大好き!藁科川

静岡市の西部を流れる清流・藁科川の自然・文化の魅力やイベント等の情報をお届けっ♪

山里が茶室に

2010年10月31日 | 行事レポート
心配された台風も前日に東へ抜け、こちらのブログでも以前紹介した「芝生でお茶カフェ」が大川中学校で開催されました。

当初は、芝生全面にそれぞれの地域や団体のブースが展開される予定でしたが、雨降りで芝生が濡れていたため、ひとつの茶室以外は、中学校の構内の教室を貸しきってそれぞれのカフェが開店しました。

集まったのは「グリーンティー大川」さん、「お茶しま専科」さん、「栃沢茶を育てる会」さん、「大川茶道倶楽部」さん、「縁側お茶カフェ」さんの5つのグループ。

参加費として500円払えば、各教室で茶菓子つきの自慢のお茶が何度も味わえるという趣向で、それぞれのカフェのスタッフの皆さんの解説を聞きながら頂くお茶は、素人の私でも味の違いにガテンした催しでした。

まさに、中学校に集結した各グループの個性あるお茶を頂いていると、地域全体がお茶室になったかのよう。

春にも、今度は各地域で茶宴が開催されますが、ぜいたくな「もてなし」の時間を楽しんだひと時でした。


七色のアーチ

2010年10月30日 | 自然&生き物
台風が過ぎ去った日の夕方に庭先に出ると、「虹、にじ!」
東の空に、柱のように山すそから立ち上がって、完全に半円を描いた美しい虹が出ていました。
静岡市の市街地の方でも現れていたようですが、うっすらと二重にもなっていて、こんな完璧な姿の虹を見たのは、もしかしたらはじめてかもしれないという感慨に浸りながら、しばらく空のアーチを眺め続けました。
虹の登場を歓喜するかのようにたくさんのイワツバメが空中をきりもみ、畑色方面の遠くの空
高くにはノスリのようなタカが悠然と舞っている姿がありました。

アザミ(嬢のララバイを聞き)に来たもの

2010年10月29日 | 自然&生き物
次第に色を失っていく野原に、アザミの花が目立ちました。

近寄ってカメラを向けると、紫の花に子守唄を聞きにきたのでしょうか、がっしりと頭花にうずくまるように、長い毛に花粉をいっぱいにつけたマルハナバチが、ストローのようになった口をせわしなく花筒にちょんちょん突っ込んでいました。

このハチ、ミツバチよりも一回り大きく、他のハチよりも長い舌が特徴とのこと。冬を前に残り少ない蜜源を求め、夕焼けの花の間を行ったきたりしていました。

アザミ自体は、日本にその仲間が100種類ほどあるとのことで、分類泣かせ・・・これはノハラアザミでしょうか?秋の山野を彩る草花として古くから親しまれているアザミは、その100種類のうちほとんどが日本の固有種だそうで、その孤独そうなたたずまいとは別に、日本はアザミに恵まれているんですね。

和名の由来は、トゲの多いことに「あさむ」(驚くの古語)の意味や、沖縄県の八重山地方の言葉でトゲを「アザ」と呼ぶことからアザミに転訛したなど、諸説があるとのことでした。

それにしてもアザミ嬢のララバイはちょっと古かった?もちろん私も子守唄として聞いていたくらいですけれども・・・


湯ノ島の地誌

2010年10月28日 | 集落の地誌
藁科川上流の湯ノ島には、その名もズバリ温泉が湧き出て、市営の温泉浴場があります。周辺はシーズンに応じて新緑や紅葉が楽しめ、湯質もよくゆっくりできます。大人一人500円。その温泉がある「湯ノ島」の地誌を以下に紹介します。


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「湯ノ島」

藁科川上流に位置する。地名は、昔ここから温泉が出て多くの人々が湯治したことにちなむ(駿河国新風土記)。旧大川村の時代までは「湯島」(ゆじま)と呼んだが、昭和44年静岡市に合併してから「湯ノ島」(ゆのしま)と呼ぶ。理由は、静岡の大字に「油島」(ゆじま)があり、ここと混同するためである。
地内は、「上・下湯ノ島」に分かれている。また玄国堂には、即身仏の伝承が残され、また地内にある江戸時代の稗倉は貴重である。

