生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(17) その場で水素水

2017年01月31日 08時54分43秒 | その場考学との徘徊
その場で水素水 場所;東京  年月日;H29.1.25
テーマ;水分補給のその場考学
 
 サンデー毎日になって6年、ドライブとウオーキングの機会はかなり増えた。走行距離の年間1万キロ、歩行歩数の毎日5千歩は、何とか続けたいと思っている。通勤時は1週間に10万歩が目標だったのだが、やはり年齢は無視できない。

 ところで、途中の水分補給も変わってきた。以前は缶コーヒー、60歳代はペットボトルの紅茶だった。最近は、水が多くなった。特に、ホテルに戻って冷蔵庫にしまい、夜と朝にちょっと飲むには、水が一番良い。

 先日、大学同期(T大学の機械工学専攻)の新年会があった。その席に友人が自分で開発したペットボトルよりもやや小さい水素水発生ボトルを持参して、その場でできたてを飲ませてくれた。酔い覚ましには格好の水だったので、その場で注文をしてしまった。

 水素水のぺットボトルの宣伝は、あちこちで見かけるのだが、「製造後には、水素濃度が急激に落ちる」との記事で、今まで買うことはなかった。
 


 そんな時にいつも蘇るのは、日本にマクドナルドを上陸させた藤田 田氏の言葉だ。「マクドナルド・ハンバーガーは日本のファストフードに勝つ自信がある。それは、日本食の蕎麦やうどん、寿司も、口に入る瞬間の最もおいしく感じる温度を知らないし、管理していないことだ。マクドナルドは、お買い上げいただいた後で、店内を移動して口に入る瞬間の温度を管理します。」だった。もう数十年前なので値は忘れたが、感覚よりも低かった記憶がある。65℃くらいだっただろうか。

 このボトルも、発生直後に飲むためのもので、まさにその場・その時なのだ。レストランでの食事の前後に、スイッチを入れて飲むこともできる。

 スイッチを入れると、水素の泡が出てくるのが分かる。時折出る大きな泡は酸素で、水を電気分解していることも実感できるのが楽しい。
 泡の出方をよく見ようと、暗がりで発生させると、これがLEDライトの青い光に照らし出されて予想以上に美しかった。 奥さんが気に入ってしまい、完全に占有されてしまった。




 ちなみに、友人の会社のHPは次のアドレスだった。最近は、競合製品も多くなってきたようだが、ブームになるには、数社が競い合うことが必要条件だと思う。

http://hutec.biz/?page_id=12
 
家でも、旅行中でも、冷蔵庫にしまってある水を、飲むだけボトルに移して3分待てば出来上がり。ちょっと飲むには、やはり水が一番良い。充電もパソコンのUSBからできるので、コードが小さくて助かる。




その場考学のすすめ(03)その場考学とメタエンジニアリングの関係

2017年01月29日 08時59分50秒 | その場考学のすすめ
その場考学とメタエンジニアリングの関係

ギリシャの哲学者アリストテレスは知識を3つに分類した。
 ① エピステーメー;科学知識 
 ② テクネー;技術的知識 
 ③ フロネーシス;良識、実践知、です。

 西欧型科学技術文明の中で、科学的知識と技術的知識は大いに発展をして、現代社会を築きあげてきた。しかし、20世紀後半からその速度が加速されて、それによる弊害(負の価値)が目立つようになってしまった。このことは、社会への実践にあたって、①と②のスピードに③のフロネーシスが追いついていないことを示している。
 つまり、実社会への適用にあたっての思慮の範囲が限定されてしまい、個別最適のままで世に現れて、全体最適が崩れてしまった、ということなのでしょう。


Ἀριστοτέλης、
前384年 - 前322年3月7日
 (Wikipediaより)

 実社会では、大なり小なりの問題が次々に現れます。情報過剰時代にあって、これらの問題解決の手段の決定を、すべての情報を集めて検討をしていたのでは、間合うはずがありません。そこで考えられたのが、「その場考学」です。一方で、「メタエンジニアリング」は、同様に実践に対して、広範囲な科学知識と技術知識の両方から必須事項のみを求めて、実践における全体最適を試みます。
 
つまり、この二つは、目的も方法も同じと言えるのです。
これからの諸検討では、この二つの言葉を頻繁に使いますが、同じ意味と考えていただければ幸いです。


「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (その3)」


【Lesson3】製造技術だけなら勝つことができた(Howmet vs.小松製作所[1974])
 
1970年に通産省の大型プロジェクトとして始まったジェットエンジンFJR710の研究の当初から,私はシステム設計班長に加えて高圧タービン設計チームの班長も務めた。エンジンの性能達成のためには,タービン入り口温度を,従来の実績よりも100℃以上高めなければならない。

 このことは英米でも同じで,米国内でも多くの大学でタービン翼の冷却法の基礎研究が行われ,交流も活発であった。年1回の学会の場に限らず,各大学主催のワークショップで研究者の最新情報が交換された。私は,ミネソタ大学とスタンフォード大学の常連となり,発表(1)を通じて多くの友人を得ることができた。
 
 共通する最大の問題は,第1段タービン翼のリーディングエッジの冷却法で,インピンジメント冷却とフイルム冷却の併用が不可欠とされていた。
当時の技術では,双方の孔は表面からの放電加工で行われたが,それでは,インピンジメントの噴流力が,フイルム冷却孔に直接あたることになり,冷却効果は十分に発揮できない。そこで,インピンジメント冷却孔を鋳造で作ることが必要になる。
 
