生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジンの技術(16)第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジ

2024年05月19日 06時51分25秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(15)

第19章 第3世代(1980年代)の民間航空機用エンジン

 この時代の特徴は、高効率の高バイパス・ファンエンジンの設計手法が確立し、多くの改良型と新型が国際共同開発の資金をもとに盛んに行われたことと言えよう。また、主要都市間を頻繁に運行するために、超大型航空機と比べて中小型機の市場の開拓が進み、そのためのエンジンの開発競争も盛んに行われた。
 大型エンジンとしては、GEのCF6-80シリーズ、P&WのPW4000シリーズ、RRのRB211-524シリーズが挙げられる。また、中型としては、V2500シリーズとCFM56シリーズが世界市場を二分して激しい競争を展開した。このように新規開発機種が目白押しとなったために、エンジン各社は、資金と市場の確保のために、国際共同開発を行うことが常態化した。その代表例が、日米英独伊の5か国が参加したV2500で、この事業と技術については第32章で詳述する。

19.1 航空自由化と国際共同開発

 このような傾向は、この時期に始まった航空自由化の政策によるところが大きい。この動きは米国で始まり、すぐにヨーロッパに広がっていった。例えば、サウスウエスト航空は設立後十年間以上もテキサス州内だけの弱小エアラインだったが、カーター政権が航空自由化政策を行ったことで、全米に路線網を持つ大手航空会社にまで成長した。それまでは、アメリカ国内では、CAB(民間航空委員会)が設立以来40年もの間各種の規制を行ってきたが、1978年に「航空企業規制廃止法」(Airline Deregulation Act) が成立。これにより、CABの規制は廃止され、さらに1985年にはCAB自体が廃止された。その結果、サウスウエスト航空の基本戦略であった「短距離を低運賃・高頻度運航」が大成功をおさめ、1988年には米国運輸省が発表する定時運航率の高さ・手荷物の紛失件数の少なさ・利用者からの苦情の少なさの3部門について米国の全航空会社中でトップとなった。その後、1989年11月からは3か月連続して3部門とも首位となったことから、サウスウエスト航空では1990年に “Triple Triple Crown”(3か月連続の三冠王)と呼ばれるまでに成長した。一方で、大手航空会社はこれに対抗するために、「ハブ&スポークス戦略」を展開した。これらの動向により、130~150席クラスの中小型機用のエンジンの市場が米国及び中近東を含む
 欧州で急激に伸びることが予測された。(Wikipediaの記事を参照して編集)
このことから、航空事業にとって、いかに自由化政策が重要であるかが分かる。これ以降、国際間でも様々な規制(これは主に環境関係)と自由化が揃って行われ続けられたことが、技術の系統化に大いに役立った。

19.2 国内の状況


 この期間に、日本の航空機用エンジン技術は、研究から実用機種の開発へと大きく変遷した。英国での高空性能試験を大成功裏に終了したFJR710エンジンは、試験機(航空自衛隊の輸送機C-1を改造し飛鳥「あすか」と命名)に搭載するための設計変更を行い、1985年10月に初飛行に成功した。独特の高揚力型のエンジンの配置で、機体側面の空気の流れを可視化するための装置を付けた飛行時の写真を図19.1に示す。


図8.1 スイープ試験中の実験機「飛鳥」

 このようなエンジンの特殊な搭載の方法は、国土の狭い日本での地方と離島の短い滑走路での離着陸を可能とするためのもので、STOL (Short Takeoff & Landing)機と呼ばれる。実際に、試験飛行では通常の滑走距離の半分にあたる800mで十分であることを実証した。

 しかし、高度成長時代にあった日本では、地方でも大型の空港が続々と誕生し、「飛鳥に明日はない」との迷言と共に、姿を消すことになった。この挫折は、純国産技術に対するエンジンビジネスはもとより、民間航空機産業全体に、大きな影響を与えることとなり、以降国際共同開発一本に絞ることになってしまった。この流れは現在まで続いており、今後も大きく変化する見込みはない。それは、独自の新規エンジンに関する国内での技術の系統化が途切れたためである。国際共同開発では、マーケティングから始まる全体の構想設計と、基本設計中に行われる大手エアラインとの綿密な交渉に関する技術を維持することができない。

 しかし、この成功の実証は無駄ではなかった。イギリスの国立ガスタービン研究所 (National Gas Turbine Establishment : NGTE)でのエンジン試験成功の事実を高く評価したRRは、1978年初頭、推力 10トン・ クラスのターボファンエンジンの共同開発を呼びかけ、直ちにこれに応じた日本との共同作業で1982年には日英両国で各1機の試験用エンジンRJ500を完成し、試験運転が行われた。
 
 エンジンの技術の系統化と伝承は、モノではなくヒトが主であると述べた。第2次世界大戦中に始まったジェットエンジン技術のそれは、イギリスではサー・スタンレイ、日本では永野治によって行われたといっても過言ではない。両国における系統化は、1980年代まで続いた。サー・スタンレイ・フッカー(彼については、第34章で詳細を述べる)は、1977年に日本への共同開発の提案を旧知の永野治に伝えた。私が、共同開発の先遣隊としてブリストルにあるホイットルハウスと名付けられたメインオフィスに一室を構えたとき、彼のオフィスは正面玄関に最も近い位置にあった。
 
 永野治(当時はIHIの副社長)は、直ちにサー・スタンレイの話を社内と関係官庁に熱心に伝えて、国内合意の成立に奔走した。私は、FJR710プロジェクト初期の設計システム班長時代に、毎月の個人指導会で多くの知見を頂いたことは、前章で述べた。


図19.2 ホイットルの業績を示すWhittle House の正面 (RR提供) 

 RJ500エンジンでのワークシェアーは、日本が低圧系のすべて、RR社が高圧系のすべてを担当し、外装やその他の部分で、50対50の関係を保つこととなった。部位によって、開発時の必要投資額と量産時の回収額が異なるので、量産時には相手側に移すことが比較的容易な部分で、50対50の関係を保つことになる。
 契約に関する主な進捗は次のとおり。(15)

