生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングのすすめ(9) 第8話 持続的なInnovationにおけるメタエンジニアリングの「場」

2013年09月28日 09時10分45秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第8話 持続的なInnovationにおけるメタエンジニアリングの「場」

メタエンジニアリングの一つの目的はイノベーションの持続性の確保である。しかし、現時点において、それは思考過程のみのことであって総合的なことではない。イノベーションの持続性とは、実際のものやことのデザイン(企画を含む広義での)に関するエンジニアリングを総合的に考えるもので、思考過程はその一部分にすぎない。技術経営的な側面から考えると、その条件は既に多くの著書で述べられている。
そこで、一般論ではなく、あくまでも設計技術者としての経験から追加項目とでもいうべきでものを考えてみる。

① 特定分野のプロの技術力を伝承する仕組みを維持すること
② 技術的なチャレンジ精神を途切れさせないこと、この為にはかなり高度な夢の共有
③ 集中が途切れて、分散を余儀なくされた期間の資金他のリソースの確保
④ いざという時のリーダーシップが発揮できる土壌を維持すること
などであろうか。

また、思考過程については、発想法に問題があるといわれているのだが、私は工学的な発想については日本人独特の左右脳の使い分けと優れたスイッチング機能から、むしろ世界レベルからはずば抜けて優れているように思える。このことは、40年間に亘る国債共同開発の経験から思い当たることが数々ある。従って、問題は全く別のところにあると思う。その一旦は、次の著書に著されていた。

「なぜ、日本企業は「グローバル化」でつまずくのか」ドミニク・テュルパン/高津 尚志著 日本経済新聞出版社発行



この著書は、スイスの国際的ビジネススクールであるIMD学長で、日本への留学経験を持つドミニク・テュルパン氏が、日本企業への提言をまとめたものである。評者 内山 悟志が、日経コンピュータ 2012年7月5日号で述べた書評には以下のようにある。

 「日本の驚異的な成長に学びたい」──。そんな思いを抱き1980年代に来日したテュルパン氏は、その後の日本の凋落ぶりも内と外から見てきた。IMDが毎年発表する世界競争力ランキングで、日本は1980年代半ばから1992年まで首位を保っていたが、最新の2011年調査では59カ国中26位まで順位を下げている。その過程で自信を失ったためか、多くの日本企業が中国やインド、ブラジルなど新興国への進出で立ち遅れたと指摘する。
 著者はこの凋落ぶりの原因を、過度な品質へのこだわりやモノづくり偏重による視野狭窄、地球規模での長期戦略の曖昧さなどにあると分析する。根源には異文化に対する日本人の理解力不足があり、打開するには真のグローバル人材の育成が急務だと警鐘を鳴らす。
 スイスのネスレや米GEなどのグローバル人材育成の先進事例とともに、既に中国やブラジルなど新興国の企業でも人材育成に多大な資金と労力を投じている事実を紹介している。
著者はこれらの事例を踏まえ、日本企業が取り組むべき人材育成策を次のようにまとめている。人事異動をもっと効果的に使う、幹部教育を手厚くする、外国人も人材育成の対象にする、英語とともにコミュニケーションの型を学ぶ、海外ビジネススクールを有効に活用する、の5点である。特に「人材育成に国籍の区別はない」との考え方には強く共感した。日本人だけを集めて研修したり、特定の日本人を海外に赴任させたりするだけでは、本当の意味で多様性は芽生えない。異文化を理解する力は、様々な国や地域の多様な人材と共に学び、切磋琢磨するなかで育まれるものだ。」


ここには、従来の個別のエンジニアリングに加えるべきメタエンジニアリング的な項目が示されている。即ち、エンジニアの視野を社会科学的な範囲に広げる必要性を示している。
① モノづくり偏重による視野狭窄
② 地球規模での長期戦略の曖昧
③ 異文化に対する日本人の理解力不足
などで、何れも「これらに関して、日本の技術者ないしは、技術の指導者の知識と見識が足りなかった」と云うことではないだろうか。
 私は、エンジニアリングの立場から、これらについてエンジニアリング脳を使って根本的に捉えなおすことがメタエンジニアリングであると考えている。そして、これら7項目(前出の3項目プラス後出の4項目)がイノベーションの持続に関して従来以上に研究を進めなければならないことだと考えている。

 著書のまえがきで著者はこの様に述べている。
「当時(1980から1990年代前半)、日本の企業の多くはもう海外から学ぶものは無いという態度が強く見受けられました。どの企業も自信に満ちあふれ、どこかしら傲慢な雰囲気も漂っていた。結果的に日本企業は、工場管理に「よい常識」を持ちこんで非ホワイトカラーのマネジメントには成功したものの、それ以上の成果を出すことはできませんでした。さらにもっと苦手なのがダイバーシティー(多様性)のマネジメントでした。いまだに男女平等とは言えず、マイノリティー(少数派)の採用や活用には消極的です。
(中略)東洋と西洋の間の難しい異文化マネジメントをも相互理解に努めることで乗り越えようとしています。中国は急速学んでおり、今後十年間で世界経済において確たる地位を占めるであろうことは言うまでもありません。」
 著者は、自分以外の他者や異文化に心を開くこと、加えて、共感性(Empathy)を養い、おもいやり(Sympathy)をもって他を尊重することが不可欠と断じています。一見当たり前のことのようですが、実際に日本のエンジニアは、業務の遂行にあたって、或いは新製品の開発に際してそのような心持を持っていたでしょうか、おおいに疑問です。この様なことから筆者は、日本語での「グローバル化」とか、「グローバル人材育成」といった表現に疑問を呈しています。安易にカタカナにせずに、正確に「全地球的」とか「全地球的人材」という表現だと、もっと広範囲な思考に至るのではと指摘をしています。その意味において、日本企業のグローバル化におけるつまずきの原因を以下のように挙げているのです。
① もはや競争優位ではない「高品質」にこだわり続けた
② 生態系の構築が肝心なのにモノしか見てこなかった
③ 地球規模の長期戦略が曖昧で、取り組みが遅れた
④ 生産現場以外のマネジメントがうまくできなかった

以上は、すべてがエンジニアリングとは言い難いが、エンジニアリングが深くかかわることと、従来の日本人のエンジニアリングの視野が狭く全地球的戦略に疎かったことが主要原因であり、メタエンジニアリングの領域の話が大きな位置を占めているように思えるのだが、いかがであろうか。

(蛇足)
日本では、国際化とグローバル化という二つの言葉の意味が、全く異なるにもかかわらず混用されている。例えば、ある製品をどこかへ輸出したり、どこから輸入したりするのは国際化の観点で、当該品の全世界での流通の現状と将来性の解析からスタートするのが、グローバル化と言えるのではないだろうか。
そのことから出発をしないと、戦略は立てられない。(その場考学半老人 妄言)


メタエンジニアリングのすすめ(8) 第7話 比較文明学から見えてくるメタエンジニアリングの「場」

2013年09月26日 12時56分01秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第7話 比較文明学から見えてくるメタエンジニアリングの「場」

「近代世界のおける日本文明、比較文明学序説」梅棹忠夫著、中央公論新社 2000という著書がある。
国立民族学博物館で1982年から1998年まで開催された谷口国際シンポジウム文明学部門での梅棹忠夫氏の基調講演の内容が纏められているものだ。第10回のテーマは「技術の比較文明学」であり、その中で興味深い記述がいくつかあったので、メタエンジニアリングの研究の一部として考察を試みる。


 その前に、比較文明学について少し触れておこう。
梅棹は「比較文明学というような学問領域は、純粋に知的な興味の対象になり得ても、どのような意味でも、実用的な、あるいは、実際的なものにはならないであろう」と言い切っておられる。なんと工学と対照をなす領域ではないか。文明と文化の関係についての見かたは「時間的な前後関係をもつものと考えてよいのかどうか、すこし違った見かたをしています。(中略)文化というものは、その全システムとしての文明のなかに生きている人間の側における、価値の体系のことである。」としている。また、システム学とシステム工学の違いを、「システム工学は目的があるけれども、システム学は必ずしも目的を持っていない。「目的なきシステム」というものもあるのではないか」と記している。メタエンジニアリングは勿論目的を持つエンジニアリングであるが、その中に目的のないエンジニアリングを想定することが可能だと思い始めたところだったので、この言葉には深い印象が残った。どんなことになるのであろうか、興味が湧く。

