生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(15)旧 中島飛行機の工場 

2016年12月30日 11時16分29秒 | その場考学との徘徊
旧 中島飛行機の工場  

場所;東京都武蔵野市  年月日;H28.9.1
テーマ;IHI田無工場は昔し、・・・。

 私は、就職先として石川島播磨重工業を選んだ。それは就社ではなく、まさしく就職であり、ジェットエンジンの設計と開発をやることが目的であった。場所は、中央線の武蔵境駅から徒歩で15分ほど、まっすぐに北へ向かって、玉川上水を超えたすぐ先にあった。

 その田無工場は、戦争中からの古い建屋と運転場があり、当初から「ここは、中島飛行機の下請けの工場があった処だよ」との話を聞いていたが、具体的な歴史ははっきりとはしなかった。
今は、工場は福島県の相馬市に、事務所は西に移動して昭島市に移転して、跡形もない。

 偶然に、武蔵野市立「武蔵野ふるさと歴史館」で、「武蔵野にあった飛行機工場」のパンフレットを見た。旧中島飛行機の工場についての事柄がメインであったが、それは市内の別の場所である。しかし、何らかの情報があるのではと、期待して歴史館に向かった。



 
一般展示には、立派な縄文土器が多数展示してある。さらに、武蔵野台地を流れる、幾筋の川も地図で示されていた。玉川上水が、あれだけの距離(羽村から新宿の淀橋浄水場まで)を滑らかな勾配で自然にながれているのを、いつも不思議に思っていた。






 なかなかに、興味深い展示が続いたが、お目当ての場所についての展示は、係の人の助けを借りてようやくわかった。なんと、足元の床に大きな地図が示されていたのだ。しかも、田無工場の場所は、丁度別の展示パネルの真下で、それを移動しないと見えないところだった。




 地図は、床に印刷されているので、その場でははっきりとは分からない。こんな時には、最近の写真は便利だ。写した写真を明暗や、コントラストなどを調整すると、肉眼では見えなかったところが見えてくる。



パネルを丹念に見ていると、たった一枚だけ、思い出のある工場の棟並みが写っているものがあった。説明書きには、「1938年に、鋳造・鍛造部品製造のために建てられた、中島飛行機田無鋳鍛工場」とあった。最初は、子会社ではなかったのだ。しかし、直ぐに独立し、「中島航空金属㈱」となったとある。さらに、「中島飛行機で製造された発動機の試運転も行われた」とあるので、間違えがない。



勿論、地図に示された「豊和重工業」の場所は、ピッタリと一致している。それを見て、思わずほくそえんでしまった。

その場考学との徘徊(14) 青銅器に記された絵

2016年12月07日 08時31分43秒 | その場考学との徘徊
青銅器に記された絵 場所;奈良  年月日;H28.11.28

 橿原考古学研究所博物館の次の日には、天理博物館を見学させてもらった。正式名称は「天理大学付属天理参考館」となっている。天理は、桜井から始まる山の辺の道の終点(昔の話で、現在は北に延びて、奈良の新薬師寺方面まで続いている)なので、過去50年間に何度か訪れているのだが、ここは初めて。
 橿原考古学研究所博物館の説明員の方に、「付近で発掘された絵付きの土器の一部は天理の博物館にあります」と言われて、出かけることにした。
建物もさることながら、展示の規模も驚くほどのもので、時間が足りなかった。説明書の冒頭には、
『当館は、海外に渡り、天理教を広めようとする人々が、諸外国の生活習慣や歴史などの知識を深めるため、中山正善天理教二代真柱によって、1930年(昭和5)に創設されました。(中略)また、当然のことながら日本の文化に対する知識も持っていなければなりません。』とある。
確かに、布教もそうだが、私には布教の時よりは、国際共同開発などのビジネスの世界のほうが、このことはより重要さが増すと思う。布教の場合には、宗教の内容自身に共通の価値があるのだが、ビジネスの世界の価値は複雑である。それだけに、相互の文化の理解は重要さが増すだろうというわけなのだが。

