もとの姿もわからなくなってしまった向敷地の土手の法面にある小さな祠。一体は首なしの地蔵、もう一体は、五輪塔のように積み重なっていたのでしょうか?土手の上の道を、自転車に乗った高校生達が滑るように帰っていきます
静岡市葵区坂ノ上の南地区の野仏。道から庭の隅に立つ背中を見つけ、丁度玄関前に立たれていたご主人に話しかけ、正面から見せていただきました。胴体は川なの中から発見されえたそうで、頭を名古屋の石工につけてもらったとのことです。以前は小さなお堂の中にまつられていたそうです
静岡市には、この新間の大井神社の他に、水見色、井川、田代、小河内の五か所にあるそうで、創建された年代ははっきりしないそうです。
ただし新間ふるさと会発行の「しんま」によると、ある郷土史家の説として「1582年、井川の田代の武将だった安倍大蔵(アベノオウクラ)が、水見色の殿様だった朝比奈縫右衛門を攻め滅ぼし、水見色を支配しました。その時に、田代から大井神社を移し祀ったのではないだろうか?」とのこと。
現在でも、新間の一色と水見色には親戚関係の人が多いそうです。
ただし新間ふるさと会発行の「しんま」によると、ある郷土史家の説として「1582年、井川の田代の武将だった安倍大蔵(アベノオウクラ)が、水見色の殿様だった朝比奈縫右衛門を攻め滅ぼし、水見色を支配しました。その時に、田代から大井神社を移し祀ったのではないだろうか?」とのこと。
現在でも、新間の一色と水見色には親戚関係の人が多いそうです。
藁科川上流の清沢地区の久能尾のガソリンスダンとを、笹間に抜ける黒俣方面に入り、大イチョウのある坂野を越えた先、清笹峠より手前の道端に立派なお地蔵さんを見つけました。久しぶりに新しい野仏の発見で嬉しくなりました。
地元の方に大事にされているのでしょう、すましたお顔が印象的
地元の方に大事にされているのでしょう、すましたお顔が印象的
大川地区坂ノ上にある耳地蔵について、「野山の仏」(戸塚孝一、金剛社、1963)から再掲します。
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『耳地蔵』
大川村坂ノ上は戸数百五十一を擁する村でも一番大きいである。ここは昔藁科川をはさんで、東西二つに分かれており、その各々に立派な寺が山沿いに建てられていたが、西の寺は現在薬師堂のある地点にあったし、東の寺は川の東の山腹の高地にあった。後者はその後比較的平坦な場所に移された。この東西二つの寺もいつの間にか廃寺となり、跡形もなく失せてしまって、古老の言い伝えを信じるより他なく、ただ墓地に残る墓標の存在によって、寺院のあったことを察するよりすべはない。村人の言い伝えを辿ると、尼寺であった東の寺はどういう訳か川を渡った西に属する今の富田新一さんの宅地内の川岸の地に移されたといわれる。昔、寺院の境内にあった地蔵尊と無縁仏塔が、道路ができて、道路沿いの今の地に移されて祭られて現在に至っている。
この地蔵尊は約六五銭センチの坐像で、がっちりとしていていかにも頼もしそうな立派な姿であり、首に赤い小さなよだけかけをかけているかっこうは、ユーモラスであり、また、首におおきなおはたしの穴石をいくつもさげているところは、いかに肩幅が広いかっぷくのよい地蔵尊でも、「私はすこしまいったよ。」といいたげな表情である。野ざらしで祭られていた頃は、よく青年たちが、この思い地蔵尊の左右の耳の所に両手をあてて「江戸を見せてあげよう。」といって持ち上げて、力くらべをして遊んだものである。地蔵尊は子供らの遊び相手をつとめたとみえて、鼻も、目も、耳もほどんとかけて写真にみられる顔容となっている。昔はばくちうちが、焦眉に勝つために、この地蔵尊に願をかけたといわれるが、それよりも耳の病気をなおして下さる地蔵尊として古くから知られている。おはたしの穴石の数と大きさが、そのご利益のあらたかなることを物語っているようである。坂ノ上の小字の宇山には、発電所ができて用水路があるので、子供がここに落ちないようにお守りしてもらうために地蔵尊が建てられたし、南では子供の不幸を見た親たちが子供らのすこやかな生育を祈って子安地蔵が以前から祭られている。毎年九月一日には坂ノ上はあげて一日休み、この三つの地蔵尊にお参りをするのである。
