生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジンの設計技師(10)「リスクがあるから、やらない」が根本の問題 (2021.6.19)

2021年06月20日 08時08分26秒 | ジェットエンジンの設計技師
「リスクがあるから、やらない」が根本の問題 (2021.6.19)

 オリンピックの観客問題で、尾身感染症対策分科会長の発言が躍っている。「〇〇のリスクがあるから、何々が望ましい」ということで、無観客や開催地以外の観客を認めないなどと主張している。この主張は専門家としては当然のようだが、その通りに実行されることは、長年ジェットエンジンの新規開発をやってきた設計技術者としては、大いに不満だ。
 
 大型の旅客機に採用されるエンジンは、勿論飛行中に何らかの理由で作動不能になるリスクがある。だからといって、開発を止めることはない。リスクの中身を徹底的に詰めて、リスク軽減策を盛り込む。20世紀中の100年間に及ぶこの努力の積み重ねで、今日の旅客機は驚異的な安全性が保たれている。つまり、リスクに挑戦する態度を持ち続けた結果だ。
 
 福島原発事故は人災だと結論付けられている。つまり、技術レベルが低かったわけではないのだが、再稼働反対の世論は消えない。そのために人災の原因除去のことは何もやられずに、技術的な対策をどんどん積み重ねている。「リスクがあるから、やらない」から、「リスクがあるから、やらせない」になっている。だから、リスクは隠し通す、という悪循環がまだ続いている。
 日本の経済成長や、イノベーションが進まないことも、同じ原因だと思う。大企業ほど日本人の経営者はリスク回避を主張する。新たなイノベーションに賭けることは、かなりのリスクを伴う。これらはすべて、「リスクがあるから、やらない」に通じているのではないだろうか。

 なぜ、リスクの中身を徹底的に解析して、その対策を積み重ねてゆこうとしないのか。
 この問題を長い間考えてきた。いまのところの結論は、日本文化の根底にある「和を以って貴しとなす」だった。このことは、議論を徹底的に行わずに、中途半端に終わらせることを意味している。そうでなければ、和を保つことはできない。和を保つことが、総ての場面で最重要になっている。
 バイデン政権が、次々に目玉政策を打ち出している。危機管理条件下での正しい方向性と思えるのだが、日本の骨太政策は相変わらずの「良いと思えることの羅列」と評されている。いずれもが、中途半端に終わることになるだろう。

 これらいずれもが、やはり大陸の東の端にある島国という地政学的な歴史の中では、当然の文化なのだが、しかし、現代のグローバル化された世界では、その地政学は全くあてはまらなくなっているのだが、そのことが感覚として育たない。そして、「リスクがあるから、やらない」ところに、人類としての進歩はない。 
                                2021.6.19 その場考学半老人 妄言

ジェットエンジンの開発から学んだ設計法と技術論(5)閑話休題 国際共同開発いろいろ

2021年01月27日 13時42分57秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(5)
作成日;H26.5.5 KTR45051
改定日;2021.1.27
TITLE: ジェットエンジンの開発から学んだ設計法と技術論(5)

閑話休題 国際共同開発いろいろ

 私が、本格的な日英米独伊5ヶ国のジェットエンジンV2500の国際共同開発に携わることになったのは1979年のことであった。それから40年以上の年月が経った。今では国際共同開発は製造業では常識のこととなっているが、当時はまだ珍しかった。

 しかし、国際共同開発と一口に言っても、その始まりが開発段階からと、量産段階からかとでは随分と“お付き合い”の仕方・度合いが違うのではないだろうか。 量産段階での国際共同作業の興味・関心の中心はおそらくコスト削減と利益の確保だろう。それに対して開発段階では、私の場合を振り返ると、時間との戦いと “文化と知恵の交換” が興味・関心の中心だった。

 とくに “知恵の交換” が成功のための決定的な要素だった。その認識はお互い同じであったと思う。そのため初日から信頼関係の構築に真剣に力が入れられるようになった。そして自然にアフターファイブが貴重な時間になった。その過ごし方には英米独伊それぞれの特徴があったが、私には英国風が合っていた。そこまで遡って構築された信頼関係が、その後、実際の仕事で大きな支えになったことは言うまでもない。文字通りの “閑話”、アフターファイブの一端を紹介する。

・英国生活 午後5時以降の課外授業



 Dave Williamと愛車

 月曜日の午後5時以降はロールス・ロイス社のWilliam夫妻と酒場(パブ)に出掛けて英国生活の指導を受けた。
 レッスン1はダーツ(Darts)でした。ホップ の効いた酸味があって深い銅色の生ビール、ビター(Bitter) 。これがなみなみ入った、ヤード・ポンド法で8分の1ガロンの1パイント(pint)約570mlのコップを片手に、つまりパイント・ビターを片手に、スリーオーワン(301)のルールで挑戦する。
 301点を持ち点として、ダーツがボードにヒットした点数を持ち点から引いていき、ぴったり0点になったものが上がりで勝者になる。
 そんなルールのゲームで、本来はダブルリング内のいずれかにダーツが刺さらない限り、ゲームはスタートしないというダブルスタート(Double Start)なのだけれど、そこは日本ルールで勘弁してもらう。しかし、終わりはダブルフィニッシュ(Double Finish)を守る。投げたダーツがダブルリング内に入って、 しかもそのダーツによって残り点数が、きちんと0点にならなければいけないというルールである。



William夫妻 たちと              

 上手く当たらないのは羽 (fin)が悪いからだと、さっそく自分専用の羽を調達した。そして互角に戦えるまでに腕を挙げた −−− そう思ったのはまったくの勘違いだった。前半でリードしても、必ず後半であっという間に抜かれてしまう。



 いつもデーブ(Dave William)に遊ばれるだけだった。それでも飲みながらの会話の楽しみ方は身についた。一杯のビールで1時間近くも立ったままの会話を楽しむ。こんな技は英国の片田舎のパブでなければ身につかないだろう。
 
・世界で一番古いというパブ

 ある日、世界で一番古いというパブに行った。英国特有のなだらかな坂道を辿った丘の峠付近にあった。そこでビールの質の見分け方を教わった。ともかく一杯で1時間以上も粘ろうというのだから、泡がどれだけ消えないで保つかが大切である。そのための品質検査方法がいかにも英国風だった。

 飲む前にボールペンで泡の表面に文字を一つ書けという。驚いたことに問題なく字が書けた。そして、その文字が飲み終わるまで読めることが良いビールの判断基準だという。まさかと思った。しかし、これは真実だった。泡が細かいためのようだった。失礼、ビール(Bear)ではなくてビター(Bitter)でした。

 レッスン2は乗馬の個人指導。こちらは毎週水曜日の午後5時以降でした。そして毎週Henryという名前の馬である。日本人の標準体型で鐙(あぶみ)に足が届くのはHenryだけだった。乗馬教室では馬の背に乗る方法しか教えてくない、その後は1時間あまり私を騎手として乗せたままで勝手に馬が野山を徘徊する、ルートも時間も馬が知っているから大丈夫−−−それが英国風である。騎手である私のことは無視される。小川を渡り、柵を越えて徘徊し、そして時間になると元の場所に戻る。途中、仲間の馬は林の中に隠れてまったく見えなくなるのだが、そんなことなど馬はまったく気にもしないのである。

 ともかく毎日「After Five イコールSlow Life」であった。

 なお、デーブ(Dave William)の当時の役職は、Assistant Chief Design Engineer。ロールス・ロイス社では、大プロジェクトになると、Chief DesignerとChief Design Engineerが任命される。Chief Designerは設計部隊の責任者で設計に専念し、Chief Design Engineerは関連部門との調整役で全体の日程管理に責任を持つという仕組みになっている。そこには、それぞれが基本機能に専念するという英国流の合理性があるようだ。しかし、日本人の感覚では、どうしても同一にしてしまうようである。

・英国風ボウリング

 名前は「スキトル」(skittles)。ボウリングの起源といわれる。ゲスト・ハウスの食堂の隣の部屋にある。ゲームのルールは簡単だったが、良く覚えていない。何しろ酔い覚ましが目的でやっていたものなので…………。1ゲームはすぐ終わる。毎ゲーム50ペンスの7角形の白銅貨(fifty pee)を賭け、勝者が取る。取り取られ、適当なときに終了する。そのため勝ち負けはホストの意のままにできる。この当たりが英国風といえる。
 次のスケッチのようなものである。台も、ピンも球もすべて木製。ピンを立てて並べるのも、球を戻すのもすべて手作業である。間違いなく、ほどよい酔い覚ましになる。そして会話も自然に弾む。そして次第に相手のペースにはまってしまう。



 ともかく彼らにとって、私たち日本人はかなり扱い易い人種だったのだと思う。
 そして人の序列は1に英国人。2にインド人。3にその他の英連邦人。そして、その他という話を、この時に聞いたことがある。私たち日本人は、その他であった。共同開発を続けていた間に、果たして私たちはレベル2まで上げてもらえたのだろうか? 残念ながら、その答えを聞きそびれてしまった。

 なお、50ペンスの7角形の白銅貨のデザインにはいろいろある。写真は1978年発行のものである。



・Gordon Cooper氏のこと

 Gordon Cooper氏はV2500エンジンの国際共同開発設計に加わった(財)日本航空機エンジン協会(JAEC:Japanese Aero-Engines Cooperation) に貢献してくれたロールス・ロイス社のエンジニアである、と日本のジェットエンジン設計に関わっている誰もが認める人物である。

 とにかくジェットエンジン設計の細かいことからジェットエンジンのオーバーホウル、そしてエアラインが持っているジェットエンジンに関する嗜好まで何でも教えてくれた。英語の発音も明快で、英会話が苦手な設計者でも、最初から間違いなく意思の疎通ができた。
 彼の住居はロールス・ロイス社の本拠地、ダービー(Derby)から北方のシェフィールド(Sheffield)に向けてちょっと離れたベルパー(Belper)という閑静な街にあった。

 典型的なイギリス式庭園の裏庭がある住まいである。奥さんはCristeen。娘さん2人でCleaとHether。部屋には近くの原っぱで摘んできたベリー(Berry)で毎年作っているという果実酒の瓶が並んでいた。自身で試飲し、良い味になると飲み始めるという。 その中から1本選んで特製ラベルを貼り、お土産にくれた。



 ある時、彼は「会社が何でも好きな車種の自動車を提供してくれる。それで前から狙っていたジャガーを選んだよ」と言ってきた。しかし、1ヶ月後「あまりの燃費に悪さに取り替えてもらった」と言ってきた。どうやらガソリン代は自分持ちらしかった。

 悔しかったのは英国航空での待遇である。
英国航空を何回も利用しているうちに、私は数人の機長と顔見知りになった。当時、コックピットはカーテンだけの仕切りであり、自由に出入りできた。私は飛行中にコックピットに座り続けて、彼らと話しをするのが恒例になっていた。それでも離着陸の際は席に戻らされてしまった。

 ところがGordon Cooper氏はヒースロー空港に着陸する際にも同席が許されたという。いったい規則上はどうだったのだろうか? 臨時のメンテナンス要員にでもなったのだろうか? ともかく悔しかった。

 ちなみに、CAとも同様で、当時のBAのTokyo-London便には、いつも同じ日本人女性が乗務していた。ある時、食後に皆が寝静まったころに、私の席に拠ってきて「今回が、私のLast Flightです。退社することになりました」と。私は、次をどうするのか聞くと、「南アメリカに住みます」とだけが答えだった。彼女は、当時のBAでははたった一人の日本人で、かなりの差別を受けていたようだった。

 Gordon Cooper氏がV2500プロジェクトに関わった期間は誰よりも長かったが、それでも別れの時が来た。感謝とお礼の記念品のためにということで、一口千円の募金を募ったところ予想を上回る金額が集まり、記念品を選ぶのには本当に困ってしまった。最終的には、三越で一番高い輪島塗の文箱を選び、それを絹の風呂敷に包んで私は英国まで運んだ。税関で税金を徴収されるのが恐怖だったが、無事フリーでヒースロー空港の税関を通過することができた。

 そんなことを昨日の出来事のように覚えている。開発技術者の一つ理想像を当時のGordon Cooper氏に見ることができる。彼はそんな存在であった。

・閑話の余談

私は英国航空の飛行中の機体のコックピットで、パイロットはエンジンに興味を持つ人と持たない人の二派に明確に分けられることを知った。
 英国航空所有の旅客機B747には2種類のエンジンが搭載されている。ロールス・ロイス社のRB211の開発が遅れたため、初めの数機には米P&W社のJT9Dが搭載されている。東京―ロンドン線には両方の機体が飛んでいた。そしてコックピットで「この機体はどっちのエンジンを装備していますか?」と質問すると、直ぐに答えてくれる機長と、「そんなことは知らない」と答える機長とにはっきりと分かれるのであった。