[近世]湯島村
江戸期~明治22年の村名。駿河国安倍郡うち。幕府領。村高は寛永改高23石余、、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに53石余。「駿河記」では家数35。寺社は曹洞宗宝積寺(ほうせきじ)、飯綱権現社ほか3社。
安永4年(1775)2月27日没した宝積寺住職の玄国和尚が、即身仏として当地に祀られたことが『玄国和尚伝』に記されている。明治元年幕府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年静岡県に所属。明治22年大川村の大字となる。

[近代]湯ノ島
明治22年~昭和44年までの大字名は「湯島」。昭和44年からの大字名は「湯ノ島」。大川村、昭和44年から静岡市の大字。明治24年の戸数34・人口194、厩1.
昭和63年から平成元年までの市による温泉掘削工事の結果、1,000mの地底より温泉が湧き出た。このため、平成5年から静岡市営として4番目の「湯ノ島温泉」の建設が進められ、同6年4月にオープンした。温泉開設に伴い「玄国茶屋」がオープンし、地場産品の販売や食事の提供等を行っている。

「藁科物語第3号~藁科の地名特集~」(静岡市立藁科図書館.平成6年)

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藁葺きの門

2010年10月27日 | 歴史&文化
藁科川上流の大川地区でも、藁葺きはここ一軒になってしまったのではないでしょうか?
とても趣のある門構えで、その昔、この門にはちゃんと門番がいて、この家を守っていたと地元の方から伺いました。

日向地区の大川中学校の横にあるこちらのお宅は、かつてこの地を治めていた名家中の名家。
室町時代の後期頃に、日向に移り住んだといわれており、源氏の流れを汲む武家で、それまで土砂崩れや川の氾濫等自然災害が絶えなかったこの地に、土木技術を持ち込んで開墾に成功した土地の開祖にあたります。

この門がある前の通りが、いわば日向のメインストリート。

かつては、役場、郵便局、学校、商店、鍛冶屋が並び、物を運んできた人が泊まるところもあって、この藁葺きの門のあるお宅にはお医者さんも雇われていたとか。字名は中村と称し、まさに村の中心街だったところです。

いちど街ブラにいらっしゃってみませんか?

天空の山里・大間の地誌

2010年10月26日 | 集落の地誌
藁科川最上流部の大間地区についての地誌を下記に紹介します

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藁科川源流の七つ峰(1,533㍍)の懐、標高800㍍の高地に位置する集落。静岡県内でも有数の落差を持つ「福養の滝」(ふくようのたきー落差130m-)がある。当地の開拓者は、信州から来た「砂(いさご)宮太夫」と伝えられているが、古文書や古記録などは現存していない。

福養の滝(別名磨墨の滝)は、古来より雨乞いの神事と深く関わっており、智者山神社と関係がある名瀑。
地内の産物はお茶・椎茸・林業が中心である。大間に車道ができる前は、湯ノ島からの寂しい山道が唯一の生活道であった。このため、お茶積みさんが往来していた昭和のはじめ頃の茶摘み歌に、「七つ小袖を八着られてもいやだ大間は霧の中」(焼津市豊田の古老談)と歌われたこともある。

地名は、名馬磨墨にちなむ「御馬」(おんま)とも言われる(梶原景時の生涯)

[中世]
大間の創始者砂宮太夫の寄進した不動尊には、「天文5年(1536)12月吉日旦那宮太夫・刀工弦心」(梶原景時の生涯)の銘を残している。

[近世]大間村
江戸期~明治22年の村名。駿河国安倍郡のうち。幕府領。村高は寛永改高10石、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに27石高。「駿河記」よれば家数14、柿・梅を生産。寺社は曹洞宗竜泉寺、牛頭天王ほか1社。
明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年静岡県に所属。明治22年大川村の大字になる。

[近代]大間
明治22年~現在の大字名。はじめは大川村、昭和44年から静岡市の大字。明治24年の戸数15・人口84.当地は藁科川水源に近く、市街地から車で1時間40分あまりかかる山間地であるため、静岡県の「中山間地農林業特別対策事業地」に採択された。これにより平成3年6月に農産物販売所「駿墨庵」が営業開始(現在はゴールデンウィークを除き休止中)。
地内から井川に抜ける県道「南アルプス公園線」も開通し、諸子沢に抜ける「峰線林道」が平成5年4月に完成。同年地内にごみ産廃場ができ、環境問題となる。平成元年静岡大学小櫻義明教授が当地に定住し、「わらしな川源流・大間の里大学村建設計画」を発表して注目された。その後「縁側カフェ」や「お裾分け農園」などユニークな地域おこしの活動が継続的に行われている。