 

 ところで、肝心の日本の古代の遺物は、広々とした3階のスペースにふんだんに並べられており、先ずはその規模に圧倒された。お目当ての「絵付きの土器」はすぐに見つけることができた。

 

 残念ながら、実物の多くは収蔵庫にあるようだが、分かりやすい説明があった。ここは、博物県ではなく、参考館の趣旨からいえば、実物よりは説明文のほうが重要なのかもしれない。



 埴輪も、色々な種類が並べられており、思わぬ収穫だった。

 驚いたのは、中国の殷と周の時代の青銅器の展示だ。奈良の国立博物館や京都の泉屋博古館に負けない、精巧な遺物が展示されている。中でも驚いたのが、この青銅器に描かれた絵であった。



「戦国時代の青銅器に刻まれた」「青銅器を使った饗宴の光景」とある。古い青銅器の多くは饕餮紋と称する図柄と、それを変形したものが多いのだが、このような現実の情景を描かれているものがあるのは、驚きだった。青銅器の部分をよく見ると、3本足の鼎(食物を煮炊きする)も爵(酒を温めたり、飲んだりする)もきちんと使われている。

 

 受付にもどると、多くの小冊子が並んでいた。中には、「殷周の青銅器」と題するものがあり、早速購入して、中身を確かめた。1995年に催された特別展の展示物だが、残念ながらこの絵がついた青銅器の図は無かった。説明員の人に尋ねても、「多分、地下の倉庫にあるのでしょう」との返事だけだった。




 設立の趣旨にあるように、主にアジアからオセアニア・南北アメリカの展示が多かったように思う。古代朝鮮の瓦の図柄で、高句麗・新羅・百済の特徴ある文様(日本のものは、やはり百済風)、台湾の先住民族の複雑な分布(20種類以上に分割されている)など、私にとっての新発見がいくつもあり、是非、再びゆっくりと尋ねてみたいところだった。

その場考学との徘徊(13) 土器に記された絵

2016年12月06日 20時18分25秒 | その場考学との徘徊
土器に記された絵

 先日、奈良を3日間歩いた。大学生時代に何度も大和路を歩き回った高校時代の同期の仲間との総会だった。橿原考古学研究所博物館、天理博物館、法華寺、海龍王寺、平城宮跡などを巡った。最近は、考古学の進歩が目覚ましいので、それぞれの地での、専門家の話は面白かった。
橿原考古学研究所博物館には、旧石器時代から奈良時代にかけての膨大な資料の一部が展示されている。私の興味は、ハニワと縄文土器だった。最近は、土器に記された絵の研究が盛んで、この研究所では多くの絵を組み合わせて、当時の祭りの様子をジオラマにしてしまった。だから、このジオラマには何となく真実味が感じられる。





 一方で、平城宮跡の建物は、地下に残された礎石や柱の跡だけで、建物の構造や全体像は正確には分かっていない。つまり、絵が残されていないので、当時の寺院建築などからの類推になっている。屋根の左右には鴟尾(しび)がついているのだが、唐招提寺などの当時の中国風をまねているだけで、実物はどのようだったか分からないそうだ。


 
 なんでもデジタルで残す昨今の風潮は、すべての建物が建て直されるであろう数百年後に、現在のデジタル画像しか残されていなかったら、同じことが起こるのだろうか。
 海底で発見された戦艦武蔵の復元画像を見た。膨大な数の写真から三次元画像をつくったようだ。縄文土器の多数の破片の組み立てと同じ技術なのだろう。人間が知りたいものは、アナログであり、結局はデジタルデータからアナログを復元することになる。
ポンペイの遺跡も、藤原京の木簡もアナログ状態での保存はもっぱら自然の力なのだ。デジタル時代に、アナログのまま残す技術は開発が進まない。

 新たに建てられた大極殿を見ても、当時の感慨は想像できないが、縄文土器の絵を間近に見ると、当時の手の動きまでが感じられてくる。21世紀がどのような方向に向かってゆくのか、楽しみだ。