 これらの機体には、私が知っている限り、エンジンに氷が付きそうになったときに働かせるアンチアイシングという機能に大きな違いがあった。一方は自動でスイッチが入るが、他方は航空機関士がスイッチを入れなければならないという違いがあったはずなのだが…………。

 その後、同じようなことを航空自衛隊のパイロットたちとの会話でも経験した。エンジン・トラブルが起こって、その解決策の説明などに出向いた時のことである。微に入り細に入り質問してくる人と、あまり興味を示さない人とがいた。エンジンの設計開発者としては、どちらのタイプの人たちを前提にして設計を考えるべきなのだろうか、技術やとしては前者を支持するが、車の自動運転化が目前の今となっては、後者に向かうべきなのだろう。。

 次回は本題に戻ります。
この文面は、私の原文に対して、友人の前田勲夫君が加筆してくれたものです。
引用元;
http://davisla.wordpress.com/2011/11/page/2/
http://www.pubsurvivalguide.com/links.htm
http://www.gateshizuoka.net/howto.html
http://blogs.bettor.com/Premier-League-Darts-preview-a10822
http://www.dartingaround.com/contents/en-us/d419_Shark_Fin_Steel_Tip_Darts.html
http://www.jaec.or.jp/

ジェットエンジンンの設計技師(7)第6話 長期安定調達法のいろいろ

2021年01月06日 07時53分43秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(7)
作成日;H26.5.13 KTR45131
修正日;R3.1.6

第6話 長期安定調達法のいろいろ

1.ジェットエンジンの素材調達の特徴

  ジェットエンジンの開発から学んだ設計法は、このシリーズで述べるごとくに多岐にわたるのだが、最大のものは長期安定調達法に則った設計の進め方であったと思う。そのことは何よりもその製造部品の具備すべき3つの特徴に原因がある。
第1は他の工業製品に類を見ない量産の長期性にある。一旦量産設計が確定されると、特段の理由が無い限り50年間は生産が続けられる。更に、その間には継続的なオーバーホウルによる部品交換も行われる。第2は、製造工程をむやみには変えることができないという規定上の問題がある。特に安全性に係わる重要工程の変更には、設計権者はもとより、規制官庁の承認が必要になる。第3は、製品の信頼性の確保である。検査で合格することは勿論なのだが、それだけでは全くの不足で、製造工程が初めから終わりまで一定の水準以上で安定していることが必要である。つまり、生産工程は常に統計的に管理されていなければならない。
調達と設計は一見密接な関係が無く、図面と品質要求が満たされればどのようなものでも良いように思われがちであるが、以上の理由からエンジンの設計技術者は基本設計の段階から素材と加工方法について調達先との密接な関係を保つことが必要になる。一方で、残念ながら、そんなことは無いと主張する調達マンが多いことも事実である。しかし、そのような調達方針が一旦行われてしまうと、基本設計者と調達先の技術者間の信頼関係が失われることになり、取り返しのつかない事態を招くことになる。
国際共同開発の期間には、6週間ごとに全パーティーの設計担当チーフが集まる全体会議が招集された。また、その間には個別のパーティー間の調整会議が頻繁に行われた。私はそれらの会合の後には、必ず数社のメーカーを訪問することに決めていた。メーカー訪問は1回や2回では本当のところは分からない。特に外国メーカーはキー・パーソンレベルの担当者の同業種間の移動が激しく、周期的に訪問をして、その変化と傾向を確認する必要があった。残念なことだが、当時の日本の商社の多くは、このことに関しては割と無頓着であったことも、このことを続けた理由のひとつであった。

2.アダム・スミスからのはなし

国富論(原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)で有名なアダム・スミスは「経済学の父」と呼ばれているが、社会が隆盛で幸福であるためには、 公平の原則、明確の原則、便宜の法則、経費節約の原則の四つの原則が重要であると述べている。また、商業社会の秩序については「見えざる手」(国富論の第4編第2章に現れる言葉)の存在を示唆していることは、従来から特に有名である。



アダム・スミス
(Adam Smith、1723年6月5日(洗礼日) - 1790年7月17日)は、スコットランド生まれのイギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・神学者・哲学者である。
主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。「経済学の父」と呼ばれる[1]。
2007年よりイングランド銀行が発行する20ポンド紙幣に肖像が使用されている。過去にはスコットランドでの紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する50ポンド紙幣にも肖像が使用されていた。

Wikipediaより




具体的には、一般に上下する「市場価格」に対して、資本や労働が無駄なく配分されるという自然法的な秩序を想定した「自然価格」が本来の真実の価格であると考えた。この考え方の発展が、後に述べるMDP(Market Driven Procurement)とVJP(Value Justified Procurement)の違いであろう。そして、この二つの違いは、先に述べたエンジン部品の調達の特徴を満たすための調達方法に色々な側面で関係をしてくる。
 ついでながら、スミスはしばしばイギリスの哲学者とも云われている。彼は古代ギリシャの哲学から多くを学んだことがその所以だ。しかし、彼はそれらに関しては生前に多くを発表せずに、一部は廃棄したとも云われている。そこで、彼の死後に友人の科学者と地質学者が残された遺稿を纏めて「哲学論文集」(1795)なるものを編集し、発行した。この書は日本人の哲学者、佐々木 健により翻訳をされ1993年に出版されたが、日本語の表題は「哲学・技術・想像力 哲学論文集」である。従って、彼の論理は大いに哲学的および技術的であるとも云えるので、技術者として彼の考え方は大いに参考になる。


読売新聞夕刊82012.12.28)より



 これらの本は、山梨県北杜市の金田一晴彦記念図書館で容易に見つけることができる。彼の蔵書は勿論、数人の寄贈図書が閲覧・貸出し自由なのは嬉しい。


3.元GEのVE指導者の教え

20世紀後半のGEは誰でも承知をしている人材育成に優れた会社であり、同時に金融をはじめとして会社がどのような仕組みで儲けるかの方法に長けていた。この両方が実は当方には欠けていた。日本では一般的に社内教育が充実しているとの見方もあるが、実際に欧米の会社の中での共同作業中に見聞きした他社(と云っても、GEとかRRのように、伝統的な技術のあり方を重視している会社)の制度とは雲泥の差が歴然としている。第一の問題は中堅技術者に対する社内教育の重要度に対する認識の違いであろう。次はそれに対する本人たちの集中度だが、これは第一の要因の結果であろう。私が実際に経験した教育は、勿論GE社内で受けたものではないのだが、それぞれの教育のエキスパートとの会話の機会には大いに恵まれていた。
その中で、
① 信頼性設計の様々な手法とその開発プログラムへの応用
② VE(Value Engineering)とVJP(Value Justified Procurement;後に詳述する)教育
③ シックスシグマのチャンピオンとの対話
④ シックスシグマ的発想法に関する教育
などを経験したが、これらはあらゆる実務に応用が利くので、いずれも深く記憶に残っている。

一方で私が受けた日本の社内教育の内容の記憶と利用の経験はあまり思い出すことは無い。入社初期に。有名教授やコンサルタントの座学を受けたくらいである。
GEの技術は特に設計に関しては「マニュアル文化」との印象を強く持っている。これは一時期V2500とGE90というエンジンのプロジェクトの掛け持ちをしていた時期に強烈に感じたものであるが、逆にいえばマニュアルの作成能力と教育手法が優れているともいえる。この二つは大いに見習うべきなのだが、この二つは時間的な変化が激しいので、新知識を伝授できる継続的な講師の育成が不可欠であろう。特にコストエンジニアリングについては専門の講師を招聘して1週間ほどの講義と他社の事例研究などを通じて、最新の知見を身につけることが続けられることが望ましい。 

 かつてGE社内でValue Engineering(VE)を指導していたお年寄りのOBと1週間を過ごす機会を得た。ご承知のようにVEの発祥はGEである。そして、その発端は軍需調達品の機能に見合った調達の方法論であった。彼は、GE退職後にはその方面のコンサルタントを主として米国内の自動車産業を中心に個人的に行っており、VEの考え方に即した調達法について、設計の初期から調達先との付き合い方の詳細を含めて、細かく教えてくれた。例えば価値購買については、この様に説明されている。

価値購買の条件とは、第1に「資材購買部門の各種機能の統合的発揮」である。利益創出部門としての機能を最大限に発揮することは当然として、その機能を発揮するために何をすべきか。
① 価値購買担当バイヤーの人材育成の必要性の認識
② 既存の業務の合理化と機能的組織の構築のすすめ
③ プロジェクト・設計への積極的働きかけ・関連部門との連携
④ 価値購買(VJP)マインドセット
などが挙げられる。
第2は、「継続的・計画的コスト改善活動の定着」である。どの様にして目標値を達成するかの継続的・計画的コスト改善戦略をビジネスプランの基本に組み込むことが必須の条件になる。

このやり方で特に記憶に残るものを列挙してみる。(ここでは、一般論とはやや異なる、特徴的なことのみを記すことにする)
① VJPとMDPの特徴と区別を明確にすること。
この二つは契約方法も交渉のやり方も全く異なる。正反対とも云えるほどだ。また、対象とすべき品目も異なる。このことを先ず基礎知識として確実に認識をすること。
② Should Costの算出方法とサプライヤーへの提示のタイミング。
原価企画の手法に従ってTop Down とBottom Up解析の折衷で算出されたShould Costは特に調達品の場合には重要であるが、サプライヤーへの提示の時期と説明内容が的確でないと役に立たない。どのようにすればよいかはGEの重要なノウハウであった。
③ 諸伝票の作成と決済にかかるコストにも注目。
これも調達コストの一部であり、全体を概算するととんでもなく高額な人件費コストを占めていることが分かる。この部分の改善は全社規定にかかわるので手が出せなかったが、一枚の伝票にかかる総コストの金額は担当者レベルまで認識をするべき。(ちなみに、彼は当時の社内の数種類の調達伝票のそれぞれの処理コストを簡単に算出してくれた)
④ 調達品質に関する考え方をサプライヤーに明確に伝える。
このために専任のQC担当者を常設して、全てのサプライヤーに対して統一された手法で教育を続ける。


4.VJPとはなにか

様々な調達方式の詳細については後に述べるが、ここでは戦略的な事柄について記す。
長期的に同一部品を調達する場合には、VJP(Value Justified Procurement) とMDP(Market Driven Procurement)に大きく分類される。いずれを選ぶかが調達戦略の第1課題となる。VJPの最たるものは、共同開発のパートナーとしてLifetime契約を行う(GE90の場合のDisc鍛造を担当したWeiman Gordon社 の例)であるが、一般的には両タイプの併用になる。
すなわち、部品の数量、市場性、変更の難易度などにより開発開始時にどちらを選ぶかを検討し、量産後には経済情勢により周期的に変更をすることが一般的であろう。次の図は、両方式の累計生産数量に対する調達コストと利益の関係の概要であるが、VJPの効果は累計生産数量がかなりの数にならないと明確にはなってこない。

次の英文の文章は旧友のDan Lumelloのものである。彼はGEの航空エンジン部門で調達品の品質を担当していた。当時のGEは、長期にわたる調達品の総コストをいかにして最低値に保つかとの命題の理論的な研究が進んでいた。最も好ましいのは、材料メーカーにもRSP(Revenue Shared Partner)として参加をしてもらうことだったが、次善の策がこのVJPだった。会計制度に敏感なGEは、如何に初期投資を抑えるかが重要な課題だったのであろう。前に述べたようにエンジン部品の長期性を考えれば、その全期間での総利益を最大化することがプロジェクトの目標になるのだが、長期金利が下がるにつれて、この理論は現実から離れつつあるようにも見える。しかし、経営者の眼と頭が短期の業績向上に集中すればするほどこの調達方式は冗長的に見えて、危うい方向へ傾いてゆくように思える。長期的な安定感とそれに伴う相互信頼関係は一旦破綻すると容易に元に戻ることは無い。経済活動の周期性を知れば、VJPから離れることは危険な一時しのぎに見えてくる。

Value justified procurement theory suggests that both customer and supplier are vertically linked in bringing a finished product to market. Therefore, it is their mutual best interest to find solutions that maximize the wealth and well being of all their stakeholders. Adversarial relationships win-lose in nature, should be replaced with win-win scenarios. As much risk, redundant or non-value added effort should be eliminated as possible. Costs are evaluated on a “world class” basis; that is, what does it take to maintain world price, quality, and delivery leadership. The quoting process itself adds little value and should be avoided with long term agreements (LTA) with built in escalation formulas. Once the value justified price is determined then cost improvement curves (C.I.C.) and Value Engineering cost reductions are set in motion to guarantee a competitive advantage for the future. Everything from parametric models, regression analysis, to expert cost quotations can be used to determine should costs. Both supplier requests for quotations and internal value analysis should be started independent of each other then compared and reconciled as part of the contract package
 
