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【京都幕間旅情】頂法寺六角堂,聖徳太子持仏奉じた寺院は山城大飢饉救済経て町衆慕われる町堂へ

2024-06-19 20:22:45 | 写真
■聖徳太子と親鸞さん
 京都散歩は意外なほど多くの人々との歴史に描かれた行程を結びつけるものと毎回感慨深いのですが。

 聖徳太子の持仏を奉じたという六角堂、この持仏は如意輪観音像というもので、残念ながら秘仏となっています。浜辺に仏像が漂着するなんて見たことが無い、といわれるかもしれませんが、仏教草創期は元々からの州境と対立する事が多かったわけで。

 仏像はよく川や海に対抗する宗教から捨てられていて、木製の仏像は浮力があるものも存在済ますから、その生流れ着いた、というのは幾つかのお寺で所縁というものをお教えいただいたことがありまして、放流していたやつがいるならば漂着もあるだろう。

 平安遷都の頃には、六角堂は区画整理の対象にならないように自ら動いて大路に道を譲った、といわれるのですけれども、能登半島地震の側方流動が実際に起こり報道で目にしますと、動くこともあるのかなあ、と思いつつ、平安遷都後の造営はのではとも。

 寺院が周りにないことは前述の通りなのですが、故に拝観の方は多いものの観光ルートから外れていることで煩いようなことはあまり感じない、そして今はビル群の中にある寺院という風情なのですが、平安朝から鎌倉時代にかけては下町の只中にあった。

 清水寺と石山寺と長谷寺、鎌倉時代までに下町にありましたこの頂法寺は清水寺と石山寺と長谷寺と並ぶ観音霊場であったといいまして、既に庶民信仰はもとより僧侶の間でも有名となっていました、そして、特にかの親鸞さんがここに籠った事でも有名で。

 範宴、のちの親鸞さんは延暦寺の堂僧であったころ、建仁元年こと西暦1201年に六角堂で百日間参籠という修業を積んでいまして、これは当時京都で影響力を示し始めていました法然さんの浄土宗について、なかなか考えがまとまらず参籠したのだ、と。

 法然さんに帰依する事となった、もともとは範宴は延暦寺にて浄土宗という専修念仏が急速に影響力を伸ばしているために、その実情を調べてくるようにと命じられた先の帰依、という実情があるようですが、その際に考えをまとめたのが頂法寺、という。

 祇園祭がまもなく始まる季節ですが、室町時代にはこの頂法寺が山鉾巡行の順番を定めるくじ引きを行った場所といいまして、下町に位置することから集会所として、騒擾の時は民兵の集合場所に用いられるなど、暖かい話から血なまぐさい話まで。

 足利義政、このかたは室町将軍ながら権力集中を避けるために実験を与えられなかったことで結果的に応仁の乱がおこることとなってしまう悲劇の将軍であり、また銀閣寺たてたことで有名になったりした方なのですが、足利義政が民衆救済を行った場でも。

 山城大飢饉という寛正2年こと西暦1461年の大飢饉に際し幕府が粥施行という無料の食糧配給所を設置したのがこの頂法寺で、この施行はこのまま応仁の乱と共に京都が荒廃する中、町堂という下町の自治活動における中心地となっていった歴史もある。

 多聞院、不動院、住心院、愛染院、中世の時代には複数の塔頭寺院がありましたがいずれも現存せず、しかし町衆に慕われた寺院という事で過去18回もの火災に見舞われているものの、その都度町衆の支援を受け復興され今日に至る寺院となっていて。

 歴史散策というには、今現代こそ千年後には歴史だ、と言われる通り、世の中も価値観も変容し続けているところではあるのですが、こうした中に抗うというよりもゆっくりと佇む頂法寺の堂宇は、なにかこう、探訪を繰り返してしまうものなのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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