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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(90) 老子は、現代を探る道

2018年10月05日 14時29分19秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(90)  TITLE: 老子は、現代を探る道

書名; 「老子は生きている」 [1992] 
著者;葛 栄晋 主編 発行所;地湧社
発行日;1992.8.10
初回作成日;H30.9.28 最終改定日;H30.10.4
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 老子に関する本は、図書館にも豊富にある。しかし、どの本も同じような書き方をしているのが、老子本の特徴と言えなくもない。その中で、この書を選んだことには、2つの理由がある。第1に、執筆者がすごい。11人の中国の学会、政界、芸術界の第1人者と思しき人が,各章を担当している。第2に、全体にメタエンジニアリング指向がみられること。つまり、全体をMECI思考で纏められていることであった。そのことは「序言」に明確に表されていた。
 さらにもう一つ、読み進めてゆくうちに、この書はまさにメタエンジニアリング指向によって、「老子」という古代書に新たな価値をイノベートしたもののように、強く感じたことであった。このことは、次に示「序言」の第2項に明確に示されている。

・序言

 まず、「従来の研究の壁を破った3つの突破点」を示している。
第1は、『第一に、老序思想そのものを対象として研究する立場から、老子思想の現代社会心おける価値についての研究に着手したことである。これは重大な突破点だと思われる。長い間にわたって、老子および道家思想の研究においてはもっぱら老子思想そのもの、たとえば老子の哲学思想、文学・芸術思想、軍事思想、養生法、人生哲学などに注意が払われてきただけで、老子思想の現代社会における価値に目を向けた人は少なかった。 』(pp.3)

 第2は、『今までの老子思想の研究においては、それぞれの研究者の研究視座による単一分野の研究に限られていた。たとえば、老子の哲学思想の研究、文学研究、芸術思想の研究とか、漢方医学と養生法の研究、宗教思想の研究などなど。 これらの学間間の内在的関連を欠いていたため、老子思想に対する全体的統一像がなかった。本書では、単一学科の研究方式を突破し、各方面の学者の研究成果をまとめて、宇宙論、人生哲学、医学、気功、文学、芸術、科学、宗教などの異なった角度から老子思想の総合研究を試みたものであり、老子思想の全貌およびその内在的論理のつながりを再現し、さらにー歩進めて現代社会における老子思想の価値を明示し、老子思想の研究と現実の世界とを結び付けようとしたものである。』(pp.8)

 第3は、『「従来の学術書とよばれるものと大きく変えるように努力している。執筆に当たって、硬い政治的決まり文句や難しい学術概念、冗漫な古文的表現、つかみ所のない議論などをできるだけ避け、 面白い物語や典故、生活における実例を挙げて通俗的にわかりやすく面自く読めるような文章に努めた。』(pp.9)である。

 最も重要で、かつメタエンジニアリング指向が強いのが第1の視点で、そのことが各章に表れている。

第1章の要点は、次の通り。
『第一章「老子と人生哲学」では、人生に対する老子の深い洞察あるいは彼の言う「身は物より事なり」、「私欲を少なくす」、「柔弱は剛強に勝つ」などの人生哲学が現代社会に果たす有用性を説明している。現代生活においても、逆境におかれた場合、老子の人生哲学が有効に働けば人々を逆境から脱出させ、精神的バラソスを調節するはたらきを果たすことができる。老子を代表とする道家と、孔子を始祖とする儒家のそれぞれの人生哲学は人生の異なる両側面であり、互いに補いあい、いずれも不可欠であり両者ともなって完全な処世術を形成している。』(pp.4)(著者は、中国人民大学院教授)

第2章の要点は、『第二章「老子思想と漢方医学」では、漢方医学の基礎理論おょび臨床における老子(道家思想)の深い影響を明らかにしている。もし老子思想の理論的誘導がなけれぼ、漢方医学の発展は難しかったと言えよう。そして老子思想の影響を受けて発展してきた漢方医学、特に自然医学の志向するところは、世界保健機関が打ち出した、「西暦2000年までにすべての人類に健康を」という世界的な目標と一致しており、全人類の保険事業に大いに貢献すると目されている。』(pp.4)(著者は、北京中医学院教授)

第4章の要点は、『第四章「老子と中国文学の魂」では、中国現代文学と老子思想との関わりを歴史的淵源に重点を置きながら説明している。中国開放政策が実施されて以来、中国文学の世界に出現したイマジズムおよび朦朧詩派などは、意識表象の排列と組み合わせで言語表現できない人生の哲理を悟り、民族の未来を探し求めようとしている。こうした潮流にも二千年前の『老子』が深く関わっているのである。「道は自然に法る」という老子の思想は、陶淵明の『桃花源』を創作する素地を創り歴代の文人に山水詩を歌わせたりした。』(pp.5)
(著者は、中央民族学院語言文学研究所所長)

