのは弟を斬った刀だとも言われる。

この時代には川向こうの不動ぼつという所から山脈が東側までつながっていて、その上方の字はたいろうに大きな池があったが、ある時、この池は一夜のうちに決壊して大川に大滝となって流れ下って、つながっていた山脈を突破して川筋を変えた。この時、大樹が倒れて土中に埋没したものが、今も深さ数丈(約十五~十八㍍)の所から発掘されることがある。マコモの池は涸れてその形をとどめていないが、明治初年(一八六八)以前までは池の跡には作付けをしなかった(美和村誌)

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(藁科物語第4号~藁科の史話と伝説~.静岡市立中央図書館.2000)

池の段

2011年01月14日 | 言い伝え&伝承
藁科川上流の畑色に登ると、ひときわ生き物の気配が濃いのが、湿地の周辺。この小さな水たまりを、大蛇や龍伝説が残る池の段と知ったのは最近のことです。

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「眞菰が池と池の段」(後半)

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この(まこもが)原の跡から西に眼を転ずると、「川向かひの現在不動ボツと云う所から山脈を接続して、尚上方ハタイロに大きな意見があったが、この時代ある時大雨があって、この池一夜のうちに欠損して落水滝をなし、大川に流下して接続する山脈を突破して(釜ぶち切れ出しか)川筋を変じた。この時大樹の倒木して土中に埋没したもの」深さ数メートルの川底に根元の直径、障子三枚位の大木が生えたままなっているという。又この時、池に住んでいた大蛇がおし流されて麻機沼に移ったと言われている・・・・それは・・・・その頃麻機の北村という所の和尚さんの夢に「俺は日向村が洪水の時、池から押し出されこの沼へ流れついたものだが、体が大きいので満水でなければ泳げないから水が出たら、もう一度古里へ戻ってみたい」と大蛇が云ったという。「池の中には一むらすすき・・・・」と古いコトバ書もあるが、それはどうか。
この池の残り一部だったのか、昭和初年頃までまわり二十米位の水たまりの近くには大木へ注連縄が張られ、太り藤つるが立ち上がったり横たわったり、まき合ったりして池の面を覆い、昼なほ暗く神秘的な所であった。池の原形と見られるのは、五十米四方位であったが、この水たまりと共に終戦後墾り開かれて、今はわずかの湿地を残すのみとなった。この一帯、昔から「池の段」と云われている。  おわり
日向 佐藤はな

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)

眞菰の池

2011年01月13日 | 言い伝え&伝承
歴史に精通されている大川小学校の校長先生は、資料文献から「まこもが原」が大川地区・日向にとって、とても重要な場所であったと指摘されています。そこから収穫されるお米を福田とし、現在は観音堂だけ残る福田寺のお堂がかつてはこの地にあったのではないかと推理しています。現在、その場所はプールとなり、夏には子どもたちの声がコダマします。

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「眞菰が池と池の段」(前半)

あの近所で「・・・・ココイラがまこもの原と云った所ダ・・・・」と古老が云い伝えた小学校のプール付近は、なるほど古帳によれば、まこもの原と記され、日向村の小字であって、昔、検地の時は最初に測量をはじめた所で、畑が三カ所で四畝歩余りあったようである。
此の付近は山裾の西面と、南面の傾斜地と接する辺りが小字「切屋敷」で、更に北へ「家の上」「矢切り場」「ヤゲ辻」と続く。
その名から推して、この原の中にあったものと想像される「まこもヶ池」の生成については今のところ残念ながら知るべき由もない。時は「承應」という年代の頃、日本では江戸幕府の初期で検地条例が出たり、諸国飢餓や、各地に寺子屋が起こり学者も大勢でたりした時代で、日向村には戸数七十三ー四戸があった。中にも現在、中学校運動場と県道境の辺りに、もう少し昔、二人の仲良しが住んでいた。一人は開墾に精出し、他の一人は特殊の職業であったらしい。ところが或る時、この二人はどうしたことか面白い遊びから激しい技となり、遂に腕試しとなった。まこもの生えた原っぱで、始まったのだろう。突然一人の履いた金色の靴が片方脱げて、この池に沈んだ。これではどうしようもならない。で、残った靴は、黄金の盃と一緒に土中に埋め、梅の木を植えたというが、それは何処か知れない。この付近か。また、后に出てくる山脈の付け根あたりか。近年までこの付近には、その頃の梅かとも思われる古株が一ー二カ所樹っていたものである。
或る書には「まこもの原は水涸れてその形をとどめず、明治初年以前までは池跡には作付をしなかった」とある。

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「ふる里わら科八社~第二集~」
(大川寿大学講座受講生一同・静岡市中央公民館大川分館、1981)