 本論に戻る。従来の技術論の在りていに触れたあとで、「工学的な技術論では、原理や材料、性能の評価に重点が置かれております。現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点が抜けていたのではないでしょうか。」とある。技術者はそんなことは無いと否定するだろうが、確かに20世紀の技術の生産物にはそのようなものが多かったように思われる。一方で21世紀には入ってからの所謂イノベーションと評価されるものには、「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」が深く盛り込まれているのではないだろうか。逆の言い方をすれば、現実の社会に生活している人びととの関係からとらえていない新製は持続性に乏しいと云うことなのだろう。
 
続いて、日本の文明と技術に対する欧米の見かたを批判した後に、日本独特の事情についての評価が続く。そこには、工学者と異なる独特の見かたが存在する。
 現代日本はベンチャービジネスが不得意とされている。その為に色々な政策や方策がとられているのだが、彼の見かたは異なる。「日本の場合、19世紀前半までに小経営体がひじょうに発達していました。(中略)小経営体というのは藩だけではありません。旗本領、寺社領などもあります。ものすごい数です。それによって組織の運営というものがどういうものかということを200年以上にわたって経験してきた。」とある。当時の社会では同じような傾向はドイツに見られるが、その他の国々では顕著ではなかった。現代でも日本の中小企業は健在だが、江戸時期の様な地域の殖産興業にはなかなか結びつかない。これは経営論だけの問題ではなく、文化という視点から見ると、工学と技術の力が昔ほど旨く社会(特に地域社会)に及んでいないということではないだろうか。勿論、現在でも事例は多数あるのだが、それによって一国(今でいえば県だろうか)の財政が豊かになるほどのものは無いようである。
 また、総合技術についても、「日本の技術がうまく展開してきた背後には、総合技術の存在があったということも重要な要素ではないかと考えております。大仏建立や道路網の建設においても、総合技術がすすんでいたのではないかと考えます。」このような人文科学的な見かたからは、通常のイノベーション論とは全く異なった見かたが出てくる。メタエンジニアリングでの考え方に、大いに取り入れるべき方向性ではないだろうか。

 個人主義と集団主義についての見かたは、「欧米と日本では個人主義のありかたがちがうのだと考えています。(中略)欧米の個人主義は豆つぶをあつめたみたいなもの。豆と豆との間には空気しかない。日本の個人主義は粒と粒のあいだを柔軟に拘束するものがあり、全体がゲル状態になっているのではないか。個人と個人をむすびつける文化的、心理的な要素がひじょうにたくさんあるのです。」
この見かたはその通りだと思い当たるふしがあるのだが、必ずしも利点とは言い切れないと思う。論理的な議論を正しく進める為には、マイナスに働くこともある。

 技術の移転については、「部分的技術の導入はできます。しかし、全体の文明システムとして移転しようとおもったら、まずできないのではないでしょうか。」と断言されている。中国は、皇帝と官僚による非常に長い支配体制があり、インドのカーストと女性解放問題、韓国の両班組織の問題など、基本的な社会の伝統を較べて日本が有利であると結論している。「中国のひとは人間操縦術みたいなものにたいへん熱心です。それは中国文化全体をつらぬくひとつのプリンシプルであると思います。人倫の話です。日本は人倫のことはあまり興味を持っていないようです。物をどうするか、これが日本技術の根底にあるのではないかとおもいます。」
 技術の情報化についても示唆に富んでいる。比較文明学の見かたでは「差異化とか付加価値化とかいろいろな表現がありますが、それらをすべてひっくるめて「情報化」ということばでくくれるのではないでしょうか。いまや技術は必要を満足させるという話ではなくなっています。(中略)技術の芸術化、あるいは技術の自己目的化が始まっている。日本技術はそこへきております。」である。1990年代の初頭にすでにこの様に技術のゆく先を見極めておられたことには驚きを感じる。

 大分引用が多くなってしまったが、以上が比較文明学者の日本の技術についての見かただとすると、メタエンジニアリングが取り組むべきいくつかの問題が見えてくる。
① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
② 「目的なきシステムというものからスタートをする」
③ 「技術の芸術化が始まっている」
④ 「技術の自己目的化が始まっている」
などのキーワードになると思う。
 
これらをメタエンジニアリング的に捉えるならば、次のようになるであろう。
① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
⇒人文科学や社会心理学などの見かたを取り込み、これをエンジニアリング的論理性で解釈を進める。

② 「目的なきシステムというものからスタートをする」
⇒目的なきシステムは工学の新分野になり得るのか? 形而上学的な発想との関連が想定されるので、メタエンジニアリングの根本としての研究対象になると考える。

③ 「技術の芸術化が始まっている」
⇒人間国宝の工芸家は、芸術の側で優れた工学を取り入れている。その逆はまだ不十分なので、考える余地は大いにある。

④ 「技術の自己目的化が始まっている」
⇒様々な技術論の中には、技術のための技術論もある。手段の目的化が進んでいるのであろう。あくまでも、最終目的をただ一つの目的として追求せねばならない。

以上のように、比較文明学という視点から技術を見ると、新たな切り口を見つけることができる。このプロセスがメタエンジニアリングの一つの特徴となっている。現代の機械化文明は、多くの工学という文化が、その時々の社会の要請に従ってほど良く調和をして文明としての形態を作りだしている。しかし、一部の工学が自己目的化すると、その調和が破られることになり、文明の衰退が始まるとも考えられる。そのような考えに至ると、従来とは別の視点からもメタエンジニアリングの必要性が明確になってくる。

白露 大気が冷えてきて、露ができ始めるころ(9月8日から22日ころまで)

2013年09月20日 08時53分14秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
中秋の名月と月下美人

 立秋と秋分に挟まれた二つの季節の処暑と白露はあまり馴染みの無い呼称だ。ちなみに、朝露からはここ八ヶ岳南麓ではほぼ年中恩恵を受けている。特に真夏の芝生は、このおかげで雨が降らなくても緑を保っているようだ。芝の植え付けは梅雨時と決めていたが、その頃には売り切れることが多い。梅雨前の晴天続きでも、植付けた芝を2週間ほど放置したが枯れることはなかった。朝露のおかげだ。
 今年の中秋の名月は9月19日。この日が丁度満月になるそうで、今後何年間かは旧暦の15日が満月にはならないと知った。また、旧暦の8月15日は毎年仏滅であることも、同時に知ることができた。ともに旧暦の面白い勘定方法のせいなのだ。
 ところで、この日に偶然に我が家の月下美人が開花をした。今年3度目の開花だ。前回は約2か月前。年に2度咲くことはあっても、3回は珍しいようだ。



ストロボ無し(上)、と有り(下)

 昔は、この花が咲くと大騒ぎをしたものだが、さすがサボテン科クジャクサボテン属だけあって、元気な葉を挿し芽をすると直ぐに成長を始めるので、株数がどんどん増えてしまい、その分有難味はどんどん減ってしまった。しかし満月の下のこの花は、特別な雰囲気を醸し出してくれた。残念なことは、二つを同時に撮影する構図はどうやっても出来ないことだ。特に、満月の写真は通常のデジカメでは難しい。太陽のようにのっぺらぼうの丸になってしまう。後でいくら修正をしてもお月さまの模様は出て来ない。そこで考えたのが、翌朝の日の出前のタイミングだ。空が明るくなり、月が沈む直前ならば旨くゆくかも知れないと、早朝のウオーキングにカメラを持って出かけた。これは成功だった。そこでやっとこの題名が出来上がった。


夜半の月(上)と、日の出前の月(下)

 この花は、陽が落ちてかなりの時間が経ってから開花し、翌朝には萎むと云われている。しかし、第1回の開花では、昼過ぎまで開花のままだった。今回は朝日を待たずに萎み始めてしまった。やはり、3回目ともなると元気は随分と落ちてしまうのだろう。Wikipediaには、「開花中の花、開花後のしぼんだ花ともに食用にでき・・・」とあるのだが、未だ試したことは無い。
 