地蔵さまの信仰は、僻地にゆけばゆくほどあつい。この世の幸せを、なんでもかなえて下さる菩薩である信ぜられ、人間以上の力に頼って苦しみから逃れ、身の安全を願う人々の心が地蔵尊に向けられる。地蔵尊は現世の幸福を私たちに約束され、願いをかなえて下さる。それは地蔵尊は十福を持ち、十益を秘め、全知全能の大吉仏であり、一定の住所を持たず地獄、餓鬼、畜生の世界に苦しんでいる人間と共に暮らして、いつでも私たちを救って下さる菩薩であるからで、地蔵信仰は今日まで絶えないのである。
(一九六二.六.二四)
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『耳地蔵』
大川村坂ノ上は戸数百五十一を擁する村でも一番大きいである。ここは昔藁科川をはさんで、東西二つに分かれており、その各々に立派な寺が山沿いに建てられていたが、西の寺は現在薬師堂のある地点にあったし、東の寺は川の東の山腹の高地にあった。後者はその後比較的平坦な場所に移された。この東西二つの寺もいつの間にか廃寺となり、跡形もなく失せてしまって、古老の言い伝えを信じるより他なく、ただ墓地に残る墓標の存在によって、寺院のあったことを察するよりすべはない。村人の言い伝えを辿ると、尼寺であった東の寺はどういう訳か川を渡った西に属する今の富田新一さんの宅地内の川岸の地に移されたといわれる。昔、寺院の境内にあった地蔵尊と無縁仏塔が、道路ができて、道路沿いの今の地に移されて祭られて現在に至っている。
この地蔵尊は約六五銭センチの坐像で、がっちりとしていていかにも頼もしそうな立派な姿であり、首に赤い小さなよだけかけをかけているかっこうは、ユーモラスであり、また、首におおきなおはたしの穴石をいくつもさげているところは、いかに肩幅が広いかっぷくのよい地蔵尊でも、「私はすこしまいったよ。」といいたげな表情である。野ざらしで祭られていた頃は、よく青年たちが、この思い地蔵尊の左右の耳の所に両手をあてて「江戸を見せてあげよう。」といって持ち上げて、力くらべをして遊んだものである。地蔵尊は子供らの遊び相手をつとめたとみえて、鼻も、目も、耳もほどんとかけて写真にみられる顔容となっている。昔はばくちうちが、焦眉に勝つために、この地蔵尊に願をかけたといわれるが、それよりも耳の病気をなおして下さる地蔵尊として古くから知られている。おはたしの穴石の数と大きさが、そのご利益のあらたかなることを物語っているようである。坂ノ上の小字の宇山には、発電所ができて用水路があるので、子供がここに落ちないようにお守りしてもらうために地蔵尊が建てられたし、南では子供の不幸を見た親たちが子供らのすこやかな生育を祈って子安地蔵が以前から祭られている。毎年九月一日には坂ノ上はあげて一日休み、この三つの地蔵尊にお参りをするのである。
地蔵さまの信仰は、僻地にゆけばゆくほどあつい。この世の幸せを、なんでもかなえて下さる菩薩である信ぜられ、人間以上の力に頼って苦しみから逃れ、身の安全を願う人々の心が地蔵尊に向けられる。地蔵尊は現世の幸福を私たちに約束され、願いをかなえて下さる。それは地蔵尊は十福を持ち、十益を秘め、全知全能の大吉仏であり、一定の住所を持たず地獄、餓鬼、畜生の世界に苦しんでいる人間と共に暮らして、いつでも私たちを救って下さる菩薩であるからで、地蔵信仰は今日まで絶えないのである。
(一九六二.六.二四)
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藁科川の上流、諸子沢秋の祭礼で訪れた白髭神社の境内で、103ヶ所目の祠スポットを発見しました!お地蔵さまが二体あり、馬頭観音です。
二体の前の方にある道祖神は、頭に上の大きな馬の形がはっきりと現れています。
それに反して、後ろに控えめにあったお地蔵さんの頭の馬の形はユーモラス(^_^)馬というかタヌキというか・・・
けれどもその狸頭観音(失礼!)の右側には“享保”の年号が刻まれています。
享保といえばあの徳川吉宗さんが活躍した1700年前半、今から丁度300年前ぐらいのものです。
こんな小さな祠が、簡単に時空を超えてしまうから、すごいです大川。
二体の前の方にある道祖神は、頭に上の大きな馬の形がはっきりと現れています。
それに反して、後ろに控えめにあったお地蔵さんの頭の馬の形はユーモラス(^_^)馬というかタヌキというか・・・
けれどもその狸頭観音(失礼!)の右側には“享保”の年号が刻まれています。
享保といえばあの徳川吉宗さんが活躍した1700年前半、今から丁度300年前ぐらいのものです。
こんな小さな祠が、簡単に時空を超えてしまうから、すごいです大川。
素敵な帽子につぶらな瞳。
こんな愛らしいお地蔵さまに出会ったら、とろけてしまいそうになりませんか?
