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【日曜特集】横須賀地方隊伊勢湾展示訓練2010【6】航空部隊訓練展示(2010-08-21)

2017-11-26 20:08:47 | 海上自衛隊 催事
■伊勢湾展示訓練航空訓練
 伊勢湾上を往くヘリコプター搭載護衛艦しらね、ヘリコプター搭載護衛艦ひゅうが、今日では貴重な情景です。

 伊勢湾展示訓練2010、横須賀地方総監高嶋博視海将の隷下に自衛艦隊より第1護衛隊群司令糟井裕之海将補が就き護衛艦4隻、潜水艦1隻、掃海母艦1隻、掃海艦1隻、掃海艇2隻、輸送艇1隻、試験艦1隻、多用途支援艦1隻の艦艇13隻が展示訓練へ参加しています。

 横須賀地方天の伊勢湾展示訓練という事で、横須賀地方隊と海上自衛隊の海上警備隊時代からの歴史と共にその展示訓練の様子を紹介していますが、前回、日本へ海上防衛力を再整備する一大事業へアーレイバーク海軍大将が大きく尽力していた歴史を紹介しました。

 あのアーレイバーク級ミサイル駆逐艦の艦名となった指揮官で大戦中はガダルカナルにて日本海軍と死闘を繰り広げた提督ですが、その努力もあり実現したものです。アーレイバーク海軍大将は激戦を経ても日本になぜか好意的で逸話もいろいろあります提督です。

 アーレイバーク海軍大将は、護衛空母を供与し、再度阿賀野型巡洋艦や松型駆逐艦の改良型を日本国内で建造し、護衛空母部隊を船団護衛任務に当てよう、という調整も為されたほど好意的だったのですが、ワシントンDCの反対からこちらは流石に実現していません。

 さて、魚雷艇が供与されなかった背景は不明ですが、その後アメリカから供与された大戦艦の駆逐艦からもなぜか魚雷発射管は撤去されて引き渡されていました。この当時は艦艇攻撃への艦対艦ミサイルは技術途上、対艦攻撃といえば艦砲と魚雷でした、是非揃えたい。

 海上警備隊にこの魚雷艇の不供与、意図は不明確ですが水雷攻撃を得意としていた日本海軍の末裔となる海上警備隊へ、魚雷を供与すると、ソロモンやミンドロ沖海戦の悪夢など第二次大戦中のトラウマを再発させる指揮官等がアメリカにいたのかもしれません、ね。

 アメリカからの最初の供与艦は、1953年1月14日、くす、なら、かし、もみ、護衛駆逐艦で第1船隊を編成、第2船隊で、すぎ、まつ、護衛駆逐艦6隻を供与されまして、第11船隊として中型揚陸艦へ武装を施したLSSL、ゆり、きく、はぎ、らん、を受領します。

 くす、なら、かし、もみ、護衛駆逐艦出そろうと松型駆逐艦の雑木林をおもい出す陣容ですね。このように海上警備隊はここから始まりますが、これは手始めで1953年12月23日までに11回と分けて実施され、68隻の艦艇、排水量にして31350tが供与されました。

 供与艦は揃いました。ともあれ、自衛艦隊よりも海上自衛隊よりも、横須賀地方隊の歴史は長いわけです。そして、旧海軍からの再就職の方々へも、そもそもアメリカ海軍護衛駆逐艦と最新の戦術など知るわけもありませんから、まずは要員教育から始めたわけです。

 故に自衛艦隊に当たる部隊を創設するよりも横須賀地方隊の横須賀教育隊にて要員を養成するところから始めたわけです。太平洋側全ての任務を担った横須賀地方隊ですが、航路啓開隊任務がようやく1953年にはいり主要航路から機雷掃海が完了した、と考えられます。

 航路啓開隊、任務終了により解体、1953年9月16日、佐世保地方隊と大湊地方隊が創設されたわけです。この頃の舞鶴地方隊などは海上保安庁とともにソ連工作員の上陸事案が相次ぎ、何しろ日本海の対岸に北朝鮮があり朝鮮戦争、日本近海は大戦時に並ぶ緊張です。