「藁科物語第3号~藁科の地名特集~」(静岡市立藁科図書館.平成6年)

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次世代のエース

2010年10月25日 | 行事レポート
藁科川上流・日向にある大川中学校からご依頼を頂き、総合学習の時間の中で「大川のス・テ・キの見つけ方」と題したプログラムを実施しました。

まずはじめに8名の生徒達から自己紹介を兼ねて、事前に宿題としていた“大川のステキ=自慢ベスト3”を発表していただきましたが、これがまた素晴らしい!

このブログでも紹介した「盗人晩」をはじめとして、「夏祭り」「栃沢の枝垂れ桜」「自然」「お茶」「七草祭り」「聖一国師」「萩田和城」「ダイダラボッチの足跡」「楢尾の石仏」「摺墨の石」「福養の滝」「朝日滝」「立石橋」「むかご」「だんごバチ」「アユのしおから」(!)「ズンゴウ(ヨシノボリのことだそうです)」「アユカケ」「イワナ」「さかやのむすめ」「アケビ」「地バチ」など、果ては「坂ノ上の橋を渡ってしばらく歩いてある道」まで出て、このように多様でオリジナリティのある回答に、脱帽でした。

その後は、私が見つけた藁科川のステキを紹介(絵地図プロジェクトの進捗状況)して、1秒間で世界がどのように移り変わっているかなどをお伝えし、野外実習として実際に藁科川の川べりに行って、パックテストや生きもの調査など、川の環境調べの“いろは”を体験しました。

パックテストの結果は、平均しておおよそ3.5。短時間の間でしたが採取された主な生物は、カワムツ、アブラハヤ、(タカハヤ)、(シマ)ヨシノボリ、コオニヤンマのヤゴ、カワトンボのヤゴ、ヤゴsp、カワゲラsp、カワニナ、ツチガエルなどでした。

前日の降水でやや増水していたものの、調査場所は渓流環境に関わらず、少し汚れもあるかもしれないという判定結果に、今後一層の調査が待たれるところです。

生徒数は8名と少ないながらも積極的にプログラムに参加してくれた皆さんに感謝!その真剣な取り組みは、まさに次世代のエースたちでした。

やってきましたジョウビタキ

2010年10月24日 | 自然&生き物


窓を開けると、「ヒッヒッ・カッカッ」の一年ぶりの懐かしい声が耳に飛び込みました。ジョウビタキです。
オレンジのお腹と羽根の白い斑紋が特徴で、このヒッヒッという泣き声が“火炊き=ヒタキ”に通じるのがヒタキ科の由来とか・・・・。尻尾を左右にチロチロする動作がかわゆく、メスはもっと地味な色ではありますが、くりくりとした目がとても愛らしい鳥です。
ジョウビタキに続いて、どんな冬鳥が入ってくるのか楽しみ。



先日、大間の方へ車を走らせていると、長い尻尾を張りながら、目の間を優雅にこの鳥が横切っていきました。ヤマドリです。ここ静岡県では、準絶滅危惧種に指定されているとのこと。
そんな優雅に横切ってないで早く早く!



あいたたたっ、歯いたたたっ

2010年10月23日 | 祠・石碑
いろんな痛みがありますが、歯の痛みは耐え難いものの一つ。
もちろんお医者さんにかかるのが、一番良い方法に違いありませんが、昔はそんな手立てもなく、あの切り裂くような歯の痛みにはホトホト困ったことでしょう。

そんな歯の痛みから人を救うお地蔵さんは、以前このブログでも紹介しました「あごなし地蔵」の他にも、流域各地で残されています。皆さんのそばにもありませんか?
写真のお地蔵さんもその一人で、藁科川中流にある富沢の切り通しのところに祀られた「歯いた地蔵」です。

本来は弥勒菩薩という種類の石仏で、手を頬にあて瞑想をしている姿をしていて、別に歯の痛みに絶えがたくって手を当てている訳ではないのですが、このポーズが「あいたたたたっ」と痛みに耐えかねてそれを癒すかのように連想されたのでしょう。

ちょうど訪れた時間帯が、夕方の柔らかい日差しがお地蔵さんいっぱいにあたっていて、私には歯の痛みをこらえるというよりは、陽光に気持ちよさそうにウトウトするお姿に見えました。