メタエンジニアリングのすすめ(7)第6話 科学と工学と技術を繋ぐ「場」

2013年09月18日 10時02分59秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第6話 科学と工学と技術を繋ぐ「場」

メタエンジニアリングの場について、最近発行された3冊の書籍からの発想を試みる。福島の原発事故の直後に発行された本は、科学と工学と技術の関連の明確化、従来よりも広範囲の分野に思考範囲を広げる必要性の認識など、メタエンジニアリング的な視点からの記述が目立つ傾向にある。そこで次の3冊を選んだ。

① 「災害論―安全工学への疑問」加藤尚武著、世界思想社(2011.11)


 この本は、4月14日の日経の記事「科学の見直し、文化の視点で」で紹介されている。著者の加藤尚武氏は、原子力委員会専門委員として有名であるが、あの「ハイデガーの技術論」の著者・編集者であり、哲学的な見方の代表例として紹介されている。記事には「危険な技術を止めようというのは短絡的。今やるべきなのは多様な学問分野から叡智を結集し、科学技術のリスクを管理する方法を考えることだ」「合理主義が揺らぐ中で科学のありようが問われているだけではない。哲学もまたどうあるべきかを問われている」などが引用されている。哲学者は、認識のありようを考察するなかで、科学者同士のずれを調整する役目を担えるそうだが、それはメタエンジニアリングの役目でもある。
実際に読み始めてみると、「まえがき」の最後は次の文章で結ばれている。
「学問と学問の間の接触点に入り込んで問題点を探し出す仕事を、昔は、大哲学者がすべての学問をすっぽりと包み込む体系を用意してその中で済ませてきたが、現代では、「すべての学問をすっぽりと包み込む体系」を作らずに、それぞれの学問の前提や歴史的な発展段階の違いや学者集団の特徴を考え、人間社会にとって重要な問題について国民的な合意形成が理性的に行われる条件を追求しなければならない。それが現代における哲学の使命である。」とある。
 加藤氏は、いわゆる哲学の京都学派の重鎮で日本哲学会の委員長も務められた。私は、哲学の使命についてはコメントできないが、上記の「学問をすっぽりと包み込む」ことはやはり、メタエンジニアリングの役目だと思う。このことを、哲学者の目とは異なる実社会に役に立つものを考え、実践してきたエンジニアリングの目で見ることが、メタエンジニアリングの最重要機能だと考えている。

②「あらためて学問のすすめ」村上陽一郎著、河出書房新社(2011.12)



村上氏は、東大教養学部で科学史、科学哲学を収め、多くの大学で教授を務めた後、東大と国際基督教大の名誉教授で趣味の多様さで有名な方だ。第4章の「環境問題の難しさ」に興味をひかれる。やはり、「まえがき」の最後の言葉にはこの様にある。
「メッセージの主題は、世間の「通説」を簡単には受け入れず、ものごとをできるだけ色々な点から見ては、ということの「すすめ」を目指して書いておきます。それがどこまで成功しているか、は、読者のご判断にお任せします。」とある。これも、まことにメタエンジニアリング的な発想だと思う。

③「サステイナビリチー・サイエンスを拓く」大阪大学イノヴェーションセンター監修(2011.5)



 大阪大学が題名にある名前のCOEを2006-2010にわたり行った結果の纏め。イノヴェーションと特に環境問題についていくつかの論文が体系的に纏められている。メタエンジニアリングとの接点は、第5部の「オントロジー工学によるサステイナビリティー知識の構造化」に見られる。曰く、
「オントロジィーの重要な役割は、知識の背景にある暗黙的な情報を明示するという点にある。(以下略)」
又、終章の中では「社会のビジョン(マクロ)と、個々の科学技術シーズ(ミクロ)を効果的につなぎ合わせるための理論的・実践的研究、すなわちメゾ(中間)領域研究の開拓である。(中略)学術的に見ても、このメゾ領域を対象とした理論的研究は未開拓であり、ビジョンと科学技術シーズを有機的につなぐための学術領域を発展させることが求められるのである。」

 そのコンセプトは異なるが、目的とするところはメタエンジニアリングと同じであろう。


・メタエンジニアリングの定義について

かつてメタエンジニアリングは、「様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱える地球社会、及び各分野が個々にあるいは複合的に活動する科学・技術分野を俯瞰的にとらえ、個々の科学技術分野の追究・及融合、あるいは社会価値の創出ばかりでなく、地球社会において解決すべき課題の発見、そしてより的確な次の社会価値創出へとつながるプロセスを、動的且つスパイラルに推進していくエンジニアリングの概念」として定義された。しかし、「現代の地球社会が様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱える、」に至った過程を考えると、この前ばかりに注目する姿勢だけでは根本的とはいえないように思えてくる。即ち、上記の定義だけでは顕在化した或いは潜在的な課題が増えつづけてしまう可能性が否定できない。
根本的ということは、事前に「将来の地球社会が様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱えることを防止する」という機能が必要である。つまり、課題を発見してそれを解決すのではなく、予防をすることがより根本的であると云えよう。これは、品質管理の歴史において、検査による管理から、その上流の原因を排除する工程管理に移行したことと同じ道筋である。そしてなにより、この追加の定義は当初の提言にある「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す」ということと全く矛盾しない。
この様に考えた上で、もう一度定義を見直してみよう。「地球社会において解決すべき課題の発見、そしてより的確な次の社会価値創出へとつながるプロセス」における「解決すべき課題」の中に、予防という概念を込めれば、そのままでも良いという結論も導くこともできるであろう。

そこで、次のような新たな定義を試みる。
「様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱える地球社会、及び各分野が個々にあるいは複合的に活動する科学・技術分野を俯瞰的にとらえ、動的且つスパイラルに推進していくエンジニアリングの概念の基に、次の二つの方向を目指す。
① 個々の科学技術分野の追究・及融合、あるいは社会価値の創出ばかりでなく、地球社会において解決すべき課題の発見、そしてより的確な次の社会価値創出へとつながるプロセスの確立。
② 社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直すことを通じて、将来の地球社会が様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱えることを防止する。」

メタエンジニアリングの概念は未だ生まれて間が無いので、定義というよりは目指すべき目的と方向とするべきであろう。





メタエンジニアリングのすすめ(6)第5話 メタエンジニアリングの主機能

2013年09月17日 08時33分03秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第5話 メタエンジニアリングの主機能

 日本工学アカデミーが2009年11月に出した提言によれば、
「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」を『根本的エンジニアリング(英語では、上位概念であることを強調して Meta Engineering と表現)』と名付ける、である。従ってその主機能は、「俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合あるいは収束を根源的に捉え直す」との命題に答えるための広義のエンジニアリングの実践ということになる。

 この主機能に沿って様々な機能を列挙してみよう。「科学技術の上位概念」とは何であろうか。「俯瞰的視点」とは、「潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合」とは、「科学技術の収束」とはなにかなどの中味を推測するところから始めてみる。

・「科学技術の上位概念」とは、

 科学技術という4文字熟語は、日本語独特の表現のように思う。科学と技術の連続性を強調するためだろうか。だとするならば、その目的は人の役に立つ技術の創造であろう。すると社会科学と人文科学は、科学技術の上位概念とも考えることができる。特に、ことエンジニア(ここでは、工学者と技術者の総称)にとっては、その成果が活かされる場であるとして、上位概念にあたる場合が多いように思う。また、その中にあって、特に社会学、生理学、比較文明論などは上位概念として捉えるべきであろう。更にその上位概念としては、哲学と形而上学が挙げられる。特に、哲学は今後エンジニアがイノベーションなど全世界の文明に影響を及ぼす可能性を秘めた新たなもの・ことを考える場合には、もっとも重要な上位概念にあたると考えられる。

(蛇足)
科学技術という熟語に関しては、その記述に関して様々な意見が見受けられる。科学と技術とか、科学・技術とかがその例となっている。私は、現代日本におけるイノベーションの停滞の一つの原因が、この熟語の定義の曖昧さにあると考える。つまり、科学の範疇に留まって、技術の実践に至っていないものまでも科学技術と表現をすることが多いようである。
福島原発の事故原因やその後の処理についても、科学、科学者といった言葉が頻繁に登場する。しかし、現実の問題を引き起こしたのも、これからの事後処理を行うのも技術の力が圧倒的な重要度を占めるはずである。科学なのか、技術なのか、実践の最後まで責任を持つ科学技術なのかを明確にする必要性を強く感じている。

