気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

道南の中世ロマンを訪ねる:上ノ国にある伝説「大蔵鰊」

2016-09-02 19:40:41 | 旅行
上ノ国にある「旧笹浪家」の所にある「にしん街道」の木柱を訪ねた。その説明版にの中に「大蔵鰊」という伝説があり、旧笹浪家から「上ノ国八幡宮」への参道入り口にある民家の外壁に
旧笹浪家とにしん街道木柱


「大蔵鰊伝説の跡」という木版がある。


にしん街道の説明板を読むと「大蔵鰊」についてかいてある。また、菅江真澄遊覧記 2」(内田武志・宮本常一編編訳)を読むと当時、彼が見聞きしたことが記されている。

因みに菅江真澄は江戸時代 宝暦4年(1758)三河国に生れ、寛政元年~3年にかけて江戸地を旅した国学者。元年松前の沖の口に上陸した。

遊覧記の一部引用
『菅江真澄は松前から江良・小砂子、メノコ鷲居の浜辺の道を通ったり、時には漁師の船に乗せてもらったりして、汐吹きの浦にきている。上ノ国について、むかし勝山といって、此の島に領主の祖先が を定めたところで、漁師にさしずしている老人が語ったということ・・・華徳山上国寺のかたわらの大きな梅の木があり、梅が咲いている。松逕上人(むさしの国からきた)が言うには「この花が咲きはじめるともうニシンと云う魚は群れてこなくなると言って人々はみな嘆く。だから、この梅の花が早く咲かないことを被とはみな願い、咲いたころには浦の人たちはうらみののしっている。寺の門を出ると神社があり「何の神を祀るのか」とたずねると「にしん神です」と答えた。百年のむかし大蔵法師秀海という修験者が庵をむすんで修行しておられた。
ところがある年とくににしんの群れがまったく来ず、ひどい不漁に浦々の人すべてが嘆いているのを秀海法師が聞いて「お前たちがせちに願うのであれば、私は神に実情を訴え、祈ってにしんをとらせるようにしてやろう・・・』と云い法師は身を清め祈ると・・・海いっぱいにかもめが群がり、クジラは大波を起こしてしおを吹きあげ餌をあさった。これはみなにしんの群れがきた証拠である。
にしん街道の説明版にはその他「村人たちは大漁になったとたん、群来は自然のものと難癖をつけたので、山伏(秀海法師のこと)は怒りのあまり食べ物を断って死んでしまいました。・・・翌年江差には群来しましたが、上ノ国には群来せず、祟りもあったので、村人は恐れて山を神として祀ったそうです。以後、他の村にはにしんが来ても、上ノ国では神の効験があって大漁の年もあったそうで、これを人々は「大蔵鰊」と言って不思議そうにしていたという。
上ノ国に暮らす人たちはこれを「大蔵鰊」といって謙虚に学び地域の歴史や文化を掘り起こし未来への確かな手がかりとつけたいと考えています。・・・と記されている。

「史傳若宮社跡」

上ノ国八幡宮には秀海の御霊が若宮として祀られている。
また、上ノ国八幡宮は文明5年(1473)武田信廣が勝山館内に館神として創建した社で北海道神社史上貴重な存在であると・・・。
上ノ国八幡宮鳥居と社殿の彫刻


道南の中世ロマンを訪ねる:歴史遺産の一つ円空仏

2016-08-31 14:20:03 | 旅行
上ノ国には歴史遺産として北海道最古の民家「旧笹浪家」や史跡「上之国館跡」などがあるが、円空仏が町民の手によって祀られいるので、数年前、上ノ国の町長さんが教えてくれた所を記録した。
因みに、円空は寛永9年(1632)~元禄8年(1695)美濃の国生まれ、江戸時代前期の巡国粗油と言われ、物資でもある。木彫りの仏像(いわゆる円空仏)を数多く残している。
 円空作の仏像は太田神社や福島町、有珠善光寺、礼文華峠小幌洞窟などに数多くある。(レプリカは何体か見ることが出来ている。)
 上ノ国にある円空作の仏像は「十一面観音立像」と言われている実物。
上ノ国の役場を訪ねたのは日曜日であって、誰もいない。駐車場でウロウロしていた私たちに声をかけてくれた人に「函館から来たんですが・・・上ノ国にある円空さんに会いに来たと告げた。道案内をしてくれると言って、車の後について行った。
道順は覚えていないので、町のホームページからマップを引用。

