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【京都幕間旅情】祇園祭山鉾巡行回想録(1)古富士噴火と南海トラフ地震に千年前東日本震災

2020-08-05 20:15:07 | 写真
■貞観時代,京都に天然痘襲来
 COVID-19世界的流行禍により祇園祭は大幅縮小されましたがこの祭事は疾病祓祈願、そこでかつての山鉾巡行写真を掲載し疾病平癒を祈りましょう。

 祇園祭、東山区は八坂神社の祭事です。新型コロナウィルスCOVID-19感染症の世界的流行禍により我が国も感染者数が二万名を越え気付けば四万、本年は八坂神社と御霊会が祇園祭の最も慣習集まる山鉾巡行と宵山、そして神幸祭や還幸祭などが全て中止となった次第です。

 疾病祓いの伝統行事、祇園祭は疾病退散を期して執り行われました行事ですので、応仁の乱等で一時中断しましたが、今回も山鉾巡行などの監修が集まる大きな祭事は中止となりましたが、八坂神社と祇園會では今年は特にコロナ退散を念じて執り行われているという。

 懐かしい過去の祇園祭の写真を掲載しますが、実は山鉾巡行に代えまして京都では祇園會保存会が40名、山鉾巡行に代えて榊を建て、四条烏丸より市内を巡幸し、八坂神社からも神霊の依代となります榊を建てて、四条寺町の御旅所まで神幸の行列を、執り行いました。

 祇園御霊会、この祇園祭が始りましたのは1151年前、平安遷都がようやく落ち着きました時代でして、さて現代の祭事の活況を見ますと遷都基盤も安定し、いよいよ遊興の祭事を、と誤解されるところではあります、しかし、その始まった時代を見ますと真逆だと気付く。

 貞観年間。祇園祭が始りました1151年前の日本は貞観年間という、巨大災害が日本史上最も頻発した時代です。筆頭は“千年前の東日本大震災”として2011年の3.11以降注目される事となった貞観三陸地震です。その津波遡上高は明治三陸地震よりも高かったという。

 貞観富士噴火、これは小説“日本沈没”において“古富士噴火”として例示された富士山が地質学上引き起こした最大の噴火であり、溶岩流は一つの湖であった富士湖を富士五湖に切り裂き、日本の政治文書に初めて明記された火山災害でもありました。そして近くは。

 南海トラフ連動地震が貞観時代に発生していまして、富士山の最大規模の噴火、南海トラフ連動巨大地震、最大規模の三陸地震津波災害、いやこのひとつをとっても現代に再来するならば国家危機に繋がる災厄となりますが、これが短期間で集中したのが貞観時代です。

 天然痘流行。もうここまで続くのでしたらば国家崩壊も秒読みというところでしょうが、貞観年間は全国各地から災害の悲報と急報が届く最中、平安遷都間もない洛中は天然痘の流行に見舞われています。天然痘は現在のCOVID-19と異なり数百m先へ空気感染する。

 洛中での天然痘、平安遷都の時代には今の二条城が水源となっていまして、早い話が西洞院あたりの下っている地形等はまさに湿地帯となっていまして、しかも下町は今でいう“集近閉”や“三密”の状態、感染拡大の下地があり、これは豊臣秀吉の京都大改造まで続く。

 牛頭天王の神霊を祀り災厄を祓いたい、祇園祭は此処から始まりまして、先ず、御旅所に神霊を請い、この御旅所から創建待つ八坂神社までの神幸行列に町衆が幟を建てついてきてしまいまして、これこそが祇園祭が壮大行列の祭事として始まった減点だったという。

 元祇園社、祇園祭始まりの地は阪急大宮駅近くに今も鎮座していまして。しかし疾病祓いの伝統行事、今見れば祇園祭はじめ祭事は不要不急の会合と三密に他ならないものではあるのですが、楽しげな祭事は疾病を祓う気力と胆力を培う意味もあったのかもしれません。

 COVID-19感染拡大防止、しかし、しかしですが、知識と理性では理解しつつ感性と意識では、やはり祇園祭を感じる事が出来ないのは寂しいものです。あの第二次世界大戦では終戦の年こそ戦局悪化で中止されて以降、あとは阪急延伸くらいしか、ないのですからね。

 千年以上つづく祭事、京都という大都市を一ヶ月間祭事で覆うのは平安朝が数多い水害により疾病をまきちらし、ここから洛中の平安を守るために行ったのが祇園祭の神事という。山鉾、七月になりますと組立が始まるとともに、これは八坂神社の祭事でもあります。

 八坂神社の祭事ということで巡行は一つに過ぎません。山鉾町の町衆による鉾建や曳初めといった、祇園祭の山鉾は一つの代表する風景故にともすればあの順光こそが祭事と錯覚してしまいそうですけれども、祇園祭では、平行して神事が八坂神社でははじまります。

 貞観5年こと西暦863年、平安の都たる京都は相次ぐ水害と疫病に悩まされていました、疫病の中でも天然痘は時として日本を蹂躙し、聖武天皇の御世には長岡京を廃都ならしめ、かの弘法大師空海が病魔平癒の行脚を行った。しかし貞観時代、既に世に空海もいない。

 朝廷は勅令を以てこの貞観5年、神泉苑、京都を平安京とした洛中唯一の水源にいまも鎮座する神泉苑において疫病平癒の祈祷、御霊会、執り行いました。顕微鏡も無い当時には疫病は死の旋風であり、ひれ伏してその去るのを待つ事しか出来なかった実情であった、故に祭事で鎮撫を願ったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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