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「歯いた地蔵」

聚落(集落)がまだ山の中腹に散在していた徳川の末期、この菩薩は山沿いの小高い所に祭られていたが、それは恐らく墓標であったであろう。そしてこの弥勒菩薩は村人達かは「歯いた地蔵」と呼んでいる。明治の中頃にお、今の切り抜きの地に移されて、岩盤を切り開いて、観音像や疣地蔵と並んで祭られた。
どうしてこの菩薩を拝むと歯痛がてきめんにおさまったのか、何がきっかけで、そうした信仰が生まれたのか、そのいわれを話してくれる古老もいまは絶え、聞くすべもないが、昔から今に至るまで歯痛に悩む人が訪れる。子どもの歯痛には親は手のほどこしようがなかったと見えて、藁をもつかむ思いで、この菩薩にすがったのである。一つの暗示が驚くべき力を発揮したことは、の人々の素直な心におうところが多かった。今でも子どもを連れた母親が祈る姿がみられる。
「歯いた地蔵」も、疣を取り除いてくれる疣地蔵も、観音像も、この山村の人々と共に苦楽を共にして生きてきた神々である。

「野山の仏」戸塚孝一.金剛社.1963年

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19℃の川

2010年10月22日 | 行事レポート
秋も深まる10月も下旬。そんな季節感を吹き飛ばすように、今日は元気な南藁科小学校の3年生の皆さんと、飯間出川の観察会へ出掛けました。

夏にも一度お邪魔していましたが、すっかり魚とりの方法も、指導員の名前も覚えてくれていた子ども達は、川に到着するや、夏さながらに川に入り、魚とりを楽しみました。

今回はアユの姿もみられ、成長したカワムツや、橋の下の砂礫部分では大きなカマツカも捕まえることができました。私はこの川で初めてでしたが、ウグイやヌマムツといった魚も観察されました。

橋をくぐって、どんどん先を行く子ども達の後ろ姿を追いましたが、やがて川は山と田んぼの丁度間を流れる場所へ出ると、先頭を走っていた子どもが「わぁっ!」と大声。

何事かと思い駆け寄ると、タヌキかなにかのケモノを見たようです。その後川べりには、イノシシと思われる足跡や、斜面にはケモノ道などが見られ、魚の他にも生き物の気配を感じた観察会となりました。

この出川、湧水に恵まれ一年通して19℃とのこと。今回は水草も適度に繁茂していて、夏よりたくさんの魚が捕まりました。

学校で子ども達とお別れした後は、校長室でお茶を頂きながら、校長先生・担当教諭と今日ご一緒した指導員の間で、自然も文化も豊かな南藁科地区の周辺談義に花が咲きました。やはり餅は餅屋ですね。地区の情報が満載の地図や文献もご紹介いただき、これもまた楽しかったです。

ちなみに南藁科小学校の玄関には、昔の小学校の様子や、特に牧ヶ谷橋の変遷がわかる写真が展示されていて、ちょっとしたギャラリーとなっています。以前、過去の南藁科周辺の写真展が開催されたとの記事を読んで、行ってみたかったなぁと残念!

いつかそれぞれの地域で、また藁科川流域全体で、写真展をやってみたいです。


天高く馬肥ゆる収穫祭

2010年10月21日 | お知らせ
きたる来月21日(日)は、藁科川上流の大川・日向地区で、第11回を数える収穫祭が開催されます。会場は、今年からグリーンに彩られた大川中学校グラウンドで、9時半からのオープン。

きれいな空気とおいしいお水に育まれた地元産品の販売コーナーや、ステージの上での元気なパフォーマンスなど、様々な催しが予定されており、それぞれ着々と準備が進んでおります。

私も地元のお父さん達と協力してブース出展する予定で、小学生からご年配の方まで、地域総動員で恵みの秋を祝うイベントです。

近くには湯ノ島温泉もあります。天高く肥ゆる秋、おいしいものとゆったりした時間を過ごしに、ぜひお出掛けください。

十三夜の盗人

2010年10月20日 | 歴史&文化
知りませんでした、お月見に十五夜の他にも十三夜があるなんて・・・
ということは、お月様を愛でる機会が一度ならず二度あるなんて・・・