・「俯瞰的視点」とは、
 
科学も技術も複雑化が進む中で、もの・ことを纏める為には必然的に俯瞰的な視点が必要になってきた。しかし、世の中の諸事情は単に俯瞰的では済まされなくなった。最大の理由は変化のスピードだと考える。俯瞰的な見方から出発しても、そこに留まる限りに置いて、これからの変化のスピードとグローバル競争には勝つことができない。俯瞰的の次のステップが重要になる。それが、融合・統合といった形になる。
俯瞰的視点については、科学技術振興機構の研究開発戦略センターが2010年に発行した「研究開発戦略の方法論」のなかで詳しく述べられている。具体的には、「領域俯瞰図」として一章を設けて説明されている。しかし、その章でも述べられているように、これは全てを包含する俯瞰図ではなく、JSTが目下研究対象としている学問分野であるやに見受けられる。メタエンジニアリングを語る場合には、前出の上位概念を含むさらに広範囲の俯瞰であるべきであろう。


・「潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合」とは、

昨今の世の中の繁忙の中で、潜在的社会課題の発掘はさして難しいことではない。そのことは、専門分野の常識に拘らずに、俯瞰的な視点に立てば、おのずととめどもなく現れてくる。問題は、課題の選択方法と科学技術の結合にある。この場合の科学は自然科学だけではない。社会科学も人文科学も同じ土俵にあると考えるべきであろう。この意味は、次に示されるMECIサイクルの①と②のプロセスが全てを表している。

・「科学技術の収束」とは 
かつての社会は、新たな機能を付加されたこと・ものの技術の収束を限られた専門分野の中で判断をしてきたと思う。メタエンジニアリングにおける収束は、あくまでも俯瞰的な視点での収束であるべきと考える。
これも、MECIサイクル図の③のプロセスで示されている。つまり、次のステップである「社会価値の創出と実装」に連続して進まなければ、その価値は認められない。


・メタエンジニアリングの諸機能(順不同)

(1)個々の科学技術分野の追究及び融合、あるいは社会価値の創出
(2)地球社会において解決すべき課題の発見
(3)より的確な次の社会価値創出へとつながるプロセスを、動的かつスパイラルに推進してゆく
(4)科学技術分野を超えた上位概念の追究及び融合、その結果としてのより正しい社会価値の創出
(5)社会と技術の根本的な関係の現状を根源的に捉え直す
(6)様々な公害の発生や地球環境の劣化、更には文明の衰退を防止する

 それでは、これらの機能を充分に果たすために必要不可欠な準備とはどのようなものであろうか。順不同で列挙する。

(1)エンジニア自身のより高度な責任感の認識
(2)エンジニア自身の認識過程における、社会学、生理学、比較文明論などの上位概念の導入
(3)思考過程の最終段階における、哲学(将来にわたって普遍的に正しいと云えるのかどうか)に基づく推敲
(4)異文化への理解と自らの文化に対する より合理的な判断

以上の議論は、やや抽象的であるというご批判は甘んじて受けなければならない。抽象的な事柄をはっきりと認識したうえで戦略を練り、具体的な戦術を展開してゆかなければならない。
その場考学半老人 妄言

メタエンジニアリングのすすめ(5) 第4話 工学の上位概念としての「場」

2013年09月16日 08時01分25秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第4話 工学の上位概念としての「場」

工学(Engineering)は、従来「社会にとって必要とされるものをつくるためのもの」と考えられてきた。Wikipediaには次のようにある。

概要 日本の国立8大学の工学部を中心とした「工学における教育プログラムに関する検討委員会」の文書(1998年)では、次のように定義されている。工学とは数学と自然科学を基礎とし、ときには人文社会科学の知見を用いて、公共の安全健康、福祉のために有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問である。[3]工学は大半の分野で、理学の分野である数学・物理学・化学等々を基礎としているが、工学と理学の相違点は、ある現象を目の前にしたとき、理学は「自然界(の現象)は(現状)どうなっているのか」や「なぜそのようになるのか」という、既に存在している状態の理解を追求するのに対して、工学は「どうしたら、(望ましくて)未だ存在しない状態やモノを実現できるか」を追及する点である[4]。あるいは「どうしたら目指す成果に結び付けられるか」という、人間・社会で利用されること、という合目的性を追求する点である、とも言える。

Engineeringのもう一つの意味である技術は、工学の成果を用いて様々な社会の要求に答えて現代社会を作り上げた。即ち、近代工業文明である。一方で、約2世紀間にわたるこの文明の発展により、地球環境問題をはじめとする多くの問題が生じてしまった。現代では、世の中の全ての人間の活動は工学の成果なしには成り立たない。政治、経済、文化、宗教、生活等、すべてエンジニアリングの成果を用いて成り立ち、かつ持続的発展の可能性を保っていると云うことができる。そして、遂には地球の未来にまで影響を及ぼすことが明らかとなった。
 このことは、第2次世界大戦の前後にドイツの哲学者のハイデッガーが「技術への問い」という論文の中で述べている。近い将来に技術が世界の全ての人間活動のもとになるであろうとの説であった。つまり、エンジニアリングというものが、社会の一部であったものから、世界全体を占めることになってしまったわけである。 

そのような状態下で、エンジニアリングは従来の考え方だけで良いのであろうか。つまり、そのときどきの社会が求めるものを実現させるものを、単に作り続けることの危険性の増大をどのように排除してゆくかである。極端な言い方をすれば、社会がエンジニアリングの内にある、と考えた場合のエンジニアリングの定義の問題が生じる。

 もう一つの大きな問題は、グローバル化による変化のスピードの問題だ。現在のイノベーションは、iPadなどに見られる如くに即日中に全世界に広がってしまう。もし、従来の数々の事例にあるごとくに、公害や副作用があった場合には、その影響はもはや限られた地域に留まることはない。したがって、この様な状態は、エンジニアリングの増長ばかりではなく、責任の重大さが以前にまして数十倍、数百倍になったことを示している。メタエンジニアリングにおいては、まずこのことの認識が必要であろう。

 このことを、古代ギリシアにあてはめてみた。ソクラテスやプラトンが社会現象を色々な見方で分析をした結果が、アリストテレスに引き継がれた。彼はその先を突き詰め、倫理的な考えを経て、全ての根源を考える学問としての形而上学を始めた。当時の自然学(Phisica)の元を解明するためのものとして、それはMeta-Phisicaと命名された。この形而上学は中世に至るまで学問と哲学の分野で進展をしたが、現実世界とのかい離が大きく近代社会では重要視されなくなってしまった。しかし、現代社会は再び根本に戻らなければならない時を迎えているのではないだろうか。


 この様な経緯から私は、これからのエンジニアリングは、従来のEngineeringと並行して、Meta-Engineeringという考え方が新たに必要であると考える。
 
・現代のエンジニアリングの流れ

社団法人日本工学アカデミーの政策委員会から、2009年11月26日に出された「我が国が重視すべき科学技術のあり方に関する提言~ 根本的エンジニアリングの提唱 ~」という「提言」では、「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」を『根本的エンジニアリング(英語では、上位概念であることを強調して Meta Engineering と表現)』と名付ける、としている。

この提言に基づいて発足したアカデミー内の部会では、メタエンジニアリングの実装を目的とした議論が続けられているが、私はその内容がやや狭い範囲に留まっているという印象を持っている。すなわち、メタエンジニアリングの主機能を新たなイノベーションの発見と持続にのみ求め過ぎているように思われる。それ自身は必要かつ、特に現在の我が国にとって大切なことなのだが、メタエンジニアリングという言葉はもっと広義の新たなエンジニアリングでなければならない。私は、提言にある「上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」という部分を強調してゆきたいと考えている。

19世紀から盛んになった現代の工業化社会の文明は、20世紀終盤から一気に情報化社会、更には知識社会へと変貌をしている。知識社会文明という言葉はまだ一般的ではないが、早晩21世紀の文明の座を得るであろう。
その中にあって、現代の工業化社会文明の最も基礎的な部分を担ってきたEngineering(工学と技術)は、従来のままで良いはずはない。知識社会文明に対応した新たなEngineeringが必要となるであろう。それをMeta- Engineeringと定義してみようと思う。