第5章の要点は、『第五章「老子思想と中国絵画」は、「正反の相成り」、「撲(ありのままであること)に返って真に帰す」などの思想や東洋絵画特有の空間観念、思惟様式、審美観、「云術的境地と個性を開拓し、中国絵画を世界絵画界の中で別に一派を成してきたことを述べている。
』(pp.5) (著者は、中央美術学院教授)

第6章の要点は、『「老子思想と企業管理」では老子思想と企業管理との関係を明示している。この章で紹介された山東省魯南化学工場、長江動力会社、アメリカのベル研究所、国際航空運輸企業家の揚小燕女史といった企業や企業人たちは、みな老子の思想を企業管理に活用して成功している。 老子の思想が治国と企業管理の成功秘訣の一要因だ、とそれらの経験は説明している。』(pp.6)(著者は、中国人民大学教授)

第7章の要点は、『第七章「老子と兵法」では現代戦争での戦術と老子思想との関係を説明している。老子は、「兵を以て天下に強たらず」と言って、戦争に反対し平和を主張する一方、「弱は強に勝つ」、「奇を以て兵を用う」、「勝ちて美とせず」という軍事思想と戦術を明示してくれたのである。現在も、これらの名言は依然として重要な戦略と戦術として有効である。 『老子』は人文科学の分野だけではなく、宇宙を探求する自然科学でも有意義である。現代科学は古代ギリシア科学と古典力学を基礎として発展してきたものだが、現在多くの科学者は西洋の伝統的な思惟様式ではなく東洋文化、とりわけ中国の老子思想から哲学の知恵と新しい思惟様式を探し求めている。現代科学が東洋文化に帰する過程において、老子思想が注目すべき役割を果たしている。』(pp.6)(著者は、中国社会科学院教授)

第8章の要点は、『第八章「老子と建築」では、老子の弁証法思想、特に「有無の相生ず」、「自然を尊ぶ」という思想が建築学に与えた影響を探求している。造園、寺院、陵墓、住宅などを含めた中国独特な伝統的建築物は、人工的建築と自然環境との調和を強調しており、「自然を尊ぶ」という老子の思想と一致している。現在、多くの建築家は、建築物自体を重んずるという西洋の伝統的建築概念に対する不満を持ち始め、 「有無の相生ず」、「自然に帰する」という老子の思想を現代建築の新しい理念とするようになっている。』(pp.7)(著者は、北京建築工程学院教授)

第9章の要点は、『第九章「道(たお)の亡霊と無の利学」では、「道」を中心とする老子の思想と現代科学の発展との関係を示している。「零」は中国人ではなくインド人に発明されたにもかかわらず、自然数を生成して行く理論を考察することを通じて、そこに老子哲学の「道」の存在を見出することができるのであろう。数学の「零」は「無」であり、そのほかの数字は「有」である。 このように、「零」と「無」は哲学的に結び付いてくるのである。』(pp.7)
 ここでは、更にホーキングの「無から宇宙が生じた」との発言との同一性を強調している。
(著者は、中国科学院自然科学史研究所所長)

・第1章、第1節「物より身を重んじる」


 この章については、最後に紹介するように、湯川秀樹さんが最重要視されている。
 功名と利益にいかに対処すべきかは、人生において、もっとも基本的な問題であり、諸子百家でも必ず論じられている。老子は、その中で最も基本的なことを述べている。

『老子は「名声と生命とはいずれが切実であるか? 我が身と財貨とはいずれが大切か?我がものとするのと失うのとはいずれが苦痛であるか? だから物に執愛すれば、生命をすりへらし、
くさん持っていれば、たくさん持っていかれる」(第四十四章)という。つまり、 人間にとっては、功名・利益よりも生命が大切である。というのも、功名・利益はあくまでも我が身以外の物でしかなく、功名・利益を獲得するために命を失っては、根本を捨てて末節を追い求めることになってしまうからであるという。 「物より身を重んじる」という老子の思想は、揚朱や荘子に受け継がれさらに発展した。』(pp.21)
そして、このことは、現代社会において格差を低減し、全体最適な幸福を求める道筋と思える。

