気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

せたな町 北海道最古の山岳霊場太田神社の松浦武四郎歌碑  2013年8月13日

2013-08-14 16:06:16 | 旅行
せたな町にある太田神社は何度か来ていたが、松浦武四郎の歌碑があるが場所が分からず、見ていなかったので今回は今迄難所といわれていた通過できなかったR740号線が工事完成し今年、開通したので、大沼ICから高速を利用し、国縫で降りた。
4年間住んでいた北桧山町の真駒内川に近いところにある某桜田おもち、菓子屋さんに電話で予約してより美味しいべこもちを購入し、兜野、太櫓、良留石から太田に入った。因みに、良留石は松浦武四郎も歩いた太田山道の一つであり、関内、太櫓を山越えする新道を安政四年、甚右衛門らが人夫を募集して開墾したと記載している。その古道は現在どうなっているのか・・・最近、礼文華山道や増毛山道など再び整備して、フットパスのように歩けるようにしている有志があるようです。
松浦武四郎著「西蝦夷日誌下」の〔太田領〕には
      『太田山 太きくさりの 一すぢに
               頼まざらめや 君の恵みを』
と読んでいる
太田神社の鳥居の側には説明板や菅江真澄の歌碑がある。
「行やらで ここに くれなば 苺むしろ しきて 太山の花のしたふし」

説明の「太田神社の由来」には
『日本海を直下に、屏風の如く厳然として聳え立つ太田山、松浦武四郎は本殿まで辿る道のりを猿がよじのぼり、蟹が歩が如く・・・三百余間・・・その嶮しさを描写、その様子は今も昔も変わらず。太田神社の開基は享徳三年(一四五四)松前の祖武田信弘、霊験あらたかなこの小山に、太田権現の称号を賜ったことに始まる・・・。(中略)寛文年間一六六一~一六六六)円空上人洞窩にこもり仏を刻む。およど百年後、寛政三年(一七八九)民俗学者菅江真澄太田山に上る。その際、情景細やかに記録し、絵も残す。絵の中に本殿前に円空仏数対描きとめられる。(・・・以後略)せたな町大成観光協会』
今、祀られているのは猿田彦命が祭神となっている。

(以前の訪問時は菅江真澄の歌碑があるので、多分その近くに松浦武四郎の歌碑があるものと思い込んでいた。)
神社の階段は急な勾配で、足場が狭く、また、鎖場はよじ登れそうにないと前回は鳥居の最終階段で降りた。下を見ると吸い込まれそうな怖さ・・・今回もチャレンジはしなかった。(高所恐怖症です)
以前に訪ねたのは数年前の2月、木の葉が落ちているので、三つの鳥居が良く見える。
最後の鳥居まで登って下を見た写真(勾配40度・・・降りる怖さが先立つ・・・蟹のように横歩き) 
            
太田神社の全景 村社太田神社本殿(本殿海側に武四郎の歌碑があったのです)
   
松浦武四郎の歌碑(西蝦夷日誌に記載の歌)と菅江真澄の歌碑(雲のうち 三のみのじの 鳴くとりの声 かすかなる山のたかけん)


円空の歌碑と円空仏(ガラス越・・・写真)                           
 
円空の歌碑
「木にだにも 御形を移す ありがたや 法の御音は 谷のひびきか」 
定灯篭  

 太田神社を後に、R740号を南下、帆越山トンネルを通る。松浦武四郎は「帆越」について「太田領」の中で『左眼下にホグシ(帆越)(小岬)ホロホグシ(大岬)、ホッケ澗(小澗)の上を過ぐ、一歩を過まれば、数仭の断崖あり、海底に身を沈むの嶮所也。其ホグシは帆を卸の轉か。此岬を過る時は帆を少し下げ太田山を拝し行が故號ると』と記録している。その当時から人々は太田山への畏敬の念を表していたのでしょう・・・。
 また、次に、あわび山荘の温泉に行き、温泉に入る前に、玄関前の庭園内にある菅江真澄の歌碑を見る。
「めづらしな 五月のけふの花ざかり いずれあやめの 匂ふなるらん」