 国連軍海軍艦艇がどんどん遊弋するなか、日本でのソ連工作員が破壊活動を行い、支援へソ連が工作員を入国させる、これを阻止しなければ、謎の武装集団が街を占拠するという、ついこの前のクリミア半島での出来事が戦後間もない日本で起こりかねませんでした。

 横須賀地方総監部が舞鶴地方総監部とともに海上警備隊のもとで発足しましたが、幕僚機構や基地施設管理などを実績を積み、その上でこの幕僚機構を元に細分化し新編させ、佐世保地方総監部と大湊地方総監部、続く呉地方総監部の発足へと繋がったわけですね。

 横須賀地方隊による伊勢湾展示訓練、海上自衛隊の発足以前から保安庁海上警備隊、そのもとで横須賀地方隊が舞鶴地方隊とともに発足しまして、海上自衛隊の歴史よりも横須賀地方隊の歴史のほうが長いという意外話を紹介しましたが、横須賀はもう一つの拠点です。

 海上警備隊の艦艇にあってアメリカ海軍からの供与艦が水上戦闘艦の歴史の始まりでもありました、そして日本海側の警備を行う舞鶴地方隊と太平洋側の警備を行う横須賀地方隊という任務区分の中、日本海軍艦艇の生き残りとアメリカからの供与艦艇の混在状態です。

 日本海軍艦艇とアメリカ海軍艦艇、新旧大小混在する艦艇を前に、アメリカからの供与艦艇は全て管理上、横須賀地方隊に所属するという方式がとられています。言い方によっては、舞鶴地方隊は純粋な日本海軍の生き残りから始まった、といえるのかもしれませんね。

 アメリカ海軍供与艦艇は警備船、と区分されまして、まず1953年4月1日に第1船隊と第2船隊とで第1船隊群が編成、これがのちの第1護衛隊群となります、こうしてみますと第1護衛隊群の歴史もなるほど防衛庁や海上自衛隊の時代よりも長いという事になるのです。

 名称は船隊群、ただ、第1船隊はダイイチセンタイと呼称しますので第1戦隊とも聞き取れるもの、これものちに第1護衛隊と名称を変えてゆきます。船隊は供与艦艇とともに続々と編成されまして、1953年2月16日には第12船隊、4月10日に第17船隊、と続く。

 新編は4月30日に第15船隊、その後に少しだけ間が空きまして10月1日に第17船隊、12月1日に第4船隊と第13船隊に第18船隊、12月23日に第3船隊と第14船隊と第19船隊と同時に3隊が創設されてゆきました。名称は漁船団のようでも列記とした艦隊です。

 第1船隊群の創設は、一定の艦隊行動が可能程度の練度を整備できたという事を意味しますが、続いて8月16日に第2船隊群が第11船隊と第12船隊を基幹として新編、これが現在の佐世保第2護衛隊群のはじまりです、こちらも防衛庁や海上自衛隊発足前にあたる。

 自衛隊の歴史よりも長い歴史を持つ自衛隊の部隊がある、似たような事例は陸上自衛隊でも北部方面隊が保安庁時代に発足しており、北部方面隊の歴史の方が陸上自衛隊の歴史よりも長い、という事例があります。それだけ部隊を編成し抑止力を置く必要がありました。

 そして海上自衛隊の歴史で非常におもしろいのはこのさなか、1953年9月16日に横須賀地方隊のもとに呉地方隊が創設された点でしょう、地方隊の下に地方隊がおかれています、ただ、総監部は横須賀に統合され、呉地方隊創設時では呉地方総監部は置かれていません。

 横須賀地方隊と横須賀地方総監部、そのもとに、横須賀基地警防隊、呉地方隊、大阪基地隊、館山航空隊、という編成がとられていたのです。自衛隊発足前の時代の模索期故の編成でして、総監部の隷下に地方隊を幾つか置くのではなく、地方隊の下に地方隊を置いた。

 そして供与艦艇については全て管理上横須賀地方隊に所属していたと前述しましたが、続々と編成された船隊、そして第1護衛隊群の前身に当たる第1船隊群と第2護衛隊群の前身に当たる第2船隊群、ともにこの時点では暫定で横須賀地方隊に所属していました。

北大路機関:はるな くらま
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