5.様々な調達方式とサイクル論

 次の表は私が当時のGE,PWA,RRの調達担当と原価企画担当の緒氏(多くの場合は、ManagerやGeneral Managerクラスであったが、Rolls Royceの場合は担当取締役)との話を基に独自に作成したものである。当時のGE,PWA,RRはそれぞれ独自の考え方に基づいて具体的な行動をとったが、原則的には次の表のいずれかの考え方を採用していた。また、経済サイクルの波の状況に合わせて選択すべき方法もサイクリックに代っていったように感じられた。




横軸の語句の説明は以下である。VJ縦軸の語句の説明は、
P(価値購買方針)
 RSP・・・・・・・Revenue Shared Partnerとして、プロジェクトの参加メンバーの一員になる。この場合には、量産コストに相当する%値の投資と利潤の確保が行われる。
 LOP・・・・・・・Life of Programを通じての調達が継続される。その為に、サプライヤーは初期投資を量産品に割り掛けることができる。
 Rolling Option・・・LOPの期間短縮版ともいえる。ある期間を区切って長期契約を行う。この場合には、2~3社を長期間にわたって競わせることになる。
 LTA-Floating ・・Long Time Agreementを締結するが、価格はVEなどの原価低減活動の結果や各国インフレ状況のなどにより変動する。

MDP(交渉による購買方針)
 LTA-Fixed・・・商談によりLong Time Agreementを締結する。ある期間の調達コストを固定値にする。
 Semi-MDP ・・・商談によりShort Time Agreementを締結する。調達契約の度毎に他社との競合入札等を繰り返し、調達コストを競わせる。


ジェットエンジンンの設計技師(6)第5話 基本設計時の定量的トレードオフ作業

2021年01月02日 07時32分32秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(6)
作成日;H26.5.12 KTR45121
修正日;2020.1.2

第5話 エアラインのオペレーションから逆算する設計パラメータ

・設計の最初は「トレードオフ」の数字を決めること

 相反するパラメータの間で合理的なトレードオフを行い、全体最適設計を実現するということは、基本設計技術者にとって重要な能力の一つである。しかし、どうも日本のエンジニアたちは、「トレードオフ」即ち、相反することの間での論理的な結論を導き出し、どちらか一方を採る、といったことを好まないようである。

 しかし、私がジェットエンジンの国際共同開発に参加し、その基本設計作業に取り組んで最初に出会ったのは、エアラインのオペレーションコストから逆算して得られる様々な設計パラメータの「トレードオフ」ということであった。トレードオフの関係にあるものごとを整理し、それを定量化し、確定するということからスタートするというやり方、つまり論理的な戦略を決めるところからスタートをするというやり方は、日本の設計の教科書には書かれていなかった。

 ジェットエンジンの話に入る前に、この「トレードオフ」ということについて、少し考えてみたい。それに恰好な本があった。2010年出版の藤井清孝著「グローバル・イノベーション 日本を変える3つの革命」(朝日新聞出版)である。

 藤井清孝氏は、1957年生まれ、灘高等学校卒業、1981年東京大学法学部卒業。1981年、米コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニー入社。1986年ハーバード大学経営大学院(MBA)卒業。1986年ファースト・ボストン投資銀行ニューヨーク本社のM&Aグループに勤務。その後、電子回路設計の米ケイデンス・デザイン・システムズ社の日本法人社長、2000年ERP(Enterprise Resource Planning)ソフトウエアの独SAPジャパン社長、2006年ルイ・ヴィトン・ジャパンカンパニーCEO、LVJグループ代表取締役社長。そして2008年、現在の電気自動車の充電ネットワークを提供するベタープレイス社の代表取締役に就任という経歴の持ち主である。


 
読み始めると、この書が現代のグローバル&デジタルの世界における日本人の弱みと強みを様々な観点から的確に指摘していることに驚かされる。その第5章に出てくる言葉が、「トレードオフの概念が苦手な日本人」である。一部を引用する。

 『対立軸を持った選択肢とは、相手の意見との接点を見いだせないくらい、相容れない根本的な違い、トレードオフを内包した選択肢だ。 例えば政治の分野では、三十年前であれば、「自由主義」対「社会主義」であろう。現在では、「大きな政府」対「小さな政府」、「競争」対「格差是正」、「グローバル化」対「日本独自路線」のようなイメージである。(中略)

 日本はこのトレードオフになる骨太な論点を整理せず、整合性のとれた、総合的な政策のパッケージを提示する力が決定的に弱い。その結果、本質的にトレードオフになる論点を議論せず、いいとこ取りをした聞き心地の良い言葉を信じるような風潮をあおるのだ。(中略)

 日本人はトレードオフになる論点を深く理解し、その結果複数の選択肢を生み出す思考パターンは苦手だ。これは「正解指向」の教育に根ざしていると考える。』

 厳しい、耳が痛い指摘である。何かを追求すると、何かが犠牲になってしまう。
「あちらを立てれば、こちらが立たず」ということで、当たり前のことなのだけど、ついつい忘れてしまう。

 2012年新年特別号「文藝春秋」の「日本はどこで間違えたか もう一つの日本は可能だったか」という記事は、30人の識者が、それぞれ戦後処理、経済政策、官僚主導など具体例を挙げ、持論を語っており、読み応えがあったが、そこで感じたことは、まさに前述の藤井清孝氏の指摘「本質的にトレードオフになる論点を議論せず、いいとこ取りをした聞き心地の良い言葉を信じるような風潮」が多くの場合に当てはまってしまうということだった。

 しかし、これは日本文化の根底にあり、美徳とも言えるようなことでもあり、一般社会では良いとされることが少なくない。これが日本社会から消えることはなかなか考えにくいのだが、世界を相手に競争をする場合には、これではやってはいけない。技術が優れている、品質が良い、サービスが良いなどといううたい文句だけでは間違いなく負けてしまう。 ジェットエンジンの新機種の設計に際しても、まずここが検討のポイントとなった。使用者にとっての運用コストが「設計のトレードオフ」との関連で定量的に明示され、その上で評価されつくされたものでなくては厳しい勝負に勝つことはできない。

 かつてジェットエンジンの新機種の設計を開始する時点で、市場開発と設計両部門が協力し、エアラインの直接運航費(DOC : Direct Operating Cost)に関するデータを基に以下のような表を作成した。



TSFC = Thrust Specific Fuel Consumption
W = Weight
MMC = Maintenance Material Cost
MLC = Maintenance Labor Cost
EFH = Engine Flight Hours
MMH = Maintenance Man Hours

この表を使って基本設計の方針や大きな設計変更などについては検討し、判断を下した。
 先の表の項目でエアラインが最も興味を示すのは、燃料消費率(TSFC=Thrust Specific Fuel Consumption)である。

 圧縮機やタービンの効率を上げれば燃料消費率は下げられるが、そうすると圧縮機やタービンの段数を増やさなければならないなどでエンジン重量が増加してしまう。そして、それだけ搭載許容重量・乗客数が減少してしまう。またエンジン重量を抑えるために特殊材料を多用すれば、エンジン原価が上がり、それはエアラインの直接運航費(DOC)を引き上げてしまうことにつながる。

 そうした関係を定量的に示したのが先の表で、これによって燃料消費率を1%引き下げるためにXXXポンドまでの重量増は許されるが、それ以上の重量増は直接運航費(DOC)を引き上げしまい、本末転倒となる。軽量化のため特殊材料を用いると、今度は製造コストが上がってしまう。燃料消費率を1%引き下げのためにX.XX×104ドルまでのコスト増は許されるが、それ以上のコスト増となると、直接運航費(DOC)を引き上げてしまい、意味がなくなる。こういったことが分かる。

 実際には、重量増加とコスト増加を組み合わせによって燃料消費率向上を実現させている。そして、それをどのような組み合わせにするのかの設計変更の方針が決められる。このようにエアラインの直接運航費(DOC)の観点から「設計のトレードオフ」が行われるのである。

・エンジン燃料消費率の影響

 実際のエアラインの直接運航費(DOC : Direct Operating Cost)の構成の一例を示すと、下図のとおりであり、これを見れば、エアラインが機種選定において最も重視している直接運航費において、いかにエンジン関係経費が大きな比重を占めているかが分かるだろう。エンジン設計技術者としては、設計の目安としてエンジン関係経費がどれほどの大きさになるかを認識しておくことが不可欠である。


 
上図のエンジン燃料の構成比が15%というのは、原油価格が廉価だった当時のもので、実際に設計を開始した時は、原油価格が上昇し、約25%になっていた。実際に使用された表も、この状況に基づいた数字が入っているものであって、それに基づいて「設計のトレードオフ」の作業は行われた。

 ここでは実際に使用された数字を出して説明することはできないので、以下、相対値を使って、この重要なエンジン燃料消費率について説明する。

エアラインの直接運航費(DOC)に占めるエンジン燃料の比率が約25%であるとすると、燃料消費率を4%引き下げることが出来れば、直接運航費(DOC)は1%下がる、良くなるということになる。同様にして直接運航費(DOC)を1%引き下げるのに求められる、燃料消費率以外のエンジン設計担当者が用いる主要パラメータの変化を求めたところ、以下のようになった。

エンジン燃料消費率      約 4%
エンジン重量         約17%
エンジン価格         約 7%
エンジン整備コスト      約18%

 エンジン重量を約17%減少させることができれば、直接運航費(DOC)は1%下がる。エンジン価格を約7%下げることができれば、直接運航費(DOC)は1%下がる。エンジン整備コストを約18%下げることができれば、直接運航費(DOC)は1%下がる。つまりエアラインの支出は1%減少し、それ以上にエアラインの利益率は改善されることにつながる、という次第であった。

 もっとも影響が大きい、つまり%値が小さいのはエンジンの設計パラメータの燃料消費率であったので、それをさらにエンジンの5要素に分解し、それぞれの効率を1%上げた時の燃料消費率の下がりぐあいを見たところ、以下のようになった。

ファン            0.6%
低圧圧縮機          0.2%
高圧圧縮機          0.7%
高圧タービン         0.8%
低圧タービン         1.0%

 ファンの効率が1%上がると、燃料消費率は0.6%下がる。低圧圧縮機の効率を1%上げると、燃料消費率は0.2%下がる。高圧圧縮機の効率を1%上げると、燃料消費率は0.7%下がる。高圧タービンの効率を1%上げると、燃料消費率は0.8%下がる。そして低圧タービンの効率を1%上げると、燃料消費率も1%下がる。それぞれの要素の効率向上が世界中で地道に研究が続けられているが、低圧タービンの効率向上が燃料消費率の改善に最も影響が大きいことが分かった。

 いずれにしてもエンジンではエアラインの直接運航費(DOC)が小さくて済むこと、これが基本であった。私が体験したプロジェクトでは、開発初期段階では、競合機種との比較において高度技術が適用されノイズや排ガスなどの環境指標が優れていることが強調されたのだが、受注はふるわず、その結果、開発設計の途中で、営業サイドから直接運航費(DOC)の低減を計るようにとの設計変更を強く求められることとなった。

 すなわちエンジン燃料消費率の引き下げだけではない。エンジン重量の低減、エンジン整備コストの低減である。とくにエンジン整備コストは競合機種と比較して明らかに高すぎるとの指摘があり、重要部品の寿命の改善や整備性の改善に努力が払われることとなった。

 またエンジン燃料消費率の引き下げには、低圧タービンの性能向上が最も有効であることが分かったので、その性能向上に最大の努力が払われた。

 低圧タービンは過去の開発経験から、新規設計の場合には必ず最後まで緊急の設計変更が要求されるものである。エンジン・コアの空気流量、低圧圧縮機と高圧圧縮機の仕事配分比率の変更など、全ての要素の設計変更のとばっちりを必ず受け、最後のつじつま合わせをする要素だからである。

 一般的には、高圧圧縮機の開発力がエンジン開発プロジェクトの雌雄を決すると考えられているようだが、高圧圧縮機は一旦決定をされれば、変更されることは稀であり、しかも、他のプロジェクト(単独要素研究として多様な条件下での試験)などで十分に性能が確認されたものが適用されるのが常である。極端な場合に他機種のスケール変更や外部調達によっての対応もあり得るので、エンジン開発プロジェクトで、高圧圧縮機の開発力が致命的な影響を及ぼすとは考えにくい。それよりは、むしろ低圧タービンの設計・開発力と、その設計変更のすばやい適用力こそがエンジン開発における最重要課題と私は考える。


・エンジン燃料価格の影響

 過去のオイルショックの経験などから、石油価格が高騰しても一過性のものになるだろうとの認識が広まったことなどもあって、新型エンジンの開発意欲は下火になっているように見える。しかし、燃料価格が上昇すれば、いくら機種の違いによって影響は異なるとか、燃料油価格変動調整金(フューエル・サーチャージ)などで対応すれば済むといっても、現実は、すでにそれだけでは済まされない状況になっているように思う。