帰宅後調べたら、江戸時代の国学者である菅江真澄はこの地や臼別温泉に入ったということが分かった。

倶知安町 白木建設敷地内の松浦武四郎歌碑

2013-08-09 09:25:54 | 旅行
松浦武四郎著「西蝦夷日誌」の「磯屋(谷)領」には、案内の土人セベンケから丁巳(安政四年)五月九日シリベツ(尻別)なるソウヅケの事を路道なくして甚難澁のよし・・・と聞いている。『シリベツの山も笹に障(さえ)ぎられて見えざる故一同困り、追々日も落ちかかる故心細くなる故、其處に樺の木有に上がらせ見れば、ソウヅケを直に向に見たる由にて、一同安心したり。・・・此の所クッシャリニブト(倶知安川口)爰に一艘の丸木船の備有に、乙名棹さし二人づつを乗せて渡す。水勢吼(ほゆるが)ごとし。雪解水にて濁れり。其危うき事筆の及ぶ處にあらず。』ここでその大変さを武四郎は和歌にしている。その歌碑が
白木建設敷地内に建立されている。
     『あやうしと  しりべつ川の 
              白波を  命にかけて けふわたりけり 』

当初、個人の敷地内に松浦武四郎の歌碑があることに何故なのか・・・と思ったが、建設会社の創始者が武四郎の苦難の「命かけて・・・」の心意気を会社の思いと重ねたようです。
会社は休日であったので、お話を聞くことができなかったが・・・先人の苦労を後継者につなぐ松浦武四郎が存在することにますますの尊敬抱き、会社が松浦武四郎がこの地倶知安宗助川を探検した時の大変さを詠んだ和歌を歌碑に刻み、建立にされたこと、個人的には嬉しい・・・苦労、努力は裏切らない・・・何時か成果が・・・。

歌碑(後方羊蹄山は雲に覆われているが・・・歌碑の真正面にある)
   

歌碑の左側に説明がある。松浦武四郎がソーツケ(宗助川)探索のため、尻別川を渡ったのは安政四年(一八五七)三月十日(陽暦六月一日)であった。ソーツケは、サケ、、マスの豊庫として名が知られていた。歌碑は武四郎がその時の印象を残したもの。
また、札幌の老舗の古本店で手に入った『松浦武四郎著、丸山道子訳「後方羊蹄日誌」』には図解入りで、樺の木に案内のアイヌの一人を登らせたものがある。日のある中、自分で傍らの木に登って四方を見ると、西方に羊蹄山、西南にヒンネシリ(尻別岳)北西には昆布の山々、東に余市岳、北東に岩内岳が見えた・・・と現代語で書いてある。
丸山道子訳の後方羊蹄日誌と樺の木に登って見渡すアイヌ(絵の横に「危うしと  しりべつ川の・・・の和歌が書かれている。)
 彼女の訳によると松浦武四郎は磁石を持っているので、不安だったのはむしろアイヌたちの方であったろうとも記録している。
武四郎は真狩川の支流を通ったり、和人の経営する笹小屋に泊まり、五月十四日、案内の一同に手当の品を渡して、翌日アイヌ一名を連れて余市に向かった。
   
   

積丹岬 女人禁制の門 松浦武四郎著「西蝦夷日誌」紀行

2013-08-07 20:31:41 | 旅行
松浦武四郎の西蝦夷日誌のなかから神恵内について調べていたが、積丹岬についての記録もある。彼の足跡の碑はないが、積丹の海の色や自然を楽しんでいる観光客も多いので、私たちも以前訪れたので、興味があるので、彼の記録を合わせてみた。
「西蝦夷日誌 四編 シャコダン場所」より・・・(船路を行く)『船に過ればコエタシュマ(大岩)譯て浪立岩の義。(ニ町五十間) ホンニヨイモイ(小彎)木湾の義。此邊より木多き故號しなり。
サクルウラン(崖)譯して夏路下るとの義なり。ニモコイ(小澗)と云岩有。名義也(注釈 神威岬のこと)
北のオフイ(雄冬)、南モツタ(茂津多)と對し、是を西の三大岬とす。
内辰(安政三年)の春迄は是より奥へは女を禁じ置しを、今期に入る様に成、濱千鳥と云う賎妓、また引っ越しの者等多く入り込しか、當年は別て大漁なりと。是迄松前にて女をこの奥え入ると漁が無と言傳へ有しも、全く荒誕(ウソ)なりしこと明也、其岩の形は僧が帽子(ボウスと注釈あり)を被りたるさま也。
   ゑなをかき 我ももゐに 手向けして こえずも願ふ 蝦夷の海幸  』
                                      の和歌を詠んでいる。
女人禁制の門  (逆光なので門の文字は暗いが・・・女人禁制・・・と書かれている)