 1979年1月 RRと日本側3社(IHI,KHI,MHI)でMOU(了解覚書)の締結、需要予測、エンジン仕様書の策定、事業性の検討、契約書草案の作成
 1979年12月 共同事業計画の調印、Boeing737-300,FokkerF29への搭載を目的として、推力9トン(21,000ポンド)のエンジンを1985年春の型式承認取得を目標に費用負担50:50で行う。協定期間は30年間とし、その間は同クラスのエンジンの開発は、双方とも単独では行わずに、この協定の下で行う。
 1980年4月 RR-JAEL社の設立。日英同数の役員、会長は日英で1年交代、運営委員会の下に6つの作業部会(設計・技術、営業・販売、業務、経理・財務、生産、プロダクト・サポート)
 1983年3月 5か国共同開発の発足により、実質的に失効(以降も技術提供等については継続)


図19.3 RJ500エンジンの担当部位(9)

 しかし、この RJ500 エンジンは、ボーイング社がBoeing737-300のエンジンとしてCFM56-3を選定してしまったため、それ以上の開発は進められない事態になった。また、同時期にすすめられていたP&WのPW2000エンジンも、このGEとフランスのスネクマ社の共同開発エンジンに負け、日英連合に共同開発を提案した。僅かに先行したCFMエンジンに対抗するためには、推力を130席用から150席用に増す必要があり、日英はそれに同意した。
この合意により、P&WグループのMTU(当時の西ドイツ)およびFIAT(イタリア)が加わり、1983年スイスにIAE(International Aero Engines AG) という名称のエンジン製造会社が5か国間で設立され、V2500エンジンの開発を開始した。名称は、五か国を表すVと、PW2000とRJ500の足し算をも意味する。V2500のワークシェアーは、当初は次の通りであった。
P&W ; 燃焼器と高圧タービン、RR; 高圧圧縮機
JAEC(日本航空機エンジン協会);ファンと低圧圧縮機
MTU;低圧タービン、 FIAT;ギアーボックス


図19.4 V2500断面図(担当部位色分け)(9)

 この国際共同開発エンジンはエアバス A320 やマクドネル・ダグラス MD-90 等に採用され、2019年度末までに7,737台を納入する大成功を収めることになる。
しかし、この間に詳細設計と製造技術に関しては、国際競争に伍するだけの技術を取得したが、シェアーが50%から19.9 %に減ったために、エンジン全体の構想設計と基本設計に参加するチャンスを失った。さらに、もっとも重要であるマーケティングについても機会を失い、以降は民間航空機産業の分野では、エンジン製造会社からエンジン部品製造会社への道を辿ることになる。(最終的には、シェアーが23%、FIATとRRが撤退した)

 RJ500からV2500への乗り換えは、当時の資金と人員などの事情からはやむを得ないことであった。しかし、歴史上唯一無二の対等な関係を捨てることの重大さが正しく認識されていたとは言い難い。RJ500は、RR-JAEL(Rolls Royce & Japanese Aeroengines Ltd.)という名前の会社の下で行われ、将来もこのクラスのエンジン開発は共同で行うとの合意ができていた。V2500に参加する際に、JAEC単独ではなくもしこの組織として参加をしていれば、全体の50%のシェアーを保つことができたはずである。しかし、自国の利益を優先するためのシェアー争いの中では、将来にわたってエンジン全体の計画や基本設計に留まるいう戦略はむなしく消えてしまった。 

参考・引用文献
(1)Wikipedia「ジョン・ストリングフェロー」https://ja.wikipedia.org/wiki/ (2020.4.5)
(2)黒田光彦「プロペラ飛行機の興亡」NTT出版(1998)
(3)吉中 司「アメリカ・カナダにおけるジェットエンジンの発達と進展」日本ガスタービン学会誌(2008)p.169-175
(4)Wikipedia「航空に関する年表」https://ja.wikipedia.org/wiki/A8(2020.4.5) (2020.4.5)
(5)Wikipedia「スピリットオブセントルイス号」https://ja.wikipedia.org/wiki/(2020.4.5)
(6)Wikipedia「Boeing247」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pratt_and_Whitney_Wasp.jpg (2020.4.5)
(7)Wikipedia「J57エンジン」https://ja.wikipedia.org/wiki/BC_J57 (2020.4.10)
(8)T.J.ピーターズ、R.H.ウオ-タマン「エクセレント・カンパニー」講談社(1983)
(9)「航空機エンジン国際共同開発20年の歩み」日本航空機エンジン協会(2001)

ジェットエンジンの技術(15)第2世代(1970年代)の民間航空機用エンジン

2024年05月14日 07時19分21秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
ジェットエンジンの技術(15)

第18章 第2世代(1970年代)の民間航空機用エンジン

この時代の民間航空機は超大型の全盛期でジャンボジェットと呼ばれたボーイング747、ロッキード L-1011 トライスターとマクドネル・ダグラスDC-10 の三つ巴の競争の時代であった。それらの機体への搭載エンジンは、米国のGEとP&W、英国のRRに限られ、その3社独占体制は、これ以降現在も続いている。エンジンは、それぞれCF6、JT9D,RB211シリーズで、頻繁に改造型や推力増強、または敢えて推力を下げたエンジンなどが開発された。ここでは、CF6シリーズに限って述べることにする。後述するように、民間航空機用エンジンは、その競争の激しさから、最終的には同じ性能のエンジンになってしまう宿命なのだからである。

18.1 大型エンジンのシリーズ化

 TF39の民間用として開発されたCF6-6は、マクドネル・ダグラスDC-10に最初に搭載され、1971年8月にサービスを始めた。単段のファンとブースター段を5段の低圧タービンが駆動、16段の高圧軸流圧縮機を2段の高圧タービンで駆動する形式で、圧縮比は24.3であった。ファンの直径は86.4in(2.19m)で、41500lbの推力を発揮した。さらに後年、後継としてCF6-50シリーズを、推力を46,000-54,000lb(205 to 240kN)に増強して開発を続けた。

