「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

言葉においてこそ死者と出会う

2015-07-14 18:48:09 | 読むと黄泉
「読む」とは、死者の語りを聴くことである、と感じていたのはアランだけではない。

……

哲学者池田晶子もまた、「読む」とは死者の言葉にふれることだと言った。

彼女にとって哲学を「読む」とは、それを書いたものと語らうことだった。

……

「かつての哲学者たちは、今は皆死んでいる人たちです。

つまり、死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。

……

この世のわれわれの話している言葉は、すべて死者の言葉というふうに見えてきます。

……

生者が死者の言葉を語っているのです。

そうすると、動いていないのは実は言葉の側であって、生きたり死んだりしているのは人間の側だというのが見えてきますね。

言葉はまったく動いていないのです。

あるいはまた、この動かない言葉においてこそ、生きているものは死者と出会うことができる。

死者に語るという不思議な行為をわれわれはします。

それは死者に向けられた言葉、鎮魂としての言葉です。」


「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」若松英輔著 より


死者の声を聴く

2015-07-14 18:02:37 | 読むと黄泉
以下引用

フランスの哲学者アランが、「読む」ことをめぐって、次のような興味深い言葉を残している。

「明らかに、私たちの思想は読書によって形づくられる。

そして読書とは、不滅の存在たちの意見を聞くことなのである」

『感情、情念、表徴』古賀昭一訳

……

この一節で「不滅の存在たち」とアランが呼ぶのは、死者である。

アランにおける死者とは、単に生者の記憶にある存在でないことは、先の一節が明らかに語っている。

たとえ生者が忘れるようなことがあっても死者は存在する。

書物を手に取るまで、私たちはその作者を知らないが死者となった作者は「生きている」。

死者は生者とは異なるかたちだが存在している。

この実感は、アランの哲学の根柢を形成している。

アランにとって「読む」とは、それを書いた者、すなわち死者と会い、その声を聴くことだった。


「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」若松英輔著 より