観音堂への道マップ

観音堂の中に入り、円空仏のことを説明してくれた。とても詳しく、丁寧に説明をされたので、「観光課の方ですか?」と伺ったら町長さんであった。今年役場に色々なパンフレットをいただきに行った時、対応してくれた観光課の職員さんに告げた。(町長さんには大変お世話になりました・・・。)
観音堂


十一面観音立像

お堂の前の説明版
『寛文の頃、蝦夷地を巡錫した臨済宗の僧侶円空作十一面観音立像が本堂に安置されている。
 明治四年棄却される難を逃れて後、民の手によって祀られてきた。
百二十二・五糎という全道一の大作である。見る人の心を和らげる微笑が美しい。
町内に他所五体ある。
  指定年月日 昭和五十二年三月十一日
      管理団体 上ノ国観音溝』とある。

道南の中世ロマンを訪ねる:その6上ノ国北村・洲崎館跡

2016-08-27 20:36:51 | 旅行
2016年7月22日
上ノ国町の花沢館跡の次に訪ねたのは「洲崎館跡」だが、その付近に来ているのだが、史跡を探せない。地図上では「北村」というところの道に入ったはず・・・だれかに聞きたいが人影がない。少し進むと会社の玄関に3名ほどいたので、場所を訪ねた。職員さんが「あの林の所に鳥居が見える。そこですよ・・・」私達は一本別の道路を走っていたことになる。
会社の人にお逢いして良かった。
鳥居は砂崎神社であり、洲崎館跡の説明版が側にあった。
説明版には
『長禄元年(1457年)季繁の戦いで、功を挙げた武田信廣が上ノ国守護であった蠣崎季繁(すえしげ)の養女である安東政季の娘を妻と氏、同年築いた館である。
また、この時、信廣は「建国の大礼」を行なったとされている。
その後、信廣は地の利と景勝を誇る夷王山のふもとに勝山館を築き松前藩300年の基を造った。近年中国銭25000枚、中国青磁、白磁、国産の珠洲系陶器や人骨が発見されている。館の内部構造については未調査の為不明なところが多い。この館は武田、蠣崎氏が道南和人社会の中で支配者として成長する基礎を固めたところであり、更に和人勢力の移り変わりを知ることのできる所として大変重要な遺跡である。又、この館は北海道の館の中でただ一つ成立年代が明らかである。
                     1991年8月 上ノ国教育委員会』とあります。
また、上ノ国のホームページでは「本道最古の記録である「新羅之記録」にはコシャマインの戦いで功を挙げた武田信廣が築いた館であることが記録されている。」ともあります。(説明版と同じ内容は省略)

砂崎神社全景と社殿


砂崎神社の境内を探す時間がなかったが、土塁など確認できたら館跡の一部でも探れたか・・・。
「史跡上ノ国館跡のうち洲崎館跡石碑」と説明版


上ノ国小学校発祥之地・砂館小学校跡

                      

道南の中世ロマンを訪ねる:偶然の出会い「ワシリチャシ」

2016-07-31 21:52:09 | 旅行
汐吹の比石館跡を見学してから国道228号を上ノ国へ向かって移動すると、何もない土手の所に狭いが駐車スペースがあり、丘に看板が立っているので気になり、停まる。
小さな駐車スペースから見えた立札

