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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】勝竜寺城-神足神社,羽柴秀吉天王山の戦い勝利の背景は”最後は愛”があった

2021-02-17 20:20:55 | 写真
■羽柴秀吉中国大返しの論拠
 麒麟がくる、此処に併せて散策してみました天王山とその周辺の情景と共にふと気づいた点などを示す一連の話題は今回が最終回です。

 勝竜寺城は織田信長の勢力下に入りますと細川藤孝が城主となります。信長は続いて東側に槇島城を造営、ここは現在の宇治市に位置しますが、後に羽柴秀吉が整備するまでは宇治市と長岡京市の狭間は湿地帯で、この二箇所を抑える事で京都防衛を確たるしました。

 神足神社。京都府長岡京市東神足二丁目にあります、桓武天皇の時代に平安遷都に先立つ頃、内裏に及ぶ悪霊をこの近くの泉に神々が降りたち防いでいるとの夢見から、絹と剣を収めるべく創建された神社です。ここにも勝竜寺城の遺構があり、続いて散策が趣き深い。

 松井屋敷、米田屋敷、神足屋敷。勝竜寺城は三つの郭から構成される城郭であったようで、また、東山文庫記という天正時代の文献には天守閣と思われる施設が中央部に建築されていたといい、実は有名な安土城天守閣よりも早い最古の天守閣であったともいわれます。

 神足神社、勝竜寺城の北隣には神足神社がありまして、そもそも長岡京駅が出来る前はここに東海道本線神足駅があったほどですから、地名としては神足が歴史的です。神足神社の境内には城郭の遺構、掘割や土塁なども残っていますので、改めて参拝したいところ。

 さて。本能寺の変、その後に視点を転じましょう。明智光秀は勝竜寺城から指揮しました。なるほど歴史の文献に知識として様々なものを得てゆくのと、実際に歩みを進めてみてみますと、不思議と感じ入るものは別のものとなるものでして。今回は中国大返しの謎を。

 本能寺の変の情報が秀吉の元に届いたのは諸説ありますが有力説は二日後とされています、本能寺の変は6月2日、羽柴軍230km移動し山崎に布陣を完了したのは12日とされています。単に引き返すだけではなく、中国攻めの最中ですので大急ぎで講和し、引き返えす。

 完全武装のまま引き返すのは、しかし戦術的に不可能でしょうか。姫路城があった。上記顛末だけをみていますと、やはりドラマでも態度悪かった秀吉があやしい、と思われるかもしれませんが秀吉は別に全軍だけで引き返す必要はなかったのですね。補給路が在った。

 秀吉は中国攻めに際して、本拠地の長浜城から明石城や姫路城などを経由し、中国地方まで山陽道を幾つもの中継地を置いた補給路を準備していました。兵糧はもちろん予備人員も含めて中継点には蓄積、230km敵中を突破したのではなく、単に補給路に沿い戻るだけ。

 兵站といいますか戦闘支援、この視点から考えますと、中国大返しは割と自然なものでして、天王山まで、明智軍の妨害もありませんでした。実はもう一つ、秀吉の視点に立てば、急がなければならぬ理由が在った。愛する妻おねが琵琶湖畔の長浜城に取り残されている。

 戦国随一の愛妻家という羽柴秀吉長浜城に急ぐ。実際安土城などが明智軍に攻撃され焼かれているのですから、このままでは妻子が危ない、すると多少無理をしてでも全力で秀吉が引き返す必要があった、明智軍は邪魔なので撃破した、で納得できてしまうのですよね。

 東海道本線の新快速や北陸特急サンダーバードが全速で通過する沿線に位置する城郭、新快速は長浜に向かい、なにかこう、愛妻が敵中に孤立しつつある最中に駆け付ける秀吉の心境が、わかるのですね。豊臣時代、近畿一円は盤石に安定化、城はその役割を終える。

 江戸時代には山城長岡藩が置かれ初代藩主永井直清は城郭遺構の北側に大名屋敷を造営、その際に破損部分を僅かに手直ししましたが摂津高槻藩に統合され廃城となった。城跡には1992年から模擬櫓と虎口跡、模擬隅櫓に掘割と土塁、と整備され往時の面影を伝えます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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