調べて見ると、お月見の風習自体はどうやら太古の縄文時代からあったそうですが、十五夜を愛でる仲秋の名月はもともと中国で行われていた行事が伝来してきたもので、むしろ日本独自の伝統的な観月は、十三夜の方であったとのこと。完全な円ではない、このいくらか欠けたところに美意識を感じるのが、なんとも和心っぽいですよね。

そして、昨晩が旧暦9月13日の十三夜。

残念ながら写真のような片欠けの月は、空一面が雲に覆われてしまっていて、その顔を拝むことはできませんでしたが、子ども達にとってお月見といえば、これっ!
以前このブログでも紹介しました「盗人晩」のパート2が開かれました。

『盗人日和』
http://blog.goo.ne.jp/hatya0623/e/f6ba09117a13e61d4b3d4f2dda49864c

夜の七時に近くのお家に集まった子ども達10名と一緒に、お供え物をしてある地区のお家を回りましたが、走るわ、走る子どもたち!

あっという間に地域の中を駆け巡り、袋いっぱいにお菓子などのお供え物をせしめて、ホクホク顔の小さな盗人達でした。

※写真は他のホームページに使用されたいた画像を添付しました

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『月見』

 旧暦八月十五日の仲秋の名月に月見をする。縁側にテーブルをなどを置いて、薄や萩を飾り、供え物として枝豆、里芋、サツマイモ、甘柿、ヘソモチ、酒などを備える。このうちヘソモチというのは、米の粉で作った大小の丸団子を重ねたものである。これを生のまま供え、翌日茹でて食べる。月見に供えるヘソモチという呼称は、県下中西部に広く見られる。ただし、他の地域では丸く平たい団子の中央部を指でへこませて作るのが一般的である。

 月見は旧暦九月十三日にも行う。同じようにヘソモチなどを作って供えるというが、この日をヌスットバン(盗人晩)と称し、かつては子どもたちが各戸の供え物を盗んで回った。「月の出ている時には、盗ってきて良い」などと言われ、供え物が盗まれても怒る人はいなかった。

 『ふる里わら科八社 第三集』には、月見の供え物だけでなく甘柿や梨なども取って回ったが、取ったものはその夜のうちに必ず食べつくさなければならなかったと記されている。

 こうした風習もかつては各地で見られたが、盗むことを戒めるどころか、むしろ知らぬうちに供え物が無くなることを縁起の良いことと解していたようである。

 なお日向では月見に供えた枝豆の殻を乾燥させて保管しておき、翌年の元旦に焚き付けとして利用するという風習がある。

~『日向の七草祭』(静岡市教育委員会.平成18年)から引用~
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舟山のゴロザ

2010年10月19日 | 言い伝え&伝承
藁科川と安倍川が合流する地点には、川の中に木枯しの森のようなこんもりと木々が茂った中州があります。

ここを「舟山」と呼んでいますが、この森には一匹のそれはそれはいたずらなキツネが住んでいるのをご存知ですか?

このいたずらキツネ、名前を五郎座衛門と言い、なにやら天下の大泥棒のような名前がついていますが、そのゴロザの抱腹絶倒の活躍ぶりは、藁科の里の民話として、小野田護さんが「ゴロザエモン 静岡のむかしばなし」の中にいきいきと描き出しています。

その小野田さんの作品のオリジナルの一つともなる「静岡県伝説昔話集」の一節を引用します。

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『船山の五郎左衛門狐』

安倍川と藁科川との合流点に船山がある。この山に五郎左衛門という狐がいた。南藁科山牧谷の修道院という寺の和尚さんが、その五郎左衛門に「お前は人を化かすに、どうして化かすか」と聞くと「おれか、七かてんの法だ」と答えた。すると和尚は「そうか、俺なら八かてんで化かす」と言った。そして「八かてんというのは、かわむこをどっさりかぶって人を化かすのだ:」と教えて五郎左衛門にやらせた。五郎左衛門はその通りにしたが、和尚にだまされて百姓に追っかけられた。

「静岡県伝説昔話集」

※この五郎左衛門狐に、膳や碗が入用な時に頼むと貸してくれた。お返しには、油揚げをその器物の上に乗せて、借りた時と同様に門口にならべて置くのだという。

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美しいカワセミ科三種の豪華競演

2010年10月18日 | 自然&生き物
今日、藁科川上流の日向地区付近をバイクで走っていると、JA日向の前の河道の中の岩に、静岡市の鳥でもある、スズメぐらいの大きさで、背中に青い線が入りお腹がオレンジ色のカワセミという鳥がとまっていました。この辺りでは初めて見かけたものですから、バイクを止めて、しばらく観察していると、やがで右岸側の日陰島の方へ、チィーという甲高い声を残して一直線に飛び去っていきました。