私は,この設計を大阪の小松製作所に持ち込んだ。彼らには,それまでにも何度も航空技術研究所(以後NAL)との共同で精密鋳造を依頼していた。彼らの判断は,「考えられるが実行は難しい。」であった。そこで,世界一の精密鋳造技術を持つ,米国のHowmet社にその設計図を持ちこみ議論を重ねることになった。彼らの回答は,「セラミックコアの製造は不可能で,鋳込み時にコアが折れてしまう。結論はImpossible」であった。

帰国した我々は,「世界一の会社ができないことにチャレンジしてみよう」であった。幸い,FJR710の予算には,その余力があった。最初の歩留まりは1%くらいであったが,それでもImpossibleではなかった。この冷却翼設計はFJR710/10と,それに続く/20の実機翼を用いた要素試験で続けられて,遂に鋳造品の歩留まりも実用レベルになり,FJR710/20の運転試験は目標値のタービン入り口温度を達成することに成功した。

 産官学の協働が,米国の世界一の製造技術を追い越した瞬間であった。しかし,このような無謀とも思われるチャレンジ精神は,その後のプロジェクトでは次第に失われ,より堅実な方向に向かってしまったように感じられる。しかし,当時はこれだけでは終わらずに,次の特許論争にまで発展をした。

【この教訓の背景】

 チャレンジをするということは、リスクをとるということとまったく同じ意味なのだが、そのことを認めないのが、日本的な考え方になってしまっている。私の経験では、「チャレンジをせよ!」という人に限って、「リスクは取りたくない」が本音のことが多い。

 「チャレンジをせよ!」という人は、自分ではチャレンジをしない。その気ならば、「私がチャレンジする」というはずである。こんなことが明確になっていないのが、高度成長社会以後に実務に携わる人たちの中に多く見られる。リスクを採らずにチャレンジするという言葉は、欧米にはない。


「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (その4)」


【Lesson4】特許論争でも勝つことができた(General Electricとの特許論争[1975])
 
FJR710/20が行われていた時代は,すでにBoeing747などのジャンボジェット機の最盛期で,オーバーホウルなどから,実機のタービン翼の冷却構造なども明らかになってきた。そのようなときに,事前に提出した前記の精密鋳造の冷却構造の特許が審査の時期を迎えた。
 
それ以前にも,いくつかの特許を提出していたが,特に問題はなかったが,これに関しては特許庁から「異議申し立てがありました。」との通知が来た。内容から異議の申し立てはGEからのものであることは明白だったが,私は,彼我の違いを説明する回答書を直ちに送った。しかし,再度の異議申し立て書が送られてきた。そのような往復が3回は繰り返されたと思う。そして,最終的には「冷却性能の飛躍的改善は伝熱工学的に明らかなので,その他の部分にGE社の特許と同じ構造が含まれていても,全体としては明らかに新発明である。」との意見が採用されたようであり,めでたく登録された。

この特許の冷却構造は,以降の多くのタービン翼応用されているだが,金銭的な収入には至らなかった。しかし,たとえGEが相手であろうとも,とことん議論を尽くすことは,この時の経験が以降の国際プロジェクトのV2500とGE90では大いに役立った。意見が対立するときには,先ずは反論をすること。それに対する反論にも,更に反論をすること。少なくとも3回はこれを繰り返さなければ,お互いの力を理解し合うことはできない。そして,国際共同開発プロジェクトにおいては,この「お互いの真の力を見極めること」が,真の協力体制を築くうえで最も重要なことの一つである。

ソクラテスが弟子のひとりとの会話の形で「正しいこと」を論じた内容がプラトン全集(3)に示されている。

ソクラテス「正しいことと不正なこととの場合はどうなんだろうね,いったい。答えてみたまえ。」
弟子「できません。」

ソクラテス「論ずることによってだ,といってくれたまえ。」

つまり,「正しいことは,知識の集積による議論により導き出されるもの」と明言している。この言葉は,「正しいこと」は普遍ではなく,時代とともに変わってゆくことも同時に示している。

【この教訓の背景】

 ジェットエンジンの設計に関する特許は、ほかの製品とは大いに異なる。製造方法は別だが、設計は、まず要素試験が必要で、その確認に数年かかる。次に基本設計を行い、プロジェクトがスタートし、型式承認が取れて、機体に積み込まれ売り始めるには、5年はかかる。つまり、せっかく特許をとっても10年間は空回りで、製品の売上高には貢献しない。しかし、新発明の特許は、どんどん出した覚えがある。それは、防衛のための特許であった。つまり、一種の保険だった。
 
私の特許は高圧タービン翼の冷却法に関するもので、IHIが商品化するめどは、少なくとも、特許の有効期限内には全くないと確信をしていた。すでに40年前のことなのだが、唯一の製品化の可能性は、当時から独自の発電用GTの高温化の開発していた某社だった。ある時、ガスタービン学会で、後輩からこんな話があった。「あなたの特許を使わせてもらえませんか?」。
私は、その場で「特許についてとやかく言うことはないので、どうぞ好きなように利用していいよ」と、快諾した。未だ、大型プロジェクトが途中だったときだったと思う。

 蛇足だが、私はメタエンジニアリングを考え始めてから俄かに、古代ギリシャと日本の縄文文化(正確には、土器文明)に興味を持つようになった。特に、プラトンからアリストテレスへの流れは、科学と技術と社会の関係について、現代文明が落ち込んだ様々な矛盾と解決困難な問題を解く鍵があるように感じている。