この発想は、数年前に聞いたある先進的な学会での高名なパネリストの発言に端を発している。すなわち「私は自然科学者なので、社会科学者のおっしゃっている言葉が良く理解できません」というものだ。工学の多くは自然科学に依存している。そして、現代の全ての人間活動はエンジニアリングの生産物の上に成り立っているといっても過言ではないであろう。しかし、近年のグローバル化の急激な進展においては、エンジニアリングの特に広義の設計(デザインというべきか)の結果は、社会科学的、人文科学的かつ哲学的にも正しいものでなければならない。そうでなければ、人間社会の持続性が危ぶまれる事態になりつつある。過去における様々なEngineering Schemeが引き起こした、副作用や公害や更には地球の持続性を脅かすような経験は、もはやこれからのEngineeringには許されない場面がより多く存在することになるであろう。そして、知識社会文明における新たなエンジニアリングとしてのMeta- Engineeringは、先ずは、現在の社会に存在する様々なイノベーションの結果をMeta- Engineeringの眼で見なおしてみることから始めてはどうであろうか。

・メタエンジニアリング導入後の流れ


例えば、便利さを求めてひたすらデジタル化を進めることにより、連続的(つまり、アナログ的)にものごとを捉えて深く考える習慣の欠落、日本の品質という名のもとに、ひたすら品質の完全性を求める姿勢、競争に勝つための技術的な進化の過程におけるWhat優先の弊害としてのWhyの伝承不足などは、「上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」という見地から観察をすると、考察の余地が身の回りのそこここにあるように考える。

これらの例はごく卑近なものなのだが、技術の上位概念を人文科学、社会科学、心理学、生態学、さらには哲学にまで広げると、メタエンジニアリングに付託すべき新たな課題は現代社会に無数に存在しているのであろう。



メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(12) 第9話 日本人の工学脳(その2)

2013年09月15日 15時00分09秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第9話 日本人の工学脳(その2)

この著書(「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行)の応用編と言おうか関連図書として、次の2冊を通読した。詳細は省くが、
① 「日本人の表現心理」 芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行は、日本人の個人間のコミュニケーションについて、その特徴を様々な観点から考えて、人文科学や社会科学を追求する上での、この方面の研究と知見が大切であると云うことを述べている。



② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会 は、アメリカ人の専門家が、人間の性格と社会構造には深い関係があると云う前提のもとで、日本とアメリカにおける個人間のコミュニケーションについての違いの詳細な仮説を立て、そのことを様々な実験を通じて説明したものである。



何れの著書も、技術者の日常の専門業務とは縁が無いように見られがちであるが、技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、国際共同作業等にあたる際には、きちんとした認識を持つべきであろう。

 脳の働きとコミュニケーションにおける日本人のこの様な特異性は、メタエンジニアリングにとっては両刃の刃と云えるのではないだろうか。技術者といえどもその表現方法に日本人独特のものが存在することを念頭に、日本人独特の左脳をもっと鍛えて、右脳とともに利用すべきであろう。このことを更に発展的に考えてみたい。つまり、「独特の左脳とメタエンジニアリング」についてである。期待する結論は、日本人の独特な左脳を積極的に利用することにより、西欧文化からは絶対に出て来ない高度なイノベーションを発想することができるであろうということである。

自然が出している様々な発信によるサインを、科学技術を思考する左の脳に直接インプットできるのは、日本人の脳のみであることは、ほぼ明らかなようである。このことから少し大胆な仮説を立ててみることにする。日本独特の文化を考えてみる。茶道や華道は自然の音や形を左脳的に理解できることに大きく依存しているのではないだろうか。また、能や歌舞伎は楽器音よりも、自然音を重視しているように感じる。日本食と、中国料理や西欧の各種料理の違いも然り。アニメーションの世界でも、デズニー作品とスタジオ・ジブリの作品の差における自然表現の差は歴然としている。デズニーがいかに自然を旨く表現をしようとしても、スタジオ・ジブリには遠く及ばない。これらはすべて、日本人独特の左脳の働きによるもので、日本人がこのことを無意識に利用してきた結果ではないだろうか。
メタエンジニアリング的に考えてみよう。
血液型により性格や考え方やものごとに対する反応が異なる、と意識するのは日本人独特であると云われている。四季の移り変わりを強く意識する感覚も、あきらかに無意識的に存在している。これからの高度なイノベーションは自然をいかにうまく利用するかにかかっていると考えるときに、これらの事実は重要である。
例えば、地震予知や津波予知に関して適用してみよう。現在は物理現象として捉えて様々な研究が進められて、膨大な観測機器や研究費にリソースが使われている。これらは純西欧的な発想であり、結果としての現状は、予知どころか予測もままならない。しかし、これらの原因は自然の変化である。プレートの界面では数十億年にわたって巨大な力が作用していることに間違いはないのだが、果たして物理現象だけであろうか、化学的或いは生物学的(有機化学的)なサインは無いのであろうか。また、界面の現象は、機械工学的には低サイクル疲労のように思えるが、その際にはAE(アコースチィック・エミッション)が発せられる。地上や海中のある種の生物は、このプレート界面が発するAEの変化を感知できているのではないだろうか。特に、地殻変動が激しかった古生代からの生き残りの種には、そんな特性が残されているような気がする。このことは、前述の角田氏はその後の著書で、人間自身にも備わっているのだが、もはや自らは感じることは無く、脳の働きを調べる精密な測定器によってのみ実証されているとしている。

日本人的に四季の移り変わりを山や森の中で眺めていると、それによる変化は動物よりも植物の方が格段に激しく、かつ迅速であることに容易に気が付かされる。落葉樹の変化は、犬の抜け毛とは比較にならない。つぼみが出来て、花が咲き、受粉をして種子が一人前になった親株を離れるまでの変化とスピードは、高等動物では到底できない早わざと感じる。もっとも細菌や下等動物は除いてであるが。

まだ、考え始めたばかりであり系統的に纏めることはできないが、メタエンジニアリングによる発想(MECIサイクルのM(Mining)の段階)では、日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がることは間違いがないように思われる。メタエンジニアリングは、この面でのより科学的な活動を促進することに役立つのではないのであろうか。

 聊か本論を外れるが、「母音に関する日本人の脳の特殊性」について、なぜ母音の理解が左脳だと、自然界のものや音に関する事柄まで、左脳に移ってしまうのかを考えてみた。私は、日本人特有の考え方は、和辻哲郎の有名な風土などの著書から、その歴史的な風土が大きく影響をしていると信じていた。四季折々の環境の変化の一方で、歴史始まって以来の安定した単一民族の単一国家の日本教という下での風土が、大きく影響をしていることに間違いは無いと思う。(この説は,近年大いに見直されているが、特有の日本語を話すようになってから、既に長い年月を経ているので、こkでは単一民族とした。)




しかし同時に、角田氏の母音説にも説得力を感じざるを得ない。特に、欧米人のみならず、中国・朝鮮人、果ては日系二世までも、同じことが当てはまらないと云う実験結果には説得力がある。この理論は、かなり古いものなのでその後に専門学会でどのように扱われたかはわからなかった。しかし、Internetで調べてみると、どうも最近に至るまで人気の書籍であることが分かった。 (その後、角田氏の著書を新たに4冊読む機会があり、さらに進んだ新たな知見を得たが、そのことは長くなるので別途述べることにする。)

 角田論理を前提として、技術者の資質について考え直してみよう。このことは、つまり日本人特有の脳が、世界中の他の人間が、本来右脳で全体的にややぼや~と捉えて、そのときその場での直感で判断すべきものを、始めから左脳ではっきりと捉えてしまうということではないのだろうか。そのように解釈をすると、色々なことに思い当たる。第1は、日本の技術者が、全体最適を忘れて、部分最適に陥りやすいこと。第2は、戦略が不得意で、戦術や戦闘が得意なこと。第3は、茶道・華道などの何々道という体系が沢山存在すること。やや我田引水になってしまうが、そんな思いが湧いてきてしまった。
 そこで、何故これらが、たった一つの母音に対する脳機能の違いから生まれてくるのかといった疑問が残る。このことに対する私の独断的な答えは、こうである。人間は通常会話を通じてより多くのことを考えたり判断したりする。このことは、個々人の誕生以来の成長過程で、今に至るまでそのひと個人の全てを包み込んでいる。その会話は、勿論母音と子音でできている。ここで、会話の度に日本語以外は常に、右脳と左脳が同時に働いているのがだが、日本語の場合だけが左脳重視になってしまっている。つまり、外部刺激に対して、常に左脳が優先して働き始めてしまうのではないだろうか。単純に考えれば日本人が情緒に関心が深いのは、右脳が発達していると解釈されるが、実は情緒に対しても左脳が多く働くので、深く考えだすのではないのだろうか、と云うことである。