 また、エアバスA300にも採用され、1971年にエールフランスがローンチ・カスタマーになり、さらに1975年にはKLMが最初のCF6-50エンジンを搭載したボーイング機の発注を行った。さらにCF6ファミリーは、CF6-80へと発展することになった。高圧圧縮機は14段となり、2段減らすことに成功した。CF6シリーズの寿命は飛び抜けて長く、2000年代になっても、なお改良型が開発された。それらの中には、全日本空輸がボーイング747SR(国内便のショートレンジ)専用として推力を落としたCF6-45も含まれる。また、他の派生型として産業用と船舶用に開発され、LM6000シリーズと称して高速船舶や艦船に多く搭載されている。

 このように、一旦開発された新型エンジンは、その後数十年間に亘って改造がすすめられることが常態化した時期でもある。このことから、以後のエンジンでは、派生型への変更が容易になる工夫が、設計当初から基本設計に盛り込まれることになった。エンジンの開発費を単独エンジンだけで回収することは、ほとんど不可能であり、エンジン会社は派生型で資金回収を図るビジネスモデルを構築せざるを得なかった。そのために、新規開発エンジンの受注を、大きなエアラインから得ることへの競争が、ますます激しくなった。
 
 最も多く使われたCF6シリーズのエンジンの例を以下に示す。
CF6-6 の搭載機;DC10-10
CF6-50の搭載機;AirbusA300B、DC10-15/-30、KC-10、Boeing747-200、747-300
CF6-80Aの搭載機;AirbusA310-200、Boeing 767-200
CF6-80C2の搭載機;AirbusA300-600/R/F、A310-200/-300、
Boeing 767-200/200ER、767-300/-300ER、767-400ER、E-767/KC-767、747-300、747-400/-400ER、MD-11、C-5M 、
川崎 C-2
CF6-80E1の搭載機;AirbusA330-200/-300、A330
最大出力(Lb.);41,500~72,000。高圧圧縮機の段数;14段~16段、バイパス比;4.24~5.92。これらのエンジン仕様は幅広く変化をしており、50年以上にわたって派生型が使われ続けている。

18.2 国内の状況


 一方、日本では純国産エンジンの研究の機運がたかまり、政府主導の大型プロジェクトとして進められることになった。FJR710は、日本の独自技術のみによって研究された高性能ターボファンエンジンである。1971年から2期に分け合計10年間をかけて、旧通商産業省(経済産業省)工業技術院の大型プロジェクト制度の下に研究開発され、推力5トン(12000lb)、燃料消費率0.34、バイパス比6を目指した。
 この研究は、第一期1971-75年度で総開発費67億円、第二期1976-81年度で、総開発費185億円(当初、その後減額されて130億円)として行われた。技術面の詳細については、後に述べる。


図18.1  FJR710 / 20 (IHI提供)

その場考学との徘徊(78) 淡路島での4日間(その3)

2024年05月13日 07時05分26秒 | メタエンジニアリングのすすめ
その場考学との徘徊(78)    

題名;淡路島での4日間(その3) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存


・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第3日目の詳細

 昨日は終日レンタカーの旅だったが、今日は路線バスの旅の日。目的は鳴門の渦潮なので、洲本から福良までの約1時間半のバス旅になる。幸い、1時間に一本の割合で走っているので、時刻を気にすることはない。
 渦潮の見学には、日にちと時刻の両方を選ばなければならない。60年前の高校の修学旅行では、せっかくの観潮船だったが、渦は全く見ることができなかった。

 先ずは、大潮の日かどうかで、今日は「春の大潮」だそうで、大潮の中でも満潮の潮位が高い。次に時刻なのだが、これは淡路島の南端が満潮になってから6時間後が最高のようである。そのことは、船内でのパネルで分かったので、後に説明をする。

 洲本バスセンター発は8:53に決めた。福良到着は10:16。約30分後に出港の船が、そのタイミングになることは、ネットで調べるとすぐに分かる。30分は、売店を物色するには丁度良い。



 乗船券は、予約が原則のようだが、大型船なので、当日でも心配は無い。ダメならば、次の便でも良い。



 乗船すると、出航前に頭からすっぽりかぶる雨カッパの着装をする。今日は、風も強いそうで必須だそうだ。出港時には、消防用ホースからの盛大な見送りがあった。鳴門海峡までは30分ほどかかるが、説明が途切れなく続くので、船内を探検する時間も無いほどだった。
 甲板には、貴賓室もあるのだが、一番下のパネルとDVD映写が面白かった。特に、鳴門海峡だけに渦潮ができるのが、淡路島の大きさが関係していることは、発見だった。最大で、高さ1.5メートルの海の滝ができるのだ。




 どこを航行中かも、パネルからリアルタイムで分かる。ついでに鳴門海峡は、両側から飛び出す長い砂州の為に、絞り効果で中央部が余計に加速されることも、この地図から納得が行く。その場考学的には、良い発見だった。



 
 渦潮は、どこにできるか全く予想がつかない。しかも、できるとすぐに消えてしまうので、デジカメで瞬間を捉えるのは至難だった。おまけに、風が予想外に強い。しかし、何度かトライするうちに、渦の発生の前兆が分かるようになり、なんとか連続でもなく、Videoではなく、一枚の写真を撮るこつを覚えた。






橋の下を通過の際には、橋の上からの見学者と手を振り合う。



 下船後に、ターミナル内のレストランで昼食をとった。あたりに海鮮丼の店がいくつかあるが、ここからだと次に出向する船を見ることができる。
 注文したのは、「しゃきしゃき七色丼」で、お米が淡路島の形をしていた。




 昼食後には、すぐ目の前の「淡路人形座」で、伝統芸能の人形浄瑠璃を楽しむことで、切符を購入後、開演時刻までの約1時間は町内散歩を楽しんだ。幸い、自焙煎のコーヒーを飲ませてくれる店があり、コーヒー談義も聞かせてもらった。






 場内には、各種説明のパネルや人形が置いてあり、勉強になる。「おひねり」を推奨する為の、説明書と包むための紙まで置いてある。商売熱心だ。開演前の説明も、かなり念入りに行われた。演題は、最も有名な場面で、よく分かった。






洲本への帰りの路線バスも、最終便が19時なので、ゆっくりとあたりを満喫することだできる。
路線バスの旅も、熊本の絵画古墳巡りで味を占めて、地方ではよく利用するようになった。
 


