気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

松浦武四郎の足跡(道東エリア)標津・野付半島~知床

2011-12-31 19:41:11 | 日記
2011年9月7日別海町郷土資料館に行く前に、標津の望ケ丘公園にある「桑田立斎アイヌ種痘之碑」を訪ねようと根室方面からR244号線を走り、カーナビに公園ポイントが出たので向かった。公園の案内版に碑の位置が書かれていないか確認したが、無い。この広い公園探すの大変・・・と教育委員会へ電話し教えてもらった。「公園の入り口に滑り台やブランコがあります。その先の道を上がると右手にあります。」と教育委員会の方が教えてくださった。感謝です。この碑の存在は旅の参考にしている三重県松浦武四郎記念館名誉館長さんのホームページに「クジラウオッチングを期待して高台に行ったらこの碑を見つけたという記事に知床に行く際寄る予定にしていた。また、アイヌの人達の間に天然痘が流行り、亡くなる人も多く出たので、幕府から医師を派遣し、予防対策を講じたということに関心があったからです。
この時、函館出身の深瀬洋春(後に函館会所町に開業した。)も同行したといわれている。余談ですが・・・高城高著「函館水上警察」(時代背景は明治15~6年頃)に深瀬洋春は監察医として名が登場している。
碑には『安政四年(1857年)新暦九月十一日江戸深川の蘭学者桑田立斎は折から二百二十日の暴風雨の危機を乗り越え国後から野付に渡り、通詞加賀伝蔵の補佐で標津一帯で種痘を行った。この種痘はアイヌの天然痘惨禍を(読みにくい・・・)函館奉行板垣範正らの要請で幕命により行われた・・・・(略)広く巡回して三千余のアイヌの生命を救った。ジェンナー種痘二百年にあたり、一門の仁愛済生の偉業を称える』平成十年孟冬 標津町 桑田立斎先生顕彰会 と刻まれていた。
中標津保養所温泉に一泊し、8日、野付半島に向う。ここは何年も前に来ていたが、台座の文字を何気なくみて、なるほどという思いに終わったところ。石碑の土台に書かれていることを知る目的である。
『野付半島は元禄元年に開設された。・・・(中略)松浦武四郎の「知床日誌」によれば、藤野喜兵衛の漁場支配加賀屋伝蔵が安政三年(1858年)にはすでにこの半島のヲンネクル(現オンネクル)に雑穀、野菜類二十七品を植種、本町「農業発祥の地」でもある・・・(中略)日本固有の領土たる国後島は、ここから十六キロメートルの位置にある。今は異郷の島が指呼の対岸にあるのも野付半島ならではのこと。尾岱沼の開基百年に当り、野付半島の由来と歴史の一端を後世に伝えるため、ここに本碑を建立する  昭和六十一年十一月三日「野付半島」の碑 建立期成会』と書かれてます。
マッカウス洞窟の歌碑
この洞窟はヒカリゴケで有名なところで、かつて温泉マニアだったころ、知床半島のセセキ温泉まで来たことがる。そのとき、洞窟も覗いたが、この時は「ヒカリゴケ」が珍しかったという思いでした。勿論、松浦武四郎の歌碑も無かった時代である。武四郎はこの洞窟で野営をした。歌碑の傍の説明板には「文政元年(1818年伊勢国(現在の三重県)川南須川村に生まれた松浦武四郎は若い頃から日本全国を歩き回り、後に北海道や樺太に渡り、安政二年(1855年)以降は幕府から蝦夷山川地理取調を命ぜられ、当時の北海道(蝦夷地)の状況を書いた本を多数著している。文久三年の著書「知床日誌」には五月五日にマッカウスの洞窟で野宿したところ、洞窟の壁に岩管やハマナス等の草花が咲いていたので石碑の詩を書き残したとしている。また夜中に熊が出てきて、捨てた魚骨をバリバリ食べるので、心細い思いをしたとも記されている。なお、明治二年(1869年)9月に命名された「北海道」という地名は彼が探検中に使っていた「北加伊山人」という雅号から用いられたもので、武四郎が名付け親である。」と書かれている。
『仮寝する窟におふる石小菅葦 菖蒲とみてこそハねめ』と詩っている。秋葉實編著松浦武四郎「知床紀行」には『マカはマカヨの転語で蕗薹の多い所という意味である。その岬で海岸の道は行き止まりだそうである。岩には岩なずなが今(陽暦六月十五日)、安政五年五月五日(1858年6月15日)を盛りと咲き乱れ、小桜草などその美しさは実に目を驚かせる』と書かれている。
オロンコ岩
ここは宇登呂港に行く前にトンネルがあるが、入る前に左折すると数台の駐車スペースがあり、オロンコ岩の説明案内が立ってある。『オロンコ岩とは「そこに座っている岩」を意味するアイヌ語に由来し、昔この岩で、先住民族が戦っという逸話が残っています。高さ80mの岩の上まで登ると、オホーツク海や知床連山が一望することが出来、またウトロ本来の草花を楽しむことができます。』高さは80mですが、絶壁の岩にある急な階段を登った。頂上からはウトロの港が真下に見えたり、自然世界遺産になった年に登った羅臼岳などの連山が遠くに見えた。絶景です。因みにオロンコ岩は知床八景になっている。是非登ってみることをお勧めしたい。
写真右の左側がオロンコ岩。岩をくりぬくようにトンネルがある。
  
オロンコ岩頂上の様子 
オロンコ岩を降りて、ウトロ港にある「松浦武四郎翁顕彰碑」を訪ねた。石碑の横の説明板には『松浦武四郎翁h文政元年伊勢国に生まれ、弘化ニ年以来、前後六回にわたり、北海道、千島、樺太を探検され、北方に関する著書地図だけでも膨大な数にのぼっております。明治二十一年七十一才で没せられましたが、翁は北海道の名付け親であり、その集大成は北海道開拓の貴重な資料として不朽の名声を博しております。当地、知床には三度訪れ「知床日誌」に次の歌を詠んでおります。 「山にふし 海に浮寝のうき旅も 馴れれば 馴れて 心やすけれ」 ここに翁の没後百周年に当たり、ゆかりの地に顕彰記念碑を建立し、永くその功績を称えます 昭和六十三年九月三十日 松浦武四郎翁没後百年記念協賛会』と書かれている。  
北海道に生まれ、育った私、北海道のこと何と知らないで過ごして来たものか・・・松浦武四郎の足跡を訪ねるだけの旅から、彼の人間性や人類愛を知るには・・・知り得ないほど奥深いものがあると石碑から物語るものを感じました。

この後、知床五湖の1湖を歩いた。遊歩道は熊と人との遭遇を避ける木柵になっている。
(他の4湖は講習を受けてガイド付きでしか歩けない)
 
今夜の宿「ホテル季風」にお世話になった。私たちの旅は行けるとこまで行く無計画的なものなので、ホテルの予約は当日午前中か、前日のスケジュールの進み具合・・・によって考える。携帯電話が活躍です。そこは素敵なホテルで癒される雰囲気とウエルカム・コーヒの香りが何とも言えなかった。夕食はとても美味しかったです。
=追記=
「オシンコシンの滝」観光客がよく訪れる名瀑であるが、松浦武四郎の「知床日誌」には『チャラセナイ川(オシンコシンの滝)大滝である。上は一筋でニ筋になって落ちている。その当たりは岸岩崖で、岩は転太石である』と探検記録に残している。







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