この辺り、地元ではジャンジャン橋と呼ばれている吊り橋から、出逢いの吊り橋までの間、距離にして300メートルくらいですが、この区間では、ハトぐらい大きさで白黒模様のヤマセミの姿を時々見かけます。また、夏には右岸側から流れ込む小さな沢の奥の方から、体全体が緋色でヒョロロロロロと美声でさえずるアカショウビンの鳴き声を耳にしました。



いずれもブッポウソウ目カワセミ科に属し、青・白黒・赤と目立つ色と特徴的な姿から、清流を象徴する鳥として人気の高い鳥類ですが、この三種が一気にこの区間で見られるなんて、なんとも贅沢なことです。



ホクホク顔でのバイクでの帰り道となりました。


(※写真はインターネットで検索させていただいた画像を掲載)

日向白髭神社の秋の祭礼

2010年10月17日 | 歴史&文化
先週の坂ノ上・諸子沢でのお祭りに引き続き、藁科川上流の日向地区の白髭神社で、秋の祭礼が開催されました。

地元日向の方々が、神社の拝殿の中に小さい子からお年寄りまで所狭しと集まって、祝詞や舞が奉納されるのを見守ります。式の後には直会となってお酒やおかずが振舞われる宴となり、最後にはお餅まきがおこなわれて散会となりました。

穏やかなお囃子のメロディーが奏でられる中で、恵みの秋を祝いながら、集落の多くの人が直接顔をあわせて、世間話やお互いの境遇を語りあい交流する有難さを感じるひと時でした。

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『白髭神社祭礼』

 日向の氏神である白髭神社の祭礼は、春と秋の年二回行われている。現在、春は四月の第一日曜日を祭日としているが、もとは四月二日であった。また秋も、もとは十月二十一日が祭日であったが、現行では近くの休日に実施するよう改められている。

 祭り当番は、前日から幟立てや拝殿の飾りつけなど祭りの準備をする。拝殿の天井には注連縄を巡らした五色の色紙で作ったシデを飾り付ける。この飾り付けの下で神楽を奉納するのである。また事前に海岸へ行き、ハマイシ(浜石)を拾いシオバナ(潮花)を汲んで来る。

 祭り当日は午前十時から拝殿にて神事が執行される。現在の司祭者は、川根本町在住の神職である。古くは地元の神職内野家が司祭していたが、明治中期に跡継ぎが途絶えてからは、八草の高橋家が担当していた。佐藤助廣さん(大正十五年生)が若い頃には、八草から神主が歩いてやってきて、祭りの頭屋(当番組の代表)の家に一泊し、祭りを執行していたという。

 さて祭りの式次第は、修祓、一拝、開扉、献饌、祝詞奏上、神楽奉納、玉串奉奠、撤饌、閉扉、一拝、直会の順である。神主の祝詞奏上のあと神楽が奉納されるが、現行では春に順の舞、秋に弓の舞を舞っている。そのほか春のお祭りでは、拝殿の外に設けられた湯立釜の前で、湯立神事が行われる。今では湯釜の前で祝詞を奏上するのみとなっているが、かつては湯立が終わると御座返しという神楽舞の奉納もあった。この舞は湯立に使った榊の葉と小豆の粒くらいの浜石と米を盆にのせて、「あき、あられ、ゆきやこおりと、へだつれど、おつれば同じ谷川の水」と舞人が唱えながら、盆にのせたものを四方へ撒くという舞であった。その他にも三宝の舞、恵比寿・大黒の舞などが伝承されていたというが、現在は途絶えている。

 神事終了後に直会が催される。昔は神楽を習得したい若者にとって、この無礼講の直会が、熟練者から指導を仰ぎ、技を磨く絶好の機会でもあった。現在は直会の締めくくりに拝殿での餅撒きが行われており、これを楽しみに集まってきた老若男女で拝殿内は大いに賑わう。

 なお、祭りを盛り上げるため、一時期、子どもの神輿のお渡りもあった。

~『日向の七草祭』(静岡市教育委員会.平成18年)から部分的に抜粋し一部構成~

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