その場考学との徘徊(77)淡路島での4日間(その2)

2024年05月12日 15時50分37秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(77)        
題名;淡路島での4日間(その2) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存                                               

・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第2日目の詳細

 二日目は、終日レンタカーで、路線バスでは行けないところを廻ることにした。島のレンタカーは豊富で、ホテルからバスセンターへの道筋にも一件あり、そこまでホテルの送迎バスで送ってもらった。
私は齢78歳なので、知らない土地でのレンタカーには、少し戸惑いがあったが、先日免許更新をしたばかりで、島内の交通が複雑でないことを願っての借用だった。


 
 9時に借用して、海岸を北上し「淡路ワールドパークONOKORO」の駐車場に止めた。平日なのでガラガラ。古事記の「おのころ島」が、あちこちで借用されていることは、神社巡りに期待が持たれる。



 若い人向けには、様々な乗り物と体験があるのだが、当方は世界の名所のミニチュアと観覧車がお目当てだった。ミニチュアは、思いのほか精巧で、現地では見ることのできない、教会の尖塔の飾りや、寺院の壁面の彫刻の詳細をじっくりと眺めることができ、満足だった。







また、「童話の森」では、世界童話の8作品のジオラマがあり、物語の概要も示されていたので、改めて昔を思い出した。「ヘンゼルとグレーテル」や「ジャックと豆の木」など、忘れていた経緯や結末もあった。



「遺跡の世界」も一巡したのだが、間近でゆっくりと見られるのは、年寄り向きなのかも知れない。



 観覧車は、勿論貸切り。ゆっくりと、公園全体と周辺の町並みを見物した。歩き疲れを癒やすには、こ




 公園での軽い昼食の後に、「伊弉諾神宮」へ向かった。道路は比較的広く、走りやすい。
ここは、伊弉諾の尊が、すべての国産みを終えた後での隠居所とされている。
 お目当ては、「ひのわかみやと陽の道しるべ」という大きな石碑だ。いくつかの古代史の書籍に引用されている。
 この地点から、太陽に関する8つの方向には、それぞれいわれのある神社が存在する。例えば、真東が伊勢神宮、夏至の日の出は熊野大社といった具合だ。






 淡路島を横断して、西の海岸に「幸せのパンケーキ淡路島テラス」という、若者に人気の店がある。そこのパンケーキを楽しんだ。若者のお目当ては、スイーツよりも、海に突き出た二つのモニュメントで、そこでは、撮影のための行列ができていた。




 最後は、「おのころ島神社」で「自凝島神社」と書く。




 レンタカーは、無事夕刻に返却をすることができた。

その場考学との徘徊(76)淡路島での4日間(その1)

2024年05月12日 10時13分20秒 | その場考学との徘徊
ブログ;その場考学との徘徊(76)         

題名;淡路島での4日間(その1) 場所;淡路島 月日;2024.4.7~9
テーマ;古事記と現代社会の共存
                                               
・旅の目的
桜の満開の時期に、淡路島で4日間を過ごした。目的は、3つあった。
① 古事記のおのころ島に滞在すること
② 鳴門の渦潮を船からみること
③ 今は、リゾートの島となっている現状を、少し体験すること

・往復については、
往路;無料航空券で、羽田から伊丹空港へ
 そこから、淡路島の中心の洲本バスセンター行きの高速バスで、ホテルまで直行
帰路;ホテルから新幹線の新神戸までの直通バス
 そこから、新幹線で東京へ戻る

・大日程
 第1日目;洲本の街歩き
 第2日目;レンタカーで駆け巡る
 第3日目;路線バスの旅
 第4日目;3日夜までに決める

・第1日目の詳細

 羽田からの飛行は、AirbusA350-900という大型の最新機種。下は曇りで見えないのだが、3次元画像で、どこを飛んでいるかはよく分かる。しかし、雲の上の富士山と南アルプスは、実物がよく見えた。



 伊丹空港で驚いたのは、淡路島へのバスだった。通常のリムジンバス乗り場に、そのバスは来ない。案内所で聞くと、空港ビルの外れの別のビルに停留所があるという。かなり歩いて、そこまで行くと、看板があるだけ。バス会社に連絡をすると、予約がないと、乗れないかも知れない。つまり、満員でなくても、そこから乗る人の予約がないと、通過するそうだ。
 幸い、二組が乗車したので、なんとか乗ることができた。最悪は、淡路島までレンタカーを考えた。



 車内は、結構混んでいた。夕方の通勤時間帯ならばともかく、日曜日の昼下がりでは、通常の空港リムジンでは考えられない混雑だ。

 しばらくして、原因が分かった。いくつものトンネルを抜け、明石海峡大橋を渡ると、「ニジゲンノモリ」という停留所がある。そこで、大部分の乗客が降りてしまった。
 子供ずれ、外人客など色々だ。そこは最新のテーマパークで、ドラゴンクエストや、ゴジラの実物大のアトラクションがある。「ゴジラが淡路島に上陸」との宣伝文があった。
 後にTV番組の「Youは何しに日本へ」で、アメリカ人が「ゴジラに食べられるために来た」といっていた。最近のゴジラは海外での人気が高い。
 そこから淡路島縦断は、ガラガラ。終点の「淡路バスセンター」で降りたのは我々だけだった。バスは何と「ニジゲンノモリ」のラッピングカーだった。日曜日の昼前という、とんだ時間に混んでいたのを、納得した。



 洲本バスセンター内の観光案内所は、なんでも親切に教えてくださった。島内の南北へ向かう路線バスも、時刻表が数種類あるのだが、目的地を決めれば、計画は立てやすいし、本数もかなりある。
 近くのレストランで昼食を摂り、ホテルに向かうことにした。ホテルには、別途送迎バスの時刻表があるのだが、連絡をすれば、いつでも臨時に迎えを出して貰える。これは年寄には大変ありがたい。