・老子思想と企業管理

 従来の老子書は、兵法書、政治書、天文書、医学書、哲学書のいずれかの傾向にあった。この章(第6章)では、企業管理の立場から読み解いている。

『これらの見方はそれぞれに一理ある。今、我々は企業管理の立場に立って見てみると、『老子』 はそのための書だと見なすことができよう。というのも『老子』が哲学的な著作だということは公認されており、そこに培われている弁証法思想がそっくりそのまま企業管理に適用できるからである。さらに企業管理には政治的要素が含まれていることから、『老子』は政治の書だというのに同意する。』(pp.189)
 中身については、いろいろな例が示されている。

『『老子』の第二十七章を見てみよう。「善く言いて暇適なし」(発言するにしても乗ずるスキを与えない)というが、これは指導者の具えるべき素養について言っているのである。 「善く数えて籌策(ちゆうさく)を用いず」(計算するにしてもソロパンを必要としない)というが、これは計画管理についていっている。 「常に善く人を救う、故に棄人なし。常に善く物を救う、故に棄物なし」というが、つまり人の長所を活かせぱひとりとして見捨てられる人はなく、物を適材適所に利用すれば気ままに捨てられる物はない、という意味である。これは組織管理について言っている。「善く行いて、轍透(でつせき)なし」というが、行動するにしてもその痕跡を残さないという意味である。これは指揮について言っている。』(pp.190)

実例としては、『多くの企業では猫の手も借りたいほど忙しいと、ついつい課長のやるべき仕事もやってしまう工場長がいる。魯南化学肥料工場の場合、新工場長は、監督は俳優に代わって演技するわけではないように、優れた企業経営者は出すぎてはならず全体の指導をすれば それでよいと考えた。また自分は少しだけ仕事を「為」し、部下に多く仕事を「為」させ、自分は思想上の問題を多く「為」し、部下に実務を多く「為」させ、「君道は無為なり、臣道は有為なり」にのっとってみんなの積極性を呼び起こしたのである。』(pp.191)

さらに、老子が比較的軽んじられている日本では報道されなかったが、『一九八八年五月八日の中国の新聞 『光明日報』紙の記事によると、アメリカのレーガン大統領は―九八七年の一般教書で 「大国を治むるは小鮮を煮るが若し」(第六十章)という老子の言葉を引用して、たちまちアメリカで評判の名言となり、また『老子』も瞬時にその評価を倍したという。』(pp.192)

・「道(たお)」について

 しかし、どの書でも共通する言葉がある。それは「道(たお)」である。

『遺に道とすぺきは常の道にあらずC(第一章)。 「道」字は、『老子』の中で七三回使われている。もちろんそれぞれの章や句では意味の全部が全部同じでなく、ある場合には「道」は万物成長の本であり、あるところでは「道」は事物発展の法則と同義語となる。また、ある時には「道」は生活の原則や方法を意味するものとなっている。「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず」(同)というこの語句から見ると、老子は「道」に二種類あると考えてたようである。形態のないものと実体があるものとしての「道」である。言語で言い表せる「道」は恒常不変の「道」ではない。言語で「名」づけることができるのは恒常不変の「名」ではない。この一旬は人々を啓発するものである。』(pp.193)
 
「道」に関しての企業管理については、
『企業管理の哲学にも実は老子の言った「道の道とすべきは、常の道にあらず」という問題が存在している。すなわち企業管理に「道とすべき」もの、言状できる実体的管理もあるし、「道とすべからざる」もの、「常の道にあらざる」もの、言葉で表し難い管理もある。しかもそういう「道とすべからざる」管理のはたらきは「道とすべき」「名とすべき」管理よりはるかに大切である。もしこのように新たな管理方法が認識され実践されたら、一次元高いレベルの企業管理を達成することができるのである。』(pp.194)
これは、従来の方法から、新たに独自の方法を生み出すことを言っているように思われる。

企業文化については、
『企業文化とは、企業及びその従業員が商品を生産経営する過程において、社会での交渉のうちに所有した理念や価値観念、行動規則、総じていえば価値観である。』(pp.196)

これも従来の方法から、新たに独自の方法を生み出すことを言っているように思われる。

理念などについては、
『ある人は、企業文化という「道」はあまりにも茫漠としてつかみどころがないではないか、という。 たしかにそのとおりだ。それは老子の言う「窈たり寞たり」「寂たり穆たり」とニュアンスが似ている。しかし、企業哲学,社訓,経営理念とか呼ばれる企業文化は確かに存在しているのである。
現代の企業管理学によると、企業管理の内容には、観念や思想などを主とするソフトの管理と、 形となって現れ、言葉で言い表すことのできるもの、たとえば管理施設や管理方法、管理体制、管理データなどを主とするハードの管理がある。理性の価値観を内容とする企業文化はソフト管理に属している。そのソフト企業文化は機械設備を動かし管理方法を指導する役割がある。すなわち、ソフト文化はハード文化を規制し、ソフト管理はハード管理を支配し、ソフト科学はハード科学を導く。したがって「常の道にあらず」という「道」には限りない力があるのである。』(pp.196)