引用文献 

(1)Katsumata,I, “Effect of Mach Number on Cooling Effectiveness of Film Cooled Turbine Blade”,The Film Cooling Work Shop, Univ. of Minnesota(1975)
(3)プラトン、プラトン全集 第10巻、(1975),pp. 269、角川書店

その場考学のすすめ(02)手段の目的化をしてはならない

2017年01月26日 13時54分46秒 | その場考学のすすめ
その場考学のすすめ(02)

その場考学の始まり(1980年の頃)


 設計技師の最大の敵は時間。時間との戦いに如何にして勝つかが最大の課題と言える。ほおっておくと何でも頼まれて、自分の時間(純粋に設計をする)が無くなる。例えば、開発プロジェクトの期間中は、おびただしい種類と数の会議が行われるのだが、最新の状況を知る設計が出なくてもよい会議は少ない。 
 計画的な時間の管理法は色々あるが、先ずはその場その場で小さく時間を稼ぐ方法を考える。これで、驚くほどの余裕が生まれたのだから、驚きだった。

 私が、「その場考学」に目覚めたのは1980年。英国のR0lls Royce社とのジェットエンジンの共同開発が始まりかけた時だ。度重なる長期海外出張で、その前後の一週間(合計2週間)机上の書類の山にウンザリしていた頃だ。のんびり屋のRRのChief Designerの仕事振りをよく見ると、なるほどと思われるものがいくつか見えた。

 要するに仕事を手っ取り早く片付ける技があるのだ(勿論、有能な秘書の存在もあるが)。
 どんどん取り入れるうちに その数は20を超えた。その頃から海外出張前後での机上の書類の山の存在期間は1週間から、3時間に変わった。
   
 その場考学は、言い換えると日常業務のフロントローディングと言える。日常繰り返し起こることに一寸したルール(パターン)を決めて、予め何かを用意しておく。それだけのことで、時間が大いに節約できる。
 
 このことは「トヨタウエイの日々の改善」にも共通しているように思える。しかし、もう少し考えてゆくと、そこにはアリストテレスが居た。そして、それから33年後に「その場考学研究所」をつくることになった。



「GEやRolls Royceとの長期共同開発の経験を通して得られた教訓 (その2)」

【Lesson2】手段の目的化をしてはならない(エンジンか要素か[2000])
 
 技術の世界でも「手段の目的化」が,大なり小なり頻繁に行われてしまう。特に,日本が得意とするTQM(Total Quality Management)の世界では,このことが起こりやすい。FJR710の目的は,機体に搭載するエンジンの開発能力を付けること,であった。しかし,時代とともにこの目的のための手段である,要素開発や高品質の部品製造などが目的化されて,当初の目的が忘れられてしまったように感じられる。多く事情によりそのような方向にそれたのだが,やはり当初の大目的に対して,達成までの確たる戦略が存在しなかったと言わざるを得ない。戦術の推進が得意な日本の技術者は,つい戦略の共有をおろそかにする傾向がある。
 
 V2500の開発期間中には毎回の試験エンジンの運転後に何千という不具合が見つかった。そのたびに5か国のChief Designer会議で対策案が検討され決定される。回を重ねるごとに日本案が採用されることが多くなった。そのことは,日本の技術者が戦術にたけていることを示すものだと考えられる。しかし,その時にイタリアチームの友人がささやいた言葉が印象的だった。「我々は,目先の対策の立案では日本人にはかなわない。しかし,我々には戦略があるので,最終的には我々が勝利することになる。」
 
確かに,第2次世界大戦,近年の海外派兵問題,サミット対応などを見ると,歴史的にもその言葉に納得せざるを得ないものがあった。

【この教訓の背景】

「手段の目的化」が, TQM(Total Quality Management)の世界では起こりやすい。このことは、納得がゆかない人が大部分だと思う。TQMの元は、TQC(Total Quality Control)なのだが、本家のトヨタ自動車が米国との自動車摩擦の後で、にわかに変えてしまった。

 多くの会社では、トップの経営方針をより具体的かつ綿密に全社員に浸透させることに役だったのだが、私は、ControlからManagementへの言葉の変化が嬉しくなかった。
 
 その当時から、Quality Controlを品質管理としてしまった日本語に違和感を持っていたので、「またか」の印象だったのだ。英語では、ManagementとControlでは、やることはさして変わりがない。どちらも、色々と工夫を凝らしながら目的を達成するのだ。

 しかし、日本のマネージメントはコントロールとは全く異なる。管理することが前面に出てしまう。すると、皆が自己の責任範囲での管理だけに集中するので、自動的に手段の目的化が起こってしまう。つまり、上司の手段の一部を受けた人が、そのことを目的化するというわけだ。だから結果としては、部分適合にしかならない。部分をそれぞれに良くすれば、全体が最適になるということは、実際の複雑な世界ではほとんど起こらない。

 一時期、トヨタ方式の中の「問題が起こったら、真の原因把握のためには、ナゼを5回繰り返す」、という言葉がはやった。そのことは正しいのだが、そうなると多くの管理者は、最後の5番目にだけ注目をしてしまう。しかし、これも部分適合の際たるものだ、本来は5段階の全ての項目に対して、再発防止を考えるべきであり、そうでなくては、かえっておかしなことを招く結果になってしまう。

メタエンジニアの眼(13)「神と自然の科学史」

2017年01月25日 14時07分40秒 | メタエンジニアの眼
このシリーズはメタエンジニアリングで文化の文明化のプロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。

書籍名;「神と自然の科学史」[2005] 
著者;川崎 謙 発行所;講談社選書メチエ  
発行日;2005.11.10   最終改定日; H29.1.25
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 
 