 チェックイン時刻には間があるので、城山に登ることにした。登山道が二つあり、山道と普通の路だという。
せっかくなので、山道を選んだ。木々の間から、時々海が見える。
 頂上らしき処は二つあって、一つは城の天守閣がある。しかし、私が登ったところは、公園で、数組が幼児を遊ばせながら花見をしていた。桜の木は大きくないのだが、記念樹に見えた。どうも、北海道のどこかと姉妹都市のようだ。


 
 この疑問は、すぐに分かったのだが、先ずは、下におりてホテルにチェックインをした。部屋は、一人なのだが、ツインになっている。淡路島は、土地が広い。



後で知ったのだが、どうやら特別フロアーだったようで、エレベータ横にラウンジがあり、飲み物と新聞が置いてある。
 翌朝の朝刊は、5時からの朝風呂の後には、もう4紙置いてあった。東京の我が家よりは、早いのでびっくりだ。

ホテルを出て、街歩きを始めた。最初は、ホテルの前の松林。海風に晒されるので、独特の曲がった幹が面白い。



 すぐに、「国指定名勝 旧益習館庭園」という処に出た。観光案内所で、今日は特別公開をしているので、見に行かれたら、とおすすめのあったところだ。
 閉園5分前だったが、ゆっくりと回遊をさせていただいた。

大きな岩がほどよく配置されていた。




 江戸時代の後期に、淡路島は蜂須賀家の領地だったが、実質は城代家老の稲田氏が治めていた。
明治維新時に、蜂須賀家は将軍家と結び、稲田氏は朝廷と縁があった。そのために事変が起こり、結局両家は罰を受けたのだが、稲田氏は、明治政府から北海道の静内に移住して開拓をするとの命令が下された。先ほどの山頂の記念樹の意味が、ここでようやく分かった。
 この庭園の横には、小さな桜並木があり、奥には、山頂に向かう別の登山道の階段が見えた。



 住宅街の路地をジグザグに進むと、10分ほどで街に出る。「洲本レトロ小道」との名前が付けられた路地があり、のぞいてみた。残念ながら日曜日はどこも閉店。わずかに、「淡路島でのドラマの撮影スポット」なるパネルの展示列があり、それを楽しむくらいだった。  



ジェットエンジンの技術(14 )第17章 第1世代(1960年代)の民間航空機用エンジン

2024年05月11日 08時42分52秒 | メタエンジニアリングのすすめ
ジェットエンジンの技術(14)
第17章 第1世代(1960年代)の民間航空機用エンジン

 この10年間は、民間航空機の第1世代と言われるように、大型航空機による国際間ルートが完成し、それに応じた機体が次々に開発されてエンジンの需要も急増した。一例としてボーイングの航空機の種類と型式証明の時期、及び搭載エンジン名は以下の通り。
 B707-120B 1961.3 JT3D-1  
 B707-138B 1961.7 JT3D-1  
 B707-400 1962.2 Conway Mk508
 B707-300B 1962.5 JT3D-3   
 B707-320B 1963.4 JT3D-3B  
 B720 1960.6 JT3 C-7
 B720B 1961.3 JT3D-1   
 B727 1966.1 JT8D-1   
 B727-200 1967.11 JT8D-17
 B737-100 1967.12 JT8D-7   
 B737-200 1967.12 JT8D-9
 B747-100 1969.12 JT9D-7A

 このリストから分かることは、機体の仕様が変わるたびに、エンジンの派生型が搭載されてゆくということで、このことが新規のエンジン開発における重要事項になっている。つまり、新規に開発される機体が、将来どのような方向に改造されてゆくかの見極めである。それらは、長距離型、短距離型、長胴型などが考えられる。
長距離型への変更は、乗客数を減らして、その分燃料搭載量を増やし、エンジンを増強すればよい。短距離型は、逆に燃料搭載量を減らして、乗客数を増やす。離着陸回数が数倍になるので、エンジンは低サイクル疲労寿命を長く設定しなければならない。長胴型は、単に乗客数を増やすためで、エンジンは出力を大幅に増やす必要がある。このような派生型のエンジンを、将来のエアラインの要求に従って、比較的軽度の設計変更で可能にすることは、当初の基本設計段階で盛り込んでおかなければならない。さらに、このようなエンジン全体の構想設計に属するノウハウは、繰り返し新規のエンジンを開発する組織の内部にのみ、系統化され伝承される。当然ながら、これに相当するダグラス社とロッキード社の旅客機も就航し、競争はますます激しくなった。そのことは次の第18章で述べる。エンジンに関しては、この時期は低バイパスエンジンの開発と実用化が進み、更にバイパス比を高めた、高バイパスエンジンの開発が競われ始めた。

17.1 ターボジェットからターボファンへ

 1959年、ボーイング707と720用の発注が開始された。初期のB707はJT3C ターボジェットエンジンを搭載していたが、騒音が大きく燃費も悪かった。そのため、経済性を求めるエアラインからはより高性能なターボファンエンジンの登場が望まれていた。1961年3月、JT3D搭載のB707-123とB720は、アメリカン航空で同日に運行を開始した。しかし、次に開発されたB707-300シリーズは、JT3D ターボファンのみの注文だった。

 JT3Dエンジン・シリーズの改良が進み、熱サイクルの圧力比の向上、遷音速ファンの採用などで推力と燃料消費率が向上し、同じ機体でもより長距離の運航が可能になった。
 B707-320にJT3D-3B型を搭載したのが-320Bである。ターボファン化により燃費が大幅に向上し航続距離が伸びたため、東京-モスクワ間ノンストップ飛行や、偏西風などの天候条件が揃い搭載量の制限を行えば太平洋無着陸飛行も可能になった。


図17.1 初期のJAL所有のエンジンの比較
(JALのパネルを基に筆者が作成)

 JT3Dエンジンの改良が進む中で、短中距離旅客機用のより小型のJT8Dエンジン・シリーズの開発が始められた。この際の設計の基本方針は、堅牢で信頼性が高いことであった。
B727にあわせて1964年にJT8D-1が型式承認を得た。このエンジンは、その後推力を12,250-21,000 ポンドまで幅広く広げ、B727、B737、DC-9にも搭載された。350社のエアラインで採用され、総生産台数は14600台で総運転時間は15億時間に達した。草創期のターボファンエンジンでは比類なき製造数を誇れたのは、基本設計が後の推力の増減のための派生型エンジンに適したからであった。このエンジンの存在も、このような基本方針が後の新型エンジンの開発設計時の重要事項として引き継がれてゆくことになった。