 次のB747の直接運航費(DOC)の表を見れば分かるだろう。これまで使用してきた直接運航費(DOC)とは定義は異なっているのだが、それでも、ともかく2004年から2008年には燃料費の占める比率が全体の40%から70%へと急上昇しており、いつまでも、このままでは済まされないという状況は分かるだろう。


B747の直接運航費の推移


・基本設計段階のコストエンジニアリング

 エンジンの基本設計の第一の命題は、そのエンジンが搭載される航空機が競合機種の運航時の性能にいかに勝つようにするかである。航空機によって、複数の種類のエンジンが採用されるケースと、1種類のエンジンしか搭載されないケースとがあるが、いずれにしても機体の選定に際して、搭載されるエンジンの優劣が大きく影響することに変わりはない。

 そこで基本設計段階でのコストエンジニアリングが重要な鍵を握ることになる。そのためにまず行わなければならないことは、これまで説明してきた「設計のトレードオフ」の数字を具体的に決めることである。ここでは搭載される航空機のLife Cycle Costが最小になるようにすることが重要となる。このためには、膨大な過去の経験と世界中のエアラインの計画値と実績値などが必要になる。これを間違えると商談に勝つことが難しくなる。

 そして次には「デリバティブ」(derivative)への対応の仕方を示すことである。この「デリバティブ」とは、先物・スワップ・オプションなどの「金融派生商品」のことではない。「改修エンジン」のことである。エアラインは導入した航空機と半世紀にあまり付き合うことになるものである。その間、燃料を多く搭載する長距離型、乗客数を増やす長胴型など様々な機体の変更が行われる。そして、その度にエンジンに対しても改修要求が出てくる。それにどう対応するか。それがエンジンの「デリバティブ」への対応力となる。出来る限り「小改修」で対応できるようにしなければならない。

 さらに売価から決まってくる「目標原価」(Should Cost)をどのように配分するである。「目標原価」(Should Cost)とは、目標価格を設けて設計を進める「DTC」(デザイン・ツー・コスト:Design to Cost)の考え方から生まれた「原価」(コスト)である。マーケッテイングから要求される売価から製造原価を逆算し、さらにそれを設計単位別に振り分け、各設計担当者は、この「原価」(コスト)以下で製造できるように設計を行わなければならない。
 これは共同開発において、各社が最も神経を使うところであり、担当範囲が決まりつつある中でのネゴの力関係で決まってしまう。従って、交渉のための種々のデータの信頼性が重要であり、それによって交渉の場で相手を説得できるものでなければならない。

 随分と専門的な話になってしまったが、エンジンの設計においては、感覚や定性的な判断ではなく、定量的な「トレードオフ」が出来なければならないということ、そのことの重要性を分かっていただければ幸いです。

ジェットエンジンンの設計技師(4)第3話 規制緩和と設計手法の関

2020年12月31日 09時57分54秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(4)
作成日;H26.5.5 KTR45051
改定日;R2.12.31

第3話 規制緩和と設計手法の関係

 第2話で紹介したV2500エンジン(1987年初飛行のエアバス社のA320に搭載) の日米英独伊の国際共同開発、それとGE90エンジン(1994年初飛行のボーイング社のB777に搭載) の日米仏伊の国際共同開発に、私がChief DesignerやChief Engineerなどとして関与した時期は、まさに民間旅客機の飛行に関わる規制緩和が主としてエンジンの信頼性の向上と関連で積極的に進められた時代でもあった。

 私は、2009年にそうした経験と実績を踏まえて「初期品質安定設計法の提案と評価」を書き、博士(工学)の学位を頂いた。丁度40年間の会社勤めの定年退職直後であった。
この論文において、私はこれまでの設計法の評価と発展について分析し、それに基づいて、エンジン開発を取り囲む、技術伝承、開発機種増加、リーダーの指導力低下などの、予測される21世紀の社会環境の変化に対応する設計法として、「初期品質安定設計法」、「E-QAD」(Early Quality Assured Design)というものを提案した。提案の流れは、次の図の通りである。



「第1期の質設計」の時代は、V2500エンジンの設計の期間で、従来から開発設計に適用されていたTQC(Total Quality Control 統合的品質管理) 、SQC(Statistical Quality Control 統計的品質管理) 、QFD(Quality Function Deployment 品質機能展開)などを、より積極的に取り入れることが行われた。それによって信頼性の向上が実現された。
 こうした努力が実を結び、1953年に定められた、双発旅客機はエンジン1基停止状態で60分以内に着陸可能な空港に到着することができるルートを飛行しなければならないとするETOPS(イートップス)(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standard:双発機による長距離進出運航規準)-60という規制が、それから約30年後の1985年に、ようやく緩和された。双発旅客機はエンジン1基停止状態で120分以内に空港に到着することができるルートを飛行しなければならないというETOPS-120に変更されることになった。そして、その後、180分、207分、240分以内にする ETOPS-180、207、240と、さらに緩和が促進されることになった。

 しかし、当初はその認定を得るためには同エンジンの実際の商用運行実績データに基づく信頼性の証明が不可欠であり、認定取得までに要する期間の長さが問題になった。

 実際、私がロンドンのヒースロー空港で見かけるB767機は、コックピットの真下に「ETOPS」との表示のある機体と、表示のない機体が並んでいた。表示前の機体は、まだ運行時間数が足りないことを意味しているので、大西洋路線には使えないことを示していいる。
そして、期間短縮のため、開発時の試験や設計プロセスなどに基づいて信頼性を立証し、それによって運行開始当初からの大洋横断飛行などの実施が求められるようになった。

 そこで、初期品質に関するロバスト性(robust 強靱・堅牢)が求められ、このためジェットエンジンの開発設計においても、いくつかの産業分野で採用が始まっていた、田口玄一博士によって体系化された技術開発の方法論「タグチメッソド」(Taguchi Methods)の広範囲の適用を行うことにした。広範囲とは、基本設計分野にとどまらずに、詳細設計と加工精度の信頼性を増すために、適用範囲を大幅に広げることだった。それが「第2期の質設計」の時代である。そうした努力が実を結び、Early-ETOPSと呼ばれる考え方が、B777の1994年の初飛行に導入されることとなった。

 以上の「第1期の質設計」の時代、そして「第2期の質設計」の時代とも、それぞれの手法の適用の時期や範囲などは、すべて設計リーダーと担当者の判断に委ねられており、その意味では、質設計の暗黙知的な適用の時代とも言えるものであった。
 しかし、21世紀に入り、社会環境の変化が顕著になり、質設計を暗黙知的に適用するのでは安全性の継続に問題が生じるとの認識が生まれた。そして、従来の設計プロセスを総合的に見直し、特に初期品質の信頼性の安定に寄与するこれらの手法の適用時期と方法を、より明確に規定すべきとの結論に至った。すなわち、適用時期と方法に関する知識を暗黙知(Tacit knowledge)ではなく形式知(Explicit knowledge)とすることだった。
 
規制緩和とETOPS(イートップス)(双発エンジン距離延長運用性能規準)

 ETOPS(双発エンジン距離延長運用性能規準)について、少し説明を加えることとする。
 工業製品に対する規制は常に強化される傾向にあると思われるかも知れないが、必ずしもそうではない。ある時期からは規制緩和が行われることになる。1980年代後半からの航空機がまさにそのときであった。航空機の利便性の向上のために規制緩和が進められることとなったのだが、それはジェットエンジンの信頼性の向上がなければ不可能なことであった。1980年以降、エンジンの設計と製造の信頼性の高まりと並行して、規制緩和による民間航空機の利便性の改善が行われた。国際機関が定めた新たな規制緩和のルールを恒久的にするためには、たった一つの事故も許されない。そのためエンジンの設計・開発・生産の信頼性技術の進歩と定着が強く求められた。そして、その傾向が20世紀の終盤まで続いた。しかし、技術者の世代交代が明らかになった2010年以降は、その形式知化された初期品質安定設計法が正しく行われているとの確証はない。筆者の眼には、多くの初歩的なミスが繰り返されているように思える事案が散見されるようになった。

 規制緩和による民間航空機の利便性の改善で重要な意味を持っているのは、双発機のエンジン1基停止を想定して、国際民間航空機関ICAO(International Civil Aviation Organization) が設けたETOPS(イートップス)(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standard)というルールである。
 双発機は、エンジンが1基停止すれば、残りの1基で飛行しなければならなくなり、そのため、かつて双発旅客機は1基でも空港まで戻ってくることができる範囲ということで、空港から100マイル(約185㎞)以内のルートを飛行することとされていた。それが1953年、米連邦航空規則「FAR 121.161」 によりETOPS-60という規則に変更された。双発旅客機はエンジン1基停止状態の巡航速度で60分以内に、着陸可能な空港(Adequate Airport)に到着することができるルートを飛行しなければならないという形で規制されるようになった。
Sec. 121.161
Airplane limitations: Type of route.
…………
(1) Farther than a flying time from an Adequate Airport (at a one-engine-inoperative cruise speed under standard conditions in still air) of 60 minutes for a two-engine airplane or 180 minutes for a passenger-carrying airplane with more than two engines;




Boeing ETOPS Flight Operations Overview. Sep. 2009 これから計4枚の資料を引用させてもらった。
http://www.captainpilot.com/files/ETOPS/ETOPS%20Flight%20Operations%20Overview.pdf

このETOPS-60の適用を受けた双発旅客機であれば、飛行可能領域は、1時間の片肺飛行で飛行可能な距離を400海里(約740㎞)とすると、上図の緑の陸地部分と白の海洋部分になる。かなりの範囲をカバーできる。しかし、これだと、例えば、下図のように、大西洋横断となると、かなりの回り道のルートを飛行しなければならなかった。

この規定が設けられた1953年以降、航空関連技術は大幅に進歩し、とくに航空エンジンは、ピストンエンジンからジェットエンジンが主力となり、そのジェットエンジンは目覚ましい進歩を遂げた。しかし、この規定は維持され続け、それが投入路線との関連で大きな制約となってくるため、ロッキードL-1011トライスター、ダグラスDC-10の三発旅客機の開発が行われ、双発機では難しい路線などに投入されることとなった。

 米ロッキード社は1966年、3発機のL1011トライスター開発計画を発表。1967年には、受注体制が整ったと発表され、1970年には初飛行が行われた。そして1972年から実際の運行が開始された。
 日本では全日空に1974年に導入され、グアムや香港などの路線に投入された。
 米マクドネル・ダグラス社は1967年、ロッキード社に続いて3発機のDC-10開発計画を発表。 1970年には初飛行が行われた。
 そして先行する対抗機、米ロッキード社のL-1011が、搭載エンジンのロールス・ロイス社の経営問題などで混乱している間に、一足早く、1971年に実際の運行が開始された。
 日本航空には1976年に導入され、南回り欧州線やアンカレッジ経由ニューヨーク線、東南アジア線などの路線に投入された。


http://page.freett.com/nagoyaairline/japan/jal_dc10_040216.JPG
http://cdn-www.airliners.net/aviation-photos/photos/3/8/7/2020783.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC-10_(航空機)

 その後、1985年1月、米連邦航空局「FAA Advisory Circular 120-42」により60分が120分に拡張された。 それは1985年6月に撤回されたが、1988年12月の米連邦航空局「FAA Advisory Circular 120-42A」 により、適格空港(Adequate Airport)までの時間が、双発旅客機の機種によって、75分、120分、180分という規則が適用されることになった。




これらETOPS-120とETOPS-180の2枚の飛行可能範囲を見れば一目瞭然であろう。いずれかの認可を取得すれば、双発旅客機でほとんど世界中を飛行できるのである。現在ではさらに拡大し、北半球運航に支障がなくなる207分、南半球運行に支障がなくなる240分という規則も現れている。そして大西洋・太平洋横断の旅客機も完全に双発機が主流の世界になっている。
 現在製造中の民間旅客機の中で双発機ではないのは、エアバス社の2005年初飛行の座席数500席以上の大型旅客機A380と、ボーイング社の1969年初飛行とはいうものの、進化を続けてきている座席数がほぼ同じB747の2機種だけである。


http://www.boeing.com/commercial/products.html http://www.airbus.com/aircraftfamilies/
 
かつて日本の空を飛び回った三発機は姿を消していった。日本航空で使用されていたボーイング社のB727は1987年に退役した。全日空で使用されていたB727も1990年に退役した。

 また日本航空で使用されていたマクドネル・ダグラス社のダグラスDC-10も2005年10月に退役した。マクドネル・ダグラス社自身も1997年にボーイング社に買収され、1998年にはマクドネル・ダグラス社名での航空機販売は終了した。

 プロペラ機からジェット機へ、そしてジェット機も三発機、四発機から双発機へと姿を大きく変えてきている。  

しかし、エアバス社の大型旅客機A380と、ボーイング社の2機種も2020年に発生したCOVIT-19の世界的な蔓延による国際航空便の大幅な減便で、多くのエアラインから姿を消すことになってしまった。