 この様な説は聞いたことが無く、むしろ最近のCTスキャンを使った、ある事象に対して脳のどの部分が活発に働いているかの実験結果と矛盾するのかもしれない。しかし、人間の脳には200億個以上の神経細胞があり、それらが全て複雑なスイッチ機能で関連付けられていると云う。現代の最新のCTスキャンでも遥かに及ばない細かさなのだから、実際になにが起こっているかは、まだなぞの部分の方が多いのだと思う。
 随分と勝手な迷路に入り込んでしまったが、正解はまたの機会にして、日本語常用技術者の資質の特異性を認識いただければ、幸いである。そして、そのことが日本発のメタエンジニアリングのひとつの特徴になることを願う次第である。

(蛇足)
 このことに関連して、ちょっと蛇足を加えたい。私は、10年ほど前から大学と大学院における工学教育の見直しの方向性について、通常とは反対の意見を持っている。一つは、大学院生の数はむやみに博士課程を増やすのではなく、需要と供給のバランスから考えること、二つ目は、授業の内容は、特に工学系については足し算ではなく、引き算から始めること。
すなわち、従来の西欧的な工学教育から一歩引いて、授業では公理や定理とそれに準ずる理論のみをしっかりと教えて、各論の半分は止めてしまう。それらは、インターネットで必要に応じて、最新情報を容易に得ることが出来る。そして、ここに述べた、「日本人独特の左脳の特徴を意識的に鍛えて、応用を模索することが高度なイノベーションに繋がる」 ことを前提に、文化や歴史の科学的な見方等を通じて、自然科学と社会・人文科学との関連などを教える。技術者倫理の代わりに自然科学の根本としての哲学を教える。これらのことは、既に米国の一部の大学で始められている。
 このことは、古代ローマが自由市民の人格を高めるために用いたLiberal Arts教育に相当する。このLiberal Artsこそが、根本的エンジニアリングに基づく思考過程で最も重要なものなのだが、多くの工学生はこれを、一般教養として軽く見てしまう傾向にある。工学教育は、改善ではなくパラダイムシフトの時であろう。
自然科学者や設計技術者は、もっぱら言語脳を使って思考を深めてゆく。そして「音楽や絵画の様な芸術は、言語の場合よりももっと直接的に情動にはたらきかける、つまり脳の内側の領域に広くはたらきかけるようにつくられている」という訳である。つまり、「絵や音楽に対しては、脳の広い範囲が常にはたらく運命にあります。」 なのだ。
 「言語活動の場合よりも広い範囲の脳が常にはたらいています。別な言い方をすれば、絵画や音楽が実現し伝えるものは全体像です。全体像をつくるときは、部分が欠けても、人間の脳は欠落部分を補うことは得意なのです。残っている部分がある程度あれば、欠けた部分を想像で補って補完してしまうのです。」とある。
また、「言葉を普通にしゃべれると云う点では、誰もがほぼ同じです。ふつうは100人集まれば、みなほぼ100パーセントの能力を持ちます。ところが音楽や絵画では、とくに作曲・演奏や絵画制作の能力では、大きな格差があります。演奏や描画の能力には、前に述べた「からだで覚える」記憶能力がおおいに関与しているのでしょうか、音楽や絵の鑑賞能力にも、人によって質的な違いが大きいようです。」 と語られている。

さて、これらの「より広い範囲の脳が働いている」、「全体像をつくる」、「人によって質的な違いが大きい」などは、エンジニアリングをより根本的に捉えなおす際には、どれも重要な要素となるであろう。聊か持って回った言い方になってしまうのだが、メタエンジニアリング脳には、音楽や絵画の様な芸術脳が必要であり、その際にも日本人特有の左脳の効果が期待されるのではないだろうか。
いずれにせよ、近代工業文明の元になった西洋的なエンジニアリングの枠から出て、より広い意味でのメタエンジニアリングを扱う場合には、日本人の工学脳の特異性を活かすことが、将来の人類社会の文明をより良い方向に導けるのではないだろうか。




メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(11) 第9話 日本人の工学脳(その1)

2013年09月15日 13時06分54秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第9話 日本人の工学脳(その1)

私は、なぜ日本語のみが 多くの虫やほとんどの動物の鳴き声を言語で表すのかを不思議に思っていた。確かに、犬や猫の鳴き声ぐらいは外国語でも表現をする言葉があるが、ごく身近なものに限られている。リーンリーンとか、ガチャガチャなどの虫の音に至っては、この様な言語的な表現は日本人以外には全く理解が出来ないようだ。しかし、ある時突然に、この疑問を解いてくれる本に出会うことが出来た。そして、その本を読んでゆくうちに、この日本語特有の表現が、実は日本人(というよりは、日本語のみを日常的に使う人)の脳の特異性にあり、そのことが工学的な発想や考え方に大きく影響をしているとの学説を見出すことができ、おおいに驚くとともに奇妙な幸福感を味わうことが出来た。

 私の仮住まいの近くに、金田一晴彦記念図書館なるものがある。一般の市営(山梨県北杜市)図書館で最新の新聞や雑誌などを読むためによく利用をさせてもらっている。地方の図書館は都内と異なり、読書の雰囲気は最高である。貸出の条件である冊数や期間にも十分な余裕があるのだ。この図書館には、名前の通りに方言や言語学で有名な金田一氏の遺贈による多くの本が保管されている。全体で約3万冊と図書館の案内には書いてある。一部は一般の本と同じ書架に並べられているのだが、専門書の多くは奥にある広い別室のカギのかかった立派な本箱に収められている。嬉しいことに、司書の方に頼むとこれらの本もほぼすべて自由に借りることが出来る。


金田一晴彦記念図書館の入り口付近

 先日、この中から3冊を借りて読み始めた。表題に興味が湧いたためであり、特に目的があったわけではない。
① 「日本人の表現心理」芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行
② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会
③ 「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行

 この中の③が問題の書である。著者は、著名な東京医科歯科大学の耳鼻咽喉科の先生で、特に聴覚の研究を長年続けられているようだ。副題が面白く、「脳の働きと東西文化」とある。そして、巻頭のはしがきを読んだだけで、大いに興味をそそられて、一気に読み始めてしまった。はしがきの冒頭の部分にはこの様にある。



 「聴覚を使って脳の中の聴こえと言語の働きの中枢メカニズムを解明しようと志してから約十二年になる。私の専門領域である耳鼻咽喉科のうちから、聴覚の問題を広域に扱う日本オージオロジー学会と人間の音声や言語の臨床面を研究する日本音声言語医学会がそれぞれ独立して研究領域を拡大してきた。(中略)臨床医学の領域に限らず、日本生理学会、日本音響学会ではより精密な科学的手法を用いて動物や人間の言語情報の処理機構についての膨大な研究がある。
(中略)この論文集は言語差と文化の相違の問題にまで言及しているが、研究の出発点からこの問題を目指していたわけではなかった。いくつかの偶然のチャンスがあって、研究は始め予期しなかった方向に発展してしまったのである。」

昭和52年に書かれたこの本のはじめにの文章は、この後も長く続くが、ここまででいくつかのことが思い出されてきた。それは、そのプロセスがあまりにもメタエンジニアリング的に思えたからであった。
 専門的な論文の前に興味を引く対話からこの本は始まっている。にくい構成である。いきなり医学の専門論文を示されたのでは、歯が立たないであろう。対話の一説の表題は、「虫の音がわかる日本人」である。ここに全てが凝縮されているのだ。引用してみよう。