 日本語の「自然」は、言葉では言い尽くすことのできない美しさであるが、英語の「nature」は、西欧型の自然科学によって、すべてを語りつくせるものである。この根本的な違いを明確に理解しないと、自然共存の日本人的な文化を文明化することはできない。
 この著者は、そのことを明らかにしてくれた。



・歴史的眺望

『ニュートンを「科学者」と呼ぶことは、赤穂藩浅野家の家老であった大石良雄(内蔵助)を「サラリーマン」と呼ぶのと同じ時代錯誤を犯しているのです。内蔵助の生涯は、西暦でいうと17世紀後半から18世紀初頭にわたるニュートンの生涯にすっぽりと含まれています。忠臣蔵の時代に「サラリーマン」という言葉がなかったのと同様に、ニュートンの時代に「科学者(scientist)」という言葉はなく、彼は“philosopher”と呼ばれていました。』(pp.20)
 
 つまり、科学が哲学から分離する前の話なのだが、今のサラリーマンに内蔵助の忠誠心が無いように、今の科学者には哲学的センスに欠けるということともとることができる。

 このことは、一見大したことのないように思われてしまうが、実はこれが人類の現代文明の致命傷のように、私には思えてきた。つまり、西欧型の「nature」は人類の英知に支配されるものと規定される。つまり、「nature」は全能の創造主が作ったもので、その支配は人間に委託されているということなのでしょう。
しかし、日本語の「自然」は、人類に支配されることはなく、むしろ人類は自然の一部であり、従って自然に支配されているものになる。つまり、真逆になってしまう。

 ケプラー、ガリレオ、ニュートンは、物理学をつくろうと思っていたのではなく、『例えば、ケプラーが天文学を志した動機は、「天文学においても神(引用者注、キリスト教の創造主のこと)に栄光を帰しうる道が開かれた」(渡辺 1985,237)ことにあります。』(pp.21)
 
 この記述はちょっとわかりにくいのですが、西欧の科学は、創造主が作ったもの(例えば天体の動き)が、なぜそのようになっているのかを言葉と数学で表すこと、と解釈します。つまり、出発点はwhyでした。
 しかし、明治維新に輸入された科学は、日本ではhowが出発点だったようです。

・技術の普遍性
 
 『西欧自然科学にも歴史があり、それは普遍的でないある特殊な文化圏においての出来事である。(pp.22)(中略)私たちの先人は西欧自然科学の内にある普遍性を見つけました。それは、技術の普遍性でした。西欧自然科学を普遍性で彩っていたのは、技術でした。技術は常に普遍的です。技術が普遍性を持つ理由は、効率という尺度で異なる技術の優劣を判断することが可能だからです。ことばや文化などとは無関係に、効率という共通の尺度を設定することができるのは技術の特徴です。(村上 1999, 99)』(pp.26)

 ここでの、普遍性という言葉は理解が難しい。しかし、「例外なくすべてのものにあてはまること」と考えると、科学はある仮定の中でのみ成り立っているが、技術はどこでも通用するということなのでしょう。つまり、ガリレオの落体実験は、技術であり普遍的だということなのでしょう。

 『科学は「事柄を理解すること」であり、技術は「ある一定の計画に従って何かをつくること」なのです』(pp.27)として、技術と科学を明確に分けている。
 
 つまり、科学の目的は「認識」であったが、西欧自然科学はガリレオによって、「認識を技術化する」ことに成功した。すなわち、科学に普遍性をもたらした。さらに、そこから発展をして、『西欧自然科学の関心は、「ある現象の原因を特定すること」から、「その原因の数学的記述を現実のものとすること」へと移りました。』(pp.35)というわけである。

 このことは、キリスト教の神が「合理的な創造主」であるのに対して、日本語の神は、「奥まったところに身を隠しているもの」との認識の相違から生まれるようにも見える、としています。

 『西欧自然科学が“How”を問う営みであるという日本人の西欧自然科学感は、あの文豪漱石の時代には常識になっていたようです。以下は、明治36年(1903)から38年にかけて帝国大学文科大学英文学科で行われた、漱石の講義録である「文学論」(明治45年出版)からの引用です。    凡そ科学の目的とするところは叙述にして説明にあらずとは科学者の自白により明らかなり。語を換えて云へば科学は“How”の疑問を解けども“Why”に応ずる能わず、否これに応ずる権利なしと自認するものなり。』(pp.90)

・漱石の「自然」
 
 この著者は、「自然」と「nature」の違いを明確にするために、面白いことを試みた。すなわち、漱石の代表的な著書である、「吾輩は猫である」、「こころ」、「道草」の中から「自然」の語を抜き出し、その部分が英訳本でどのような英語の表現になっているかを確認し、今度は、その英訳文を日本語に訳した。その結果「自然」という日本語は、英語を介すると以下のようになった。
 
 『不可避的に、否応なしに、必然的な結果として、好ましい本来ある姿、必然的に、余儀なく、状況に迫られて、強く自分を意識した、本来の私、私の良心、証明のできない直観、望ましい正常さ、持ち前の誠意(中略)
漱石による「自然」の使用例は、自分の意思が及ばない何らかの状態を表現しているように見えます。』(pp.109)

 しかし、「自分の意思が及ばない何らかの状態」を「自然」とすると、この定義では明らかに西欧の文化には受け入れられない。現代社会での合理性と普遍性を得るためには、日本語の「自然」も、文学的な表現を一旦おいて、西欧的なnatureを受け入れなければならないように思われる。
 しかしその際には、創造主から人類に委託されたnatureへの支配を、再び創造主へ戻すということが必要になるのでしょう。