 この期間の後半は、いわゆるジャンボ機の開発競争であった。エンジンの大型化と信頼性の向上により、主要エアラインはこぞって機体の大型化による旅客コストの削減を求めた。エアラインの直接運航費は燃料である石油の値段の乱高下により大きく変動する。燃料費が全体の50%以上を占める期間もたびたび出現する。エアラインが求めるのは、「シート・マイル・コスト」と呼ばれる旅客一人を1マイル運ぶためのコストになる。ジャンボ機はこの点で圧倒的に有利になる。このことが1970年当初から始まると考えた機体会社とエンジン会社は、こぞって高バイパス・エンジンの研究を始めた。
当初それは軍用機用のエンジンからの転用であった。現在もそうであるが、新規エンジンの研究と開発費の総額は、計画通りの生産台数でも総合収支の回復には10~20年を要する。従って、特に欧米では新規のエンジン開発は軍用機用エンジンの開発費で行い、それを後に民間機用エンジンに改良する手法が採られた。

 米軍の大型輸送機CX-X計画は1963年後半に始まり、搭載エンジン4発、総重量249トン、積載量81.6トン、巡行マッハ0.75の条件が示された。積載量を乗客数に換算すれば、例えば荷物を含めて一人100kgとすると800人が可能となる。この仕様に対して、ロッキード社、ボーイング社、ダグラス社、マーティン社、ジェネラル・ダイナミクス社がこの提案に応えた。
この大型機のエンジンに関しては、最大推力が18トンの高バイパス・ターボファンエンジンの開発が必要となり、P&WとGEが開発競争を行った。例えば、JT3D-5Aのファンの直径1.3m、バイパス比1.4、最大推力9.5トンであり、それに対して、高バイパス比のJT9D-1は直径2.36m、バイパス比は5、最大推力は18.6トンとなる。ファンの直径を、ほぼ2倍にする設計が必要であった。

 この米軍の大型輸送機C5Aは、ロッキード社に開発が委ねられることに決定された。エンジンは、GEのTF39であった。敗れたボーイングとP&Wは、この開発の技術を民間機用に向け、B747の機体とエンジンの開発に注力することになった。JT9Dエンジン・シリーズの開発は、このために始められ、1966年に地上運転を開始して、1968年には米軍機のB52を改造したFTB(フライインング・テストベッド)による空中試験飛行が行われた。そして、1969年2月にB747の初号機の初飛行が行われた。さらに、パンアメリカン航空による初の商業飛行が1970年1月に行われた。このような、順調な機体とエンジンの同時開発は、現代の技術をもってしても、なかなかできるものではない。当時の軍用機用の研究と開発が、いかに入念に行われていたかの証である。B747の機体は、その後様々な改良とエンジンの換装が行われ、Boeingによる製造は2020年現在続けられている。

 高バイパス・ターボファンエンジンでは、ファンの入口径が巨大になるので、ファンブレードには鳥などの衝突に耐えられるだけの強度と軽量化が同時に必要になる。そこでP&Wは、ファンブレードの素材にチタン合金を用いて、軽量化と強度の両立を図った。一方で、RRは複合材を用いたブレードで開発を進め、最後の鳥打ち込み試験(この試験は、エンジン全体の試作が完了し、最大回転数の試験が終了してから行われる)に失敗し、機体会社への納入遅れのために倒産して、その後長期間にわたって国営会社(RR1971)となってしまった。
GEがCX-X計画に提案してロッキードの機体と共に競争に勝利したのはTE39エンジンで、バイパス比は8、圧縮比は25、タービン翼の冷却設計によって1370℃という温度を達成したことであった。TE39の初号機は1965年に試運転し、大型の軍用輸送機C-5Aは1968年に初飛行を行った。その後、このエンジンは民間機用にCF6として改造され、マクドネル・ダグラス DC-10とB747の代替え用エンジンに選ばれた。
高バイパスターボファンエンジンは熱力学的な効率が大幅に向上し、燃料消費率を一気に25%以上改善することができた。また43,000lb(約19.5t)の推力はジャンボジェット機の長距離飛行を可能にした。B747の初の定期運航路はニューヨーク―ロンドン間であった。

 私は、その後GEとPWAの両社の研究部門とも付き合うことになったのだが、GEは熱力学と材料の開発を伴った高温化技術に優れ、PWA社は流体力学と高負荷タービンの開発に熱心であったと記憶している。この時期の開発競争の余韻とも思える。

17.2 J3エンジンの開発と実用化

 国産ジェットエンジンの開発が国内に定着した歴史には紆余曲折があった。1955.2年にGHQによる航空禁止が一部解除され、日本企業による航空機製造が再開されたが、空白の7年間で世界のエンジン技術は格段の進歩を遂げており、単独企業の独力では開発が不可能な状態になっていた。通商産業省(現経済産業省)は、1952年11月に「航空機製造法」が施行された後、翌年6月に航空機生産審議会において「ジェットエンジン試作研究に関する特別措置」を公表して、試作するメーカーには助成金を出すとして募集を開始した。

 最初に名乗りをあげたのは、元中島のエンジン部門を引き継いだ富士重工系の会社で、助成金320万円を受け、1954年に「JO-1」を完成させた。しかし、これは実用には程遠いものであった。そこで、石川島播磨、富士重工、富士精密、新三菱の4社が共同出資して資本金1億6千万円の日本ジェットエンジン株式会社(NJE)を設立した。しかし、通産省は欧米のあまりに進んだエンジン技術を見るにつけ弱気になり、予算は縮小していった。アメリカ製エンジンのライセンス生産のほうが、開発費もかからずに、早期に技術を取得できるのではないかとの考えが主流となっていった。
 
