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新間の大井神社 社物

2014年10月02日 | 聖一国師
新間ふるさと会発行の「しんま」によると、平成11年10月に神社庁職員と静岡市の郷土史家が藁科地区の神社社物の調査をしたことがあったそうです。

その時に、この新間の大井神社からは、棟札が大小7枚と、袱紗(ふくさ)に入った手作りの弓矢と木製の刀剣が出てきました。

棟札の中で一番古いものには「寛延三年午六月廿日納」と記してあったそうで、少なくとも1750年からはこの地に大井神社があったことは確かなことのようです。

『聖一国師年譜』~修行時代①~

2012年01月29日 | 聖一国師
藁科川上流・大川地区の栃沢に生誕した聖一国師の生涯を記した「東福寺開山聖一国師年譜」の現代文訳を記録します。

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(二)修業時代

○建永元年(一二○六)丙寅(ひのえとら)
 円尓五歳になる。母はかつて久能寺の堯弁大徳師の言われたことを思い出して、円尓を連れて久能山に登り、円尓を堯弁に預けることにした。円尓は『俱舎頌』*1を与えられたが、これを全部暗唱できるまでに読んだ。

○承元元年(一二○七)丁卯(ひのとう)

○同 二年(一二○八)戊辰(つちのえたつ)
 円尓七歳になる。『俱舎円睴頌疏』*2を習った。

○同 三年(一二○九)己巳(つちのとみ)
○同 四年(一二一○)庚午(かのえうま)
 円尓九歳になる。『俱舎論普光疏』*3を読破した。
○順徳天皇建暦元年(一二一一)辛未(かのとひつじ)
○同     二年(一二一二)壬申(みずのえさる)
○建保元年(一二一三)癸酉(みずのととり)
 円尓十二歳になる。法華の妙玄(玄義)を習う。
○同 二年(一二一四)甲戌(きのえいぬ)
○同 三年(一二一五)乙亥(きのとい)
○同 四年(一二一六)丙子(ひのえね)
 円尓十五歳になる。ある日、止観*4の講座に席を連ねた時、古い四諦*5の外別を立て法性*6という句に至って、講師の僧侶が上手に説明できなくて難渋していたので、円尓はその句の解釈を滔々とやった。しかも、言葉の意義が明快・整然としていた。講師は感心して、「この句の解釈は、昔から賢者も苦心したところである。小僧の明快な説明は生まれながらにして身につけたと思われるほどである。私は大変はずかしく思う」と言った。

○同 五年(一二一八)戊寅(つちのえとら)
 円尓十六歳になる。法華文句・摩訶止観*7の始めから終りまですべてをよく調べた。
○承久元年(一二一九)己卯(つちのとう)
 円尓十八歳になる。名僧智証大師(円尓)の遺蹟を慕って、近江の園城寺*8にのぼり大本山に入り仏門に入るための儀式を行い髪を剃る。十月二十日南都(奈良)の東大寺に赴き、戒壇にのぼり戒法を受けて正規の出家となった。
○同 二年(一二二○)庚辰(かのえたつ)
 円尓十九歳となる。京都に行って孔老の教え(儒学)を学んだ。外部の人達からのはずかしめをうけないためであった。


*1『俱舎頌』(くしゃのじゅ)
 梵語のkosa gahaの訳。世親の俱舎論からでた小乗仏教の一派ー俱舎宗の仏典、偈、仏徳、教理を説いている。
*2『俱舎円睴頌疏』(くしゃえんきのしゅそ)
 俱舎論の中心となる頌疏(頌の注釈書)
*3『俱舎論普光疏』(くしゃろんふこうのしょ)
三十巻。世親の著。玄奘の訳、詳しくは阿毘達磨俱舎論。小乗仏教の教理の集大成である。「大毘婆沙論」の綱要書。一切諸法を五位七十五法に分け、迷いと悟りについて詳細に論ずる。仏教の基礎的教学書を唐の僧玄奘が大小乗経律論を訳して注釈したもの。「普光之に預る。時に大乗光と号す」とある。
*4止観(しかん)
 多くの雑念を払い捨てて宇宙の真理を悟ること。止は雑念をとどめて起こらないようにすること。観は真理を悟ること。
*5四諦(したい)
迷いと悟りの因果を説明する四つの真理。苦(現世の苦悩)、集(肉体・財産への執着)、滅(安楽の境地)、道(実践修行)。四聖諦(ししょうたい)の略。
*6法性(ほっしょう)
 一切存在の真実の本性、真如・実相・法界などと同義に用いられる。
*7法華文句・摩訶止観(ほっけもんく・まかしかん)
 法華経の文字句・天台宗の観心を説き修行の根拠となるもの。
*8園城寺(えんじょうじ)
 三井寺、天台宗寺門派総本山。聖一国師十八歳のときここで剃髪し、出家した。