 日本人が、「有限の地球」とか、「宇宙から見た青い球体」に接すると、人類は自然の中のごく小さな一部だと考えてしまうのですが、西欧文化では、有限でこれほど小さなものならば、これからも人類が完全に支配し続けることができる、と考えるのでしょう。

その場考学のすすめ(01)

2017年01月23日 11時00分18秒 | その場考学のすすめ
私の「その場考学」への原点

 以前のブログに示したように、私の「その場考学」への原点は1979年に始まったRolls Royce社とのエンジンの共同開発開始の直後だった。それから延々40年近くの月日が流れた。そして昨年の5月に突然にこんなことがあった。

 既に6年前に退会した日本ガスタービン学会から、突然の執筆依頼を受けた。「ガスタービン技術および産業の将来への提言」特集号で、『ムーンライト・高効率ガスタービン開発,FJRジェットエンジン開発等大型プロジェクト経験者に,当時の研究開発状況を振り返って紹介いただくとともに,プロジェクト終了後の技術開発,実用化への経験を踏まえて,ガスタービン技術と関連産業の将来の発展のための提言を頂く。』そうだ。そこで、聊か迷ったうえでお受けすることにした。そして、原稿は一部の修正要求を受け入れたのち、11月号(2016)として発行された。

 具体的には、12の教訓の概要に対して、その背景を少し述べるにとどめたのだが、学会誌のページ数制限で、各々の項目の説明は不十分であり、中には誤解を受けかねないものもある。そこで、ここでは原文をもとに一部を加筆訂正し、更にその背景を明確にするために、あらためてページ数の制約なしに纏めた。文中には固有名詞も含まれているが、すでに半世紀近く前のことであり、むしろ昨今の日本の技術や大学教育の質の低下への懸念から、一部をブログにも載せることにしました。

「通産省の大型プロジェクトFJR710における、ジェットエンジンの研究とV2500エンジンでの実用化の経験を通して得られた教訓」

はじめに

 私が,石川島播磨重工(以下IHI)に就職したのは1970年,FJRジェットエンジンのプロジェクトのスタートと同時であった。大学の研究室では伝熱工学を専攻し学部では、タービン翼の冷却法をテーマにしたが、修士課程では原子炉の極限冷却の研究に変更した。それは、新型ジェットエンジンの開発が、当時の日本では手の届かないところにあるように感じたからであった。しかし、修士2年の夏に、数年間浪人だった通産省大型プロジェクトへの採用が突然決まったとの知らせを聞いて,急遽就職先を変更したことを覚えている。純国内技術で民間航空機用エンジンの開発を国家プロジェクトとしてほぼ10年間続けられると云う企画は,当時としては最高の夢であった。それから40年間,どっぷりと大型航空機用のエンジン開発に携わることができたことは,望外の幸せというほかはない。
 
 このプロジェクトは、当時の大型プロジェクトの中でも、唯一の国家の産業にまで発展した成功例と言われていたが、私は、その後10年、20年とたつうちに、当初の最終目的からは外れていったように感じていた。そのことは、このプロジェクトがきっかけで始まった日本航空機エンジン協会(略称JAEC)の20周年の記念式典での、かつての航空機武器課の課長さんの言葉だった。「多くの苦難を乗り越えて実現したこのプロジェクトが産業としての発展に繋がったことは大変うれしい。しかし、繊維・鉄鋼・自動車と、たて続きにおこった貿易摩擦の問題が一段落を迎えた度に、省内では〝次の問題はどこで起こるのだろうか“との話し合いが持たれた。しかし、航空機用エンジンが候補にあがることはなかった。」
 
 この言葉の受け取り方は、人によって大いに異なったようで、その後話題にする人はいなかった。
それから、また10年以上の月日が流れたが、その状況は変わっていない。そこに、40年間の成功と挫折の中から得られた多くの教訓を語る機会が得られたのであるから、一思いに昔を振り返ってみることにした。

 プロジェクトの最終仕上げとなった英国で行われた高空性能試験の大成功の直後に,Rolls Royce社(以下RR)から50対50の共同開発の提案を受けて,RJ500の国際共同開発がスタートした。このエンジンは、当時欧米で新規開発が計画されていた130人乗り用の新型航空機への搭載が目的であった。

 その時は,まだSTOL機の飛行試験の開始時期であったが,私はこちらの技術作業調整との掛け持ちになった。そこからV2500(日米英独伊の共同開発)での日本の分担部分のChief DesignerやGE90(日米仏の共同開発)でのChief Engineerなどを経験したのだが,ここではこの間に得られた多くの教訓の中からいくつかの本音を述べてみたいと思う。
 
 初期の国際共同作業を通じて得た感想は,「このままゆけば,20年後にはBIC3(General Electric -以下GE,Pratt & Whitney -以下PWA,RR)に追いつき,30年後には日の丸エンジンを搭載する機体が生まれるであろう」ということであった。このことは、当時の日本の高度経済成長社会にあっては、むしろ当然のように思えた。確かに、民間航空機関係、中でもジェットエンジンの開発は戦後の「7年間の空白」のために、第2次世界大戦中のトップランナーから一時脱落をすることになった。しかし、例えば鉄道などは、英国に遅れること50年(世界初の蒸気機関車に牽引された公共用鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、1825年に開業)だが、みごとに新幹線で世界一の座を獲得した。他の産業も然りであった。
 ジェットエンジンは精密機械であり、日本の技術が最も得意とする分野でもある。専業メーカーではなく、日本の三大重工業が協力体制を築いたことも、その広い技術基盤や経営基盤において有利に働くと信じていた。しかし、すべては、それらのことは期待とは反対方向に働いてしまったようであった。反対方向については、後に詳述したい。