 雑草が伸び放題の中に説明版があり、草を分入り見るとチャシ跡であった。
雑草の中にアスファルトで固めた二メートルにも満たない細い道があり、上に出たが、狭い土地で、地形も不透明。
所々に小さな雑木が数本あるのみ。

説明版には

『ワシリチャシ』
『昭和五五年(一九八〇)国道改修に伴う北海道教育委員会の調査で発見された。
北海道開発庁は一部計画を変更し、このチャシ跡の保存に配慮した。
地理真志保によると「チャシ」とは砦、柵、柵囲い。古謡の中では英雄の常住する館をさす・・・略・・・」とされ、一般に一六世紀~一八世紀につくられたと言われている
昭和五八年(一九八三年)、北海道教育委員会の調査では善導に四八三ケ所が確認されている。
 ワシリチャシ跡は面積約九〇〇〇㎡、深さ三mほどの空濠とこれを渡る土橋が作られている。
 両側は急斜面をなす。
江戸時代の記録や地域の人達の間に“ワシリ”の地名が残り「アイヌの落とし穴がある」との言い伝えもあった。
上の杭町内には勝山館など和人の館が存在する。
檜山を含む道南にはチャシの発見例が少なく両者の関係が注意されるところであり、このチャシは大変貴重なものと推されている。
                         平成二年七月
                         上ノ国教育委員会』
腰まで伸び放題

上部は細長い平地にみえるが、空濠もあったというので草の下は見えない不安でこれ以上進む勇気は無かった。
下方に海が見える。絶壁になっているように思う。
松浦武四郎の蝦夷日誌に「ワシリチャシ」が記録されていないか、見たが、「白神海岸」に「赤ワシリ」、「三平ワシリ」、原口、小砂子のところで「ツバクラワシリ」、「メノコワシリ」という所が出てくるのみで、「ワシリチャシ」に関する記録は確認できなかった。

道南の中世ロマンを訪ねる:その5上ノ国・花沢館跡

2016-07-31 12:06:23 | 旅行
「国指定史跡 上之国花沢館跡」の石碑は持っている資料では、上ノ国消防署と花沢温泉付近の小公園となっているのでまず国道228号線から天の川の側にある花沢温泉を目印に進んだが・・・見渡しても石碑はない。あった石碑は歌碑であった。キョロキョロしながら、見ていたら、「何か探してますか?」と声をかけられ、「このへんにある花沢館跡」を探していることを話すと、「国道の方に戻って、すぐある・・・」というので戻った。
それは、木が繁っており、見落としやすい所であった。
史跡上之国史跡のうち花沢館跡
なだらかな坂道が見えたので歩いた。しばらく歩くと高台に土塁と広場があり崖側に、説明板があった。
入り口の道(この日の道は滑りやすくトレッキングシューズであれば滑らない・・・)

高台の説明版が立っている所
説明版

『15世紀和人・渡党と称される本州系の人々が北海道南部への進出の拠点として築いた道南12館といわれている館の一つです。
 この頃の渡島半島は津軽の安東氏が「下之国」(上磯~函館市附近)、「松前」(松前町を中心とした地域)、「上之国」(上ノ国とを中心とした地域)に守護(その地域を支配するのを任された人)を置いて支配していたといわれている。
下之国守護は茂別館、松前守護は大館、上ノ国守護は花沢館にいてそれぞれの地域を治めていた。
 本道最古の記録である「新羅之記録」には長禄元年(1457)のコシャマインの戦いの際に館主蠣崎季繁(すえしげ)と客将の武田信廣がこの館を固く守ったことが書かれている。
また、別の記録によれば小山隆政の館ともいわれている。
 昭和20年ごろ、頂上部が耕作された時、約2000枚の銭、近年、館跡後方部より15世紀の珠洲(すず)焼の擂鉢が多数発見されています。
      昭和52年4月12日文部省指定
       管理団体 上ノ国町』と館の地図も書かれています。