「餌取 秋に虫が鳴くのを意識して聞くと云うのは、そうしてみると日本人だけの持つ風流さなのですね。
角田 ええ、中国人にさえ通じないようですよ。
餌取 そうしてみると右半球・左半球の分かれのお話は、日本人だけが特別なのですか・・・東洋人と西洋人、という具合にわかれているのではないのですか。
角田 私が調べたインド人、香港にいる中国人、東南アジアの一部の人たちーインドネシア、タイ、ベトナム人は、日本人に見られるような型は示していないようです。
餌取 欧米と同じパターンですか。
角田 ええ、私が興味深く思ったのは朝鮮人で、これは多分日本にとても近いだろうと思われたのですが、全然違いました。
餌取 そうすると、日本人固有と云う訳でしょうか。
角田 そうですね。
餌取 どうして日本人だけ、そんな特殊な脳の働きが出てきたのでしょう。
角田 それはやはり、母音の扱い方の違いだと思います。」

 
ちなみに、ここに登場する餌取章男氏(1934~)は、日経サイエンス編集長、江戸川大学社会学部教授などを経て、現在、同大名誉教授である。

 この対話は、この後で日本語の特異性に触れてゆくのだが、この日本人の特徴は、驚いたことに日本語を日常語として話さなくなった日系二世、三世には全く当てはまらないそうなのだ。つまり、生まれながらの遺伝子の為ではなくて、日常的な話し言葉に特徴があるわけで、日本語の「あいうえお」とどの語にも必ずこれらの母音がきちんと付いていることによると、それぞれが単なる母音と云うだけではなく、それぞれに意味を持つ一つの言葉であることと云うことらしいのである。つまり「い」ならば、井、意、医、胃、衣などである。確かに、この様に母音そのもの自体が単体で意味のある言葉になってしまう言語感覚は、他の国でははっきりと認識をされてはいないのであろう。

左の脳が言語や論理をつかさどり、右の脳が感情や芸術をつかさどることは広く知られている。私は、かねてから技術者は左脳に頼らずに右脳を働かせて、独自の発想を磨くべきであり、特に設計技術者は、壁画を描く画伯の心境であるべきだと思っている。どうやら、この様な考え方も日本人特有、と云うよりは正確には、つね日頃日本語で会話をしている為のようなのである。
氏の色々な理論と実験結果を一旦飛ばすと、結論はこうである。
脳を、言語半球(左脳)と劣位半球(右脳)とその間を取り持つ脳梁に分ける。西欧人の言語半球は、ロゴス的脳と仮称されて言語・子音・計算をつかさどり、劣位半球はパトス的脳として、音楽・楽器音・母音・人の声・虫の音・動物の鳴き声などをつかさどる。
一方で日本人の脳だけは、言語半球がロゴスとパトスの両方はおろか、自然への認識までをもつかさどっている。劣位半球は西洋音楽・機械音などのみをつかさどる。つまり、日本人は左脳の負荷が西欧人に比べて圧倒的に過多なのである。
このことから推論を進めて氏は次の様に述べている。「日本では認識過程をロゴスとパトスに分けると云う考え方は、西欧文化に接するまでは遂に生じなかったし、また現在に至っても哲学・論理学は日本人一般には定着していないように思う。日本人にみられる脳の受容機構の特質は、日本人及び日本文化にみられる自然性、情緒性、論理のあいまいさ、また人間関係においてしばし義理人情が論理に優先することなどの特徴と合致する。西欧人は日本人に較べて論理的であり、感性よりも論理を重んじる態度や自然と対決する姿勢は脳の需要機構のパターンによって説明できそうである。西欧語パターンでは感性を含めて自然全般を対象とした科学的態度が生まれようが、日本語パターンからは人間や自然を対象とした学問は育ち難く、ものを扱う科学としての物理学・工学により大きな関心が向けられる傾向が生じるのではないだろうか?明治以来の日本の急速な近代化や戦後の物理・工学における輝かしい貢献に比べて、人間を対象とした科学が育ちにくい背景にはこの様な日本人の精神構造が大きく影響しているように思える。」 とある。
つまり、日本人の心は、言語も虫の音も論理計算もいっしょくたになってしまうと云う訳なのだ。従って工学の様なものが、改めて「もの」を対象とすることなく、自然に心の中に入り込んでいると云うのである。人の話し声も虫の音も同じこととして脳が受け取ってしまうのが日本人の脳で、虫の音や動物の鳴き声を、一般の機械音や雑音として受け取ってしまうのが、西欧脳なのだ。
氏は、このことをいくつかの偶然から発見したと云う。一つは、ある晩虫の音を聞きながら論文を書こうとしたが、一向にはかどらずに、虫の音が気になって仕方がなかった。西欧人に聞いてみると、そのようなことは考えられないと云う。つまり、氏の脳にとってひっきりなしの虫の音は、他人が絶えず話しかけていることと同じ受け取り方をしてしまうと云う訳なのだ。同じ理由で、音楽や楽器に対する脳内機能のパターンも全く異なってくる。
日本人の母音の順番は、「あいうえお」であるが、西欧人は「i,e,a,o,u」である。この順番で舌の位置を確認すると、日本人の場合には、舌の運動が、順を追って前後反対方向に動かすのに対して、「i,e,a,o,u」では、舌が四辺形を廻るようになるので、個々の母音が独立せずに中間的な母音が多数出てきてしまうという特徴があるそうで、このために日本人の脳では母音が言語や計算を司る左脳で認識されると云う特徴が現れるとのことである。

いずれにせよ、われわれ日本人のエンジニアにとってはこのことをしっかりと認識をしておいた方が良さそうである。つまり、特段の意識なしにものに自然を取り入れたり、改良を進めたりをすることができる一方で、様々なパトス的な雑念が入り込んでしまう。一方で欧米脳の場合には、自然などのパトス的な雑念なしに、純粋に論理思考のみで工業的な作業を行うことが出来ると云う訳なのだ。
餌取氏との対話の続きでは、次のようなくだりがある。
「左脳ばかりを使って論理のみをいじくりまわしていると、どうしても模倣になってしまい勝ちで、やはり何か新しいものを生みだすのは右の脳も使ってやらないといけない。(中略)それには西洋音楽を聴くことですよ。邦楽では語りが中心だし、自然に密着していますから、やはり充分な効果は無い。全く異質という意味で、西洋楽器の音はよい刺激になります。」 日本人の技術者は、意識的に右脳を鍛えないと、模倣文化がはびこってしまうと云う訳であろう。
最終章の「おわりに」の項で、氏はこう述べられている。
「西洋文明の危機が叫ばれているが、それは西洋人の窓枠を通しては、新しい時代に即した想像が生まれ得ない苦悩の表明ではあるまいか。数ある文明国の中で、異質の、しかもまだ充分に創造性の発揮されていない文化の枠組みを持つのは、実は日本以外にはないのである。しかし、このことを日本と西洋の優劣というような価値観に結び付けて必要以上に劣等感に悩まされたり、逆に自信を持ちすぎることもない。必要なのはこの違いを如何に活かすかということである。」
以上の著作内容は、昭和50年代のことであり、かつやや独善的な判断が無いではないと思うが、最後の「この違いを如何に活かすかということである。」と云われているのは、日本人技術者の今後に大いに役立つ言葉だと思う。



メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(10) 第8話 設計に対する態度とメタエンジニアリング

2013年09月14日 20時21分07秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts

第8話 設計に対する態度とメタエンジニアリング

・戦略と戦術の違い

 一般的に、日本人は発明・発見はあまり得意ではないと言われている。一方で、応用の得意な人は沢山いる。設計は、創造的だが応用面も多い。だから日本人に向いている。長い間の経験から、欧米人と机を並べて設計をしていると、同じ経験度なら日本人のほうが優れた設計を短時間で完成させることができることを知った。しかし、それでは単なる便利屋になりかねない。日本人が戦術に長けていることは、多くの現場で証明がされているのだが、そこには、戦略と云う言葉は存在しない。
 