引用:『聖一国師年譜』石山幸喜編著.羽衣出版.平成十四年

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『聖一国師年譜』~誕生と幼年時代2~

2012年01月28日 | 聖一国師
藁科川上流・大川地区の栃沢に生誕した聖一国師の生涯を記した「東福寺開山聖一国師年譜」の現代文訳を記録します。

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○土御門天皇 建仁二年(一二〇二)壬戌(みずのえいぬ)

 円尓の血族は平氏で、駿州安倍郡藁科の人である。正月十三日の夜。
円尓の母(税氏)は、手を挙げて明星(明けの明星)の光を採って、これを呑み込もうとする夢を見て子(円尓)を孕んだ。身ごもったことについては何の心配もしなかった。ぼんやりとして自分を忘れている時、光に乗って青衣をまとった天女があらわれ、母に付き添った。母はある日、久能山に登り堯弁大徳*1にお目にかかった。堯弁の居室の壁に画像がかけられてあった。像の顔形はあたかも母に付き添う天女のようであった。母は堯弁に聞いた。「これは何の神様ですか」と。堯弁は「これは大弁財天女である」と答えた。「この神様は仏法を守らせ、衆生に御利益を与え、大きな願いごとを叶えてくれるのです」と言った。
 母は申し上げた。「私はいま身重の身体になっております。この神様はわたしをお守り下さっているのですね」。堯弁は「おそらくは、生まれてくる子は賢い子でありましょう。もし果してそうであったなら、その子をそのまま俗世間に置かないようにしなさい」と言った。
 円尓が生まれようとするとき、母の胎内から声が聞こえた。十月十五日の暁のころに生まれた。生まれたその時、めだたい徴の純白の雪が庭をおおい、金色に輝く朝の光が産室にみなぎった。

○建仁三年(一二〇三)癸亥(みずのとい)
 円尓二歳になる。人々が話をしている内容を聞き容れて、その是非を説明した。人の顔色を見て、人には悲しいこととうれしいことがあると知る。その冬は大雪であった。円尓は降り積もった雪を指さして母に聞いた。「これは何ですか」と。母は答えた。「これは雪というものですよ」と。円尓は「私が生まれた時にもこの雪が降ったのですね」と言った。

○元久元年(一二〇四)甲子(きのえね)
○同(一二〇五)乙丑(きのとうし)