今回の第4話の内容については、友人の井上利昭氏(元IHI)と前田勲男氏(戦略経営研究所)から多くの資料と助言を頂いた。文末ですが、お礼を申し上げます。

参考・引用元
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://iaenews.com/?page_id=27&album=1&gallery=13
http://www.geaviation.com/engines/commercial/ge90/
http://futurepredictions.com/2011/05/future-predictions-tomorrows-turbine-genx-jet-engine-design-and-ge90-biggest-jet-engine-of-them-all/
http://ja.wikipedia.org/wiki/TQC
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/tqc.html
http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/sqc.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/統計的プロセス制御
http://www.icao.int/Pages/default.aspx
http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgFar.nsf/FARSBySectLookup/121.161!OpenDocument#_Section3
Boeing ETOPS Flight Operations Overview. Sep. 2009 これから計4枚の資料を引用させてもらった。
http://www.captainpilot.com/files/ETOPS/ETOPS%20Flight%20Operations%20Overview.pdf
http://www.flightglobal.com/airspace/media/civilaviation1949-2006cutaways/images/8833/lockheed-l-1011-tristar-cutaway.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロッキード_L-1011_トライスター
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/ANA_L-1011_JA8508_itm.jpg
http://page.freett.com/nagoyaairline/japan/jal_dc10_040216.JPG
http://cdn-www.airliners.net/aviation-photos/photos/3/8/7/2020783.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/DC-10_(航空機)
http://rgl.faa.gov/Regulatory_and_Guidance_Library/rgAdvisoryCircular.nsf/8ce3f88c034ae31a85256981007848e7/2638eaf8b89680a8862569ba00751c8c/$FILE/Pages%201-15.pdf
http://www5a.biglobe.ne.jp/~bluesky/top.htm


ジェットエンジンンの設計技師(3)第2話 国際共同開発における設計ことはじめ

2020年12月30日 10時08分30秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(3)
作成日;H26.5.3 KTR45031
改定日;R2.12.30
第2話 国際共同開発における設計ことはじめ

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などの分野でのグローバリズムに優れている)と開発方法(過去40年間すべて国際共同で行われている)の面で世界の最先端を行くものと思われる、と述べた。
 
私が、Rolls Royce社と共同開発の設計を始めたのは1979年、まだ国際間のデータ通信はテレックスのみで、FAXもできなかった時代。2次元のCADはかなり使いこなせていたが、データ通信はできなかった。しかし、それゆえの智慧の出し合いや、改善の楽しみには事欠かなかった。(註1)
 先ずは、お互いの実力のレベルや、文化の違いの探り合いから協働作業が始まった。設計の各論を始める前に、全体的なご理解を得るために国際共同開発における設計の概要について述べることにしよう。話は、系統的ではなくアラカルト的になってしまうことをお許し願いたい。

先ずは、事始めともいうべき共同開発設計オフィスの開所の様子である。写真の中央の女性は万能の秘書嬢、その右側が私。改めてみると1人だけワイシャツ姿であった。反対の左側は、Rolls-Royce社のチーフ・デザイナーのT. Speak氏で、チームで唯一のケンブリッジの出身者とのことであった。


Portland Square Officeの開所記念写真

1980年2月X日、ついにPSO(Bristol市内のPortland Square )にあるビル内のOfficeの開所日を迎えた。思えば、Rolls-Royce BRISTOL事業所の中心であるWhittle HouseのMain Officeの一部屋を与えられて四方八方からの衆人監視から、門外のポータキャビン、郊外のMEO(Micreover Engineering Office) を経てようやく本格的な設計の共同作業場が与えられたことになる。
Rolls-Royceの人材も超ベテランと新進気鋭に分かれており、そのことからも、会社としての本気かげんが伺えた。

彼らの目に我々が当時どのように映ったかは、もはや知る由も無いが、「RJ500」 という日英 Fifty Fiftyの責任の下に新エンジンを開発する、何とか競合機種に対する遅れを取り戻すという熱意は40年近く経った今でも、写真から感じることが出来る。
 この開所記念日の約1年前に私自身の実質的な仕事が始まった。Rolls-RoyceとのDesign Meeting事始めである。

1979年3月26日から共同開発期間において技術と設計の作業をどのように進めるかの会議が始まった。我々は、「FJR710」 のエンジンを10年間で4種類すべてを成功裏に運転した直後であったが、Rolls-Royce流のやり方をとことん吸収すべく取り入れられるものはすべて取り入れることにして会議に臨んだ。会議は一日に数回、連日行われた。
 最初は、会議に使うノートである。ほとんど全員がA4サイズの2センチほどの罫線の入った分厚いノートを持ち歩いている。ファイル用の孔が明いており、一枚ずつ破って保存する。後で知ったのだが、マネージャークラスの自室には4段キャビネットが数台あり、中味は大抵薄いファイルが数十冊詰まっていた。従って、持ち歩くのは、だんだん薄くなる何も書いていないノートだけになる。

会議の冒頭では、私は先ずこのRolls-Royce式ノートを差し出して、相手の名前を書いてもらった。親切な人は、自分の周りの組織図まで書いてくれるので、かなり合理的だった。以来、私は従来型の日本式ノートを持ち歩くことはなくなり、その習慣は現在まで続いている。

 午前9時、B. J. Banes氏と、執務室の正確な場所(RR Ltd. Whittle House Room W1-G-4)などのTechnical Systemの話から始まった。 続いて10時から設計に使う様々な単位の話、10時半からは、エンジン入口のファン部分の性能の話、11時半からは高圧コンプレッサーの性能の話、といった具合に矢継ぎ早に攻めてくる。相手は次々に代わるのだが、こちらは連続である。幸い、一度に全てではなく、段階的に話を進める術を心得ているようで、中身は良く理解できたように思う。
一度にドッとはやらずに、順を追って適当な間隔で理解を求めてゆくという英国流は、植民地時代からの伝統であろうか。未知の人(民族)との複雑多岐な交渉の術を皆が身につけているとの印象を受けた。
 これが、その後数十年間にわたって続く(私の場合だけでも、10年間で1000回以上)、Rolls-Royceとの開発設計に関するEngineering Meetingの始まりであった。パラパラと当時のRolls-Royce式ノートのファイルを捲ってゆくと、日本に居ては決して聴けないような話が至る所に出てくる。

 エンジン設計は、知識と経験が半々に必要であるとの認識を初めて持つことになった瞬間であった。



 この写真はRolls-Royceのご好意により最近頂いたWhittle House の正面の写真である。当時の荘厳な印象とは大分異なり、明るくモダンに見える。
「ブリストルは事務所も工場も大変大掛かりなリノベーションを行い、一部を除き昔の面影が全く無くなりました。特に組み立てラインは一新され、ゴミ一つ落ちていない明るい工場になっています。昔を知る方はみなさん驚かれます。」との言葉が添えられていた。
(Nozomi "Neil" Takei、Vice President, Business Development – Japan Rolls-Royce International Limitedより)

 彼は元商社マンで、海上自衛隊の次期飛行艇のエンジンで大いにお世話になった思い出が蘇る。



 この写真は、設計室の製図板の前。当時、既にCAD は全面的に使用されていたのだが、原寸大の絵を常に眼前に示すこと、周りの仲間からも進行状況や思考過程が分かることなどの利点のために、全ての設計は製図板上で行われた。
また、日本ではトレーシングペーパーに鉛筆で作図していたが、Rolls-Royceの担当者曰く「トレーシングペーパーは湿気に弱く保存期間も短い。量産エンジンになると最低でも30年は保管する必要があるために不適当。折り目の決して付かない分厚い特殊表面処理をしたフィルムを使用する。」とのことだった。

全体設計の設計変更問題 ——— 「3ヶ月ルール」

 Chief Designerの仕事は、全体断面図を筆頭に様々なDesign Scheme(設計図)を期限どおりに出図(しゅつず)することだ。V2500 Design 1(多くのアイデアの具現化や、設計変更を示すために、主な全体図には連番を付けることにした)は、1983年8月に出図(しゅつず)された。しかし、量産設計が決まるまでには丁度40回の大変更による書き直しがあった。性能、重量、製造コスト、安全性、整備性、信頼性、耐久性のすべてを同時に満足する回答を出すことと、市場の状況(受注競争で負けが混んできたとき)により目まぐるしく変わる設計仕様のためであった。

V2500の開発製造体制

   
http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml

 途中にピンチは数え切れないほどあった。一例は、1984年に起きたDesign15の“Fan Frameストラット”の8本から10本への変更であった。“Fan Frameストラット”とはファンのケースとエンジンのコアとを結び付ける支柱である。5人の日本人設計者と5人のRolls-RoyceのSchemerがたった1つのFan Frameという部品の設計に群がり、短期間で9種類の設計図を作り、一体鋳造か溶接構造かの選択を生産技術者と激論し、別の2ヶ国混成チーム(設計図の作製はSchemer、製造用の図面の作成はDrafts Manと呼ばれ、明確に区別がされている)が100枚に及ぶ鋳造図と加工図を期限どおりに作成した。
 この変更の発端は、Rolls-Royceが担当の高圧圧縮機の翼との共振を避けるためであったので、特段の協力が得られた訳であるが、 それでもまさに国際協働の見本のような場面が展開された。

 この様な設計変更が度重なるうちに、何時の頃からか、私は「3ヶ月ルール」という言葉を使うようになった。基本設計が本格的に始まって間も無くの頃は、設計を中心にマーケティングやサービスなど異分野間の交渉が頻繁であった。何とか先行するCFM56(米国GE社とフランスのスネクマ社 の合弁会社のエンジン) に勝たねばならない。大きな商談があちこちで行われていた。
 商談は、勝つことも負けることもある。初めの頃は連戦連敗だったかもしれない。互角の勝負になった頃からであろうか、一つの商談に負けると、敗因の分析が直ちに行われるのは当然として、多くの場合にとばっちりが設計部門に来る。燃費(燃料消費率)をもう1%良くしろ、重量をもう50Kg軽くしろ、整備費を2%改善しろ。これが3ヶ月ごとにやってくる。

 考えれば当然のことである。互角の勝負の場では負けた相手が新しいオファーを準備する。そして次の商談では逆転を期する。その結果で見事逆転をされると今度はこちらが敗因分析をして、営業やファイナンスの武器では勝負に勝てないとなると設計にやってくる。この周期が大体3ヶ月ということだったのだ。

 これとは別に派生型の話が次々と起こる。概して次の受注を有利にするためのものが多かったが、5年間に大きなものだけでも15回の「Project Design」と称する概念設計が行われた。こちらは、4ヶ月に1回の頻度になる。
 その中には、特殊なものもあった。IHIのGear専門家と一緒に低圧圧縮機の回転を遊星歯車により減速し、大型ファンの回転数を最適化するエンジンの「Project Design」も行った。

 現在三菱重工が開発中の70〜90人乗りの小型旅客機三菱リージョナルジェット(MRJ: Mitsubishi Regional Jet)機 に採用が決まっているP&W社のギヤードターボファンエンジン(Geared Turbo Fan Engine : GTF)、PW1000Gの先駆けのようなものである。その後、P&W社は地道に計画を進め、今回のMRJ機のエンジンとして選定されたのであろう。基本コンセプトは変わっていないが、20年分の進歩が盛り込まれたものとなっているだろう。

 話がちょっと横道にはいってしまったが、いずれしても受注競争に勝つためには、こうした「Project Study」で示された一連の設計作業を既定の開発期間中に実現させる必要がある。即ち「Proven Technology」 として具体化することが我々設計陣に求められる仕事となる。リスクランクをより確実な方向へ上げてゆくことは、通常の設計作業とは別に「開発設計」の面白さと厳しさを教えてくれた。

 3ヶ月ルールは、ある意味机上の計算であり、実際の優劣は、型式証明を得た後の初期商業運転後に現れる。この時期の評価は後の市場占有率に大きく反映されるので、最重要課題となる。

 私が得られる情報を元に、主要パラメータ10項目について競合機種との優劣を設計の立場で6年間(1987~1992)比較した表がある(全くの自前のものだが、お見せするわけにはゆかない)。
 最重要の「初期性能」では、当初負けていたが、ついに勝ち越した。だが、2年後にまた抜かれた、とある。「性能劣化」と「排気成分」については負け続け。勝ち続けた項目は「騒音」であった。振り返って云えることは、3ヶ月ルールの結果は、「Proven Technology」化を経て実機適用となり、それが市場に反映されると2~3年の周期で優劣に反映される、との認識である。

 当時のIAE(International Aero Engines)社の識者の言葉がある。
「この業界のcompetitivenessというのは、結局はシーソーゲームで何時の時点で見るかにより変わる。明らかに差が出れば売れなくなるので必然的に同じレベルに近づいてゆく傾向にある」と。
であるから「3ヶ月ルール」は延々と周期を変えて続くということなのであろう。