そのような中で、日本初のジェット練習機であるT-1は、搭載するターボジェットエンジンもまた国産品であることが決定し、1956年にNJEと防衛庁でエンジン試作の契約が成立した。しかし、開発は困難を極めて、次第に全ての会社がエンジン開発ビジネスに消極的になっていった。
 その中にあって、ただ一社というよりはただ一人敢然と継続にチャレンジした人がいた。有名な土光敏夫である。1957年に石川島重工業が武蔵野の中島飛行機のエンジン工場の跡地に、ジェットエンジン専門工場としての田無工場を開設した。その時の逸話はこのようなものであった。
 『終戦の翌年である1946年に石川島重工業の社長となった土光はその後、東芝の再建や、国鉄の民営化に道を開いた80年代の行財政改革などで剛腕を振るった。ただ日本の産業史に残る最も輝かしい業績は、航空機エンジン産業を興したことだろう。重工大手各社が投資リスクの大きさゆえ、尻込みする中で、1957年に東京・田無工場を開設し、本格参入した。 その際、土光は全社幹部を集めた決起集会で、自らのあだ名通りの「怒号」を飛ばした。「焦土となった日本が工業立国として復活するには、最も難しい航空機エンジンに挑戦するしかない。そこで成功しなければ、日本の工業輸出品は世界で認められない」と。 そして、「航空機エンジンに社運を賭ける」と宣言し、壇上の机を思い切り殴りつけた。土光の拳は血に染まった。』(文献14章の(13)より引用)

 この発言が無ければ、現在の日本のジェットエンジン・ビジネスは存在しなかったとも云えるほどの発言であったと云われている。この時点で他の4社はJ3に見切りをつけ、ジェットエンジンから手を引くことになり、以降現在まで防衛庁関連のターボジェットエンジンの開発はIHIがほぼ独占的に行うことが続いている。

 この間に国産エンジンは中級ジェット練習機の初飛行には間に合わず、ブリストル・オルフュースのMk805を搭載したT1-1ジェット練習機が生産されることになり、1960年に初飛行が行われた。J3エンジンは、量産第一期の20機と第二期の20機に間に合わず、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。しかし、航空自衛隊の教導飛行方針が変更され、機体の配備数を削減することから、第三期分の20機で生産終了した。

 なお、上記のIHI田無工場は、その後も国内最大のジェットエンジンの生産工場であったが、周辺の市街地化により2007年に福島県相馬市に移転した。その後、跡地の一部は公園となり、「ジェットエンジンのふる里」という名の記念碑が建てられており、毎年OB会が清掃を行っている。


 図6.2ジェットエンジンのふる里の記念碑 (IHI提供)

コラム;Boeing機がレシプロからジェットエンジンへの大転換を図った時の秘話(8)

 1960年代から現在まで、夥しい数の経営指南書が発行された。その中にあって、T.J.ピーターズとR.H.ウオ-タマンの著書、「エクセレント・カンパニー」講談社(1983)は、その題名と共に有名になった。その冒頭の「序」の中に、次の終戦直後のボーイングの話が出てくる。 
 
 エクセレント・カンパニーの基本はプロダクト・チャンピオンと称する自分の信念に基づいて突っ走る従業員の実話が中心なのだが、それについてのボーイングの幹部との話が紹介されている。
 
 終戦直後に、「そのチャンビオンたちがいすぎて困ってるくらいなんだ」との話しは、次の事実を語っていた。ボーイングがいかにして後退翼型のBoieing707で民間航空機では最初の大成功を収めたかと、当初ターボプロップ型B-52のジェット機化としての利点を証明した時の裏話だった。
 
 それは、ボーイングの技術者の一群が、終戦直後にドィツ軍の技術者の部屋に侵入して、ファイルを必死になってあさっている光景であった。そこから彼らは、ナチスドイツが後退翼型航空機に多くの利点があることを認めていた事実をつかみ、シアトルに戻って直ちに風洞を使った実験を行い、後退翼型機の基本形状を決めた。彼らはB-52の設計を最初から完全にやり直し、膨大な提案書をまとめて空軍に提出した、とある。 (p.12-13を参考)
 
 この逸話からも分かることは、このように、他国の技術者の個人的なファイルを丸ごと持ち出して、そこから次の技術開発を始めるということは、やはりエンジンの進化の系統化はまさに、ヒトからヒトへということだと考えられる、この場合は、敵対した戦争当事者間の系統化であった。


ジェットエンジンの技術(13)第16章 ターボジェットの時代(1950年代)

2024年05月01日 16時13分27秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第16章 ターボジェットの時代(1950年代)の民間航空機用エンジン

 この期間には、設計と生産技術の急速な進歩により、航空機の実用化が一気に進んだ。それは、このことが軍事面と民間面の双方で国力を左右するほどの産業と見なされ、特に英米で精力的に投資が続けられたことによる。大きな技術変化としては、 当初は、遠心圧縮機が簡潔・高信頼性の両面での優位性で用いられていたが、高速化に伴い、前面面積の小さい軸流圧縮機に変化していったことが挙げられる。また、アメリカではアフターバーナーを取り付けたジェットエンジンを戦闘機に搭載し1953年には音速の壁を破ることに成功した。

16.1 大洋横断用の大型エンジンの開発 

 ガスタービンは、間欠燃焼のピストン機関と比べて連続燃焼のために、小型・軽量で高出力が可能になる。つまり、ガスタービンは当初から航空用としての申し子の特質を備えていたと云うことができる。また、大量の空気流を必要とするが、高空では空気が清浄で圧縮機内の汚れが起こらず、出力逓減がほとんどない。さらにこの時代ではジェットの排気処理も気にせず、また騒音も上空では問題にならなかった。このような要因により、航空機用として、20世紀後半は航空用のガスタービンが全盛となった時代ということができる。
 しかし、発明当初からの問題であった熱効率の向上のためには,高温連続燃焼に耐える新材料の開発と高温部の効率的な冷却設計技術が必須となる。さらに、その双方に対して、超合金の精密鋳造と難削材の精密加工が高い信頼性により保証されなければならない。このために、エンジンの技術的な進歩は、その後約10年刻みで、段階的に進むことになった。