 この時に挙げた教訓は、12項目であった。今回はこれらについて、学会誌では紙面と表現の関係で述べられなかったことを「この教訓の背景」とし、さらに割愛した[Lesson12;エンジンの設計は知識と経験が半々[1979]を追加した。

 Lesson1;研究と開発は全く異なる [1979]
 Lesson2;手段の目的化をしてはならない [2000]
 Lesson3;製造技術だけなら勝つことができた [1974]
 Lesson4;特許論争でも勝つことができた [1980]
 Lesson5; 設計技術だけなら勝つことができた[1975]
 Lesson6;実験装置でも勝つことができた [1977]
 Lesson7;品質管理の文化の問題 [1998]
 Lesson8;価値工学の価値は大きい [2002]
 Lesson9;商品としての差はMaintainabilityでつく [1979]
 Lesson10;世界中のエアラインの特徴を把握しなければ勝てない [1980]
 Lesson11;試験用エンジンを早く組み立てる [1982]
 Lesson12;エンジンの設計は知識と経験が半々[1979]
 Lesson13;リベラルアーツは常に重要

 これらの中から、現在でも通用する教訓を選んで、順次紹介をしてゆこうと思う。
 今回は、Lesson 1 です。

【Lesson1】研究と開発は全く異なる(Rolls Royceから最初に言われた言葉 [1979] )

 共同開発を始めるにあたってRRから最初に言われた言葉は,「あなた方は,FJR710エンジンで大成功を収めた。そのことはよく知っている。しかし,あれは研究用であり,これから我々が設計するのは開発用である。その違いを関係者全員で明確に認識してほしい。」であった。
 
 このことは至極当然で,目的が全く異なり,開発用は ①競合機種に勝ち顧客に選ばれること,②材料調達を含めて大量生産が連続して長期間可能なこと,③事業全体での収益をもたらすこと,④中古機も含めて40年間以上性能を保ち続けることなどが要求される。
 
 ちなみに,基本設計によるエンジン全体の断面図が完成された後で,最初に行われたレヴューは,整備技術のベテランチームとの丸2日間の会合であった。従来エンジンの整備上での問題,世界各国のエアラインからよせられた要望が,次々と出されて議論の対象になった。おおむね9割は設計陣により拒否されるのだが,会合の後でも,あきらめきれずに「日本側の設計では是非これだけは盛り込んでほしい」,との要望がいくつか話された。
 
 日本では,「研究開発」という言葉で,ひとくくりに言われることが多いのだが,企業間競争の中ではこの違いを明確に認識することから始めなければならない。研究と開発を同時に進めると,両方ともに中途半端な結果しか得られない。
 
 また,研究陣から研究が完成したと言われても,直ちに開発品に採用することは大いに危険である。どうしてもその成果を必要とする場合には,バックアッププランを常に並行して進めなければならない。生まれながらのグローバルマーケット商品の航空機用エンジンには,必ず競合機種が存在する。勝つためには,最新の成果の導入は不可欠であり,バックアッププランは,その後の経験でも常に実行された。

【この教訓の背景】

 開発用のエンジンで最も重要なことは、世界中のどの国でも採用が可能なことである。国際間には、多くの規定や習慣や文化があるが、どの国でも離着陸とそれに伴う整備が完全に行われなければならない。つまり、典型的な生まれながらのグローバル商品であるということなのだ。日本でも、最近のイノベーション・ブームにのって、多くの新製品の開発が続けられている。しかし、ジェットエンジン設計技術者の眼から見ると、どれもグローバル製品とは程遠いものに見えてしまう。つまり、特定国を相手にした、インターナショナル商品に留まっている。

 整備技術のベテランチームとの丸2日間の会合の後で、Rollsの設計陣の話は決まって、「あの連中の言うことは、毎回決まっている。全部を聞いていたら、とてもまともな設計はできない。」であった。一方で、整備陣はあきらめきれずに「日本側の設計では是非これだけは盛り込んでほしい」,との要望が個人的にいくつか話され、私の眼にはもっともな意見と思えるものが、いくつもあった。私は、そのような会話を楽しむことができた。そのことから、設計理論よりも現場の経験者の話を好む性格が生まれてしまったのかもしれない。

 日本では,「研究開発」という言葉で,ひとくくりに言われることが多い。一時期、「研究・開発」や「研究と開発」などの言葉が用いられたが、また元に戻ってしまった。日本では、様々な場面で「研究開発」という言葉が便利なのだろう。
 しかし、この言葉が日本製品の致命傷になっているように、長らく感じている。この言葉の元は、「技術立国」だろう。そのためには、研究と開発が一体とならなければならないとの、迷信からのように思う。

 世界の先進国は、製造からサービスへ急激に変わったが、日本は明らかに乗り遅れた。サービスも技術の一部なのだが、研究開発という言葉からは、そのイメージが浮かばない。研究者と開発者の考える方向は、いわば正反対なのだから、明確に区別すべきだ。英語では、Research And Developmentであり、この二つを続けた単語は無い。

その場考学との徘徊(16) ラスコー洞窟の壁画

2017年01月04日 13時23分33秒 | その場考学との徘徊
題名;ラスコーの壁画 場所;フランス  テーマ;ネアンデルタール人は何故文明をつくれなかったか
 