註1;
 国内のFAXは漸く普及された頃で、英国も事情は同じであった。調べたところ、RRと当方のFAXのスタンダードが同じだったために、通常の国際電話で試すと、これが大成功。それまでは、テレックスで工夫をしていた図の伝送が可能になった。また、CADデータの通信も同様な手段で日英のCADデータ交換が始められた。この事実は、当時の学会で評判となり、その後他方面からの講演依頼があった。

参考、引用元
http://en.wikipedia.org/wiki/Portland_Square,_Bristol
http://ja.wikipedia.org/wiki/RJ500_(エンジン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/FJR710_(エンジン)
幸運にも、当時は当方とRolls-Royceが同じCADシステムを使用していた。しかもバージョンまでも同じとは驚きであったが、その為にエンジン断面図に現れる全ての形状はCADデータで定義することとした。それらを電送システムで適宜交換することで、インターフェイスに関するトラブルは、こと寸法に関しては全く心配が無かった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/スネクマ
http://www.snecma.com/?lang=fr
http://ja.wikipedia.org/wiki/CFMインターナショナル_CFM56
http://ja.wikipedia.org/wiki/MRJ
http://www.mrj-japan.com/j/index.html

ジェットエンジンンの設計技師(2)第1話 開発中の迅速な危機管理

2020年12月29日 08時24分24秒 | ジェットエンジンの設計技師
ジェットエンジンンの設計技師(2)
作成日;H26.4.27 KTR44271
改定日;2020.12.29

第1話 開発中の迅速な危機管理

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などの分野でのグローバリズムに優れている)と開発方法の面で世界の最先端を行くものと思われる。その中にあってのChief Designer やChief Engineerとしての経験からは、国内にあっては望むべくもない多くのものを学ばせてもらった、と述べた。40年間を振り返って最も重要視すべきは、開発期間中の危機管理の実例であった。大きな開発には、必ず終盤に成否を左右する危機が訪れる。件の日英米独伊の5カ国共同開発中のV2500エンジン が、多くの関係者の共通認識として、「このまま計画を進めても型式承認が取れないのではないか」と考えた時期がそれである。

 問題の発端は、Rolls-Royce社が担当をしていた高圧圧縮機なのだが、その前にRolls-Royce社の過去の危機管理を紹介しよう。当時のRolls-Royce社 は「Rolls-Royce1970」という名称で呼ばれたていた。それ以前に開発していた米Lockheed 社 の3発機L-1011トライスター(Tristar) 用のエンジン開発が約1年遅れただけのダメージにより経営が悪化して、1970年に国有化されていた企業であった。つまり、新型エンジンの開発はそれほど危険なものなのだ。この失敗を教訓に十数年後に見事に復活したRolls-Royce社の話は、別途語ることにして、今回はV2500に絞ろう。

新型エンジンの開発は、その開始条件として有力なエアラインの確定受注が前提であり、V2500も既に多くの受注を抱えていた。


V2500 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml

 V2500エンジンは、当初日本の参加を梃子に全日空からの受注に大きな期待を寄せていた。しかし、その期待は見事に裏切られた。
 また、最大の顧客であったLufthansa(LH)による契約キャンセルの動きが、年明け早々風雲急を告げ、LHとの打合が繰り返され、LH がV2500に止まる為の最終条件として提示された項目について、フトハンザの契約を維持すべくあらゆる手段が講じられた。
この為に設計部隊にも多くの追加要求が出された。
しかし2月、LHはV2500契約のキャンセルを発表した。



 そのことは、1987年の初頭に突然起こった。5年間以上も苦労を重ねた開発エンジンの型式承認の大ピンチである。Rolls-Royce社の技術陣は匙(さじ)を投げてPratt & Whitney社 に下駄を預けてしまった。この時Pratt & Whitney社がどのような危機管理を行ったかは、永遠の教訓であろう。それは、4週間で問題にケリをつけた見事な危機管理体制とDecision Makingであった。そして私は、日本チームのChief Designerとして最も大きな影響を受ける部分の設計責任(註1)を負うことになったのだが、概略はこのようであった。

 危機管理非常体制下の活動は1週間単位で4つに分けられる。つまり、アサインされた責任者が分析をして具体案を決め、会社のTOPがそれを理解して決断を下すというサイクルが、1週間単位で4回繰り返され、見事に危機脱出計画が纏(まと)まったということである。

○ 第1週は、危機管理宣言と指導者の任命に始まり、Current Status Investigationが綿密かつ公平に行われた。そして週末には、Approach & Strategy の明示と共に Recovery Mission の合意と決定を行った。
○ 第2週は、Problem Item Definition と Risk Level Allocation である。会社は直ちに解析作業に必要な人材の提供を行った。そして週末には会社TOPに対して項目別の Risk Level の報告が行われた。

○ 第3週は、Goal と其処(そこ)へ至る Mile Stone の設定である。そしてそれに添った Program の立案と必要な Resource (Cost & Man Power) の算出が行われた。週末にTOPに対して、Program/Resource の報告が行われ、それに対してTOPは直ちにProgram の承認と Resource の保障を行った。

○ 第4週は、新たに補強された実働 Member により、誰が何をどのように何時までに実行するかの計画と Open Issue の確認が行われた。そして、全パーティーがそれに添っての活動を全速力で進め始めた。

 1987年3月27日に責任者のTom Harper氏が纏(まと)めた「V2500 RECOVERY」というたった20枚の報告書がある。

 ・Current Status
 ・Configuration Review
 ・Development/Certification Program
 ・Compliance/Production Program
 ・Open Issue
というセクションで簡潔に纏められている。

 この中でApproach/Strategy の項では、4段階のリスク・レベルに対しての記述になっており、各国が担当する部分のリスク・レベルの段階的な低減スケジュールが示されている。この報告書をスタート・ラインとして、それから約1年余りの死闘が始まったわけであるが、その中身は別の機会に譲るとして、5カ国7社が短期間に Best と思われる解決策を纏められたことは素晴らしい危機管理能力と云える。中でも特筆すべきは、次に述べる「Single Company Policy」と、「経営トップの素早いリソース決断」であった。

「Single Company Policy」
 Tom Harper氏のいつも口にする言葉は「a Single Company Policy」であった。
 今でも当時の設計仲間との付き合いが所属の会社に拘わらず続いているが、当時から「デザイン・コミュニティー」とか、「シングル・カンパニー・ポリシー」という言葉を頻繁に使っている。開発が旨く進まなかった時や、不具合をどう直すかなどを議論する会議では「ビジネスの連中は、誰の責任だ、追加の資金はどこが持つか、などといっているが、我々設計技術者は一つの会社・一つの家族の精神で乗り切ろう」というものです。これを言い出したのは米国人で、ピュリタニズムが健在なりと感じました。多国間の共同開発事業の成功の一つの秘訣だったと思う。

「経営トップの素早いリソース決断」
現状の設計の評価と、変更案の検討は各国のChief Designerが額を寄せ合って検討をするのだが、設計部隊は各国に残っている。時差の関係で、24時間連続して作業は進められるが、トップの決断を待たねばならない項目が多数存在する。しかし、それらは総て週末の間に決断が下された。この、1週間単位の仕事の中味の配分と、週末の間に正しい決断を下すトップの機能には、日本では考えられない論理性とスピード感があった。

「驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談」
 しかし、当時の危機管理はそれだけではなかった。この話には、驚くべき偶然性を孕(はら)んだ後日談がある。
 V2500エンジンは正確な Recovery Plan の末に無事当初の予定通りに型式証明を取得し、商業飛行も順調で売れ行きはうなぎのぼりに上昇し、現在では歴史的なベストセラーエンジンにまで成長をした。しかし、件のTom Harper氏はその後まもなくPratt & Whitney社を離れて同じUTC(United Technologies Corporation) 内のエレベータで有名なオーチス社 へ移った。そして、まもなく消息が切れた。Texasで念願のカウボウイになったと云う人もいる。

 1999年のある日、私はナポリの空港にいた。1週間にわたるカプリ島でのFIAT社が幹事のGE社の品質に関する会合からの帰途であった。金曜日の午後であり、欧州勢は一目散に帰宅、アメリカ人の多くはご婦人同伴でスイスやオーストリアへ向かった。私はパリ経由の成田行きに乗るためにアリタリア航空のゲートにいた。しかし、待てど暮らせど来ぬアリタリア機は結局パリが悪天候でキャンセルとなってしまった。
 覚悟を決めてカウンタでの交渉が始まった。先ずは、フライトの交渉。アリタリア氏は週末のヨーロッパ各地発はJALもANA も全て満席で、たった一席だけフィレンツエ発のアリタリア便のみが予約できます、とおっしゃる。午後遅くの出発便なので、少なくとも半日はフィレンツエ見学ができるぞ。次は宿。ナポリはスリが多く一人歩きは危険だ、早朝フィレンツエに向かうには空港のそばが良い。アリタリア氏は空港から程近いホリデイインを取ってくれた。
 ヴェスヴィオス山を見ながらレストランで早めの夕食を採ることにした。客は私一人だけ。しばらくして、2人ずれの米国人が私の後ろに席を取って食事を始めた。聞くとは無しに話し声が耳に入る。Tom Harper氏とかV2500とか言っている。思わず振り向いて食事はそっちのけで飲みながらの話が弾みだした。彼らは、米国南部に居を構えるコンサルタント会社の人で何と当時Tom Harper氏から「V2500 Programから撤退するときのシナリオの作成を頼まれていた」そうである。これが、本当の危機管理である、見事なものだ。



 余談はまだある。当時この話を知った三菱重工の某部長さんが後日彼らを雇った。三菱重工が米国での機体の商売から手を引く時に雇われたそうだ。
 話に夢中になった私は、名刺入れも持ち合わせず、財布の中の予備の名刺を渡した。食後の散歩を終えて部屋に戻った私は、愕然とした。財布がない、ここはナポリだ、最悪だ。散歩ですっかり酔いは覚めたが、血の気が引くとはこのことだ。公園で子供たちのグループと話したときに、ひょっとして後ろで、などと後悔しきり。とにかくあわててフロントへ小走りで近づくとイタリア氏がにこにこしている。こちらが話し出す前に私の財布を目の前に出してきた。「さっき貴方と食堂で一緒だったアメリカ人が届けてくれました」。ああ、ホリデイインで良かった。アリタリア氏に感謝、感謝。そして、危機管理の大切さを改めて認識した次第でした。


(註1)この時の設計変更はエンジン全体に及ぶものであったが、中でもRolls-Royce社が担当の高圧圧縮機の仕事の一部を受けもつことにした日本の低圧圧縮機の設計変更は大作業であった。圧縮機の段数を増やすのだが、既に機体とのインターフェイスは全て決まっていたので、エンジンの全長はおろか、重量や重心位置も動かすことはできない。この設計変更は、Pratt & Whitney社の空気力学の専門家も加わったが、短期間で成功裏に完成したことは、日本の設計技術者の「与えられた課題にたいする回答を素早く完成させる能力」の真骨頂であった。

参考と引用元;
V2500は2軸式の高バイパスターボファンエンジンである。エアバスA320ファミリーとマクドネル・ダグラスMD-90向けに開発された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/V2500
 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
 http://www.i-a-e.com/products/overview.shtml
http://www.rolls-royce.com/
1995年の合併でLocheed Martin社。 http://www.lockheedmartin.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロッキード_L-1011_トライスター
http://www.pw.utc.com/
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユナイテッド・テクノロジーズ
http://www.utc.com/Home
http://www.utc.com/Home
 日刊工業新聞(S63.1.12)


ジェットエンジンンの設計技師(1)はじめに

2020年12月28日 08時57分48秒 | ジェットエンジンの設計技師
ブログ原稿 ジェットエンジンンの設計技師(1)
作成日;H26.4.26 KTR44261
Reviewed; 2020.12.28

はじめに

 私は大学院では伝熱工学を専攻し、その縁で民間航空機用エンジンの設計に憧れて就職し、以来40余年その思いを貫くことができた。その大部分は世界最先端の民間航空機用エンジンの国際共同開発プロジェクトであった。協働(Cooperation)の相手は、米国のGeneral Electric とPratt & Whitney 、英国のRolls-Royce などこの業界でのビック3といわれる会社だった。

 新型エンジンの開発はその競争の激しさと市場からの要求の厳しさの故に、設計手法(特に信頼性設計とコスト、調達面などで優れていると思われる)と開発方法の面で世界の最先端を行くものと思われる。その中にあってのChief Designer やChief Engineerとしての経験からは、国内にあっては望むべくもない多くのものを学ばせてもらった。数えてみると、設計や技術に関する大小の国際会議を千回以上経験したようだが、最初の数十回の間に、「この分なら10年後には追い付き、20年後には肩を並べることができるであろう」と、このビジネスに密かな野望を抱いた。