・「無為」について

 「無為」も、老子の老子たる代表的な表現になっている。このことを、企業管理に適用すると、こうなるというわけである。
 『「無為」という言葉も『老子』の中に少なくとも十回以上使用されており、重要繊単語である。まず明確にしておきたいのは、「無為」を「不為(何もしない)と誤解してはならないことである。老子の言った「無為」は「為」のため、つまり「為」を実現するためのスタンスである。「為」が目的であり「無為」が手段である。「無為を為せば、則ち治まらざるなし」(第三章)と言っていることがこの証明である。
『老子』第五十七章に「我無為にして民自ら化し、我静を好みて民自ら僕なり」とあり、また第二章に「無為に事に処り、不言の教えを行う」とある。要するに、老子 は「為」を主張しているのであり、「無為」の形で「有為」を為そうとするのである。したがって「無為」という思想は実は積極的なものであり、決して消極的なものではないのである。』(pp.199)

 『老子の「無為」と「自然」とが結びついて 「自然無為」になるわけである。 この「自然」
は自然界のそれではなく、自然の道理という息味である。老子は、「人は地に法(のっと)り、地は天に法り 、天は道に法り、 道は自然に法る 」 という名言を残してくれたが、「自然」は人、地、天、道がよりどころとする根拠であり、裏返せば人、地、天、道はみな自然に従うべきだという。』(pp.199)

・現代の科学的精神との共通性


 『『タオ自然学』という本では、東洋の古典哲学の科学的精神と現代物理学の変革傾向が一致していることを説明している。彼は、「道」、と「気」と現代物理学の「場」の概念との相似性を研究し、 あらゆる形式を生ずることのできる「道」と「気」が量子場に似ていると見なしている。

さらに『ターニング・ポイント』では、前作の方向に沿いつつ、さらに広く深く研究している。彼は現代世界の全面危機を機械論的世界観の危機に帰し、新しい世界観は古い「道」の概念と一致するとしている。そして『非常の知』という本では彼の思相の形成の過程が述べられている。その中で彼はこう 書いている。
偉大な精神的伝統の中で、私から見れば道家は生態に関する知恵について最も深刻で最も完全な説明を与えてくれる。それは、あらゆる現象の基本が、自然の循環過程における個人と社会の関係と同じであうことを強調しているのである。』(pp.284)

・宇宙の始まりについて

 『老子の宇宙論は、宇宙に「発端」があると構想する。この発端が「道」である。現代宇宙論は精級な科学として、老子がかつて推測した境地に歩みよってきた。宇宙創生についての老子の思想は もともと、神様が宇宙を創ったという宗教的迷信を打破するために出されたので、前人が至上の権威と見なした上帝は、老子によって混沌とした「道」の下に置かれたのである。同じように、科学的な宇宙創生理論は、「宇宙の外は無である」と見なして「無」に物理的意味を与えたのである。 宇宙問題において、これも神学の影響を取り除くための新しい努力である。』(pp.288)

 『我々は、『老子』第一章をこよなく理解した湯川教授の科学的精神を学ぶべきである。『老子』の 第―章は「道の道とすべきは常道にあらず。名の名とすべきは常名にあらず」という文章から始まっている。湯川教授はこれを次のように解釈したのである。
「本当の道、つまり自然の理法は、ありきたりの道、常識的な理法ではない。本当の名、あるいは概念は、ありきたりの名、常識的な概念ではない」
こんなふうに解釈したくなるのは、私が物理学者であるためかもしれない。十七世紀に、ガ リレイやニュートンが新しい物理学の「道」を発見するまでは、アリストテレスの物理学が 「常道」であった。ニュートン力学が確立され、それが道とすべき道と分かると、やがてそれ は物理学の唯一絶対の道とされるようになった。質点という新しい「名」がやがて「常名」と なった。二十世紀の物理学は、この常の道を越えて新しい道を発見することから始まった。

今日では、この新しい道が、すでに特殊相対論や量子力学という形で、常道になってしまっているのである。「四次元世界」とか「確立振幅」とかいう奇妙な名も、今日では常名になりすぎるくらいである。もう一度、常道ではない道、常名でない名を見つけ出さねばならない。そう思うと二千数百年前の老子の言葉が、非常に新鮮に感じられるのである。』(pp.288)