 フランスのボルドーの遥か東のラスコーに行ったことは勿論ない。しかし、この展覧会の会場での経験は、まさにラスコー洞窟での徘徊であった。

 敦煌の莫高窟を見学したのは、敦煌に定期便用の空港ができまもなくだった。近くには、万里の長城の終点と思われる、10cmほどの高さの砂の塊の列が続いていた。莫高窟の壁画の始まりは、紀元365年と云われている。以来、南北朝、隋・唐・西夏・元の時代に延々と壁画の製作が続けられた。ラスコーの壁画の主は600頭の動物たちなのだが、製作はおよそ2万年前というだけで、何年間に亘ったかは定かでない。数百年以上であることは、図録「世界遺産 ラスコー展」の次の文章で分かる。
 『サイもバイソン同様、軟マンガン鉱を顔料とする黒で描かれているが、走査型電子顕微鏡による最近の観察では、バイソンに用いられた軟マンガン鉱の結晶は葉状で、サイの軟マンガン鉱は針状の結晶であることが明らかになった。ここで明らかになったのは、バイソンとサイの壁画は同じ顔料が使われていなかったことである。サイとバイソンの場面が一気に描かれたのではなく、時間を隔てて描かれたことを意味するのだろう。しかし、一日、何年、何百年、どのくらいの時間差でバイソンとサイが描かれたかは定かではない。』(pp.27)

(井戸の場面、暗い会場での写真なので不鮮明)





 国立科学博物館で開催される、ラスコーの壁画の展覧会を知ったのは、10月に発売された別冊宝島2511号の「ラスコーと世界の壁画」であった。ここでは、先の2つの壁画のほかに、法隆寺金堂の壁画、キトラ古墳をはじめ、世界の31か所の有名壁画が紹介されている。ここでは、ラスコーは、「謎に包まれたクロマニオン人の遺産」となっている。
 
私は「文化の文明化へのプロセス」を研究中で、最近の遺伝子調査から、とくにフランスあたりで、ネアンデルタール人からクロマニオン人への大規模な変換が起こったことに興味を持っていた。つまり、現代人の祖先をクロマニオン人とするならば、何故ネアンデルタール人ではなかったのだろうか、といった疑問である。姿かたちは似ており、体格はわずかにネアンデルタールのほうが勝っているからである。
 当時(約4万年前)は、地球の気候変動が激しく、温暖化と寒冷化の差は、現代社会が問題視している気温差の数十倍だった。そこで、気候変動に旨く対応できたかどうかの差ではないかと考えていたのだが、この展覧会の見ているうちに考えが全く変わった。その説明は後にして、先ずは、展覧会の概要の紹介をしよう。




 宝島の記事を見て、早速に科学博物館勤務の友人に、招待券数枚をおねだりした。彼は、快く郵送してくれた。ひとり¥1600は、年金生活者には高すぎる。それで準備は整い、毎年続けている新年2日の国立博物館の新年行事を見る途中で寄ることにした。9時の開門に合わせるつもりで出かけたが、会場はすでに満員だったのには驚いた。
 小さな子供さんずれが多く、あちこちに置かれたコンピュータ画面の操作を楽しんでいた。実物大の洞窟の模型は、光の具合が丁度良い早さで変わり、説明文とともに、十分に楽しめる内容だった。洞窟関係の説明後には、ネアンデルタール人とクロマニオン人の比較、旧石器時代の技術内容の進化、芸術論、当時の日本列島などとの比較の展示が続いた。20万年前の脱アフリカから始まった、ホモ・サピエンスの西洋への展開と東洋、特に日本への展開にも興味があったのだが、そのことについても、有益なヒントをもらうことができた。




 先ずは、図録の説明文の注目部分を数か所まとめて引用する。
 『ネアンデルタール人の化石を伴うムスティエ文化(中期旧石器文化)の地層が、クロマニオン人の化石が出る後期旧石器文化の地層より下位にあることから、ネアンデルタール人がこの土地の先住者であったことがわかる。』(pp.22)

『クロマニオン人について注目すべきことがある。その一つは、真っ暗な洞窟内部にわざわざ入ってそこに絵を描くという行為であろう。(中略)霊長類である人類には、そもそも洞窟内部に入る理由も生態もない。』(pp.22)

 『本展では、ハイデルベルク人、ネアンデルタール人、クロマニオン人と続いた過去60万年間のヨーロッパの人類の中で、技術文化がどのように変遷していったかを示す大きな年表をつくることにした。』(pp.23)
 
芸術の起源としては、『他者が鑑賞する価値を生み出そうとする意志や工夫が見えず、その意味でチンパンジーは芸術活動を行っていないのである。』(pp.24)

 『クロマニオン人は頭骨形態の上でもDNAの上でも、私たちと同じホモ・サピエンスに含められることが明らかとなっている。(中略)これは、ヨーロッパでいえばネアンデルタール人のような在地の旧人集団は現代ヨーロッパ人の祖先ではなく、アジアでも北京原人やジャワ原人のような在地の古代型人類集団は絶滅し、私たちとは実質的につながっていないことを意味している。』(pp.24)

 『おそらくアフリカにいたホモ・サピエンスの共通祖先には、芸術を生み出す潜在能力が備わっていたのであろう。そうでなければ、世界中の現代人集団が、それぞれに幻術を生み出す能力を皆持っているという明確な事実を説明することが難しくなってしまう。』(pp.24)