 理由は幾つかあった。第1に若い技術者の人材の優秀さであった。日本では優秀な学生が毎年必ず多数仲間として増えるのだが、米英の事情は全く違っていた。どの会社でも、有名な理工系大学の卒業生の新卒は皆無であった。米英ではこの産業が若い技術者にとってそれほどに魅力があるとは云えなかったからであろう。第2は会社組織の違いだった。日本の場合にはジェットエンジン3社と呼ばれる、IHI 、KHI 、MHI はいずれも重工業で幅広い研究と製造の経験を手の内に持っているのだが、英米ではエンジン専門の会社になっている。ジェットエンジンは熱機関の一つであるが、その設計、開発、製造に必要な知識と経験は多種多様であり、最終的には総合力の差が現れるものだ。過去の経験では及ぶべくもないが、将来性はむしろ有利であると考えてしまった。つまり、資本やリソースの面でも重工業を背後に持っているものが有利だと感じていた。そして、何よりも当時の日本は高度経済成長の真っただ中にあったからだ。
 今から考えると、これらすべては若気の至りの一言に尽きるようで、残念至極。

 私が航空機用エンジンの分野に入ったのは1970年、丁度、通商産業省(現:経済産業省)の「大型プロジェクト」と称するスキームで、長年浪人生活を余儀なくされていた「民間航空機用エンジンの研究開発」に予算が付いた初年度であった。勿論、それは偶然ではなく、大学院での研究生活中にそのことを知り、急遽(きゅうきょ)、就職希望先を変更してのことであった。

 プロジェクトは、10年間で段階的に3種類のエンジンを設計して試作し、性能を確かめるもので、最終的には成功の暁に国産の島嶼(とうしょ)専用の短距離離着陸機や哨戒機に搭載すると云う野心的なプロジェクトであった。
 
最初のFJR710/10型では、中型機を飛ばすことに必要な推力を持つエンジンをとにかく廻すこと。3年後のFJR710/20型は、熱サイクルの圧力と最高温度とを世界的な水準にまで高めて、性能面での能力を実証すること。ただし、重量は問わないという条件であった。 さらに3年後のFJR710/600型は、性能と重量の両面で世界水準を実証すること。

そして最後のFJR710/600S型は、当時の航空自衛隊の輸送機を改造した「飛鳥(あすか)」と呼ばれる試験機に4発を搭載して、短距離離着陸の飛行試験を行うことであった。


FJRエンジン
 東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻ホームページより
http://www.aerospace.t.u-tokyo.ac.jp/overview/facilities.html


短距離離着陸(STOL )試験機「飛鳥」に搭載された FJR710/600S
http://ja.wikipedia.org/wiki/FJR710_(エンジン)

 このプロジェクトは、人数も予算も期間も今から思えば大胆な計画であったが、全ての設計条件をクリアーし、通商産業省「大型プロジェクト」の一番の成功例として、その後、長く伝えられることになった。私の職掌(しょくしょう)は、/10型では高圧タービン部分の研究と設計の担当であったが、/20型以降は全体設計の取りまとめの様な役割であった。

 そして、FJR710/600S型の設計の最中に、突然Rolls Royce社からSir スタンレイなるこの世界の大御所が訪日されて、日英共同開発のプロジェクトを提案された。その提案は直ちに、通商産業省と日本のエンジン3社(IHI、KHI、MHI)に歓迎されて、調査チームを編成して共同事業の可否を調べることになった。私は技術チームのリーダーとして、一年余りの間Rolls Royce社の工場に隣接するMein Office内に一室を与えられ、新エンジンの設計と開発とに関する全てを学ぶことになった。そして以後約20年間にわたって、この世界に従事することになった、これが始まりである。

 それからの約20年間は、民間航空機用エンジンの国際共同開発にどっぷりと漬かった期間であった。その間に既に世界中の空で2000機以上が毎日飛びまわっているAirbus A320機やMD90機に搭載されているV2500エンジンや、現在でも世界最大の推力を誇るGE90エンジン(Boeing777機に搭載)などの日本側分担部の設計部隊のチーフを務めた。

 これらは、ともに単なる新技術を用いた改善ではなく、設計手法を含む大きな改革の成果であり、航空機用エンジンのイノベーションとも云えるものであった。そのことは、1980年代までは米国や欧州に行くためには、必ず途中(アンカレッジやモスクワなど)で燃料補給のために1回以上の離着陸を余儀なくされていたが、エンジンの飛躍的な燃料効率の向上で、同じ機体(例えばジャンボジェット)で世界中のどこへでもノンストップで行けることが可能になった。このためにビジネスマンの出張のパターンが大きく変わったことなどである。

 また、当時はエンジンが4機装備されたジャンボなどでなければ、太平洋横断はできなかったが、設計と製造の信頼性の向上で、現在では2発機で世界のどこにでも直行できる。エアラインの収益向上にかなりの貢献だと思う。
 しかし、技術力の進歩とは裏腹に、ビジネスとしての期待は全く外れてしまった。40年が経った今でも、日本のメーカーが世界に占める順位は全く変わりがなく、ビック3もそのままである。その事実は、世界を相手に活躍をしている自動車や電機産業に比べて(過去に遡れば、繊維、鉄鋼、造船、精密機械など枚挙にいとまがない)肩身の狭さを感じている。そのことは、始まって丁度20年後に開発プロジェクトのChief Engineerを卒業するときに強く予感したものだった。理由は色々あるが今はそれらのことは本稿の問題ではない。以降の私はそれ以前に学んだ事柄の専門度を高めることに興味を覚えた。すなわちビジネスを離れた設計論や技術論である。
 20世紀の最後の20年間は、他の世紀末と同様に世界が大きく動いた20年間であった。その中にあって航空機エンジンの世界には、冷戦の終結が大きな影響を与えた。ビック3の売上高は直後の数年間に亘って大幅に落ち込み、優秀な若い人材は他の産業分野へ転籍し、研究に対するリソースも大幅に減ってしまった。

 この間の世界の主要メーカーの売上高の推移を2つの時代に分けて図に示した。1990年をピークに急激に落ち込み、ほぼ5年後から急激に増加に転じた様子が明らかに示されている。




しかし、日本の場合には幸いにして、(別の観点からは、危機意識が共有されずにズルズルと時を過ごした不幸とも云える)この影響は皆無であった。民間エンジン関係は通常の景気の波による増減はあったが、官需は安定した長期計画に沿って比較的平静が保たれていた為である。このことも、夢の達成への一つの根拠であり、チャンスであったと当時は考えていた。

 一方でこの間にビック3の経営は、ビジネス面と技術面で大きな改革と進歩を遂げることを余儀なくされた。それは、組織形態にはじまり、シックス・シグマ などの代表される様々な改善手法の適用、調達方式の見直し、エアラインにとって魅力的な規制緩和への努力の集中など枚挙にいとまがない。

 我々は、世界最先端の競争の真っただ中にある開発機種に常に参加を続けたことで、その全てを実際の現場で経験することができた。この時期ならでの幸運であったと思わざるを得ないのである。

 例えば、一世を風靡(ふうび)したシックス・シグマについても、丁度、ジャック・ウエルチ の最盛期であったのだが、いち早くGE社のブラックベルト やその指導員(チャンピオンと呼ばれていた)との直接対話を重ねることができた。

 また、BPR(Business Process Re-engineering) についても、彼らの反応は早く、しかも徹底している。それらについても同時進行の渦中にあって、良いものは取り入れ、日本人の感覚では疑問に思うもののその後の推移などを知る機会も得た。その様子は、遠い昔の飛鳥や奈良時代の日本文化の基礎ができつつあるころの時代の流れを思わせるほどのものであった(これは私の趣味)。

 現在の私は、その後の10年間の変化も含めた設計論を博士論文として纏めたことを最後にこの業界から去ることになり、日本工学アカデミーという組織の中で始められた「根本的エンジニアリング」(http://meta-eng.seesaa.net/)というエンジニアリングの研究を経て、メタエンジニアリングという新たな考え方の研究に楽しみを見出している。航空機エンジンの開発設計に通じるものがあるとの確信の故でもある。

40年来の旧友の勧めで、この様な文章を書き始めることになったのだが、どんな方向へ進んで行くかは未だ確定はしていない。しかし、開発途中の危機管理、初期品質の安定設計法、長期安定調達方式の色々、ライフサイクルから求められる設計パラメータの評価法、品質管理に対する考え方の推移、技術組織のサイクル的な変化など、他の産業分野や技術者の参考になるようなことを、一話ずつ区切って纏めてみようと思う。

 最後に本稿を始めるにあたって忘れてはならないことを述べておきたい。それは1970年前後に始まる当時の通商産業省の皆さんから我々が受けた長期間にわたる配慮に対する感謝である。勿論、私意ではなく、この産業を将来の日本の柱の一つにしたいとの思いからなのだが、私はこの期待の半分も果たせなかったと思っている。その償いの一つとの思いから当時の記録の自費出版などを続けている。
 また、本稿のはじめの数回分は、私の原文に対して旧友の前田勲男君(戦略経済研究所を主宰)が加筆・校正をしたものに、いくらかの訂正を加えたものであることをお断りしておく。

注記および引用元;
http://www.ge.com/
http://www.pw.utc.com/
http://www.rolls-royce.com/
http://www.ihi.co.jp/index.html
川崎重工業 http://www.khi.co.jp/
三菱重工業 http://www.mhi.co.jp/
「Six Sigma / 6 Sigma」 各種の統計分析や品質管理手法を体系的に使用して、製品製造やサービス提供に関連するプロセス上の欠陥を識別・除去することにより、業務オペレーションのパフォーマンスを測定・改善する厳格で規律ある経営改善方法論。シックスシグマは、もともとは1980年代初頭に米国モトローラ(Motorola, Inc.)が生産プロセスを改善するために開発した手法で、当時圧倒的な競争力を誇っていた日本メーカーなどで実施されていたQC/TQCを研究して生み出された。なお、「Six Sigma」は米国モトローラの登録商標である。http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/sixsigma.html
John Francis Jack Welch Jr.(1935年〜)は、米国の実業家。1981年から2001年にかけて、GE社の最高経営責任者を務め、そこでの経営手腕から「伝説の経営者」と呼ばれた。
Black Belt 社内のシグマシックス・プロジェクトの推進リーダー。
 企業改革のために既存の組織やビジネスルールを抜本的に見直し、プロセスの視点で職務、業務フロー、管理機構、情報システムを再設計するという経営コンセプトのこと。「ビジネス・リエンジニアリング」「リエンジニアリング」ともいう。この考え方は、1990年に元マサチューセッツ工科大学教授のマイケル・ハマー(Michael Hammer)がHarvard Business Review誌に発表した論文が最初とされる。http://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/bpr.html




規定を満足するか、しないかだけが問題なのだろうか

2015年03月20日 08時17分43秒 | ジェットエンジンの設計技師
今朝の「ケンプラッツ」に「さすが免震と思ったのに…」当惑する日立市 2015/03/19という記事がありました。今問題の東洋ゴム工業の話です。
一体、この耐震ビルと、耐震装置を持たない新築のビル(数の上では圧倒的)との安全度の違いはどうなのでしょうか。その明確な答えがやっと現れたようです。
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20150318/695271/?rt=nocnt

曰く、
「東日本大震災のときは『さすが免震だ』と感心したのに、本当は大臣認定不適合品と分かり大変残念に思っている。東洋ゴム工業は、速やかに安全性を検証し、万全の措置を講じてほしい。
 こう話すのは、大臣認定の性能評価基準に適合していない東洋ゴム工業製の「高減衰ゴム系積層ゴム支承」(以下、高減衰ゴム支承)を使用していることが分かった庁舎の1つ、日立市消防拠点施設(茨城県)を管理する日立市都市建設部営繕課の遠藤弘課長だ。
旧耐震時代に設計された市庁舎にひび割れなどの被害が発生したことから、市は災害対策本部を市庁舎ではなく消防拠点施設に設置。当時の市長はこの場所で陣頭指揮を取り、電気や水道などのインフラ復旧に当たった。遠藤課長自身も震災直後に消防拠点施設で寝泊まりすることがあったが、就寝中に何度か余震を経験した。そのとき、免震装置の威力を実感したという。「余震の震度は4から5程度だったが、建物の揺れが明らかに小さく、揺れの時間が少し長かった。まさに理論通りの挙動だった。余震の際には、テレビで震度速報が発表されていたが、それとは明瞭な体感上の違いがあった」と遠藤課長は振り返る。

どうも、マスコミも官庁も規定に合ったか、合わなかったかだけ(Design by constraints)を取り上げ、本来の機能の目的達成度を多面的に議論する(Design on Liberal Arts Engineering)気は無いようです。建築関係は、総て安全率をかけており、確率論は出てきませんが、実際の製品にはバラツキがあり、震度6強でまったく問題が無かったのならば、むしろ良いデータができたとして、規定のありかた(数字だけではなく、実際のデータに基づくなど)を見直しても良いのではないでしょうか。