*1 堯弁大徳(ぎょうべんだいとく)
  久能寺の学僧

引用:『聖一国師年譜』石山幸喜編著.羽衣出版.平成十四年

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『聖一国師年譜』~誕生と幼年時代1~

2012年01月27日 | 聖一国師
藁科川上流・大川地区の栃沢に生誕した聖一国師の生涯を記した「東福寺開山聖一国師年譜」の現代文訳を記録します。

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東福寺開山聖一国師年譜

前住の太宰府崇福寺の小師比丘円心が謹んで編さんした。
前住の彗日山東福禅寺の遠孫比丘方秀が校正した。

(一)聖一国師の誕生と幼年時代
 聖一国師は字は円尓(圓爾)といい、一生この字を用いた。若い頃、中国の宋に留学し、径山*1に行って無凖師範*2の教えを受けていた。仏鑑(無凖)は円尓を弟子と呼ばないで、尓老と呼んだ。円尓の人格は思いやりがあり、人を愛する広い心の持ち主であった。若い修行僧に対しての呼び方も気安く、「おれ・おまえ」と呼び合っていた。修行に関わる好期は逃さず、自らすすんで修学・修業を行い、決してなおざりにしなかった。無凖師範も同様に、決して妥協することなく、厳しく突き放す態度をとるだけであった。性と相*3に関する諸徳について円尓が仏鑑(無凖)のもとに来て「別伝*4宗旨*5を選びたい」と言ったとき、無凖はまず、その宗旨の疑問としている点を提示して、問いを出した。問いに対して容易に答えられたときは、即座に次の難問を提示して、きびしく修行するように言い、答えられないときは、説明しながら言った。「私もいまだ仏法・仏の教えを上手に説明できません。ひたする仏法を修学したいものである」と。このような教え方をしなければ、受講する僧たちは人の悪口を言い、禅宗はいつまでたっても興隆しなかったであろう。円尓はかつて道理*6を授けるため、修行僧の指導法を向上させるために三宗旨*7を論じた。済北の錬公(虎関師錬)は言った。「建久年間に西明庵(栄西)が黄竜一派を導いたのがその始まりである。建長年間に隆蘭渓(道隆)*8が鎌倉で三宗*9を唱えるようになったが、いまだに京都まで行き渡っていない。慧日(円尓)の立派な活動を朝廷の知るところとなり、京都をはじめ各地に広く行き渡るように教化*10して、誰からも辱めを受けないように正しい教えをして、教義の綱領を整えて禅宗の綱領を提示した。まさしく、祖道の時宜を得るものである」と。ああ、錬公(虎関師錬)もまたこの時期を知っていたのであろう。正和の帝(花園天皇)は後日に、聖一国師と諡*11した。この事は語録にあり、世の中で使われた。

*1 径山(きんざん)
 径山寺。中国五山の一つ。浙江省臨安県天目山の北東峰にある。八世紀中頃、法鉄の開創、禅の道場として栄えた。興聖万寿禅寺。
*2 無凖師範(ぶじゅんしはん)
 無凖禅師(一一七七~一二四九)名は師範。聖一国師の大恩師。宋国蜀の梓潼の人。姓は雍氏。拙庵徳光らに参じた後、破庵祖先に随従しその法を嗣いだ。
*3 性と相(しょうとそう)
 性相(しょうぞう)事物の本体(性)と現象的性質(相)。唯識説では円成実性の心理と依他起性の諸法。唯識と俱舎との教学。性相学。
*4 別伝(べつでん)
 一人または一事に関する逸事・奇聞の終始を小説的に書いた作品。特別の伝授、教外(きょうげ)別伝の略ー禅宗で仏の悟りは経文に説かれるのではなく、心から心に直接伝えられることをいう。→不立(ふりつ)文字。
*5 宗旨(しゅうし)
 その宗教の主意・教義の中心になっているもの。同一宗教の中での分派・主義・主張・主な意味・主旨。
*6 道理(どうり)
 正しい仏教の考え方。
*7 三宗旨
 永明延寿が大乗経のうちに設けたもの。
*8 隆蘭渓(りゅうらんけい)
 蘭渓道隆らんけいどうりゅう(一二一三~一二七八)、鎌倉初期の臨済僧。字は蘭渓。宋の西蜀の人。寛元四年(一二四六)来日。北条時頼の帰依を受け、建長寺の開山となる。一時京都の建仁寺に移ったが、のち鎌倉に帰り北条時宗の帰依を受ける。わが国最初の禅師号である大覚禅師と勅諡。その法流を大覚派(建長門人)という。
*9 三宗
 唯識宗ー法相宗、三論宗ー破相宗、華厳宗・天台宗ー法性宗
*10 教化
 衆生を教え導いて仏道に入らせること。
*11 諡す(おくりなす)
 諡を贈る。

引用:『聖一国師年譜』石山幸喜編著.羽衣出版.平成十四年

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