けれども祠の周りには穴の空いた大きなお果しの石がたっくさん!かなりのご利益があったのでしょうね。
藁科川流域、南藁科地区にある法城寺境内の耳地蔵さんです。
こんな愛らしいお地蔵さまに出会ったら、とろけてしまいそうになりませんか?
けれども祠の周りには穴の空いた大きなお果しの石がたっくさん!かなりのご利益があったのでしょうね。
藁科川流域、南藁科地区にある法城寺境内の耳地蔵さんです。
川除け地蔵に関する文献を抜粋する。
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川除け地蔵
安倍・藁科川の流域に祀られる地蔵は数多い。どの小字にも、一体や二体の石地蔵を見かけぬ所はまずないし、今もなお里人のあつい信仰を集めているものもある。
さまざまな由来とさまざまな名前を冠した多くの地蔵の中で、それぞれの村の川べりに立つ「川除け地蔵」もまた、われわれの生活の安全を守るべく重い役割担わされていた。川のもたらす恵みの大きさに感謝しっつも、一方では、いたずらに命を奪い人々を苦しめる川の恐ろしさは、古く水を求めて住まいしてきた者の宿命として甘受せらるべきものだった。
・・・(中略)・・・
川の安全を守るべき川除け地蔵が、川の犠牲になって遂にはその行方も知れなくなったとの言い伝えには、安倍・藁科の川沿いの村では幾らも聞かれることである。
藁科川中流部、小瀬戸のの堤防に祀られる地蔵もまた、大正三年の大水害の際、ここで決壊しようとする堤防を守りながらついに堤防とともに崩れ落ちた。現在の地蔵は、そののち土地の人たちが供養のために新しく建立したものである。この時流された地蔵には、昔幼児がその下敷きになって死んだ不幸な事故があり、地蔵はその償いのため、ある年の水害の夜、人間ぐらいの大きさになって身をもって激流を防いでいる、その姿を見た人があるとの伝説が付与されていた。
こうした例に見られるような地蔵信仰と子供のかかわりもまた、わが国では中世以後に広められた観念で、地蔵は子供を守る仏だとまで信じられるようになった。安倍・藁科の流域に散在する川除け地蔵には、子供を川の事故から守るため、あるいは不幸にして幼い命を失った子らの霊を慰めるために祀られたものも多い。
同じく藁科川上流部大川地区坂ノ上には、今、岸辺に沿って三体の川除け地蔵が立てられている。
川が集落を二分する形の地勢もあって、昔から子供の水死事故が多かったと伝えられるこの地区で、昨年もまた一人の小学生が淵に転落して命を奪われた。やりばのない親兄弟の悲しみは、地蔵の供養をしただけでははれるものではないかもしれぬ。それでもなお地蔵にすがり、さまざまな願いや怨念をまで地蔵に託してきた人々の心根は、これもまた人間感情の自然のありようと言うべきなのだろう。
・・・(後略)・・・
(p31-33)
『安倍川ーその風土と文化ー』(富山昭・中村羊一郎.静岡新聞社.昭和55年)
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川除け地蔵
安倍・藁科川の流域に祀られる地蔵は数多い。どの小字にも、一体や二体の石地蔵を見かけぬ所はまずないし、今もなお里人のあつい信仰を集めているものもある。
さまざまな由来とさまざまな名前を冠した多くの地蔵の中で、それぞれの村の川べりに立つ「川除け地蔵」もまた、われわれの生活の安全を守るべく重い役割担わされていた。川のもたらす恵みの大きさに感謝しっつも、一方では、いたずらに命を奪い人々を苦しめる川の恐ろしさは、古く水を求めて住まいしてきた者の宿命として甘受せらるべきものだった。
・・・(中略)・・・
川の安全を守るべき川除け地蔵が、川の犠牲になって遂にはその行方も知れなくなったとの言い伝えには、安倍・藁科の川沿いの村では幾らも聞かれることである。
藁科川中流部、小瀬戸のの堤防に祀られる地蔵もまた、大正三年の大水害の際、ここで決壊しようとする堤防を守りながらついに堤防とともに崩れ落ちた。現在の地蔵は、そののち土地の人たちが供養のために新しく建立したものである。この時流された地蔵には、昔幼児がその下敷きになって死んだ不幸な事故があり、地蔵はその償いのため、ある年の水害の夜、人間ぐらいの大きさになって身をもって激流を防いでいる、その姿を見た人があるとの伝説が付与されていた。
こうした例に見られるような地蔵信仰と子供のかかわりもまた、わが国では中世以後に広められた観念で、地蔵は子供を守る仏だとまで信じられるようになった。安倍・藁科の流域に散在する川除け地蔵には、子供を川の事故から守るため、あるいは不幸にして幼い命を失った子らの霊を慰めるために祀られたものも多い。
同じく藁科川上流部大川地区坂ノ上には、今、岸辺に沿って三体の川除け地蔵が立てられている。
川が集落を二分する形の地勢もあって、昔から子供の水死事故が多かったと伝えられるこの地区で、昨年もまた一人の小学生が淵に転落して命を奪われた。やりばのない親兄弟の悲しみは、地蔵の供養をしただけでははれるものではないかもしれぬ。それでもなお地蔵にすがり、さまざまな願いや怨念をまで地蔵に託してきた人々の心根は、これもまた人間感情の自然のありようと言うべきなのだろう。
・・・(後略)・・・
(p31-33)
『安倍川ーその風土と文化ー』(富山昭・中村羊一郎.静岡新聞社.昭和55年)
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といったら言い過ぎかもしれませんが、個人の敷地内にあるその祠の姿を横から遠目で発見して以来、一度拝ませてもらいたいものだと、その付近を通過する度に思っていました。
そうこしている内に、偶然に回覧で回ってきた「ばんだ」という大川地区の高齢者生活福祉センター通信に、この祠の中に納められているお地蔵さまについてのエピソートが紹介されており、どこか浮ついていた心も定まって、今回思い切って、持ち主の湯本さんの玄関先にたち尋ねてみることにしました。
結果は二つ返事で「いいですよ」とのご主人のにこやかなお返事!