規程通りにつくったものでも、福島第1原発の様な事態が頻発する世の中です。過去に作られた規定に合わせることだけに固執すると、いろいろとおかしなことが起こりかねません。(マニュアル第3世代問題)

その場考学半老人 妄言

ジェットエンジンンの設計技師(7)第6話 長期安定調達法のいろいろ

2014年05月25日 14時47分44秒 | ジェットエンジンの設計技師
第6話 長期安定調達法のいろいろ

1.ジェットエンジンの素材調達の特徴

  ジェットエンジンの開発から学んだ設計法は、このシリーズで述べるごとくに多岐にわたるのだが、最大のものは長期安定調達法に則った設計の進め方であったと思う。それは何よりもその製造部品の具備すべき3つの特徴にある。
第1は他の工業製品に類を見ない量産の長期性にある。一旦量産設計が確定されると、特段の理由が無い限り50年間は生産が続けられる。更に、その間には継続的なオーバーホウルによる部品交換も行われる。第2は、製造工程をむやみには変えることができないという規定上の問題がある。特に重要工程の変更には、設計権者はもとより、規制官庁の承認が必要になる。第3は、製品の信頼性の確保である。検査で合格することは勿論なのだが、それだけでは不足で、製造工程が初めから終わりまで一定の水準以上で安定していることが必要である。
調達と設計は一見密接な関係が無く、図面と品質要求が満たされればどのようなものでも良いように思われがちであるが、以上の理由からエンジンの設計技術者は基本設計の段階から素材と加工方法について調達先との密接な関係を保つことが必要になる。(残念ながら、そんなことは無いと主張する調達マンが多いことも事実である)
国際共同開発の期間には、6週間ごとに全パーティーの設計担当チーフが集まる全体会議が招集された。また、その間には個別のパーティー間の調整会議が頻繁に行われた。私はそれらの会合の後には、必ず数社のメーカーを訪問することに決めていた。メーカー訪問は1回や2回では本当のところは分からない。特に外国メーカーはキー・パーソンレベルの担当者の同業種間の移動が激しく、周期的に訪問をして、その変化と傾向を確認する必要があった。残念なことだが、当時の日本の商社の多くは、このことにお関しては割と無頓着であったことも、このことを続けた理由のひとつであった。


2.アダム・スミスのからのはなし

国富論(原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)で有名なアダム・スミスは「経済学の父」と呼ばれているが、社会が隆盛で幸福であるためには、 公平の原則、明確の原則、便宜の法則、経費節約の原則の四つの原則が重要であると述べている。また、商業社会の秩序については「見えざる手」(国富論の第4編第2章に現れる言葉)の存在を示唆していることは、近年になって特に有名である。



アダム・スミス
(Adam Smith、1723年6月5日(洗礼日) - 1790年7月17日)は、スコットランド生まれのイギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・神学者・哲学者である。
主著は『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)。「経済学の父」と呼ばれる[1]。
2007年よりイングランド銀行が発行する20ポンド紙幣に肖像が使用されている。過去にはスコットランドでの紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する50ポンド紙幣にも肖像が使用されていた。
Wikipediaより

具体的には、一般に上下する「市場価格」に対して、資本や労働が無駄なく配分されるという自然法的な秩序を想定した「自然価格」が本来の真実の価格であると考えた。この考え方の発展が、後に述べるMDP(Market Driven Procurement)とVJP(Value Justified Procurement)の違いであろう。そして、この二つの違いは、先に述べたエンジン部品の調達の特徴を満たすための調達方法に色々な側面で関係をしてくる。
 ついでながら、スミスはしばしばイギリスの哲学者とも云われている。彼は古代ギリシャの哲学から多くを学んだことがその所以だ。しかし、彼はそれらに関しては生前に多くを発表せずに、一部は廃棄したとも云われている。そこで、彼の死後に友人の化学者と地質学者が残された遺稿を纏めて「哲学論文集」(1795)なるものを編集し、発行した。この書は日本人の哲学者、佐々木 健により翻訳をされ1993年に出版されたが、日本語の表題は「哲学・技術・想像力 哲学論文集」である。従って、彼の論理は大いに哲学的および技術的であるとも云えるので、技術者として彼の考え方は大いに参考になる。




読売新聞夕刊より




 これらの本は、山梨県北杜市の金田一晴彦記念図書館で容易に見つけることができる。彼の蔵書は勿論、数人の寄贈図書が閲覧・貸出し自由なのは嬉しい。

3.元GEのVE指導者の教え

GEは誰でも承知をしている人材育成に優れた会社であり、同時に金融をはじめとして会社がどのような仕組みで儲けるかの方法に長けている。この両方が実は当方には欠けている。日本では一般的に社内教育が充実しているとの見方もあるが、実際に欧米の会社の中での共同作業中に見聞きした他社(と云っても、GEとかRRのように、伝統的な技術のあり方を重視している会社)の制度とは雲泥の差が歴然としている。第一の問題は社内教育の重要度に対する認識の違いであろう。次はそれに対する本人たちの集中度だが、これは第一の要因の結果であろう。私が実際に経験した教育は、勿論GE社内で受けたものではないのだが、それぞれの教育のエキスパートとの会話の機会には大いに恵まれていた。
その中で、
① 信頼性設計の様々な手法とその開発プログラムへの応用
② VE(Value Engineering)とVJP(後に詳述する)教育
③ シックスシグマのチャンピオンとの対話
④ シックスシグマ的発想法に関する教育
などを経験したが、いずれも深く記憶に残っている。

一方で私が受けた日本の社内教育の内容の記憶と利用の経験はあまり思い出すことは無い。
GEの技術は特に設計に関しては「マニュアル文化」との認識を強く持っている。これは一時期V2500とGE90というエンジンのプロジェクトの掛け持ちをしていた時期に強烈に感じたものであるが、逆にいえばマニュアルの作成能力と教育手法が優れているともいえる。この二つは大いに見習うべきなのだが、この二つは時間的な変化が激しいので、新知識を伝授できる継続的な講師の育成が不可欠であろう。特にコストエンジニアリングについては専門の講師を招聘して1週間ほどの講義と他社の事例研究などを通じて、最新の知見を身につけることが続けられることが望ましい。 

 かつてGE社内でValue Engineering(VE)を指導していたお年寄りのOBと1週間を過ごす機会を得た。ご承知のようにVEの発祥はGEである。そして、その発端は軍需調達品の機能に見合った調達の方法論であった。
 彼は、GE退職後にはその方面のコンサルタントを主として米国内の自動車産業を中心に個人的に行っており、VEの考え方に即した調達法について、設計の初期から調達先との付き合い方の詳細を含めて、細かく教えてくれた。例えば価値購買については、この様に説明されている。

価値購買の条件とは、第1に「資材購買部門の各種機能の統合的発揮」である。利益創出部門としての機能を最大限に発揮することは当然として、その機能を発揮するために何をすべきか。
① 価値購買担当バイヤーの人材育成の必要性の認識
② 既存の業務の合理化と機能的組織の構築のすすめ
③ プロジェクト・設計への積極的働きかけ・関連部門との連携
④ 価値購買(VJP)マインドセット
などが挙げられる。
第2は、「継続的・計画的コスト改善活動の定着」である。どの様にして目標値を達成するかの継続的・計画的コスト改善戦略をビジネスプランの基本に組み込むことが必須の条件になる。

このやり方で特に記憶に残るものを列挙してみる。(ここでは、一般論とはやや異なる、特徴的なことのみを記すことにする)
① VJPとMDPの特徴と区別を明確にすること。
この二つは契約方法も交渉のやり方も全く異なる。正反対とも云えるほどだ。また、対象とすべき品目も異なる。このことを先ず基礎知識として確実に認識をすること。
② Should Costの算出方法とサプライヤーへの提示のタイミング。
原価企画の手法に従ってTop Down とBottom Up解析の折衷で算出されたShould Costは特に調達品の場合には重要であるが、サプライヤーへの提示の時期と説明内容が的確でないと役に立たない。どのようにすればよいかはGEの重要なノウハウであった。
③ 諸伝票の作成と決済にかかるコストにも注目。
これも調達コストの一部であり、全体を概算するととんでもなく高額な人件費コストを占めていることが分かる。この部分の改善は全社規定にかかわるので手が出せなかったが、一枚の伝票にかかる総コストの金額は担当者レベルまで認識をするべき。(ちなみに、彼は当時の社内の数種類の調達伝票のそれぞれの処理コストを簡単に算出してくれた)
④ 調達品質に関する考え方をサプライヤーに明確に伝える。
このために専任のQC担当者を常設して、全てのサプライヤーに対して統一された手法で教育を続ける。


4.VJPとはなにか

 様々な調達方式の詳細については後に述べるが、ここでは戦略的な事柄について記す。
長期的に同一部品を調達する場合には、VJP(Value Justified Procurement) とMDP(Market Driven Procurement)に大きく分類される。いずれを選ぶかが調達戦略の第1課題となる。VJPの最たるものは、共同開発のパートナーとしてLifetime契約を行う(GE90の場合のDisc鍛造を担当したWeiman Gordon の例)であるが、一般的には、両タイプの併用になる。
すなわち、部品の数量、市場性、変更の難易度などにより開発開始時にどちらを選ぶかを検討し、量産後には経済情勢により周期的に変更をすることが一般的であろう。次の図は、両方式の累計生産数量に対する調達コストと利益の関係の概要であるが、VJPの効果は累計生産数量がかなりの数にならないと明確にはなってこない。



次の英文の文章は旧友のDan Lumelloのものである。彼はGEの航空エンジン部門で調達品の品質を担当していた。当時のGEは、長期にわたる調達品の総コストをいかにして最低値に保つかとの命題の理論的な研究が進んでいた。最も好ましいのは、材料メーカーにもRSP(Revenue Shared Partner)として参加をしてもらうことだったが、次善の策がこのVJPだった。会計制度に敏感なGEは、如何に初期投資を抑えるかが重要な課題だったのであろう。前に述べたようにエンジン部品の長期性を考えれば、その全期間での総利益を最大化することがプロジェクトの目標になるのだが、長期金利が下がるにつれて、この理論は現実から離れつつあるようにも見える。しかし、経営者の眼と頭が短期の業績向上に集中すればするほどこの調達方式は冗長的に見えて、危うい方向へ傾いてゆくように思える。長期的な安定感とそれに伴う相互信頼関係は一旦破綻すると容易に元に戻ることは無い。経済活動の周期性を知れば、VJPから離れることは危険な一時しのぎに見えてくる。

Value justified procurement theory suggests that both customer and supplier are vertically linked in bringing a finished product to market. Therefore, it is their mutual best interest to find solutions that maximize the wealth and well being of all their stakeholders. Adversarial relationships win-lose in nature, should be replaced with win-win scenarios. As much risk, redundant or non-value added effort should be eliminated as possible. Costs are evaluated on a “world class” basis; that is, what does it take to maintain world price, quality, and delivery leadership. The quoting process itself adds little value and should be avoided with long term agreements (LTA) with built in escalation formulas. Once the value justified price is determined then cost improvement curves (C.I.C.) and Value Engineering cost reductions are set in motion to guarantee a competitive advantage for the future. Everything from parametric models, regression analysis, to expert cost quotations can be used to determine should costs. Both supplier requests for quotations and internal value analysis should be started independent of each other then compared and reconciled as part of the contract package.


5.様々な調達方式とサイクル論

 次の表は私が当時のGE,PWA,RRの調達担当と原価企画担当の緒氏(多くの場合は、ManagerやGeneral Managerクラスであったが、時には担当取締役)との話を基に独自に作成したものである。当時のGE,PWA,RRはそれぞれ独自の考え方に基づいて具体的な行動をとったが、原則的には次の表のいずれかの考え方を採用していた。また、経済サイクルの波の状況に合わせて選択すべき方法もサイクリックに代っていったように感じられた。




横軸の語句の説明は以下である。


VJ縦軸の語句の説明は、


P(価値購買方針)
 RSP・・・・・・・Revenue Shared Partnerとして、プロジェクトの参加メンバーの一員になる。この場合には、量産コストに相当する%値の投資と利潤の確保が行われる。
 LOP・・・・・・・Life of Programを通じての調達が継続される。その為に、サプライヤーは初期投資を量産品に割り掛けることができる。
 Rolling Option・・・LOPの期間短縮版ともいえる。ある期間を区切って長期契約を行う。この場合には、2~3社を長期間にわたって競わせることになる。
 LTA-Floating ・・Long Time Agreementを締結するが、価格はVEなどの原価低減活動の結果や各国インフレ状況のなどにより変動する。

MDP(交渉による購買方針)
 LTA-Fixed・・・商談によりLong Time Agreementを締結する。ある期間の調達コストを固定値にする。
 Semi-MDP ・・・商談によりShort Time Agreementを締結する。調達契約の度毎に他社との競合入札等を繰り返し、調達コストを競わせる。