国際共同開発の開発設計を長年続けて先ず思うことは、設計に対する概念の違いである。即ち、設計という行為をある目的を達成するための、戦略と見るか戦術と見るかである。勿論、最終的には目的達成のための戦術と戦闘の勝負になるのだが、出発点をどこに置くかである。日本人的発想は、ある新しいものを想定してそれをイメージするところから始まる。即ちWhatとHowである。一方で、近代技術による設計の歴史の古い西欧人の設計は、Whyから始まる。「何故、今我々はこの設計を始めるのだろうか」といった問いから、スタートの時期と目標が定まってゆくのだ。従って、具体的にはP.L.(Program Launch)のタイミングが重要な転換点となるのだが、日本の場合は、このことがひどく曖昧である。しかし、一旦スタートをすると、全速力でまっしぐらに突入して、早く成果を上げることができる。一方で、スタートが曖昧なので、途中での方向転換などが旨くできない。

設計がWhyから始まる例として、最近頻繁に挙げられるのが、ダイソンの扇風機である。あの羽根の無いスマートなものだ。この設計は、「何故扇風機には羽根が必要なのだろうか?」と言ったところから始まっている。しかし、この例はメタエンジニアリングというよりは、むしろ価値解析(Value Analysis)の分野である。つまり、扇風機における羽根の主機能は何かを考え、その機能を達成するための他の方法を色々と考えて、価値工学(Value Engineering)により、新たな設計解を得るという方法の適用と考えるのが、妥当であろう。

しかし、Design by ConstraintsとDesign on Liberal Arts Engineeringの関係で考えてみるとどうであろうか。前者では明らかに最初から戦術思考に突入する。つまり、設計条件を満たす最適解を見つけ出すことである。一方で、戦略を考えようとすると、それは自動的にLiberal Artsの領域に踏み込まざるを得なくなるのではないだろうか。
 戦術で勝ち続けても、最後に戦術で負けると云う失敗は繰り返したくないものだと思う。

 このことに関連して良く引用されるのは、太平洋戦争中のゼロ戦の話しだ。空中戦で連戦連勝だったゼロ戦は、機体重量の軽減のために、薄い鋼板を用い、エンジンも小さめであった。これに対抗する戦闘機として、米軍は大出力のエンジンを搭載したグラマンを大量に生産して、上空から一気に急降下する戦術を立てた。ここまでは、戦術の話であろう。そこで米国が考えた方策が戦略である。米軍の戦術を可能にするには、同じ性能の航空機が大量に必要である。すなわち製造過程における徹底した品質管理手法の開発であった。日本の戦闘機はエンジン部品ですら他のエンジンからの流用が利かなかった、との話は有名である。また、単発機は優れているが、4発機はエンジンの回転数がばらばらで、旨く操縦すらできなかったとも聞いた。
 いまでこそ品質管理は科学的な論理の塊のようなものだが、当時は寄せ集めの人材を急こしらえの工場で作るわけで、品質管理の面でもLiberal Artsの諸分野が必要であったことに疑問の余地はない。


「 日本人のための戦略的思考入門」孫崎 享著、祥伝社(2010) には、こんな記述があったので、いくつかを引用させていただく。



・「日本人は戦略的思考をしません」と、キッシンジャーは小平に言った。
戦略感は一夜にしてできない。異種の多くの人と交わり、異なる価値観に遭遇する。それによって外部環境の把握がすすむ。
・マクナマラ元国防長官(ケネディー大統領時代)の戦略理論(主に、経営戦略に応用される)は、ニーズの研究段階(いかなる環境におかれているかの外的環境の把握、自己の能力・状況の把握)⇒企画段階(目標の提案⇒代替戦略提案⇒戦略比較⇒選択)⇒計画段階(任務別計画提案、計画検討⇒決定⇒スケジュール立案)
・ゲーム理論におけるナッシュ均衡とは、「各プレーヤー全員がゲームで選択する最良の選択は個人が独立して決められるものではなく、プレーヤー全員が取り合う戦略の組み合わせとして決定される」

 断片的な記述で恐縮だが、これらの多くの場面でもLiberal Artsが必要であろう。




メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(9) 第7話 メタエンジニアリングを適用すべき「場」について

2013年09月14日 09時07分20秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第7話 メタエンジニアリングを適用すべき「場」について

メタエンジニアリングが必要とされる場の条件とは何か。それは、第1にメタエンジニアリング特有の「場」であること。メタエンジニアリングと似たような主張や論理は、既に数々存在する。特にイノベーションに関しては、MOTの名のもとに、多くの提案が既になされている。それらとの違いと特徴ある有用性を明らかに出来る「場」でなくてはならない。
第2に、従来の工学やエンジニアリングでは大きな失敗があったり、不充分であった問題や局面が存在する「場」であること。そこには、従来の専門分野からの眼だけでは、明らかな問題が存在した。それらは顕在化されているものもあるが、潜在している問題も多々あるはずである。
第3に、メタエンジニアリングで解けそうな期待が持てる「場」、などであろう。

第2の観点からは、最近かなり明確な問題が続出した。
① 福島原発事故に代表される、「むら」という言葉で表される、専門家の閉鎖集団が原因とされる問題
② 笹子トンネル天井版や、瀬戸大橋の梁のクラックなどで明らかになった、設計時点における寿命とメインテナンスへの配慮不足の問題
③ ローマクラブの指摘以来、それにも拘わらずに半世紀に亘って悪化の一途をたどっている、地球環境問題
などである。

 これらを例に、メタエンジニアリングの特徴をあて嵌めてみよう。メタエンジニアリングの特徴は、「専門領域に分化された科学・技術(人文科学・社会科学を含む)と芸術など諸領域を統合・融合して問題の新たな解決策を見出すこと」である。このことは、特に自然科学と人文科学の乖離が問題を引き起こしていると考えられる課題に適している。この観点から①~③のテーマを考えると、明らかに第1の条件にも合致する。問題は、第3の「メタエンジニアリングで解けるか」である。これはやってみないことには分からないのだが、視点を全く変えることにより、大いに期待は持てると考えている。

①~③の問題を、少し包括的に捉えると次のようになる。
① 原理的にかなりの危険性があるものを、人類の文明として活用してゆかなければならないこと。
② 設計の専門化とマニュアル化(公の基準や規程等も含む)が進み、特に基本設計段階で、思慮に欠ける分野が存在すること。
③ 専門分野化が進み過ぎ、専門外からの主張や反論が正しく反映できずに、真に人類社会にとって正しい包括的な解決策が得られていない環境問題のような時間的、空間的に巨大な問題。

そのように纏める事ができる。


・大型航空機用エンジンの場合
                                                       
メタエンジニアリングが必要とされる場の条件として挙げた3つの条件を元に、メタエンジニアリングの位置が、科学・工学・ビジネスの中間に存在する、との仮定の上で、大型航空機用エンジンの場合を考えてみる。もはや現役ではないので、少し時代遅れの感覚であることをお許し願いたい。

大型航空機は大型化、軽量化、高性能化などの更なる研究開発が巨大な投資の元に続けられている。しかし、「エンジンが止まると、飛行機は石になる」の言葉が示すように、基本的に大きな危険が存在する。しかし、現代社会にとっては必須のものでもある。(条件①)
 エンジン設計の専門化とマニュアル化(公の基準や規程等も含む)が進み、設計者が自由に発想をする問題が限られつつある。一方で、厳しい競争に勝つために、最先端の技術を使いたがる傾向がより強く現れている。(条件②)
 代概燃料問題は、バイオ燃料で経済問題が起こりかけたり、超音速機ではコンコルドの失敗があった。将来航空機のありかたについての検討が、専門化任せになっているのではないか。(条件③)

以上を纏めると、次の図になる。



ここで分かることは、将来の大型航空機の在り方について、専門化が進み過ぎて「むら社会」が形成され、他の分野の専門家の意見が反映されにくい状況が形成されると、思わぬ信頼性の喪失や危険性が顕在化することがあり得ると云うことではないだろうか。航空機に関する工学的な分野は、すでに総合工学として位置づけられているのだが、最近の傾向として「エアタクシー」なる構想が先進国で進められている。私は、かつて航空機用のエンジンの整備の在り方は、かつての自動車のように使用者が安全に触れるようにすべきか、自衛隊員のように基礎から勉強をした専門職に任せるべきかを考えた経験がある。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、航空機が自動車並みになる時代が、来るのだろう。そのようなときに、原子力工学の二の舞になってはならないと、思う次第である。