ようやく対面がかないました(^0^)
場所は藁科川上流の大川地区の湯ノ島温泉の前。
このお地蔵さんには以下のような言い伝えが残されており、以来大事にされているのでしょう。埋もれるほどの、赤い大きな帽子に立派なヨダレかけをかけていらっしゃいました。
横には穴の空いた大きなお果たしの石がごろごろと転がっていました。
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『湯本家の地蔵』
江戸~明治にかけて、他の場所に移されたことがある(理由は不明)。村人の夢枕に立ったお地蔵さんが「私は元の場所に戻りたい」と訴えたそうで、元の場所(湯本家の敷地内)に帰ってきたそうです。湯本家から三島に嫁いだ人が、不幸が続いたことから易者に見てもらったところ、「あなたの実家の敷地内にあるお地蔵さんが、『私の前掛けもなければ帽子もない』と訴えている」と言われ、身のまわりのものを揃え、お地蔵さんの為に祠もこさえたとの言い伝えがあるそうです。現在は3/21の玄国祭りの時に、このお地蔵さんを供養しています。
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引用:「わんだ23年春号」(大川高齢者生活福祉センター広報紙、2011年4月)
そうこしている内に、偶然に回覧で回ってきた「ばんだ」という大川地区の高齢者生活福祉センター通信に、この祠の中に納められているお地蔵さまについてのエピソートが紹介されており、どこか浮ついていた心も定まって、今回思い切って、持ち主の湯本さんの玄関先にたち尋ねてみることにしました。
結果は二つ返事で「いいですよ」とのご主人のにこやかなお返事!
ようやく対面がかないました(^0^)
場所は藁科川上流の大川地区の湯ノ島温泉の前。
このお地蔵さんには以下のような言い伝えが残されており、以来大事にされているのでしょう。埋もれるほどの、赤い大きな帽子に立派なヨダレかけをかけていらっしゃいました。
横には穴の空いた大きなお果たしの石がごろごろと転がっていました。
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『湯本家の地蔵』
江戸~明治にかけて、他の場所に移されたことがある(理由は不明)。村人の夢枕に立ったお地蔵さんが「私は元の場所に戻りたい」と訴えたそうで、元の場所(湯本家の敷地内)に帰ってきたそうです。湯本家から三島に嫁いだ人が、不幸が続いたことから易者に見てもらったところ、「あなたの実家の敷地内にあるお地蔵さんが、『私の前掛けもなければ帽子もない』と訴えている」と言われ、身のまわりのものを揃え、お地蔵さんの為に祠もこさえたとの言い伝えがあるそうです。現在は3/21の玄国祭りの時に、このお地蔵さんを供養しています。
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引用:「わんだ23年春号」(大川高齢者生活福祉センター広報紙、2011年4月)
遠目でずっとあれはなんだろう?と思っていました。田んぼの真ん中に、どしんと立った石。藁科川支流の黒俣川沿いにあるきよさわ里の駅さんより先の県道210号線との分岐のところにある田んぼの中にこの石があり、最初はちょっといびつな形をした石碑かなと思っていました。はじめて近づいてみると、どうやら灯篭のよう。調べてみると、昔田んぼの害虫だった蛾などを灯りをともすことでおびき寄せるためにあったのだとか。今はもう使われている様子はありませんでしたが、こうして残してあることに地元の方の心遣いを感じました。