 圧縮機とタービンの空力性能が向上すると、主要エアラインからは、より大きな推力のエンジンが求められるようになった。しかし、圧縮機の段数が多くなると、低回転状態での低圧側と高圧側での流れが安定せずに、エンジンの始動が困難になった。そこで、圧縮機を二分割して、低圧圧縮機を低圧タービンで、高圧圧縮機を高圧タービンで駆動するという、2軸ターボエンジンが開発された。この発明によりP&W社は圧縮比13.1のJT3エンジンの開発に成功した。当時のRRのエイヴォンは6.5、GEのJ47エンジンでは5.1であった。


図16.1 アメリカ空軍のJ57 (JT3の米軍用識別番号)(9)

 1950年代の民間航空機の開発競争は、デハビラント社のコメットにより始まった。1949年に初飛行に成功後、改良を重ねて1951年1月に最初の量産型が英国海外航空に納入された。速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機は、航路開拓も兼ねて2年間の準備期間を設け、その間に2機の試作機が世界各地に飛来し大評判になった。
1952年5月には初の商用運航が英国海外航空により実現し、ヒースロー-ヨハネスブルグ(ローマ、カイロ、ハルツーム、エンテベ、リビングストン経由)間での所要時間を一気に半減させた。 エンジンは、DHエンジンズ社のゴースト4機であったが、1953年にRR Avon503に換装された。

 コメット機は、従来のプロペラ機と航続距離が同様であり、大西洋横断路線の無着陸横断は不可能であった。しかし、従来の2倍の速度と定時発着率の高が実証され、ピストンエンジンと違い振動も少ないなどの快適性もあり、初年度だけで3万人が搭乗する人気であった。就航から1年の間に高速機に不慣れなパイロットの操縦ミスにより3機が離着陸時の事故で失われたが、乗客に死者は出なかった。

 しかし1954年1月に、イタリア近海を飛行中の英国海外航空機が墜落し、乗客乗員35人が全員死亡した。回収された残骸の状況などより空中分解が疑われ、英国海外航空はコメット全機の運航を停止した。
その後耐空証明を取り消されたが、問題部分と思われた個所を改修後に運航が再開された。しかし運航再開後の同年4月にも、イタリア近海を飛行中の南アフリカ航空機が墜落し、乗客乗員21名が全員死亡した。この二度目の空中分解を受けてコメットは再び耐空証明を取り消され、全機運航停止処分になり、そのまま姿を消した。空中における事故は、直ちに全員の死亡事故に繋がるために、特に民間航空機用エンジンの空中停止(in flight shut down)には、十分な配慮が加えられることとなっていった。

 その間に、米国ではボーイング社が大陸横断を可能にする大型の旅客機(Boeing707)を開発するために、大推力のエンジンを必要としていた。採用されたのは、P&WのJT3エンジンであった。これにより米大陸横断飛行時間は、半分以下にすることができた。
 さらに、パンアメリカン航空がニューヨーク-ロンドン間の飛行計画を実現するために、更なる大推力エンジンを要求し、P&W によってJT4エンジンが開発された。両エンジンの比較を(図16.2)に示す。



図16.2  JT3とJT4エンジン諸元の比較(3)

 JT4エンジンを搭載したパンナム機は、ニューヨーク-ロンドン間のコメット機の市場を完全に奪うことに成功した。新型の大型のエンジンを搭載した大型の航空機が、市場優位になる基礎が出来上がった時代となった。


図16.3  JT4エンジンのカットモデル(JAL提供)

このエンジンは、DC8機に搭載されFUJI号(識別番号JA001)として日本で活躍した。成田の整備工場にカットモデルが展示されている。

16.2 ターボファンエンジンの開発
 しかし大型化されたエンジンが排出する高速の排気ガスは、騒音問題を引き起こした。そこで、エンジンからの排気ジェットの速度を落とす対策が考えられた。ターボファンエンジンである。この理論は、1936年にホイットルが特許を取得していたが、エジンの要素効率が悪く実現はしていなかった。P&Wは、先に開発されたJT3エンジンの改良型のJT3Cエンジンにこの改良を加えて、JT3Dターボファンエンジンの開発に1958年に成功した。このエンジンを搭載した新型機は、離陸時の騒音を10デシベルも低減することに成功した。このエンジンは、20年間に亘り軍用機用も含めて8000機以上が生産された。この成功により、ターボジェットからターボファンへの変更が急激に進むことになった。

 DC8機は1958年に初飛行し、JALを含む太平洋横断飛行に多く投入された。1972年に生産が終了したが、多くの機体はまだ世界中で活躍している。例えば、機齢50年超の機体は国際ボランティア医療団の所有機として非常時の緊急輸送に従事し、新型コロナでも医療用機器を輸送した。大量の貨物と人員の安全輸送は、健全なエンジンのお蔭である。


図16.4 JALのDC8に装備搭載されたJT3D-3B
(JAL工場にて筆者が撮影)

 一方で、英国では異なる動きが続けられていた。ターボジェットエンジンの分野で独走状態にあったドイツの技術者は、敗戦と同時に米ソが招聘していたため、彼らの経験は使えずに、英仏は独自開発を余儀なくされていた。ロールスロイス社は、独自にエイボン・シリーズエンジンを開発した。このエンジンは、堅牢な設計のために多くの転用型も開発され、航空機用の生産は1950年から1974年までの間に11000台以上が生産された。また、RRはこの技術を用いて、船舶・産業動力向ガスタービンエンジンの分野への進出も盛んに行なった。

 世界の民間航空業界における大型ジェット旅客機の優位性は1950年代後期に完成された。従来の大型レシプロ旅客機を遥かに超える定員100名超の輸送力と、高空におけるマッハ0.8クラスの巡航速度を両立させた。この二つは、21世紀の今日もなお踏襲されている。また、この期間に開発されたターボファンエンジンは、これ以降の大型エンジンの主流となり、燃焼器を通過しないファン流量と燃焼器を通過する流量の比を表すバイパス比は次第に向上するものの、基本構造としては今日まで踏襲されている。また、JT3やエイボン・エンジンに見られるごとく、民間機用エンジンを軍用機用に改造、またはその反対に軍用機用を民間機用改造する手法も、それ以降踏襲されている。