 私には、これらの文章から二つのことが発想された。
第1は、旧石器時代から世界のあちこちで発生した様々な旧人類の文化が、文明に発展せずに絶滅し、なぜクロマニオン人の文化だけが現代文明に繋がっていったのかである。動物としての体格は、むしろネアンデルタール人のほうが逞しく見える。ここでは、その原因の一つを芸術性の取得に求めているようにも記述されているが、芸術とはなにかといった定義ははっきりとはしていない。私は、むしろこの差を、「記録を残すという習性」に求めたい。
 



 展示では、ラスコーの壁画の目的は明示されていないのだが、古代の呪術性に求めているような記述が数箇所ある。古代遺跡に関しては、多くの場合にその製作理由を呪術性に求めるのだが、私は常に疑問を持っていた。その疑問を解くきっかけを、見つけたような気がしたのだ。
 
芸術ならば、暗闇の必要はない。また、古代の呪術も暗闇の必要はないだろう。むしろ、その一部でも大衆に見えなければ、呪術の意味がない。しかし、後世に記録を残すことが目的ならば、同時代人からは隠されていたほうが良い。つまり、「記録」の保全のためである。外にあったのでは、外敵や風雨に侵されてしまう。敦煌の莫高窟に隠された、数万巻の巻物のように。

 「記録を残すという習性」は、人類以外の動物にはない。「残す」ことは、すべての生物に共通する本能のようなもので、子孫を残さなければ生物は絶滅する。卵生の恐竜が絶滅し、哺乳動物が生き残るような改善がすすめられた。つまり、生き残る種は、本能にも何らかの改善が加えられる。
頭脳が発達したクロマニオン人は、この「次世代に残す」という本能を、生殖以外にまで広げたことが、ネアンデルタール人に勝っていたのではないだろうか。何らかの記録があればこそ、大きな気候変動にも耐えられたのではないだろうか。
 
そして、文明は記録の受け継ぎによってのみ拡散し、発展する。記録の方式は、何も文字によるとは限らない。絵画でも、古墳に並べられる埴輪でもよい。秦の始皇帝が地下に残した記録は、すでに殷や周が得意とした文書ではない。銀河系に向かった地球外文明を求めた衛星も文字は運ばずに、人類文明を図で示している。

 第2の文明化の要素は「分業ができること」だと感じた。ラスコー壁画の製作過程の説明の中では、「分業」という言葉が重要視されている。高いところに足場をつくり、そこに上って描く人のほかに、絵の具をつくる人と運ぶ人。ランプの灯を消さないために獣脂を補給する人。それらは、同一人では不可能なのだ。蜂や蟻の世界でも分業はあるが、それは異なる機能を持った個体なのだが、ラスコーの場合には、個々の人の能力や体格などに違いはないのであろう。

狩りをする人と料理をする人の分業とは異なる、「同一性の中での分業」になる。考えてみると、農業も工業もこの「同一性の中での分業」により、限りなく発達を続けてきたように思える。現代社会のグローバル生産にも、その姿の究極を感じる。このことは、現代科学の専門化とは異なる、むしろ正反対のシステムと考える。現代科学は、「専門家による分業」なのだ。この形式の分業は、閉ざされた文化になってしまう。例えば、原子力の専門家による原子力ムラがその例で、独特の閉ざされた文化をつくり、重大事故を起こす原因となった。文明は、万民に対して平易なものでなければ成り立たない。
 
さらに、現代人類の地球全域への発展は、環境が大幅に変わっても体が大きく変化しなかったことだとする説がある。動物や植物は、異なる環境(例えば熱帯と寒帯)では、その体系が異なるが、人類の変化は肌や頭髪のわずかな色の違いなどであり、小さい。このことも、広い意味での「同一性の中での分業」と考えることができる。

 この「記録を残すという習性」と「同一性の中での分業」の統合は、文化の継続の中では重要ではない。文化にとって、記録と分業は必須な要素ではなく、見方によっては反対の意味を持つ。つまり、文化の真髄の伝承は記録ではなく、人から人への伝承が重要視され、同一性の中での分業ではなく伝承を受けた特定の個人または集団によって維持される。つまり、この二つの機能は、メタエンジニアリング思考の「文化の文明化へのプロセスにおける必要条件」と考えてみたいと思う。

 
展示の最終章は、「クロマニオン人の時代の日本列島」だった。この時代は、縄文時代の幕開け期なのだが、日本にはこのような「芸術」は発見されていない。しかし、ここでは「後期旧石器時代の日本列島とその周辺地域で独自に発達・発展した創造的活動」として、5つのことが紹介されていた。
① 世界最古の磨製石器
② 世界最古の海上運搬(往復航海)
③ 世界最古の釣り針
④ 世界最古の落とし穴
⑤ 難易度の高い航海
だそうだ。これらのことは、現代でもなお日本人の特徴を表している。これらが、日本文明の原点なのかもしれない。







(蛇足)
翻って、現代は「デジタルアーカイブ」ばやりである。しかし、このデジタルで残すということは、文明のレベルで考えると、どうも疑問を持たざるを得ない。1万年先に、我々の後輩たちは、このラスコーの壁画のように、それらから何かを新発見できるであろうか。

 また、考えてみると芸術も「記録を残すという習性」の一部ではないかといった発想が生まれる。多くの芸術家は、自身の独特な考えや感じ方、想像力を記録するために制作意欲にかられるような気がしてくる。勿論、芸術家からは否定されるだろうが、メタエンジニアリング的には、そのように考えてしまう。   文化の文明化は、急激には起こらない。百年単位の期間の中で変化の波を繰り返し、徐々に次の文明に移行する。「記録を残すという習性」と「同一性の中での分業」の統合は、その期間継続されなければならない。