   積丹神威岬
   
日本の渚百選の島武意海岸
   
積丹の奇岩と積丹ブルー
   
この旅では民宿なごみの宿いい田さんにお世話になった。勿論海の幸一杯の夕食
      
余別 民宿いい田からの朝焼け
  

 積丹は何度か来ているが、写真は2008年6月に撮影。

神恵内村の松浦武四郎の歌碑

2013-08-07 13:20:40 | 旅行
岩内の郷土資料館見学の後、次の目的地神恵内村にある松浦武四郎の歌碑を探す。
この地について松浦武四郎は「西蝦夷日誌 三編」にフルウ領(古宇)と題して『岩磯傳ひに(十七町)フルウベツ(古宇川、現名恵内川)幅二十餘、急流、船あり。名義、往古フルと云大なる鳥、是より山に飛び上りし故と云(地名解)。また一説、運上やの傍の大穴岩の下に流込水色赤く成りて出る故なづくともいえり。(箱館海路八十四り、黒松内越五十ニ里。岩内、海路五り廿九町、陸凡六里半・・・)』そして武四郎は積丹に向かっている。
ここで武四郎は
『しばらくの 晴れ間も見えで ふるふの海 里の名しるく 五月雨なり 』と読んでいる。この歌碑が神恵内商工センターの側にある。

 最初、 商工観光センターの場所が分からず、散歩中に方に訪ねたら、役場の近くかな~と云ったので、役場に行ったが土曜日だったので、開いておらす、また別の人に聞いた。ガソリンスタンドの先にあるということで来た道229号線少し戻った。商工センターの駐車場の側に歌碑があった。
 歌碑の裏書は「建立の誌」として
『松浦竹四郎(後に武四郎とも言う)は安政三年(一八五六)に四回目の蝦夷地調査を行い、西蝦夷日誌にまとめた。この中に、神恵内(当時フルウと呼ばれた)の自然や風物を和歌に残しているので、往時を回顧する記念碑としてこの碑を建立した。   平成元年十二月  建立 神恵内村 商工会
   石工 今泉 佳弘』と刻まれている。
西蝦夷日誌には盃の名も出ている。『ワシリ(岬)、シテㇾケぺウシ、並び手、シリクンワシリ(岬)、此の三岬岩壁に傍て(そいて)岩岬有を飛越行、實に一歩過たば一命を捨るの難所也。シリクシナイ(小川)、カハルシヤ(人家)、新道此所え下る。濱に出てサカツキ(盃)(番や、蔵、いなり、瀧、人家)あり。名義、金銀礦有の義也。此處に銘礦有故なづく。・・・ユオトマリ(磯)近頃まで土人家ありしと。此処に岩間に涌水有て少し温かし、土人是に楡皮(アッシ)を浸し置也。・・・岩壁傳ひせヨノツト(岬)、エオロシ(岩磯)、岩平傳ひ(一町半)モユワ(大岩、白崩、前島あり。岩窟、石燕多し。』とある。私たちの宿泊した盃温泉郷の温泉源かもしれない・・・と想像をめぐらせた。
古宇の謂われ

歌碑
(写真・・・)
モユワ(大きな岩)海水浴場になっている

お世話になった盃温泉潮香荘の夕食

 神恵内の美味しいお寿司さんには以前にも寄ったことがあるが、札幌方面からも開店前に待っている方がいる。いわゆる行列のできるお寿司屋さん。今回は夕食に前浜直通の海の幸が待っているので、寄らなかった。